第1話 婚約破棄の夜
王宮の西棟、その一番奥にある小さな執務室には、今夜も灯りがともっていた。
積み上げられた書類の山を前に、セシリア・ローレンツは静かにペンを走らせる。
隣国との通商条約の写し。地方領主からの陳情書。来月の予算案。
どれも本来なら、王太子ルーカスが目を通すべきものだ。けれど彼がこの部屋に足を運んだことは、一度もない。
(……あと三枚)
インク壺にペン先を浸しながら、セシリアは小さく息をついた。
王太子妃教育の一環として、と言われたのは三年前のことだった。
最初は簡単な書簡の清書だけだったはずが、いつの間にか条約の確認も、予算の計算も、貴族同士の揉め事の調停案も、すべてこの机に運ばれてくるようになった。
セシリアが整えた書類は、翌朝には王太子の執務室へ届けられる。ルーカスはそれに署名をするだけだ。中身を読んでいるのかどうかすら、セシリアは知らない。
それでも、文句を言ったことはなかった。
いずれこの国の王妃になるのなら、知っておくべきことだと思っていたから。
コンコン、と控えめに扉が叩かれる。
「セシリア様、そろそろお支度を。今夜は夜会でございます」
顔を覗かせたのは、王宮付きの年配の侍女マーサだった。
「ありがとう、マーサ。これだけ終わらせたら、すぐに行くわ」
「……また、お一人で入場なさるのですか」
マーサの声には、気遣うような響きがあった。
セシリアは手を止めずに、ほんの少しだけ微笑む。
「殿下はお忙しい方だもの」
マーサはそれ以上何も言わず、静かに頭を下げて扉を閉めた。
本当は、分かっている。
ルーカスが忙しいのは、執務のせいではない。この半年ほど、彼のそばにはいつも一人の令嬢がいた。
男爵令嬢ミリア・カーティス。
蜂蜜色の髪に、大きな瞳。よく笑い、よく甘え、誰からも可愛らしいと言われる少女。
(地味で、可愛げのない私とは……正反対ね)
最後の一枚に目を通し、数字の誤りを一つ直してから、セシリアはペンを置いた。
大広間には、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
シャンデリアの光が磨かれた床に反射し、楽団の奏でる音色が高い天井に響いている。
セシリアが一人で扉をくぐると、近くにいた令嬢たちがひそひそと囁き合った。
「まあ、今夜もお一人よ」
「殿下はミリア様をお連れになるそうですもの」
「お可哀想に。でも、あの方では仕方ないわね」
聞こえないふりをして、セシリアは背筋を伸ばす。
亜麻色の髪は飾り気なく結い上げ、淡い灰色のドレスは、母の形見を仕立て直したものだ。華やかさはないけれど、セシリアはこのドレスが好きだった。
広間の奥で、ひときわ大きな笑い声が上がる。
視線を向けると、そこには金の刺繍が施された礼服をまとったルーカスと、その腕にしがみつくように寄り添うミリアの姿があった。
ミリアの身を包むのは、目にも鮮やかな薔薇色のドレス。首元には、大粒の宝石が輝いている。
(あの首飾り……先月の予算で削ったはずの、宝飾費の)
思わず眉を寄せかけて、セシリアはすぐに表情を戻した。
今さら言っても、仕方のないことだ。
そのとき、ルーカスと目が合った。
彼は一瞬だけ顔をしかめると、ミリアの肩を抱いたまま、広間の中央へと進み出る。楽団の演奏が止まり、ざわめきが波のように引いていった。
「皆、聞いてくれ!」
よく通る声が、広間に響き渡る。
「今夜は、この場を借りて伝えたいことがある」
ルーカスはまっすぐにセシリアを指さした。
「セシリア・ローレンツ! お前との婚約を、今この場で破棄する!」
一瞬の静寂のあと、広間がどよめいた。
扇で口元を隠す夫人。驚いたように顔を見合わせる貴族たち。中には、面白そうに目を輝かせている者もいる。
セシリアは、ただ静かにその場に立っていた。
「理由をお聞かせいただけますか、殿下」
声が震えなかったことに、自分でも少し驚く。
「理由だと?」
ルーカスは鼻で笑った。
「お前はいつも書類ばかりで、婚約者らしいことは何一つしない。笑いもしない、着飾りもしない。そんな女を王妃にできるものか」
「それに……」
ミリアが、潤んだ瞳でルーカスを見上げる。
「わたくし、セシリア様に冷たくされて……とても怖かったのです」
冷たくした覚えなど、一度もない。そもそも、言葉を交わしたことさえほとんどなかった。
けれどルーカスは、ミリアの肩を優しく撫でながら言い放つ。
「聞いたか。ミリアはこんなにも心優しいというのに、お前は嫉妬で彼女を傷つけた。もはや弁明の余地はない」
広間のあちこちから、同情とも嘲りともつかない視線が突き刺さる。
セシリアは、ゆっくりと瞬きをした。
言いたいことは、いくらでもあった。
あの書類は誰が整えていたのか。予算の穴を、誰が埋めていたのか。隣国との条約の不備に気づいたのは、誰だったのか。
けれど。
(……もう、いいわ)
胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
三年間、この人の隣に立つために努力してきた。認められなくても、感謝されなくても、それが自分の務めだと思ってきた。
その務めを、彼のほうから必要ないと言ってくれたのだ。
セシリアはドレスの裾をつまみ、完璧な礼の形をとった。
「承知いたしました、殿下」
顔を上げ、穏やかに微笑む。
「では、お言葉に甘えて」
ルーカスが、ぽかんと口を開けた。
泣いて縋るとでも思っていたのだろう。あるいは、取り乱して醜態をさらすとでも。
「お、おい、それだけか?」
「はい。これまでお世話になりました。ミリア様とお幸せに」
それだけ告げて、セシリアは背を向けた。
誰も、引き止めなかった。
王宮の外に出ると、夜の空気がひやりと頬を撫でた。
見上げれば、雲ひとつない空に、白い月が浮かんでいる。
(この国に、私の居場所はもうない)
婚約を破棄された令嬢を、父は決して許さないだろう。侯爵家の恥だと罵られ、どこかの年老いた貴族の後妻にでも出されるのが目に見えている。
それなら。
セシリアは月を見上げたまま、小さく呟いた。
「……行きましょうか」
どこへ、とは自分でもまだ決めていない。
けれど不思議と、胸は軽かった。




