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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第九話 眠っている間に男たちが想うもの

その部屋の中で。

エリオットは上半身裸だった。


「クリス?」

濡れた金髪を布で乱暴に拭きながら、エリオットが不思議そうにこちらを見る。

「何でそんな顔してんの?」

「……別に」

「めちゃくちゃ嫌そうだけど」

「疲れてるだけ」


そう答えながら、クリスはできるだけエリオットを見ないようにした。

学院へ入ってから、男の裸そのものには多少慣れた。

多少だ。

食堂へ行けば騎士科の学生が暑いと言って上着を脱いでいるし、訓練場では肌着一枚になる者もいる。

寮の廊下を裸同然で歩く男までいる。

それでも、同じ部屋で寝るとなると話は違う。

しかも。

「お前、どこ?」

エリオットが部屋に二つ並ぶ二段ベッドを指さした。

クリスは部屋の割り当て札を確認して自分のベッドを見る。

「……そこ」

下段だった。

「俺、その上」

「…………」

クリスは天井を仰いだ。

自分の寝相次第では身体が見られるリスクが高いではないか。

「何だよ」

「何でもない。ってか上、代わってよ」

「俺、寝相悪くないから落ちないぞ?」

「聞いてない」

「いびきも多分かかない」

「だから聞いてない!」

向こうでレオンが笑った。

すでに寝間着へ着替えたらしく、薄いシャツを身につけている。

「諦めろ。今夜だけだ」

「殿下は上ですよね」

「そうだな」

「俺は下なんです」

「何が違うんだ?ここは軍施設だし、勝手に寝台の位置変更ダメだろ」

――ガックリ

クリスは黙って自分の寝台へ荷物を置いた。

幸い、シャワー室ですべて済ませてきた。

身体も洗った。

下着も替えた。

胸布も巻き直した。

行動着の下には寝るための薄手の服を着ている。

今夜、この部屋で着替える必要はない。

それだけが救いだった。


消灯の時間になる頃には、四人ともほとんど口を利かなくなっていた。

三日間の行軍。

盗賊との遭遇。

駐屯地へ到着してからの荷下ろしと確認作業。

疲労は、身体の奥まで染み込んでいた。

部屋の灯りが消える。

石造りの狭い室内を闇が満たした。

窓から月明かりが差し込み、床へ淡い四角を作っている。

遠くから兵士たちの声が聞こえた。

見張りの交代を告げる鐘。

馬の嘶き。

どこかで扉が閉まる音。

学院の寮とは違う。

ここは本当に国境を守る砦なのだと、目を閉じている方がよく分かった。

クリスは毛布の中で仰向けになった。


眠い。

とにかく身体が重い。

今すぐ意識を手放してしまいたい。

けれど、眠る前にもう一度だけ確認する。


胸布。

問題ない。


寝間着の前合わせ。

問題ない。


紐。

緩んでいない。


もし寝返りを打っても、そう簡単に肌が露出する服ではない。

それでも不安だった。

眠っている間の自分を、クリスは管理できない。

寝言を言ったら。

寝ぼけて胸元へ手を入れたら。

暑くて服を脱いだら。

何より。

もし胸布がずれたら。

上にはエリオット。

斜め向かいにはレオン。

ほんの数歩の距離に男が三人いる。

――寝ちゃ駄目。

少なくとも、みんなが寝るまでは。

クリスは気合で目を開けた。

暗い天井を見つめる。

少しして、上の寝台が軋んだ。

エリオットが寝返りを打ったらしい。

向こうからも寝息が聞こえ始める。

もう一人の学生だろう。

レオンは分からない。

全員が眠ったのを確認してから、自分も寝よう。

そう決めた。

そこまでは覚えている。


次に息を吐いたときには、クリスはもう、眠っていた。


夜半。

レオンは喉の渇きで目を覚ました。

身体を起こした瞬間、腰から鈍い痛みが走る。

「……っ」

三日間の行軍は、思っていた以上に身体へ残っていた。

寝台脇に置いた水筒を取り、少し飲む。

部屋は静かだった。

エリオットの寝息。

もう一人の学生の寝息。

そして。

その間に、微かな呼吸音がある。

何となく視線を向けた。

月が、ちょうど雲の切れ間から姿を見せたところだった。

小さな窓から差し込んだ光が、下段の寝台へ落ちている。

クリスだった。

レオンはしばらく、その姿を見ていた。

眠っている。

いつもなら、こちらが一言何か言えば三言は返してくる男が。

