1. 処刑されるはずだった
この国には、古い伝承がある。
人ならざる理を持ち、世界の均衡に干渉する存在――神獣。それらは滅多に人前に姿を現さず、ただ静かに、この世界を“観ている”のだと。獣の姿をした神の使いだと書かれた書物もあれば、神そのものだと伝承された地域もあるそうだ。
中でも、極めて稀に"人の姿を取る個体"がいる、と。
それが何を意味するのかを知る者はいない。
ただ一つ確かなのは――それに関わった人間は、例外なく“運命を狂わされる”ということだけ。
(……くだらない)
幼い頃、そう切り捨てた記憶がある。
どうせ誰かが作った都合のいい物語だ。現実はもっと単純で、もっとつまらない。
だから、そんなものはとっくに忘れていた。
――今、この瞬間までは。
⸻
王城の大広間は、異様な静けさに包まれていた。
本来であれば華やかな宴が開かれているはずの場所。
けれど今は、誰一人として笑っていない。まるで空気が凍ってしまったかのようだ。
その中心に立たされているのは、私――リシェル・ヴァルディア。
「……リシェル・ヴァルディア。貴様の罪は重い」
第一王子、キースの声が、冷たく響いた。
彼の声はよく通る声だと思う。昔からそうだった。
人を惹きつける声。だからこそ、こうして“正義側”に立つ姿がよく似合う。
(似合う、だけだけど)
そこに本物の正義など、存在していないというのに。
内心でそう呟きながら、私はゆっくりと視線を上げた。
周囲を囲む貴族たち。誰もが同じ表情をしている。
嫌悪、軽蔑、そしてどこか安心したような色。
――ああ、やっぱり。
(こういう役回りよね、私は)
誰かが悪者でなければ、この場は成立しない。
そしてその役は、いつだって私に回ってくる。昔から表情に感情がほとんど出ないうえに、人との交流が苦手。
貴族としての階級も平凡。悪役に仕立て上げるには、私ほど都合の良い人材はいないだろう。
「度重なる侮辱行為、並びに他貴族への嫌がらせ――」
読み上げられていく罪状。
どれもこれも、少しだけ事実で、そして大半が歪められている。
けれど。
「……弁明はあるか」
問われて、私はほんの少しだけ考えた。言い返すことはできる。証明も、不可能ではない。
でも――
(意味がない)
この場に必要なのは真実じゃない。“納得できる物語”なのだ。第一王子は私を断罪したがっている。そうすれば私との婚約破棄を行えるからだ。両親が必死で金銭で取り付けた婚約を、こうも簡単に破棄されてしまうとは。
――別に構わない。
それが正直な感想だった。
私は特に血筋やら階級やら、どうでもいいことに興味はない。それに、第一王子は私を大切に扱わなかった。いずれ他の令嬢と駆け落ちでもすると予感していた。見事にその予感が的中しただけだ。
「いいえ、特には」
短く答えた。ざわり、と空気が揺れる。
予想外だったのか、それとも単に気に入らないのか。
どちらにせよ、もう関係ない。
「何を言っても変わらないのでしょう?」
静かに続ける。王子の表情がわずかに歪んだ。
「……随分と物分かりがいいな」
「ええ。無駄なことはしない主義なの。それが私の取り柄でしょう?」
本当は違う。
ただ、もう疲れただけだ。
説明しても、伝わらない。
否定しても、覆らない。
権力も、地位も第一王子、キースの方が上なのだ。正論でねじ伏せられるわけがない。貴族社会とは、そういう理不尽が横行するのが当たり前の世界だ。
それなら最初から、何も言わない方がいい。ザワザワと揺れる胸の内に蓋をするように感情を押し込んだ。
私はこれからどうなるのだろうか。
恐らく、ただの婚約破棄だけで済むような規模の話ではない。わざわざ断罪の場を設けたのだから。
目線を移す。王子の隣で、か弱げな令嬢が俯いている。薄桃色の髪がなびき、小さく震える肩。零れそうな涙。
――見事なものだと思う。
(ああいうふうに振る舞えたら、少しは違ったのかな)
ふと、そんなことを考えて、すぐに打ち消した。
