第10話 番を奪おうとする者(ヴォルフラム視点)
王太子の名を聞いたセシリアは、しばらく黙り込んだあと、小さく首を傾げた。
「……殿下が、この国に?」
その顔に浮かんでいたのは、恐れではなかった。
純粋な、戸惑いだった。
「今さら、何のご用でしょう。通商条約の協議なら、殿下ご自身がいらっしゃる必要はありませんし……そもそも殿下は、こういった実務の場がお嫌いなはずなのですが」
顎に指を当てて、真剣に考え込んでいる。
その様子に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
(……怯えてはいない、か)
彼女の中で、あの国のことはもう、本当に終わっているのだ。
それが分かって安堵する一方で、胸の奥では別の感情がじわりと広がっていた。
彼女にとっては「なぜ」でも、私にはおおよその察しがつく。
王太子がわざわざ自ら出向いてくる理由など、一つしかない。
「ヴォルフラム様は、何か心当たりがおありですか?」
「……少し、調べてみます」
今はまだ、それだけ答えた。
「フィンに確認させていることがあります。今夜はもう休んでください。街を歩き回って、疲れたでしょう」
「はい。……あ、お土産の焼き菓子、フィンさんにも分けてあげてくださいね」
そう言って微笑むと、セシリアはヘルガとともに部屋へ戻っていった。
元婚約者が来ると聞いた直後に、補佐官への土産の心配をする。
その背中を見送りながら、私は思わず苦笑した。
(本当に、未練の欠片もないのだな)
書斎に入ると、待ち構えていたようにフィンが姿を現した。
「閣下、例の件の調査がまとまりました」
いつも軽口ばかり叩く補佐官が、今夜は珍しく真剣な顔をしている。
差し出された報告書に目を通すうちに、自分の眉間に深い皺が寄っていくのが分かった。
「……ひどいものだな」
「ええ。予想以上でした」
フィンの調査によれば、あの国の王宮は今、混乱の極みにあるという。
セシリアがいなくなってから、王太子の執務は完全に滞っていた。署名されないまま放置された予算案のせいで、地方の街道整備や治水工事が止まり、陳情が殺到している。
新しい婚約者の男爵令嬢は、執務を手伝うどころか、宝飾品の購入に予算を回すよう王太子にねだり続けているらしい。
ローレンツ侯爵家は、ドレーゼル伯爵への賠償金の支払いに追われている。
「それから、問題はこちらです」
フィンが、もう一枚の紙を差し出した。
「通商条約の改定案。第八条のあの但し書きを盛り込むよう指示したのは、王太子本人だったようです」
「王太子が?」
「正確には、王太子の側近の財務官が考えた策を、王太子がそのまま採用したと。ガルディアから関税を絞り取って、目減りした国庫を埋めるつもりだったんでしょう」
なるほど、と私は低く呟いた。
セシリアが見抜いた罠は、偶然の不備などではなかったわけだ。
「それで、今回の使節団だが」
「そこなんですよ、閣下」
フィンが、苦々しげに耳を伏せた。
「この国の宰相に人間の番が見つかったという噂が、あちらにも届いたようです。銀の狼の宰相のそばに、亜麻色の髪の、書類仕事に長けた人間の娘がいる、と」
それが誰のことか、あちらにも分かったのだろう。
「表向きは条約の協議ですが、本当の目的はセシリア様の連れ戻しです。しかも王太子は、セシリア様が王宮の機密書類を持ち出して国外へ逃亡した、と主張するつもりらしい」
その瞬間、書斎の空気が凍りついた。
フィンが、びくりと尾を逆立てる。
「……か、閣下、落ち着いてください。窓が軋んでます」
「落ち着いている」
自分の声が、ひどく低く冷えているのが分かった。
婚約を破棄し、夜会で辱め、国から追い出しておいて。
彼女がいなければ政務が回らないと分かった途端、今度は罪人に仕立て上げて連れ戻そうというのか。
(……どこまで、彼女を踏みにじれば気が済む)
握りしめた拳の中で、爪が手のひらに食い込む。
だが、ここで感情に任せて動けば、あの愚か者たちと同じになる。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「フィン。いくつか頼みたいことがある」
「何なりと」
「まず、通商条約の改定案に関するあちらの国の内部文書を、可能な限り集めてくれ。王太子の指示を示すものがあれば、なお良い」
「承知しました」
「それから、ガルディアの法における番の保護規定と、居住民の身柄引き渡しに関する条文をすべて揃えておけ」
「すでに準備してあります」
さすがに仕事が早い。
「最後に、陛下に謁見の手配を。使節団との会談は、陛下の御前で行う」
フィンの目が、きらりと光った。
「つまり、公の場で、ということですね」
「ああ」
私は報告書を机の上に置いた。
「彼女の名誉を、公の場で守る。二度と誰にも、彼女を罪人だなどと言わせない」
深夜。
書斎で書類を整えていると、扉が控えめに叩かれた。
「……ヴォルフラム様。まだ、起きていらっしゃいますか」
扉を開けると、ガウンを羽織ったセシリアが立っていた。
「どうしました。冷えますよ」
「殿下がいらっしゃる理由が、どうしても気になってしまって。……何か、分かりましたか?」
隠しておくべきか、一瞬だけ迷った。
だが、彼女の澄んだ瞳を前にして、偽ることはできなかった。
私はフィンの報告を、ありのままに伝えた。
執務が滞っていること。条約の罠を指示したのが王太子だったこと。そして、彼女を罪人に仕立てて連れ戻そうとしていること。
すべて聞き終えたセシリアは、しばらく黙っていた。
それから、深々とため息をついた。
「……呆れました」
その声には、怒りも悲しみもなかった。ただ心底、呆れ果てたという響きだけがあった。
「婚約を破棄なさったのも、私が要らないとおっしゃったのも、殿下ご自身ですのに。困ったら罪人扱いで連れ戻そうだなんて……殿下らしいと言えば、殿下らしいですけれど」
小さく首を振って、セシリアは顔を上げた。
「ヴォルフラム様。殿下との会談に、私も同席させてください」
「無理をする必要はありません。あなたはここにいれば」
「いいえ」
セシリアは、静かに、けれどきっぱりと首を振った。
「あの夜、私は言いたいことを何も言わずに国を出ました。それで終わったつもりでいましたけれど、殿下のほうは、まだ終わっていなかったようです」
小さな手が、胸の前でぎゅっと握られる。
「黙って背を向けるだけでは、きっとまた同じことが繰り返されます。だから今度は、自分の言葉で、きちんと終わらせたいのです」
月明かりに照らされたその顔は、凛として美しかった。
ああ、と思う。
この人は、守られるだけの人ではない。
「……分かりました」
私は彼女の手を取り、その甲にそっと唇を寄せた。
「あなたの隣には、必ず私がいます」
セシリアの頬が、ほんのりと赤く染まる。
けれど、その手は引かれなかった。




