狂気と素顔の境界線――生きるための引き金と消えない硝煙の呪い
ラーズから手渡された分厚い外套を深く被り、アレンは泥濘む戦場を歩き出した。
背を向けた老兵と味方の兵士たちは、二度とこちらを振り返らなかった。 彼らの背中には、名門から見捨てられた哀れな少年への同情と――得体の知れない怪物に対する「安堵」が混じっていたことを、アレンは痛いほど理解していた。
雨が激しさを増し、頬にこびりついた返り血と、足元の血だまりを洗い流していく。 だが、鼻の奥にこびりついた硝煙と生臭い血の匂いは、どれだけ雨に打たれても消えなかった。
国境を越え、名もなき平民として生きる。
言葉にするのは簡単だが、戦乱の世で15歳の無力な少年が一人で生き抜くのは至難の業だ。脱走兵、野盗、飢えた魔物。危険は至る所に潜んでいる。 生き延びるためには、力が必要だ。
アレンは、泥に汚れた自身の右手をじっと見つめた。
魔力を込めれば、あの黒鋼の塊――自動拳銃が現れる。
だが、あれを握れば、自分が自分でなくなるような気がした。前世の記憶という名の『狂気』が、本来のアレン・ストライフという怯弱な少年の心を完全に塗り潰してしまう。
人を殺すことに何の躊躇いも、罪悪感も抱かない。命を奪う感触に快楽すら覚え、合理的かつ冷酷に敵を排除する別の生き物へと変貌する。
「……怖い、な」
ぽつりとこぼした呟きは、雨音に溶けて消えた。
力を持たない無力な自分でいれば、理不尽に殺される。
しかし力に頼れば生き延びられる代わりに、人間の心を失っていく。
生きるために引き金を引くのか、狂気に呑まれる前に死を選ぶのか。この狂った世界は、少年に極端すぎる二択を突きつけていた。
その時だった。
「……あ、あぁ……」
瓦礫の影から、泥まみれの手が伸びてきた。
アレンが先ほどまで所属していた帝国軍の兵士――つまり、味方だった男だ。腹部を深く斬り裂かれ、致命傷を負っている。
「たす、けて……。置いていかないで、くれ……」
男の濁った瞳がアレンを捉えた。だが、気弱な少年に彼を助ける力などない。
傷を治す魔法もなければ、大人の男を背負って歩く体力もない。
アレンの全身が、再びガタガタと震え始めた。 死にゆく者の絶望に当てられ、気弱な少年の心が悲鳴を上げる。
怖い、逃げたい。だけど見捨てられない。 どうすればいい。どうすれば。
混乱するアレンの右手が、無意識に虚空を掴んだ。 体内の魔力が『1』消費される。 途端に、ずしりと重い黒鋼の感触が掌に収まった。
――瞬間。
「……ひゅ、あ……?」
血を吐く味方兵を見下ろすアレンの瞳から、恐怖と動揺が完全に消え失せた。
代わりに宿ったのは、ひどく冷徹で、機械的な観察者の光。
アレンは躊躇いなく銃口を、瀕死の味方へと向けた。
「腸が完全に断裂してる。この時代の野戦病院じゃ、助かる見込みはゼロだ。
せいぜいあと数時間、地獄の苦しみを味わって狂い死ぬだけだよ」
少女のような可憐な唇から紡がれたのは、一切の感情を排した死の宣告。
「ひ、いっ……!?」
「戦友に対するせめてもの最後の慈悲だ。楽にしてやる」
タァンッ。
雨音を切り裂く乾いた銃声が一度だけ響き、男の苦痛は永遠に終わった。 アレンは無表情のまま、手の中のハンドガンを空間に溶かすように消滅させる。
スキルが解除された、その直後――。
「あ……あぁぁぁっ……!」
アレンは自らが眉間を撃ち抜いた男の亡骸を見て、泥の中に泣き崩れた。
銃を握っている間は、あんなにも合理的で、正しい判断だと思えた。慈悲ですらあると信じて疑わなかった。
だが素顔に戻った今、彼を苛むのは「味方を自らの手で殺した」という重すぎる罪悪感だった。
狂気に身を委ねなければ、自分の命を守ることも、誰かを楽にすることすらできない。
自らを呪縛する【兵器】の恐ろしい代償を噛み締めながら、アレンは泥だらけの顔を上げ、あてのない雨の荒野へと一人歩き出した。