(……いいえ、私にはできない)
あれは才能だ。私にはない。
「……最後まで反省の色なしか」
呆れたように王子が言う。私は肩をすくめた。
「そう見えるなら、それでいいわ」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「どうせ嫌われて追い出されるならば、最後までそのままでいいでしょう?」
そう言い放ち、一時間かけて結った髪をふりほどく。
空気が凍りついた。
非難の視線が一斉に突き刺さる。
――ああ、これでいい。
これで、ちゃんと終われる。
「よって、リシェル・ヴァルディアとの婚約は破棄し――」
宣告が始まる。その言葉を、どこか遠くで聞きながら、私はただ、静かに目を閉じた。
(もう……これで全部終わり)
そのはずだった。
⸻
――不意に、空気が“軋んだ”。
音ではない。
けれど確かに、空間そのものが歪む感覚。
ざわめきが走る。誰かが息を呑み、誰かが一歩後ずさる。
私も、反射的に目を開いた。
そこに、“それ”は立っていた。
いつからいたのかもわからない。まるで最初からそこに存在していたかのように、自然に――けれども明らかに異質なのだ。
"それ"は人の形をしている。一見、整った顔立ちの男性のように見える。
だが、違う。
存在の密度が、まるで違う。空間の質量がそこだけやけに重たいような気がするのだ。
ギラリと光る金色の瞳。瞳孔は鋭く、まるで全てを見透かしているようだ。
長く束ねられた白髪は神聖さを醸し出している。
しかし、異質なオーラがあるせいで禍々しくも見える。
「……」
誰も声を出せない。
騎士たちでさえ、剣に手をかけたまま動けずにいる。全員が金縛りにあったかのようだ。
(……何、あれ)
理解が追いつかない。ただ一つだけ、本能が告げていた。
――あれは、人ではない。
その存在が、ゆっくりと顔を上げる。そして、迷いなくこちらを見た。
「――エル・シア、ル=∴ナ」
その瞬間、音が空間に落ちた。言葉として認識出来ない。
理解しようとした瞬間、思考がわずかに拒絶する。
――これ以上は、触れてはいけないと。
「……何を」
問いかけようとした、その時。男の姿をした"それ"はわずかに目を伏せた。
「…………」
ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間があって。
「この言語では、人間は理解できないんだったな」
何事もなかったかのように言い直す。
低く、静かな声。感情はほとんど感じられないのに、確信したような表情。
「……ようやく見つけた」
――え。
その言葉に思考が止まる。
(私に、向かって話しているの?)
なぜか視線が、外せない。
金色の瞳が、まっすぐに私を捉えている。
まるで、ずっと前から知っていたものを確認するように。
「……誰?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。
"それ"はわずかに首を傾げる。
「覚えていないのは、当然だ」
独り言のように呟く。その言葉に、ほんの僅かだけ引っかかりを覚えた。
「……何の話を…」
必死に言葉を絞り出し問い返すが、"それ"は答えない。
そして、一歩こちらへ近づいた。床に足音は響かない。けれど距離だけが、確実に縮まる。誰も、それを止められない。
「長い間、探していた」
静かに告げられる。その重みが、先ほどとは違って聞こえた。
「……意味がわからない、のですが」
正直な感想だった。理解できる要素が何一つない。
それでも、なぜか、目を逸らせなかった。
「問題ない」
"それ"は淡々と言う。
「そなたが覚えていなくとも、事実は変わらない」
一瞬、間が落ちた。その瞳の奥で、何かがわずかに揺れた気がした。
「――あの時」
男が、静かに口を開いた。その声音だけが、わずかに変わる。
「そなたは、私を拾った」
心臓が、強く打った。
――拾った?