静かだった。

横向きになり、身体を少し丸めている。

毛布は胸のあたりまで引き上げられていた。

短いボルドーの髪が枕の上に散り、その一筋が額から目元へかかっている。

レオンは寝台から降りた。

自分でも、なぜそちらへ行ったのか分からなかった。

水筒を戻すなら、反対側だ。

なのに気づけばクリスの寝台の前にいた。


この三日間。

誰よりも小さな身体で、同じ荷を背負って歩いた。

途中で倒れた学生を見てからも、一度も弱音を吐かなかった。

盗賊が荷馬車へ向かってきたときも逃げなかった。

あの細い腕で剣を受けた。

思い返せば、無茶ばかりしている。


「……馬鹿だな」

声にはしなかった。

眠るクリスの顔は、普段よりずっと幼く見えた。

起きているときには、いつも眉か口のどちらかが動いている。

怒る。

笑う。

呆れる。

反論する。

忙しい顔だ。

それが今は、すべて消えている。

長い睫毛が頬へ影を落としていた。

鼻筋は細く、唇は力を抜いてわずかに開いている。

規則正しい呼吸に合わせ、そこから静かに息が漏れていた。

レオンはいつの間にか、随分長く見ていた。


以前、図書室で同じ地図を覗き込んだときにも思った。

近くで見ると、妙に整った顔をしている。

睫毛が長い。

瞳の色も綺麗だった。

何かに夢中になると、その瞳がひどく明るくなる。

身を乗り出してこちらを見上げた顔に、不意に言葉を忘れたこともある。

そして、あのとき感じた匂い。

甘いわけではない。

香水でもない。

けれど、近づいたときだけ微かに分かる、清潔な髪と肌の匂い。

今も、少しだけする。


レオンの視線が、額へ落ちた。

髪が邪魔だった。

ボルドーの髪の一筋が、額から睫毛のすぐ上へ斜めに落ちている。

寝返りを打った拍子についたのだろう。

レオンは手を伸ばした。

起こさないように。

ただ髪を払うだけ。

指先を髪の下へ入れる。

柔らかい。

思っていたより、ずっと。

そのまま一筋をそっと横へ流した。

指先に、髪を通してクリスの体温が伝わる。

温かい。

肌には触れないようにした。

そのつもりだった。

最後の髪を払ったとき。

指の腹が、ほんのわずかに、額をかすめた。

「…………」

柔らかな熱だった。

一瞬だけなのに、

指先だけが、そこへ置き去りにされたような気がした。


クリスは起きない。

ただ少しだけ眉を動かし、また穏やかな寝息へ戻る。

髪が退いたことで、顔がよく見えた。

レオンは手を下ろした。

けれど、離れなかった。

もし。

以前、馬鹿げた想像をしたことがある。


クリスが女だったら。


その想像が、月明かりの下で眠る顔へ自然に重なった。

髪がもう少し長かったら。

今の短い髪ではなく、肩へ落ちるほどあったなら。

学院の行動着ではなく、ドレスを着ていたなら。

あの長い睫毛の下から、自分を見上げたなら。

口の悪さは、そのままだろうか。

「殿下」と呼びながら。

腹が立てば睨んで。

議論になれば一歩も引かず。

勝てば得意そうに笑う。

その顔のまま。

女だったなら。

きっと。

かなり好みだった。

付き合ってもいい、どころではないかもしれない。

二人で机を挟むのではなく、隣へ座って。

あの顔が今より近くにあって。

手を伸ばすことにも理由があって。

もし触れたら。

クリスはどんな顔をするのだろう。

怒るだろうか。

それとも

女だったなら、少しくらいは。


――いや。


そこまで想像が進んだところで、眠っているクリスが小さく息を吐いた。

レオンの意識が現実へ戻った。

目の前にいるのはクリスだ。

男だ。

レオンはしばらく黙ってその寝顔を見つめ、それから静かに自分の寝台へ戻った。

横になる。目を閉じる。

だが、なかなか眠れなかった。

先ほど触れた指先に。

まだクリスの額の温度が残っている気がした。



翌朝。

最初に目を覚ましたのはエリオットだった。


騎士の家で育った習慣は、三日間歩いた程度では抜けない。

まだ起床を告げる鐘も鳴っていない。

部屋は薄暗かった。

エリオットは上半身を起こし、大きく伸びをする。

「……痛てぇ」

さすがに身体は重い。

肩を回すと、昨日の戦闘で酷使した腕が鈍く痛んだ。

それでも眠ればある程度は戻る。


下を見る。

クリスの寝台。

まだ寝ている。

珍しい。

普段のクリスは、朝が極端に弱いわけではない。

