第5話 番という言葉
翌朝、セシリアが目を覚ましたのは、窓から差し込む柔らかな日差しのせいだった。
(……寝過ごした!?)
慌てて身を起こし、すぐに思い出す。
ここは王宮の執務室でも、ローレンツ侯爵家の自室でもない。急いで片付けなければならない書類も、どこにもないのだ。
ほっと息をついたところで、控えめに扉が叩かれた。
「セシリア様、お目覚めでございますか?」
ヘルガが、湯気の立つ盥と着替えを抱えて入ってくる。広げられたのは、淡い水色の柔らかなドレスだった。
「これは……」
「旦那様が、昨夜のうちに仕立て屋を呼んでご用意させたものです。ひとまず既製品で申し訳ないと、しきりにおっしゃっていましたよ」
既製品とは思えないほど、上質な生地だった。袖を通すと、まるで誂えたかのように体に馴染む。
(昨夜のうちにって……いつの間に)
食堂へ向かうと、ヴォルフラムはすでに席についていた。
セシリアの姿を見た瞬間、彼の動きがぴたりと止まる。
「……おはようございます、ヴォルフラム様」
「おはようございます」
返事はいつもどおり落ち着いていた。
けれど、テーブルの陰で銀色の尾がぱたぱたと揺れているのが見えてしまって、セシリアは思わず視線をそらした。
「よく、お似合いです」
「あ、ありがとうございます。ですが、こんな上等なものを」
「あなたのために用意したものです。受け取っていただけなければ、ドレスが可哀想だ」
真面目な顔でそう言われては、断れない。
朝食は、焼きたてのパンに、とろりとした卵料理、色鮮やかな果物。どれも驚くほど美味しかった。
「お口に合いますか?」
「はい、とても」
そう答えると、ヴォルフラムは心底ほっとしたように目を細めた。
それから、ふと思い出したように言う。
「今日は午前中だけ王宮に出なければなりません。昼には戻りますので、それまでゆっくりしていてください」
「はい。いってらっしゃいませ」
何気なくそう返した瞬間。
ヴォルフラムの耳が、ぴんと立った。
「……もう一度、言っていただけますか」
「え? いってらっしゃいませ……?」
「……」
ヴォルフラムは黙って立ち上がると、片手で口元を押さえたまま食堂を出ていった。扉の向こうで、何かにぶつかるような音が聞こえた気がする。
「……ヘルガさん、私、何か失礼なことを」
「いいえ、いいえ。旦那様は、嬉しすぎて照れておいでなのですよ」
ヘルガは笑いを堪えきれない様子で肩を震わせていた。
ヴォルフラムが出かけたあと、セシリアはヘルガに頼んで、お茶の時間を一緒に過ごしてもらった。
聞きたいことが、たくさんあったのだ。
「番というのは、獣人の方にとってどういうものなのですか?」
ヘルガは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「番は、生涯でただ一人の伴侶です。獣人は、その方の香りで番を見つけます。ひと目……いえ、ひと嗅ぎで分かると言われていますね」
「香り、ですか」
セシリアは自分の手首にそっと鼻を近づけてみた。何も感じない。
その仕草に、ヘルガがくすりと笑う。
「人間の方には分からないそうですよ。番の香りは、番である獣人にしか感じ取れないのです」
「では、私には……ヴォルフラム様が番だと、分からないということですか?」
「ええ。ですから、人間の方を番に持つ獣人は、昔から苦労してきたと聞きます」
ヘルガは、カップを両手で包み込むようにして続けた。
「それに、番に巡り会える獣人はそう多くありません。一生出会えずに終わる者のほうが、ずっと多いのです」
「ヴォルフラム様も……?」
「旦那様は、お若い頃からずっと探しておいででした。諸国を回る外交のお仕事を自ら引き受けておられたのも、どこかで番に会えるかもしれないと思われたからでしょう」
ヘルガの声が、少しだけ揺れる。
「けれど、何年経っても見つからなくて。ここ数年は、もう諦めたように、ただお仕事ばかりなさって……屋敷の者は皆、心配しておりました」
だから、あんなに喜んでいたのか。
昨日の玄関前の光景を思い出し、セシリアは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
(そんなに大切な存在が、私でいいのかしら)
自分には、ヴォルフラムが番だという実感がまるでない。香りも分からない。彼の想いに、同じだけのものを返せるとは思えなかった。
それに。
(ヴォルフラム様が優しいのは、私が番だから)
もし自分が番でなかったら。あの関所で、彼は足を止めただろうか。
きっと、目にも留めずに通り過ぎていたはずだ。
ルーカスに言われた言葉が、ふいに耳の奥によみがえる。
――笑いもしない、着飾りもしない。そんな女を王妃にできるものか。
自分自身を見て、選んでもらえたことなど、一度もない。
「セシリア様?」
「……あ、いえ。少し考えごとを」
セシリアは微笑みを作って首を振った。
「ヘルガさん。番になったら、何か決まりごとがあるのでしょうか。たとえば、必ず結婚しなければならない、とか」
ヘルガは、きっぱりと首を横に振った。
「いいえ。この国の法では、番に選ばれた側には、拒む権利がきちんと認められています。無理に番を縛ることは、重い罪なのですよ」
それから、少しだけ声を和らげる。
「旦那様も、セシリア様が望まないことは決してなさいません。それだけは、このヘルガが保証いたします」
関所で彼が口にした言葉と、同じだった。
あなたが望まないことは、何一つしない。
(……だったら、なおさら)
甘えているだけでは、いけない。
番だから大切にされるのではなく、自分の足で、ここに立てるようにならなければ。
セシリアは、膝の上でそっと手を握りしめた。
昼過ぎ、約束どおりヴォルフラムは戻ってきた。
玄関ホールで出迎えたセシリアに、彼は少しだけ緊張した面持ちで言う。
「明日、宰相府へご案内します。……本当に、よろしいのですか?」
「はい。ぜひお願いします」
迷いなく答えると、ヴォルフラムは一瞬目を見開いてから、ふっと柔らかく笑った。
氷の宰相と呼ばれる人の、思いがけないほど穏やかな笑顔だった。