「傷つき、捨てられ、価値のなかった“私”を」
淡々としているのに、その言葉だけが妙に具体的だった。
脳裏の奥で、何かがかすかに引っかかる。けれど、思い出せない。
「……存じ上げません」
かろうじてそう返すと、
「そうだろうな」
あっさりと肯定された。
「そなたにとっては、取るに足らない行動だ」
否定も、肯定もしない声音。ただ事実を並べるだけの言い方。
「だが……」
ほんのわずか、間があく。その沈黙が、不思議と重かった。
「私にとっては違う」
視線が、まっすぐに絡む。逃げ場がない。そこで初めて、はっきりとした意志が宿る。
「今度は、私の番だ」
その言葉は、ひどく静かで。けれど、揺るがなかった。
「ゆえに、そなたと契約する」
まるで、最初から決まっていたことを告げるように。
「――リシェル・ヴァルディア」
名前を呼ばれた。初めてのはずなのに。
どこかで、すでに呼ばれていたような錯覚。
⸻
その瞬間、ようやく理解する。
これは偶然ではない。
――迎えに来られたのだと。
それが、救いなのかどうかもわからないまま。
この国には、古い伝承がある。
人ならざる理を持ち、世界の均衡に干渉する存在――神獣。それらは滅多に人前に姿を現さず、ただ静かに、この世界を“観ている”のだと。獣の姿をした神の使いだと書かれた書物もあれば、神そのものだと伝承された地域もあるそうだ。
中でも、極めて稀に"人の姿を取る個体"がいる、と。
それが何を意味するのかを知る者はいない。
ただ一つ確かなのは――それに関わった人間は、例外なく“運命を狂わされる”ということだけ。
(……くだらない)
幼い頃、そう切り捨てた記憶がある。
どうせ誰かが作った都合のいい物語だ。現実はもっと単純で、もっとつまらない。
だから、そんなものはとっくに忘れていた。
――今、この瞬間までは。
⸻
王城の大広間は、異様な静けさに包まれていた。
本来であれば華やかな宴が開かれているはずの場所。
けれど今は、誰一人として笑っていない。まるで空気が凍ってしまったかのようだ。
その中心に立たされているのは、私――リシェル・ヴァルディア。
「……リシェル・ヴァルディア。貴様の罪は重い」
第一王子、キースの声が、冷たく響いた。
彼の声はよく通る声だと思う。昔からそうだった。
人を惹きつける声。だからこそ、こうして“正義側”に立つ姿がよく似合う。
(似合う、だけだけど)
そこに本物の正義など、存在していないというのに。
内心でそう呟きながら、私はゆっくりと視線を上げた。
周囲を囲む貴族たち。誰もが同じ表情をしている。
嫌悪、軽蔑、そしてどこか安心したような色。
――ああ、やっぱり。
(こういう役回りよね、私は)
誰かが悪者でなければ、この場は成立しない。
そしてその役は、いつだって私に回ってくる。昔から表情に感情がほとんど出ないうえに、人との交流が苦手。
貴族としての階級も平凡。悪役に仕立て上げるには、私ほど都合の良い人材はいないだろう。
「度重なる侮辱行為、並びに他貴族への嫌がらせ――」
読み上げられていく罪状。
どれもこれも、少しだけ事実で、そして大半が歪められている。
けれど。
「……弁明はあるか」
問われて、私はほんの少しだけ考えた。言い返すことはできる。証明も、不可能ではない。
でも――
(意味がない)
この場に必要なのは真実じゃない。“納得できる物語”なのだ。第一王子は私を断罪したがっている。そうすれば私との婚約破棄を行えるからだ。両親が必死で金銭で取り付けた婚約を、こうも簡単に破棄されてしまうとは。
――別に構わない。
それが正直な感想だった。
私は特に血筋やら階級やら、どうでもいいことに興味はない。それに、第一王子は私を大切に扱わなかった。いずれ他の令嬢と駆け落ちでもすると予感していた。見事にその予感が的中しただけだ。
「いいえ、特には」
短く答えた。ざわり、と空気が揺れる。
予想外だったのか、それとも単に気に入らないのか。
どちらにせよ、もう関係ない。
「何を言っても変わらないのでしょう?」
静かに続ける。王子の表情がわずかに歪んだ。
「……随分と物分かりがいいな」
「ええ。無駄なことはしない主義なの。それが私の取り柄でしょう?」
本当は違う。
ただ、もう疲れただけだ。
説明しても、伝わらない。
否定しても、覆らない。
権力も、地位も第一王子、キースの方が上なのだ。正論でねじ伏せられるわけがない。貴族社会とは、そういう理不尽が横行するのが当たり前の世界だ。
それなら最初から、何も言わない方がいい。ザワザワと揺れる胸の内に蓋をするように感情を押し込んだ。
私はこれからどうなるのだろうか。
恐らく、ただの婚約破棄だけで済むような規模の話ではない。わざわざ断罪の場を設けたのだから。
目線を移す。王子の隣で、か弱げな令嬢が俯いている。薄桃色の髪がなびき、小さく震える肩。零れそうな涙。
――見事なものだと思う。
(ああいうふうに振る舞えたら、少しは違ったのかな)
ふと、そんなことを考えて、すぐに打ち消した。
