第9話 氷の宰相の素顔
宰相府で働き始めて、ひと月が経った。
最初は遠巻きにしていた官吏たちも、今ではセシリアに書類の相談を持ちかけてくるようになった。あの鹿の獣人の高官でさえ、気まずそうにしながらも、条約の解釈について意見を求めにくるほどだ。
人間の娘を見る目が、少しずつ変わっていく。
それが、セシリアには何よりも嬉しかった。
ある朝、朝食の席でヴォルフラムが言った。
「今日は、宰相府を休みにしましょう」
「お休み……ですか?」
「あなたはこのひと月、一日も休んでいません。フィンにも休めと言われました」
「フィンさんに」
「閣下が休まないと番様も休まないので、まとめて追い出します、と」
真顔で伝えられて、セシリアは思わず小さく吹き出した。
その瞬間、ヴォルフラムが目を見開く。
「……セシリア」
「は、はい」
「今、笑いましたね」
言われて初めて、自分が声を出して笑ったことに気づいた。
(私……いつ以来かしら)
笑いもしない女。
そう言われていた自分が、こんなにも自然に笑えるなんて。
ヴォルフラムは、まるで宝物を見つけたような顔をしていた。テーブルの陰で、銀色の尾がこれ以上ないほど大きく揺れている。
「……もっと、見たいです」
ぽつりとこぼれた低い声に、セシリアの頬が一気に熱くなった。
その日、ヴォルフラムはセシリアを街へ連れ出した。
石畳の大通りには露店が並び、焼き菓子や果物、色とりどりの布地が売られている。獣人の子どもたちが尻尾を揺らしながら駆け回り、あちこちから明るい呼び声が響いていた。
「宰相閣下だ!」
「閣下、こんにちは!」
子どもたちが、ヴォルフラムに気づいて手を振る。彼が軽く手を上げて応えると、きゃあっと歓声が上がった。
「子どもたちに、人気があるのですね」
「ああ見えて、私を怖がらないのは子どもだけです」
少しだけ拗ねたような口調に、セシリアはまた笑ってしまった。
露店の店主たちも、ヴォルフラムを見ると親しげに声をかけてくる。けれど彼の隣にいるセシリアに気づくと、皆一様に目を丸くした。
「閣下、そちらのお嬢さんは……」
「私の番だ」
さらりと告げるたびに、通りがどよめく。
「ヴォ、ヴォルフラム様、そんなに大きな声で言わなくても」
「事実ですから」
「そういう問題では……」
セシリアの抗議は、店主たちの祝福の声にかき消された。気がつけば両手いっぱいに、果物や焼き菓子を持たされている。
「閣下に番様が見つかったなら、この国も安泰だ!」
「おめでとうございます、番様!」
戸惑いながらも、セシリアは小さく頭を下げた。
(この国の人たちは、本当にヴォルフラム様のことが好きなのね)
氷の宰相と恐れられながらも、こうして街の人々に慕われている。
それはきっと、彼がずっとこの国のために誠実に働いてきたからだ。
夕暮れ時、二人は街を見下ろす丘の上にいた。
眼下には、橙色に染まった王都の屋根が広がっている。遠くの山の端に、ゆっくりと陽が沈もうとしていた。
並んで腰を下ろし、街で持たされた焼き菓子を分け合う。
しばらく黙って景色を眺めたあと、セシリアは意を決して口を開いた。
「ヴォルフラム様。一つ、伺ってもいいですか」
「何なりと」
「もし私が、番ではなかったら……あの関所で、足を止めましたか?」
ずっと、胸の奥に引っかかっていた問いだった。
ヴォルフラムは、すぐには答えなかった。
夕陽を映した灰色の瞳が、静かにセシリアを見つめる。
「正直に答えます」
低く、落ち着いた声だった。
「あの日、私が足を止めたのは、あなたの香りに気づいたからです。番でなければ、きっと通り過ぎていたでしょう」
予想していた答えだった。
それでも、胸がちくりと痛む。
(やっぱり、そうよね)
俯きかけたセシリアに、ヴォルフラムは続けた。
「ですが、セシリア」
大きな手が、そっとセシリアの手に重ねられる。
「このひと月、私が見てきたのは、香りではありません」
驚いて顔を上げると、ヴォルフラムはまっすぐにこちらを見ていた。
「書類に向かうときの真剣な横顔。誰かの過ちを責めずに、静かに正すところ。礼を言われて、泣きそうになりながら笑う顔。祖国の窮状を知っても、恨み言一つ言わずに、そこに残された人たちを案じるところ」
一つ一つ、確かめるように言葉が紡がれていく。
「今朝、あなたが笑ったとき、私は心から嬉しかった。それは、あなたが番だからではありません。セシリア、あなただからです」
夕風が、二人の間をすり抜けていく。
セシリアは、言葉を返せなかった。
胸がいっぱいで、喉の奥が熱くて。
(私を、見てくれていた)
番だからではなく。
誰かの婚約者としてでも、侯爵家の娘としてでもなく。
ただのセシリアを。
「……ずるいです、ヴォルフラム様」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「そんなふうに言われたら、どうしたらいいか分からなくなります」
「答えは、急ぎません」
ヴォルフラムは、重ねた手にほんの少しだけ力を込めた。
「あなたが私を選んでくれるまで、いくらでも待ちます」
沈みゆく夕陽が、銀色の髪を淡く染めていた。
その横顔を見つめながら、セシリアは自分の胸の鼓動が、ひどくうるさいことに気づいていた。
屋敷に戻ると、玄関ホールでヘルガが待っていた。
いつも穏やかな彼女の顔が、強張っている。
「旦那様。王宮から、急ぎの使いが」
差し出された書状に目を通した瞬間、ヴォルフラムの表情がすっと冷えた。
「……何が書いてあるのですか?」
セシリアの問いに、ヴォルフラムは一瞬だけ迷うように目を伏せた。
それから、静かに告げる。
「あなたの祖国から、使節団が来るそうです」
書状を持つ彼の手に、わずかに力がこもった。
「通商条約の協議のため、と書いてあります。ですが……使節団の名簿に、王太子ルーカスの名がある」
セシリアは、思わず目を瞬かせた。




