第8話 滞り始めた祖国
セシリアが国を出てから、半月が過ぎた頃。
王宮の王太子執務室では、ルーカスが苛立たしげに机を叩いていた。
「なぜ、こんなに書類が溜まっている!」
机の上には、崩れ落ちそうなほどの書類の山があった。予算案、陳情書、各国からの書簡。署名を待つ書類が、日に日に増えていく。
そばに控えていた文官が、青ざめた顔で頭を下げた。
「も、申し訳ございません。これまでは、すべて整理された状態で届いておりましたので……」
「整理だと?」
「はい。急ぎのものを上に、要点をまとめた添え書きをつけて……殿下は署名をなさるだけでよいように、と」
ルーカスは、言葉に詰まった。
確かに、これまでの書類はいつも綺麗に揃えられていた。どこに署名をすればいいかも一目で分かったし、難しい案件には短い説明書きが添えられていた。
それが当たり前だと思っていた。
誰が、それをしていたのか。
考えたこともなかった。
「……誰が整理していたんだ」
文官は、言いにくそうに目を伏せた。
「西棟の執務室で……セシリア様が」
ルーカスの顔が、さっと強張る。
「あいつは書類を清書していただけだろう!」
「いえ、その……予算の計算も、条約の確認も、貴族間の調停案も、すべてセシリア様がご準備なさっておりました」
「そんな馬鹿な」
吐き捨てるように言いながらも、ルーカスの声には動揺が滲んでいた。
そのとき、執務室の扉が開き、甘い声が響いた。
「ルーカス様ぁ」
薔薇色のドレスをまとったミリアが、軽やかな足取りで入ってくる。
「来月の舞踏会のドレスなのですけれど、新しい宝石を合わせたくて。仕立て屋が、予算の許可がいると言うのです」
「ミリア、今はそれどころでは」
「まあ、ひどい。わたくし、ルーカス様の婚約者として恥ずかしくない装いをしたいだけですのに」
潤んだ瞳で見上げられ、ルーカスは言葉を飲み込んだ。
ふと思いついて、机の上の書類を一枚手に取る。
「ミリア。お前、これが分かるか」
差し出したのは、ある地方からの陳情書だった。
ミリアは書類をちらりと見ると、可愛らしく首を傾げた。
「難しい字ばかりで、よく分かりませんわ。そういうのは、文官のお仕事でしょう?」
ルーカスは、何も言えなかった。
同じ頃、ローレンツ侯爵家でも、屋敷の主人が怒鳴り声を上げていた。
「まだ見つからんのか!」
セシリアが姿を消した朝から、侯爵は八方手を尽くして娘を探させていた。だが、行き先の手がかりは何一つ見つからない。
侍女のアンナは「お嬢様は一晩中泣いておられました」と繰り返すばかりだった。
「ドレーゼル伯爵には、すでに話を通してあったのだぞ! 面目丸つぶれだ!」
伯爵からは、約束を違えた代償として、少なくない額の賠償を求める書状が届いていた。
さらに悪いことに、王宮からも問い合わせが来ていた。
西棟の執務室にあった書類について、娘から何か聞いていないか、と。
侯爵は、その書状を握りつぶした。
娘が王宮で何をしていたのかなど、知るはずもない。気にかけたことすら、なかったのだから。
ガルディアの宰相府。
フィンから受け取った報告書に目を通しながら、セシリアは小さく息をついた。
「あちらの国から、通商条約の件で返書が届きました。改定案の第八条について、意図を問いただしたことへの回答です」
フィンが肩をすくめる。
「それがまあ、ひどいもので。言い訳にもなっていないし、そもそも書式からして間違っている。正直、同じ国から来た書類とは思えませんよ」
セシリアは、書類の文面を目で追った。
ちぐはぐな言い回し。根拠のない主張。条文の引用まで誤っている。
これまで、あの国からガルディアへ送られる外交文書は、最後に必ずセシリアが目を通していた。
(……私が、いなくなったから)
胸の奥で、何かがちくりと痛む。
ざまあみろ、とは思えなかった。
あの国には、アンナがいる。王宮付きの侍女のマーサも、真面目に働く文官たちもいる。国が乱れて苦しむのは、いつだって彼らのような人たちなのだ。
けれど。
「セシリア様?」
フィンの声に、はっと顔を上げる。
「……いいえ。何でもありません」
セシリアは書類を閉じ、静かに首を振った。
もう、あの国のために書類を整える立場ではない。それを選んだのは、殿下のほうだ。
(私にできるのは、ここで、目の前の仕事をきちんとすること)
そう自分に言い聞かせて、次の書類に手を伸ばす。
そのとき、執務室の扉が開いて、ヴォルフラムが入ってきた。
「セシリア。そろそろ休憩にしましょう」
「ですが、まだ」
「三時間、一度も手を止めていないとフィンから聞きました」
「閣下、それは告げ口じゃなくて報告です」
フィンがすました顔で言う。
ヴォルフラムは小さく笑うと、セシリアの前に湯気の立つカップを置いた。蜂蜜の甘い香りがふわりと広がる。
「……ありがとうございます」
両手でカップを包むと、じんわりと温かさが指先に染みていく。
ヴォルフラムは、セシリアの手元にある返書にちらりと目をやった。
けれど、何も聞かなかった。
ただ静かに、セシリアの隣に腰を下ろした。
その距離が、今は不思議と心地よかった。




