第3話 国境の銀狼
国境の町ヴェルデに着いたのは、王都を出てから三日目の昼過ぎだった。
石造りの関所の向こうには、深い森と、なだらかな山並みが広がっている。あの山を越えた先が、獣人の国ガルディアだ。
関所の前には、荷車を引いた商人たちが列を作っていた。セシリアもその最後尾に並ぶ。
(通行証がなくても、入国税を払えば通れるはず)
条約の条文を思い出しながら、鞄の中の金貨を確かめる。旅の途中で宿代と食事代に使ったせいで、残りは心もとない。
ようやく順番が回ってくると、ガルディア側の衛兵が鋭い目でセシリアを見下ろした。
灰色の毛並みの犬耳が、ぴくりと動く。獣人を間近で見るのは初めてで、セシリアは思わず目を瞬かせた。
「人間か。入国の目的は」
「……働き口を探しに参りました」
「身元を証明するものは」
「ありません」
衛兵の眉間に、深い皺が寄る。
「身元の分からない人間を、そう簡単に通すわけにはいかない。特に、あの国からの者はな」
あの国、という言葉に含まれた冷たさに、セシリアは小さく唇を結んだ。
無理もない。両国の関係は、決して良いとは言えないのだ。
「入国税はお支払いします。条約の第十二条では、身元保証のない者でも、税を納めれば三十日間の滞在が認められているはずです」
衛兵が、驚いたように目を見開いた。
「……条約の条文を、そらで言える旅人は初めて見たな」
「それは……」
言葉を探していると、関所の奥がにわかに騒がしくなった。
蹄の音と、車輪の音。
振り向くと、黒塗りの立派な馬車が、数騎の護衛に囲まれて近づいてくるところだった。扉には、銀の狼をかたどった紋章が刻まれている。
周囲の衛兵たちが一斉に姿勢を正した。
「宰相閣下のお帰りだ! 道を開けろ!」
宰相、という言葉に、セシリアは目を見開く。
ガルディアの宰相。書類の中で、何度もその署名を目にしたことがある。
ヴォルフラム・グレイ。
冷徹で隙がなく、どんな交渉でも一歩も引かない。祖国の外交官たちが、陰で『氷の宰相』と呼んで恐れていた人物だ。
セシリアは慌てて列の脇へと身を寄せた。フードを深くかぶり直し、馬車が通り過ぎるのを待つ。
馬車は、セシリアの目の前を通り過ぎようとして――。
止まった。
「……閣下?」
護衛の一人が戸惑ったように声をかける。
けれど返事はなく、代わりに、馬車の扉が内側から勢いよく開かれた。
降りてきたのは、背の高い男だった。
月の光を溶かしたような銀色の髪。その間から覗く、同じ色の三角の耳。仕立ての良い黒い外套の裾からは、ふさりとした銀の尾が揺れている。
整いすぎた顔立ちは、確かに氷のように冷ややかだった。
けれど、その灰色の瞳は。
まっすぐに、セシリアだけを見ていた。
(え……?)
男は迷いのない足取りで、こちらへ近づいてくる。周囲の衛兵も、商人たちも、息を詰めて成り行きを見守っていた。
セシリアの目の前で立ち止まると、男はほんのわずかに鼻先を動かした。
その瞬間、灰色の瞳が大きく揺れる。
「……ああ」
かすれた声が、男の唇からこぼれた。
そして。
ガルディアの宰相は、土埃の舞う関所の地面に、迷わず片膝をついた。
周囲から、どよめきが上がる。
「か、閣下!?」
「やっと、見つけた」
男は、セシリアを見上げたまま、震えるような声で告げた。
「あなたは、私の番だ」
時間が、止まったような気がした。
(つがい……?)
聞いたことのある言葉だった。獣人には、生涯でただ一人の伴侶がいるという。魂で結ばれた、運命の相手。
けれどそれは、獣人同士の話ではなかったのか。
「あ、あの……人違い、では」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど上ずっていた。
「私は人間ですし、それに、宰相閣下とは今日初めて……」
「間違えるはずがない」
ヴォルフラムは静かに、けれどはっきりと首を横に振った。
「この香りを、私は生まれてからずっと探していた」
まっすぐな眼差しに射抜かれて、言葉が出てこない。
ヴォルフラムはゆっくりと立ち上がると、自分の外套を脱ぎ、セシリアの肩にそっとかけた。くたびれた茶色の外套の上から、上質な黒い布地がふわりと包み込む。
ほのかに、森のような清々しい香りがした。
「お名前を、伺っても?」
「……セシリア、と申します」
家名は名乗らなかった。もう、名乗る必要のないものだと思ったから。
ヴォルフラムはその名を確かめるように、一度だけ唇の上で転がした。
「セシリア」
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥がかすかに震える。
「ヴォルフラム・グレイと申します。この国の宰相を務めております」
彼は振り返り、呆然と立ち尽くす衛兵に告げた。
「この方の身元は、私が保証する。入国の手続きは私の名で済ませておけ」
「は、はいっ!」
衛兵が飛び上がるように敬礼する。
ヴォルフラムは再びセシリアに向き直ると、先ほどまでの冷ややかさが嘘のような、柔らかな声で言った。
「突然のことで、驚かせてしまったでしょう。ですが、あなたを一人で行かせるわけにはいきません」
「……ですが、私は」
「行く当ては、おありですか?」
静かな問いかけに、セシリアは言葉に詰まった。
働き口を探す、と言ったものの、具体的なあては何もない。残りの金貨では、数日分の宿代にもならないだろう。
その沈黙を、ヴォルフラムは責めなかった。
「でしたら、どうか私の屋敷へ。無理強いはいたしません。あなたが望まないことは、何一つしないと誓います」
差し出された大きな手を、セシリアは見つめる。
(信じて、いいの……?)
出会ったばかりの、それも獣人の宰相だ。番などと言われても、まだ何一つ実感がない。
けれど。
自分を見下ろす灰色の瞳には、嘘も打算も見えなかった。ただひたすらに、まっすぐで、どこか泣き出しそうなほどに切実で。
セシリアは、そっとその手に自分の手を重ねた。
「……しばらくの間だけ、お世話になります」
その瞬間、ヴォルフラムの背後で、銀色の尾が大きく一度、揺れた。




