第4話 宰相の屋敷
ガルディアの王都へ向かう馬車の中は、驚くほど静かだった。
ふかふかの座席に、柔らかなクッション。足元には温かな毛布まで用意されている。三日間乗り続けた乗合馬車とは、比べものにならない。
向かいの席に座るヴォルフラムは、背筋を伸ばしたまま、じっとこちらを見つめていた。
(……落ち着かないわ)
視線を感じるたびに、セシリアは膝の上で指を組み直す。
「あの、閣下」
「ヴォルフラムと」
「……え?」
「閣下ではなく、どうか名前で呼んでください」
氷の宰相と呼ばれる人が、少しだけ眉を下げてそう言う。
「い、いえ、さすがにそれは」
「では、いつか呼んでいただけるのを待つことにします」
さらりと言われて、セシリアは返す言葉を失った。
ヴォルフラムは、窓の外へと一度視線を向けてから、静かに問いかけた。
「差し支えなければ、なぜお一人で国境に?」
その声には、詮索するような響きはなかった。答えなくてもいいのだと、言外に伝わってくる。
だからこそ、セシリアは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……婚約を、破棄されたのです」
ヴォルフラムの耳が、ぴくりと動いた。
セシリアは淡々と話した。王太子の婚約者だったこと。三年間、執務室で書類を整え続けてきたこと。夜会の場で、可愛げがないと婚約を破棄されたこと。父に、老伯爵の後妻に出されそうになったこと。
話しながら、自分でも不思議なほど心は凪いでいた。
すべて、もう終わったことなのだ。
「ですから、もう家名も名乗れません。私はただのセシリアです」
話し終えて顔を上げると、ヴォルフラムは黙り込んでいた。
その表情は、変わらず静かに見える。
けれど。
(……寒い?)
馬車の中の空気が、すっと冷えた気がした。
膝の上で組まれた彼の手に、ぐっと力がこもっている。銀色の尾が、座席の上で一度だけ鋭く打ちつけられた。
「あの、ヴォルフラム様……?」
思わず名前を呼ぶと、彼ははっとしたように顔を上げた。
張り詰めていた空気が、ふっと和らぐ。
「失礼しました。少し……考えごとを」
ヴォルフラムは深く息を吐くと、セシリアをまっすぐに見つめた。
「あなたは何も悪くありません。それだけは、どうか覚えておいてください」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
誰かにそう言ってもらえたのは、いつ以来だろう。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言うと、ヴォルフラムは安堵したように目を細めた。
その背後で、銀色の尾がゆらゆらと揺れている。
(さっきから、尻尾がよく動く方なのね)
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
二日後、馬車はガルディアの王都に到着した。
白い石造りの街並みに、色とりどりの屋根。通りには耳や尾を持つ獣人たちが行き交い、その合間に、人間の姿もちらほらと見える。
活気のある呼び声、焼き菓子の甘い匂い、子どもたちの笑い声。
(思っていたより、ずっと賑やかな国だわ)
窓の外を夢中で眺めていると、向かいの席から小さな笑みがこぼれる気配がした。
やがて馬車は、街の高台にある大きな屋敷の前で止まった。
灰色の石壁に、手入れの行き届いた庭。決して華美ではないけれど、品の良さが隅々まで感じられる。
玄関前には、使用人たちがずらりと並んでいた。
先に馬車を降りたヴォルフラムが、振り返ってセシリアに手を差し出す。その手を借りて地面に降り立った瞬間、使用人たちが一斉にざわめいた。
「旦那様が……女性を……?」
「しかも、手を……」
「嘘でしょう……」
ひそひそと交わされる声に、セシリアは戸惑って足を止める。
一歩前に進み出たのは、灰色の髪をきっちりとまとめた、年配の女性だった。頭には、丸みのある小さな熊の耳が覗いている。
「お帰りなさいませ、旦那様。……そちらのお嬢様は」
「ヘルガ。この方はセシリア。私の番だ」
一瞬の沈黙。
それから、ヘルガと呼ばれた女性の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「まあ……まあまあまあ! ついに、ついに見つかったのですね!」
使用人たちの間から、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる。抱き合って喜ぶ者、涙ぐむ者、なぜか拝み始める者までいた。
セシリアは呆然と、その光景を見つめるしかなかった。
(……番というのは、そんなに大ごとなの?)
「セシリア様、ようこそおいでくださいました! 屋敷のことは何でもこのヘルガにお申しつけくださいませ!」
「は、はい。よろしくお願いいたします」
勢いに押されて頭を下げると、ヘルガはさらに感激したように胸を押さえた。
案内された部屋は、セシリアが祖国で暮らしていた部屋の倍ほどの広さがあった。
柔らかな陽の差し込む大きな窓に、天蓋つきの寝台。窓辺には、白い花が生けられている。
「旦那様が、いつか番が見つかったときのためにと、ずっと整えておられたお部屋なのですよ」
ヘルガが嬉しそうに言う。
ずっと、という言葉に、セシリアは目を伏せた。
(私は、ただ偶然あの関所にいただけなのに)
「あの、ヘルガさん。私、ここでお世話になるだけでは心苦しくて。何か、お仕事をさせていただけませんか?」
ヘルガは目を丸くしてから、困ったように微笑んだ。
「それは、旦那様にお聞きになってくださいませ」
その夜。
夕食のあと、セシリアは思い切ってヴォルフラムに同じことを申し出た。
「番に対価を求めるつもりはありません。あなたはここで、ただ好きに過ごしてくださればいい」
予想どおりの答えに、セシリアは首を横に振る。
「何もせずにいるのは、落ち着かないのです。書類の整理でも、計算でも……私にできることがあれば」
ヴォルフラムは、しばらくじっとセシリアを見つめていた。
やがて、ほんのわずかに口元を緩める。
「……分かりました。では、落ち着いたら宰相府を案内しましょう」
「本当ですか?」
「あなたの望みを、私が断れるはずがありません」
真顔でそう言われて、セシリアの頬がかすかに熱くなる。
部屋に戻り、寝台に横たわると、柔らかな寝具が体を包み込んだ。
数日前まで、自分は王宮の小さな執務室で、誰にも感謝されない書類を整えていた。
それが今は、獣人の国の宰相の屋敷にいる。
(番、か……)
まだ、何も分からない。
けれど、扉の向こうから聞こえた「おやすみなさい、セシリア」という低く優しい声を思い出すと、不思議と胸の奥が温かかった。




