第6話 宰相府の机
ガルディアの宰相府は、王宮のすぐ隣に建つ白い石造りの建物だった。
廊下を行き交う官吏たちは、狼、熊、鹿、鳥。さまざまな獣人たちが書類を抱えて忙しなく歩いている。その中に、人間の姿はほとんど見当たらない。
ヴォルフラムの隣を歩くセシリアに、あちこちから視線が集まった。
「閣下が女性を連れている……?」
「しかも人間だぞ」
「まさか、例の噂の……」
ひそひそとした声が、背中に刺さる。
(やっぱり、歓迎はされないわよね)
セシリアは背筋を伸ばしたまま、前だけを見て歩いた。視線にさらされることには、慣れている。
宰相執務室の扉を開けると、中から明るい声が飛んできた。
「閣下、おかえりなさ……うわっ、本当に連れてきた!」
書類の山の向こうから顔を出したのは、赤茶色の髪に、ふさふさの狐の耳と尾を持つ青年だった。
「フィン。礼儀を」
「あ、失礼しました! 補佐官のフィンと申します。噂の番様にお会いできて光栄です!」
人懐っこい笑みを浮かべて頭を下げるフィンに、セシリアもつられて微笑んだ。
「セシリアと申します。今日は見学をさせていただきに参りました」
「見学どころか、手伝っていただけたら泣いて喜びますよ。見てください、この惨状」
フィンが両手を広げてみせる。
執務室の机という机には、書類が積み上げられていた。床にまで箱が置かれ、今にも崩れそうな山がいくつもある。
「先月から外交の案件が立て込んでいまして。閣下は国境まで出向いておられましたし、僕一人じゃもうどうにも」
その山を見た瞬間、セシリアの胸がとくんと鳴った。
懐かしい、と思ってしまったのだ。
「……少し、拝見してもよろしいですか?」
ヴォルフラムを見上げると、彼は静かに頷いた。
「あなたの好きなように」
最初に手に取ったのは、いちばん手前の山だった。
地方からの陳情書、交易品の目録、各省からの報告書。分類も何もなく、届いた順に積み上げられているらしい。
(まずは、仕分けからね)
セシリアは椅子に腰を下ろすと、黙々と書類を読み始めた。
急ぎのもの、閣下の決裁が必要なもの、担当の省に回せば済むもの。それぞれに小さな紙片を挟み、山を三つに分けていく。
気がつけば、執務室には紙をめくる音だけが響いていた。
どれほど時間が経っただろう。
ある書類を手にしたところで、セシリアの手が止まった。
「……これは」
表紙に記されていたのは、見覚えのある国の名前だった。
セシリアが生まれ育った国と、ガルディアとの通商条約。その改定案の草稿だ。
ゆっくりと条文を追っていくうちに、セシリアの眉が寄っていく。
「フィンさん。この改定案は、どちらの国が作成したものですか?」
「ああ、それはあちらの国からの提案ですよ。関税の見直しをしたいと言ってきて。一応目を通したんですが、特に問題はなさそうだったので、来週には閣下の署名をいただこうかと」
「第八条を、見ていただけますか」
セシリアは書類を机の上に広げ、一つの条文を指さした。
「関税の税率そのものは下がっているように見えます。ですが、この但し書きで『品目の分類は輸入国の定めによる』とされています」
「ええ、それが何か?」
「あちらの国では、昨年、品目の分類法が改められています。ガルディアからの主な輸出品である毛織物と薬草は、新しい分類では『加工品』の扱いになるのです」
フィンの耳が、ぴくりと動いた。
「加工品の関税率は……」
「現行の三倍です」
執務室が、しんと静まり返った。
「つまりこの改定案に署名すれば、表向きは税率が下がったように見えて、実際にはガルディアの主要な輸出品に、今の三倍の関税がかかることになります」
フィンが、慌てて書類を覗き込む。何度も条文を読み返し、やがて顔色を変えた。
「……本当だ。僕、まったく気づきませんでした」
「分類法の改定は、国内向けの通達でしか公表されていませんから。外からでは分かりにくいと思います」
セシリアは淡々と答えた。
あの改定の通達を清書したのは、ほかでもない自分なのだから。
(まさか、こんな使われ方をするなんて)
複雑な思いが胸をよぎる。
そのとき、執務室の扉が叩かれ、年配の鹿の獣人が入ってきた。外務を担当する高官らしい。
「閣下、通商条約の件で……おや」
セシリアに気づくと、男はあからさまに眉をひそめた。
「人間の娘を執務室に入れるなど。しかも、あの国の者でしょう。機密が漏れでもしたら」
「彼女が今、その条約の不備を見つけた」
ヴォルフラムの声は、静かだった。
けれど、執務室の温度が一気に下がったような気がした。
「あなたの部署が三度確認して、見落としたものを」
高官の顔から、さっと血の気が引く。
「そ、それは……」
「詳しくはフィンから聞くといい。それと」
ヴォルフラムは、灰色の瞳を高官にまっすぐ向けた。
「彼女を侮る言葉は、二度と口にするな」
高官は額に汗を浮かべ、深く頭を下げて執務室を出ていった。
セシリアは、思わずヴォルフラムを見上げる。
彼はすぐに表情を緩めると、何事もなかったかのようにセシリアに向き直った。
「失礼しました。続けてください」
「は、はい」
(……今のが、氷の宰相)
自分に向けられる柔らかな眼差しとの違いに、少しだけ戸惑う。
けれど、怖いとは思わなかった。
夕方。
三つに分けられた書類の山を前に、フィンが感激したように両手を組んだ。
「信じられない……一日で、ひと月分が片付いた……」
「すべてではありません。急ぎのものと、決裁が必要なものを分けただけですから」
「それがいちばん大変なんですよ!」
フィンは勢いよく頭を下げた。
「セシリア様、本当にありがとうございます! 助かりました!」
ありがとうございます。
助かりました。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちてくる。
三年間、王宮の執務室で書類を整え続けた。けれど一度だって、こんなふうにまっすぐ礼を言われたことはなかった。
「……いえ。お役に立てたなら、嬉しいです」
声が、少しだけ震えた。
ふと視線を感じて顔を上げると、ヴォルフラムがこちらを見ていた。
何も言わず、ただ静かに。
けれどその灰色の瞳は、どこまでも優しかった。




