第7話 見つけた夜(ヴォルフラム視点)
その夜、私は書斎の窓から、庭を照らす月を見上げていた。
屋敷は静まり返っている。廊下の奥の部屋では、セシリアがもう眠っている頃だろう。
扉越しにも、彼女の香りがかすかに届く。
春の朝の光のような、柔らかく澄んだ香り。
(……まだ、夢を見ているようだ)
私は目を閉じ、深く息を吐いた。
物心ついた頃から、何かが足りないと感じていた。
狼の獣人は、番への執着が特に強い種族だと言われている。幼い頃の私は、その意味もよく分からないまま、ただ漠然と、どこかに自分の半分があるような気がしていた。
成長するにつれ、それが番を求める本能なのだと知った。
けれど番に出会える獣人は、ほんの一握りだ。
だから私は、自分から探しに行くことにした。
外交官として諸国を巡る役目を、誰よりも多く引き受けた。会議の席でも、夜会でも、街の雑踏でも、私は常に香りを探していた。
十年が経ち、宰相の座についても、見つからなかった。
いつしか私は、探すことをやめた。
番に出会えない獣人など珍しくもない。自分もその一人だっただけのことだ。そう言い聞かせ、空いた場所を埋めるように、ひたすら仕事に打ち込んだ。
感情を表に出さなくなったのも、その頃からだったと思う。
氷の宰相。
そう呼ばれていることは知っていたが、否定する気も起きなかった。
あの日、私は国境の町での交渉を終え、王都へ戻る途中だった。
関所に差しかかったとき、馬車の窓の隙間から、ふわりと香りが流れ込んできた。
最初は、気のせいだと思った。
疲れているのだ、と。
けれど、香りは消えなかった。それどころか、近づくにつれて強く、鮮やかになっていく。
心臓が、痛いほどに打っていた。
馬車を止めさせ、扉を開けた先に、彼女がいた。
くたびれた茶色の外套に、深くかぶったフード。列の脇に身を寄せ、目立たないように俯いている小柄な娘。
その姿を見た瞬間、すべてを理解した。
ああ、この人だ。
十年探し続けて、諦めて、それでも心のどこかで待ち続けていた人が、ここにいる。
気がつけば、地面に膝をついていた。
宰相としての体面も、周囲の目も、何一つ頭になかった。
ただ、この人を二度と見失いたくない。それだけだった。
だが、馬車の中で彼女の話を聞いたとき、私は生まれて初めて、本気の殺意というものを知った。
三年間、誰にも感謝されずに国の実務を支え続けた娘。
その功績を知ろうともせず、夜会の場で辱めた王太子。
娘を案じるどころか、老貴族の後妻に売り飛ばそうとした父親。
彼女はそれを、まるで他人事のように淡々と語った。泣きもせず、恨み言の一つも口にせずに。
それが、何よりも許せなかった。
泣くことすら諦めるほど、彼女はずっと一人だったのだ。
今すぐ国境を越え、あの国の王宮に乗り込んでやりたかった。だがそんなことをすれば、彼女は怯えるだろう。私の怒りの矛先が自分の祖国に向かうことを、彼女は望まないはずだ。
だから、膝の上で拳を握りしめて堪えた。
尾を一度打ちつけてしまったのは、未熟としか言いようがない。
――あの、ヴォルフラム様……?
彼女に名前を呼ばれた瞬間、怒りはあっけなく霧散した。
我ながら、単純なものだと思う。
そして今日。
宰相府で書類に向かう彼女の横顔を、私はずっと見ていた。
背筋をまっすぐに伸ばし、一枚一枚の書類に真剣に目を通していく。その手際は、熟練の官吏をも凌ぐほどだった。
条約の不備を指摘したときの、静かで確かな声。
あの国が仕掛けた罠を、彼女は一目で見抜いた。おそらく、あちらの国の誰よりも、あの国の法を理解しているのだろう。
そんな人を、あの王太子は可愛げがないと切り捨てたのだ。
そして、フィンに礼を言われたときの、あの表情。
驚いたように目を瞬かせて、それから、泣き出しそうなほど嬉しそうに微笑んだ。
ほんの一言の礼で、あんな顔をするのだ。
それまで、どれほど報われずにいたのか。
(……ああ)
私はそっと、胸に手を当てた。
番の香りに惹かれたのは、本能だ。それは否定しない。
だが、今日私の胸を締めつけたのは、香りではなかった。
凛とした横顔も、静かな強さも、礼を言われて震えた声も。
番だからではなく、セシリアという一人の女性に、私は心を奪われている。
それを、いつか彼女に伝えたい。
今はまだ、彼女は番という言葉に戸惑っているだろう。私の想いを、本能だけのものだと思っているかもしれない。
急ぐつもりはない。
十年待ったのだ。彼女が心を開いてくれるまで、いくらでも待てる。
翌朝、私は宰相府に着くなりフィンを呼んだ。
「ローレンツ侯爵家と、あの国の王太子について調べてくれ。内密にだ」
フィンは一瞬だけ目を丸くしてから、にやりと笑った。
「承知しました。……閣下、今の顔、すごく怖いですよ」
「そうか」
否定する気は、なかった。
彼女を、泣くことすら諦めさせた者たちを、このまま許すつもりはない。
ただし、それは彼女の知らないところで。
彼女の前では、私はただ、穏やかに微笑んでいればいい。