(……いいえ、私にはできない)
あれは才能だ。私にはない。
「……最後まで反省の色なしか」
呆れたように王子が言う。私は肩をすくめた。
「そう見えるなら、それでいいわ」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「どうせ嫌われて追い出されるならば、最後までそのままでいいでしょう?」
そう言い放ち、一時間かけて結った髪をふりほどく。
空気が凍りついた。
非難の視線が一斉に突き刺さる。
――ああ、これでいい。
これで、ちゃんと終われる。
「よって、リシェル・ヴァルディアとの婚約は破棄し――」
宣告が始まる。その言葉を、どこか遠くで聞きながら、私はただ、静かに目を閉じた。
(もう……これで全部終わり)
そのはずだった。
⸻
――不意に、空気が“軋んだ”。
音ではない。
けれど確かに、空間そのものが歪む感覚。
ざわめきが走る。誰かが息を呑み、誰かが一歩後ずさる。
私も、反射的に目を開いた。
そこに、“それ”は立っていた。
いつからいたのかもわからない。まるで最初からそこに存在していたかのように、自然に――けれども明らかに異質なのだ。
"それ"は人の形をしている。一見、整った顔立ちの男性のように見える。
だが、違う。
存在の密度が、まるで違う。空間の質量がそこだけやけに重たいような気がするのだ。
ギラリと光る金色の瞳。瞳孔は鋭く、まるで全てを見透かしているようだ。
長く束ねられた白髪は神聖さを醸し出している。
しかし、異質なオーラがあるせいで禍々しくも見える。
「……」
誰も声を出せない。
騎士たちでさえ、剣に手をかけたまま動けずにいる。全員が金縛りにあったかのようだ。
(……何、あれ)
理解が追いつかない。ただ一つだけ、本能が告げていた。
――あれは、人ではない。
その存在が、ゆっくりと顔を上げる。そして、迷いなくこちらを見た。
「――エル・シア、ル=∴ナ」
その瞬間、音が空間に落ちた。言葉として認識出来ない。
理解しようとした瞬間、思考がわずかに拒絶する。
――これ以上は、触れてはいけないと。
「……何を」
問いかけようとした、その時。男の姿をした"それ"はわずかに目を伏せた。
「…………」
ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間があって。
「この言語では、人間は理解できないんだったな」
何事もなかったかのように言い直す。
低く、静かな声。感情はほとんど感じられないのに、確信したような表情。
「……ようやく見つけた」
――え。
その言葉に思考が止まる。
(私に、向かって話しているの?)
なぜか視線が、外せない。
金色の瞳が、まっすぐに私を捉えている。
まるで、ずっと前から知っていたものを確認するように。
「……誰?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど冷静だった。
"それ"はわずかに首を傾げる。
「覚えていないのは、当然だ」
独り言のように呟く。その言葉に、ほんの僅かだけ引っかかりを覚えた。
「……何の話を…」
必死に言葉を絞り出し問い返すが、"それ"は答えない。
そして、一歩こちらへ近づいた。床に足音は響かない。けれど距離だけが、確実に縮まる。誰も、それを止められない。
「長い間、探していた」
静かに告げられる。その重みが、先ほどとは違って聞こえた。
「……意味がわからない、のですが」
正直な感想だった。理解できる要素が何一つない。
それでも、なぜか、目を逸らせなかった。
「問題ない」
"それ"は淡々と言う。
「そなたが覚えていなくとも、事実は変わらない」
一瞬、間が落ちた。その瞳の奥で、何かがわずかに揺れた気がした。
「――あの時」
男が、静かに口を開いた。その声音だけが、わずかに変わる。
「そなたは、私を拾った」
心臓が、強く打った。
――拾った?
「傷つき、捨てられ、価値のなかった“私”を」
淡々としているのに、その言葉だけが妙に具体的だった。
脳裏の奥で、何かがかすかに引っかかる。けれど、思い出せない。
「……存じ上げません」
かろうじてそう返すと、
「そうだろうな」
あっさりと肯定された。
「そなたにとっては、取るに足らない行動だ」
否定も、肯定もしない声音。ただ事実を並べるだけの言い方。
「だが……」
ほんのわずか、間があく。その沈黙が、不思議と重かった。
「私にとっては違う」
視線が、まっすぐに絡む。逃げ場がない。そこで初めて、はっきりとした意志が宿る。
「今度は、私の番だ」
その言葉は、ひどく静かで。けれど、揺るがなかった。
「ゆえに、そなたと契約する」
まるで、最初から決まっていたことを告げるように。
「――リシェル・ヴァルディア」
名前を呼ばれた。初めてのはずなのに。
どこかで、すでに呼ばれていたような錯覚。
⸻
その瞬間、ようやく理解する。
これは偶然ではない。
――迎えに来られたのだと。
それが、救いなのかどうかもわからないまま。




