第2話 ではお言葉に甘えて
王都の東にあるローレンツ侯爵家の屋敷に戻ったのは、夜もだいぶ更けた頃だった。
馬車を降りた瞬間、玄関の扉が乱暴に開かれる。
「セシリア!」
怒りに顔を赤くした父、ローレンツ侯爵が、階段の上からこちらを睨みつけていた。
夜会の騒ぎは、セシリアの馬車よりも早く屋敷に届いていたらしい。
「お父様、ただいま戻りました」
「よくも平然と帰ってこられたものだな! 殿下に婚約を破棄されるなど、侯爵家の恥さらしめ!」
怒鳴り声が玄関ホールに響き渡る。使用人たちが怯えたように身を縮めた。
セシリアは、静かに父を見上げる。
(……やっぱり)
心配の言葉など、最初から期待していなかった。
母が亡くなってから、父がセシリアに向ける言葉はいつも同じだった。家のために。侯爵家の名誉のために。王太子妃になる娘として、恥ずかしくないように。
「申し訳ありません。ですが、婚約破棄は殿下がお決めになったことです」
「黙れ! お前がもっと殿下の機嫌を取っていれば、こんなことにはならなかったのだ!」
父は荒い足取りで階段を下りてくると、セシリアの前で立ち止まった。
「明日の朝、ドレーゼル伯爵に使いを出す。あの方は以前から、後妻を探しておられたからな」
ドレーゼル伯爵。
六十を過ぎ、すでに三人の妻を亡くしている老貴族だ。その屋敷に仕える者が次々と辞めていく、という噂も聞いたことがある。
「それまで部屋から一歩も出るな。いいな」
吐き捨てるように言うと、父は書斎へと戻っていった。
重い扉が閉まる音を、セシリアは黙って聞いていた。
自室に戻ると、侍女のアンナが青い顔で駆け寄ってきた。
「お嬢様……!」
「大丈夫よ、アンナ。泣かないで」
幼い頃からそばにいてくれた彼女は、セシリアよりも先に涙ぐんでいる。その手をそっと握ってから、セシリアは衣装棚の奥に手を伸ばした。
取り出したのは、小さな革の鞄だった。
「お嬢様、それは……」
「お母様が残してくださったものよ」
鞄の中には、いくらかの金貨と、母の形見の首飾り、そして一通の古い手紙が入っている。
『いつかあなたが、自分の足で歩きたいと思ったときのために』
母の柔らかな字を指でなぞり、セシリアは小さく息を吐いた。
(お母様は、こうなることを分かっていたのかしら)
ドレーゼル伯爵の屋敷に送られれば、二度と自由に外へは出られないだろう。王太子妃としての務めを失った今、この家に自分の居場所はない。
それなら、答えは一つだ。
「アンナ。私、この国を出るわ」
アンナが息を呑む。
「で、出るって……どちらへ?」
「ガルディアへ」
隣国ガルディア。獣人たちが治める国だ。
この国とは長く緊張した関係が続いていて、多くの貴族は獣人を野蛮な種族だと見下している。
けれどセシリアは、知っていた。
通商条約の書類を何度も読み込むうちに、ガルディアの法や制度に触れる機会があった。あの国では、種族や生まれに関わらず、能力のある者が正当に評価される。人間の商人や職人も、少なくない数が暮らしているはずだ。
(少なくとも、ここよりは)
「お嬢様、おひとりでなんて危険です! せめてわたしも……」
「だめよ。あなたまで巻き込むわけにはいかないわ」
セシリアは首を横に振り、アンナの手を両手で包んだ。
「その代わり、お願いがあるの。明日の朝まで、私は部屋で泣いていることにしておいて」
アンナは唇を噛み、しばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。でしたら、せめてこれをお持ちください」
差し出されたのは、アンナが使っていた厚手の外套だった。くたびれた茶色の布地は、侯爵令嬢が身につけるには地味すぎるものだ。
けれど今のセシリアには、何よりもありがたかった。
「ありがとう、アンナ」
灰色のドレスを脱ぎ、簡素な旅装に着替える。
髪は一つにまとめ、外套のフードを深くかぶった。鏡に映る自分は、どこにでもいる町娘のように見える。
使用人たちが寝静まった頃、セシリアはアンナの手引きで裏口から屋敷を出た。
夜の王都は静まり返っていた。石畳を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響く。
向かったのは、東門のそばにある乗合馬車の停留所だった。夜明け前に国境の町へ向かう便があることは、陳情書の中で何度も目にしていた。
(まさか、あの書類の知識がこんなところで役に立つなんて)
思わず苦笑がこぼれる。
停留所には、すでに数人の旅人が集まっていた。行商人らしき男、子どもを連れた女、眠そうに欠伸をする若者。誰も、フードの下の顔に気づく様子はない。
やがて、軋んだ音を立てて古びた馬車がやってきた。
御者に運賃を払い、硬い座席に腰を下ろす。
窓の外では、東の空がうっすらと白み始めていた。遠くに見える王宮の尖塔が、朝の光に輪郭を浮かび上がらせている。
三年間、毎日のように通った場所。
あの小さな執務室の机には、まだ片付けていない書類が残っているはずだ。
(……明日からは、誰があれを整えるのかしら)
ふと浮かんだ考えを、セシリアは静かに打ち消した。
それは、もう自分の心配することではない。
殿下は、婚約者らしくない女は要らないと言った。ならば、婚約者でなくなった自分が、あの机に向かう理由もない。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
がたん、と大きく揺れた拍子に、胸の奥で張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ気がした。
「……お言葉に、甘えさせていただきますね。殿下」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、セシリアは窓の外を見つめた。
遠ざかっていく王都の景色に、涙は一滴もこぼれなかった。




