偽りの平穏
国境の森を抜け、数日の野営を乗り越えた二人の視界に、ついに巨大な石造りの城壁が飛び込んできた。
隣国、エルフレイデン王国。
その辺境に位置する交易都市の門をくぐった瞬間、アレンはあまりの光景に息を呑んだ。
「すごい……活気がある」
石畳の通りには馬車が行き交い、屋台からは焼けた肉や香辛料の食欲をそそる匂いが漂ってくる。
すれ違う人々の顔に、死の恐怖や絶望はなく活気に溢れている。
帝国軍の最前線で泥と血に塗れ、硝煙の匂いばかりを嗅いできたアレンにとって、それはまるで別世界のような平和な光景だった。
「アレン殿、あまりキョロキョロしているとスリに狙われますよ。まずは目的の場所へ向かいましょう」
隣を歩くクリスが、周囲に鋭い視線を配りながらアレンの背中を軽く押した。
彼女の銀色の鎧は外套で隠されているが、その凛とした歩き方や隙のない身のこなしは、どう見てもただの町娘ではない。
二人が向かったのは、街の中央広場に面した大きな木造建築――『冒険者ギルド』だった。
重いスイングドアを押し開けると、むせ返るような酒の匂いと、荒くれ者たちの喧騒が押し寄せてきた。
帯剣した戦士、ローブを纏った魔導士、弓を背負った狩人。様々な種族と職業の者たちが、掲示板の前に群がり、あるいは円卓でジョッキを傾けている。
身分を問わず、実力だけがすべての世界。
二人は受付へ向かい、事前に決めていた通り、ただの『アレン』と『クリス』という偽名で登録を済ませた。
簡単な魔力測定と読み書きのテストだけで、あっさりとギルドの認識証が発行される。
「これで僕たちも、晴れて冒険者ですね」
真新しい銅色のタグを握りしめ、アレンはホッと安堵の息を吐いた。 これで帝国の追手に怯えることなく、平穏な日常を一から築いていける。そう思った矢先だった。
「おいおい、冗談だろ。こんなヒョロガキが冒険者ァ?」
背後から、酒臭い息と共に下劣な嘲笑が降ってきた。
振り返ると、顔に大きな傷のある大柄な男が、取り巻きの仲間たちと共にアレンを見下ろしていた。胸元には、中堅冒険者の証である銀色のタグが揺れている。
「どこのお坊ちゃんか知らねえがな、ここは魔獣と殺し合う命懸けの場所なんだよ。ママの腕に抱かれてミルクでも飲んでなァ!」
ドッと周囲から下品な笑い声が上がる。 男はアレンの華奢な肩をドンッと乱暴に突き飛ばした。
「あっ……」
抵抗する間もなく、アレンは床に尻餅をついてしまう。 身体能力の低い彼にとって、大人の戦士の力はそれだけで暴力だった。
痛む手首を押さえながら、アレンは男を見上げた。 悔しさと恐怖。そして――アレンの右手が、無意識のうちに虚空を掴みそうになる。
(……殺せる)
頭の奥で、前世の冷酷な自我が囁いた。
魔力を消費して、ハンドガンを顕現させる。
相手は重い鎧を着ているが、距離はわずか2メートル。
顎の下、あるいは眼窩の隙間を撃ち抜けば、一瞬で脳髄を破壊できる。 僕を嘲笑うこの男の頭を吹き飛ばすのに、1秒もかからない。
その事実が、ひどく甘美な誘惑となってアレンの理性を揺さぶった。
戦場では、それで良かった。引き金を引けば、すべてが解決したからだ。
しかし、アレンはハッと息を呑み、震える右手を強く握りしめて動きを止めた。
(ダメだ……っ)
ここは戦場ではない。平和な街だ。 もしここで銃を抜き、男を殺せばどうなる? 間違いなく殺人鬼として衛兵に追われることになる。
何より、その得体の知れない強力なスキルを知られれば、帝国の諜報員や、力を欲する裏社会の人間たちに目をつけられる。
力に頼れば、再び「兵器」として誰かに利用される地獄へ逆戻りだ。
無力なままで虐げられるか。 引き金を引いて、人であることを捨てるか。
アレンが己の恐ろしい力と葛藤し、唇を噛み締めていた、その時。
「――私の主に、無礼極まる真似を」
氷点下まで冷え切ったような、静かで圧倒的な殺気がギルド内を支配した。
「あ……?」
男が振り返るよりも早く、クリスが大剣の柄に手をかけ、男の首筋ピタリと切先を突きつけていた。
まだ抜刀すらしていない鞘のままだというのに、歴戦の騎士が放つ本物の『死の気配』に、大柄な男の顔から一瞬で血の気が引く。
「その方にこれ以上指一本でも触れてみろ。貴様のその首、胴体から泣き別れさせてやる」
「ひっ……!?あ、悪かった……!冗談だ、ただ少しからかっただけだろっ!」
殺気に当てられた男は、情けない悲鳴を上げて取り巻きと共に逃げるようにギルドから飛び出していった。
静まり返ったギルド内で、クリスはゆっくりと大剣を背に納め、床に座り込むアレンの前にひざまずいた。
「申し訳ありません、アレン殿。私が傍にいながら、あのような輩に遅れをとるとは」
「ううん……ありがとう、クリス」
差し出されたクリスの手を取り、アレンは立ち上がった。 彼女の手は、剣ダコで少し硬くて、とても温かかった。
「……僕、危なかったよ」
「え?」
「クリスがいなかったら、僕……きっとまた、取り返しのつかないことをしてた」
アレンの言葉の真意は、クリスには伝わらなかっただろう。
しかしアレン自身は、心底恐ろしくなっていた。
暴力という絶対的な解決手段を持っているがゆえに、簡単に命を奪うことへのハードルが下がっている自分自身に。
『銃を抜かない』という選択は、引き金を引くことよりも遥かに重く、強い意志を必要とする。
一人であれば、きっとその誘惑に負けて、ただの冷酷な殺人鬼へと堕ちていただろう。
(僕にはやっぱり、彼女が必要だ)
敵を倒すための盾としてだけではない。 アレン・ストライフという人間が、人としての心と理性を保ち続けるための『心の盾』として。
「行こう、クリス。僕たちの、最初の依頼を探しに」
「はいっ。どこまでも、お供いたします」
狂気に呑まれまいと足掻く気弱な少年と、彼を絶対の主と信じて疑わない銀髪の騎士。




