2話 暴力男をやっつけてから1週間
あれからちょうど一週間が経った。
都内のボクシングジムは、いつものように汗と革の匂いが混じり、軽快なミット打ちの音が響いていた。
朱莉はいつもの赤いタンクトップにショートパンツ姿で、サンドバッグの前に立っていた。
朱莉「えぃ! えぃ! えぃぃぃ!!」
拳がサンドバッグを捉えるたび、重い打撃音がジムに響く。
今日は特に気合いが入っていた。
朱莉「今日はパンチ300発!気合い入れて頑張るぞ!!」
汗が額から滴り落ちる。
左ジャブ、右ストレート、フック、アッパー。
体が自然と動き、呼吸が整っていく。
元彼を倒したあの日以来、朱莉の拳には確かな自信が宿っていた。
恐怖を力に変えた実感が、毎日を少し強くしてくれている。
300発を終え、息を整えていると、聞き覚えのある明るい声が飛んできた。
緋奈子「朱莉さん!」
振り向くと、ポニーテールにスポーツタオルを首にかけた女性が笑顔で近づいてきた。
緋奈子——このジムで知り合った、毎週水曜の練習でいつも一緒に汗を流す仲のいい友人だ。
明るくて優しい性格だが、時折ふっと影が見えることがあった。
朱莉「緋奈子さん! 久しぶり!」
緋奈子「顔色いいですね〜。なんかいいことあったんですか?」
朱莉はタオルで汗を拭きながら、にっこり笑った。
朱莉「はい! 実は、最近とってもスカッとしたことがありまして!」
緋奈子「え!? まさか……!?」
朱莉「そう! そのまさかです!」
二人はリング脇のベンチに並んで座った。
練習の合間の短い休憩時間。朱莉は少し声を潜めながら、ゆっくりと語り始めた。
一週間前の夜。
狭いアパートの玄関で、朱莉は全身の力を振り絞っていた。
朱莉「あたしの……情熱のアッパーを……喰らえーー!!」
ドゴォォン!!
重く鋭い衝撃音とともに、元彼の頭が大きくのけぞった。
元彼「ぎぇぇぇぇぇぇ〜 たすけてくれぇぇ〜!!」
男は泡を吹き苦痛に顔を歪めながら床に崩れ落ちた。
朱莉は荒い息を吐きながら、彼を見下ろした。
あの瞬間、胸の奥に溜まっていた六年分の恐怖と怒りが、一気に爆発し、そして解放された。
ついに、最大の敵だった元彼をノックダウンさせた。
自分を支配し、傷つけ続けた呪縛を、自らの拳で取り除くことができた。
回想から戻ると、緋奈子が目を輝かせて身を乗り出していた。
緋奈子「すごい……!朱莉さん、カッコいい!本当に尊敬します!」
朱莉「最後、やっつけた時は『よっしゃぁぁ!』って心の中で叫んじゃったよ。本当に……スッキリした」
緋奈子「怖くは……なかったんですか?」
朱莉「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった。刃物まで出されて、心臓が止まるかと思った。でも……」
朱莉は拳を軽く握りしめた。
朱莉「絶対に勝たなきゃ! やっつけなきゃ! っていう強い信念があった。女性のことをバカにするような男なんて、女として絶対に許せなかったから」
緋奈子「女性の敵ですよね……。私からも、やっつけてくれてありがとうございます!」
朱莉「ボッコボッコにしたよ!どういたしまして!」
二人は顔を見合わせて笑った。
緋奈子は朱莉がボクシングを始めた本当の理由を知る、ジムの中で唯一の仲間だった。
無事に成敗できた結果を報告できて、朱莉は心から嬉しかった。
しかし、ふと緋奈子の表情に気づいた。笑顔の裏で、少し悲しげな影が差している。
朱莉「あれ? 緋奈子さん……どうしたの?」
緋奈子「……いいなぁ」
朱莉「何か悩み事でもあるのかな?」
緋奈子は少し迷った様子で、ゆっくりと口を開いた。
緋奈子「実は……私も、元彼のDVですごく悩んでるんです」
朱莉「えっ!? 緋奈子さんも……!?」
朱莉の表情が一瞬で引き締まった。驚きと同時に、胸に熱い怒りが込み上げてくる。
朱莉「それは……絶対に許せないね。いつから? 今も続いてるの?」
緋奈子は小さく頷き、目を伏せた。
緋奈子「はい……。最近また連絡が来て、怖くて……。朱莉さんみたいに強くなりたいって、ずっと思ってたんですけど……まだ怖くて逃げられないでいて……」
朱莉は緋奈子の手をそっと握った。自分の一週間前の恐怖が、鮮やかに蘇る。
朱莉「大丈夫。一人じゃないよ。私がいるし、このジムもある。まずは……ちゃんと話聞くから。逃げたいなら、一緒に考えよう」
緋奈子は少し涙ぐみながらも、力強く頷いた。
緋奈子「ありがとう……朱莉さん。話を聞いてくれて、本当に嬉しい」
朱莉は心の中で誓った。
(また、同じ苦しみを味わってる人がいるなんて……。私はもう、弱いままじゃいられない。自分のためだけじゃなく、こんな思いをしている女性たちのためにも、もっと強くなろう)
二人は再びサンドバッグの前に立った。
今日はいつもより拳に力がこもっていた。
朱莉「さあ、緋奈子さん。一緒に頑張ろう!」
緋奈子「うん!」
ジムに響く打撃音は、二人の決意を後押しするように、今日も力強く鳴り続けていた。
しかし、朱莉の胸には新たな影が落ち始めていた。
緋奈子の元彼がただのDV男で終わるとは限らない。
次なる戦いは、もうすぐ始まろうとしていた。




