2. 連れ去り
王城の大広間に、ようやく音が戻った。
――いや、正確には違う。
誰かが声を上げたわけでも、動き出したわけでもない。
ただ、“止まっていたはずの時間が、無理やり動かされた”ような、不自然なざわめき。
けれどその場にいる誰一人として、最初の一歩を踏み出せないでいた。
理由は単純だ。
――目の前にいる“それ”から、視線を外せない。
そして、今までに感じたことのない恐怖が身を支配しているからだ。
「……な、何者だ……!」
かろうじて声を絞り出したのは、第一王子――キースだった。
その声は先ほどまでの余裕を失い、わずかに震えている。
だが、“それ”は一切反応を示さない。
まるで最初から、彼など存在していないかのように。
金色の瞳は、ただ一人、私だけを捉えている。
「……来い」
短く、それだけを告げられた。命令でも、懇願でもない。
ただ“当然そうするものだ”と言わんばかりの声音。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。何を言われているのか、理解が追いつかない。
それに、"それ"を見つめていると頭がグラグラと揺れる感覚がある。まるで、これ以上見てはいけないと本能が警告しているようなーー
「ここは騒がしい」
続けられる言葉は、あまりにも平然としていた。
「落ち着いて話せる場所へ移る」
(……話?)
この状況で?
ようやく、現実感が追いついてくる。
周囲には王族も、貴族も、騎士もいる。
ここは王城の中心で、私は今まさに断罪されている最中で――
「待て!!」
鋭い声が空気を裂いた。キースが一歩踏み出す。その顔には、明確な焦りが浮かんでいた。
「その女は罪人だ! 勝手な行動は許さん!」
……ああ。
やっと、“いつもの世界”が戻ってきた。
そうだ。今は断罪の途中。キースがこのまま大人しく引き下がるはずがなかった。
けれど、
「……下がれ」
"それ"が放つたった一言。それだけで、空間そのものが凍りついた。
音ではない。圧でもない。
けれど確かに、“それ以上進んではならない”と理解させられる何か。
キースの足が止まる。
騎士たちも同様だった。剣に手をかけたまま、誰一人として抜けない。王子の側近ですら、一歩引くほどだ。
「……っ、何をした……!」
問い詰める声すら、どこか弱い。
「何もしていない」
“それ”は淡々と答える。
「貴様らが勝手に止まっているだけだ」
事実だけを述べる口調。
そこに嘲りも誇示もない。ただ、“格の違い”だけがある。
――その時だった。
不意に、手首を掴まれる。
「……っ」
反射的に視線を落とす。白い指が、私の手を取っていた。
強く握られているわけではない。むしろ、驚くほど静かで、無駄のない動き。
(……離せない)
力ではない。けれど、拒むという選択肢そのものが存在しないかのような感覚。
「行くぞ」
当然のように言われる。
「……待って、勝手に決めないで」
かろうじて返すと、
「では問おう」
わずかに、視線が細められた。"それ"の瞳に宿る金色の光は揺るがず、私を貫くように見つめている。
「ここに残りたいのか?」
そう言われた私は言葉に詰まる。
残る?
この場所に?
先ほどまで、私を断罪していた人々の中に?
(……いいえ)
答えは、考えるまでもなかった。
「……別に」
小さく、視線を逸らす。
「そうか」
それだけで十分だったらしい。
再び手を引かれる。一歩、踏み出す。
その瞬間。
「待てと言っているだろう!!」
怒号が響いた。
キースが、今度こそ踏み込もうとする。
だが――
一歩、だった。“それ”が、わずかに前へ出る。
たったそれだけで、空気が歪む。見えない何かに押し返されるように、キースの体が止まった。いや、違う。“進めない”のだ。
「……無駄だ」
静かな声。突き放すように向けられる言葉は、ひんやりと冷気をまとっているかのようだった。
ほんの少しだけ視線が動く。
「私の視界に入るな」
その言葉に、決定的な線が引かれる。
人と、人ならざるもの。
普通ならば、交わることのない境界。
「――行くぞ」
次の瞬間。視界が、歪んだ。
床も、壁も、天井も。
すべてが引き伸ばされるように遠ざかり――
気づけば、そこには何もなかった。
「……ここは」
見知らぬ空間。静寂だけが満ちている。
隣に立つ“それ”が、ゆっくりとこちらを見た。
「ようやく、落ち着いて話せるな」
その声音は、先ほどと何も変わらないはずなのに。
なぜか、ほんのわずかだけ柔らいだように聞こえた。
――なぜか、それが一番、怖かった。
(……逃げた、はずなのに)
胸の奥に残る違和感。
まるで逃げた気が、しなかった。
それに――
なぜか、彼を見ていると胸がザワつくのだ。
私は遡れるだけの記憶を辿った。
思い出せるはずもないのに。




