血塗られた逃避行――敗残兵と餓狼の群れ狂気に縋らねば生きられない地獄
雨は止む気配がなく、灰色の空から絶望のように降り注ぎ続けていた。
アレンは重い外套を引きずるようにして、死臭の漂う荒野をあてもなく彷徨っていた。
ラーズと別れてから、どれだけの時間が経ったのかもわからない。
泥に足を取られ、木の根に躓き、その度に泥水の中に倒れ込んでは這い上がる。 空腹と極度の疲労で、華奢な体はとうの昔に限界を迎えていた。
「はぁっ……はぁっ……」
喉の奥から血の味がする。 それでも足を止めることはできなかった。戦場から離れようと歩みを進めるほど、そこが無法地帯であることを思い知らされるからだ。
「おい、見ろよ。あんな所にガキが歩いてるぜ」
「外套を着込んでるが……なんだ、ありゃ。女か?ひどく上玉じゃねえか」
下品な笑い声と共に、岩陰から数人の男たちが姿を現した。
手入れのされていないボロボロの鎧。帝国軍の敗残兵か、それとも戦場泥棒の野盗か。
どちらにせよ、飢えた獣のような目で泥だらけのアレンを見定めている。
「ひっ……!」
アレンは恐怖で後ずさったが、疲労で足がもつれ、泥の中に尻餅をついてしまった。
男たちが下劣な笑みを浮かべて距離を詰めてくる。 逃げられない。言葉も通じない。助けを呼ぶ声すら出ない。
気弱な少年の心が悲鳴を上げ、無意識のうちに右手が虚空を掴んでいた。
魔力が消費され、ずしりと重い黒鋼の塊が具現化する。
――その瞬間。 怯えていたアレンの表情から、一切の感情が消え失せた。
「……はぁ。どいつもこいつも、接敵時のクリアリングが甘すぎるだろ。素人かよ」
可憐な唇からこぼれたのは、呆れ果てたような冷酷な吐息。
アレンは泥に座り込んだ体勢のまま、片手でハンドガンの銃口を男たちへ向けた。
「な、なんだその鉄屑――」
タァンッ! タァンッ! タァンッ!
男の言葉が終わるよりも早く、乾いた銃声が三度響き渡った。 初速350メートルを超える弾丸が、男たちの眉間と心臓を正確に撃ち抜く。悲鳴を上げる間もなく、彼らは汚い泥の海へと沈んでいった。
「3キル。……弾薬の心配がいらないってのは、本当に最高になれるな」
アレンは硝煙を深く吸い込み、恍惚とした笑みを浮かべる。 だが、その狂気の時間は長くは続かなかった。背後の茂みから、血の匂いを嗅ぎつけた新たな脅威が飛び出してきたのだ。
「グルルルルルッ……!!」
赤黒い体毛に覆われた、巨躯の魔獣――ブラッドウルフの群れだった。 戦場の死肉を喰らい、凶暴化した化け物たちが、アレンを新鮮な餌として四方から包囲する。
「おや。犬っころの分際で、いっちょ前に包囲網を組むのか。いいぜ、遊んでやるよ」
アレンは狂気に歪んだ笑みを浮かべ、立ち上がった。
しかし、彼の意識は前世の凄腕ゲーマーであっても、肉体はレベルが少し上がっただけの15歳の貧弱な少年に過ぎない。
飛びかかってくる魔獣の牙を間一髪で避けるものの、鋭い爪が外套を裂き、アレンの細い腕や太ももを容赦なく掠めていく。
「痛っ……くそ、身体がついてこない……!」
タァンッ! タァンッ!
迎撃の銃弾が次々と狼の頭部を粉砕していくが、数の暴力と身体能力の差がアレンを追い詰めていく。
泥に足を取られながらも必死に銃を連射し、最後の一頭の口内に銃口を突っ込んで引き金を引いた時、アレンの身体は既にボロボロだった。
ドサリと巨大な魔獣の死体が倒れ込む。
「はぁ……はぁ……、殲滅、完了……」
周囲に動くものがなくなったことを確認し、アレンはハンドガンを空間に溶かすように解除した。
その直後――狂気のフィルターが外れ、ごまかされていた『痛み』と『恐怖』が、津波のように気弱な少年の自我に襲いかかった。
「あ、ぁぁああっ……!痛いっ、痛いよぉ……っ!」
腕や足から流れる血。裂けた肉の激痛。
そして何より、足元に転がる人間と魔獣の凄惨な死体の山。
アレンは傷口を押さえながら、その場にうずくまって泣きじゃくった。
銃を握らなければ死んでいた。だが、銃を握れば命を奪うことへのストッパーが完全に壊れ、ただ殺戮を愉しむ化け物になってしまう。
生き延びるたびに、自分が人間から遠ざかっていく感覚。
「誰か……助けて……」
血と泥に塗れ、服は引き裂かれ、満身創痍のまま荒野を這いずるように歩く。 どれだけ歩いても、この地獄のような狂気と硝煙の匂いから、アレンが逃れられる場所はどこにもなかった。