「おい」

上から声をかける。

反応なし。

「クリス」

反応なし。

エリオットは寝台から降りた。

「朝だぞ」

それでも起きない。

相当疲れていたのだろう、周りの三人も泥のように眠っているようだ。


昨日。

盗賊へ剣を向けたクリスを思い出す。

あんな細い身体で、よく三日歩いたものだ。


エリオットは寝台の脇へしゃがんだ。

「クリス」

肩へ手を伸ばしかけて止める。

そういえば、こいつは触られるのを嫌がる。

起きているときなら確実に怒る。


「面倒くせえ奴」

小さく笑い、覗き込んだそのときだった。

クリスが寝返りを打った。

こちらへ。

枕の上で髪がさらりと動く。

次の瞬間。

「……っ」

柔らかなものが、エリオットの鼻先をかすめた。

そのまま唇へ触れる。

髪だった。

ボルドーの短い髪。

ほんの一瞬。

けれど反射的に息を吸った。

微かな匂いが入ってくる。

「…………」

ああ、知っている。

この匂い。訓練場で木剣を交えたとき。

倒れかけたクリスを抱き止めた、あのとき。

胸元へ飛び込んできた身体を支えた瞬間に、同じ匂いを吸い込んだ。


――これだ。


その記憶だけが妙にはっきり蘇った。

そして今度は顔が近かった。

近いどころではない。

寝返りを打ったクリスの顔が、真正面にある。

エリオットは動かなかった。いや動けなかった。


睫毛が長い。

前から知っていたはずなのに。

眠っていると、余計に目立つ。

細い鼻筋。

頬。

そして。

少し開いた唇。

「…………」

男だ。

分かっている。

この間。

女だって抱いてきた。

学院と訓練ばかりで欲求不満になっているのかと思って、騎士科の連中と街へ出た。

久しぶりだった。

だから、少なくとも今は、女に飢えているわけではない。

なのに、何で、こいつの顔をこんなに見ている。

クリスが小さく息を吐いた。

髪が揺れる。

また。

鼻先へ触れた。

エリオットは無意識に息を吸った。

やっぱり。

いい匂いがする。

何の匂いなのか分からない。

石鹸なら、自分たちだって同じものを使っている。

それなのに。

クリスからする匂いだけは。

妙に覚えている。

もう一度。

クリスの顔を見る。

寝ていると、いつもの生意気さが嘘のようだった。

黙っていれば。

本当に。

「……綺麗な顔してんな」

声に出した直後。

自分で少しだけ笑った。

何を言っているんだ。

けれど。

目は逸らさなかった。

むしろ。

もう少し近くで見ようとした。

そのとき。

「エリオット」

後ろから声がした。

低い。

エリオットが顔を上げる。


レオンが起きていた。

上段から、こちらを見ている。

「……何です?」

「何してる」

「起こしてるんですよ」

「そうは見えなかったけどな」

エリオットは一瞬黙った。

「寝起き悪いんですよ、こいつ」

「まだ起床時刻前だろ」

「もうすぐでしょう」

レオンはエリオットを見る。

エリオットもレオンを見る。

わずかな沈黙。

何かが、ほんの少しだけ、二人の間で引っかかった。

「……殿下」

「何だ」

「何でそんな顔してるんです?」

「どんな顔だ」

「知りませんけど」

「なら言うな」

「朝から感じ悪いな」

「お前が変なことしてるからだろ」

「変なことって何です?」

「知らん」

「じゃあ言わないでくださいよ」

二人の声が。

少しずつ大きくなる。

そのとき。

「……うるさい」

掠れた声がした。

二人が同時に下を見る。

クリスが薄く目を開けていた。

「…………」

ぼんやりとエリオットを見る。

次にレオンを見る。

まだ頭が働いていないらしい。

数秒、沈黙。


そしてようやく状況を理解した。

「……何で」

クリスの眉が寄る。

「俺の寝台の前にいるんだよ」

エリオットが答えた。

「俺は起こしに来た」

クリスがレオンを見る。

「殿下は?」

「……こいつが怪しかったから、注意しただけだ」

「は?」

「何が怪しいんですか!」

「朝っぱらから人の寝顔を覗き込んでる奴が怪しくないと思うのか?」

「殿下!」

クリスの目が、ゆっくりエリオットへ戻る。

「……寝顔?」

「違う」

「何が」

「起こそうとしただけ」

「顔を覗き込むって?それ必要ある?」

「起きないからだよ!」

「肩叩けばいいだろ!ほかに何かしてないだろうな?!」

「何もしてねえよ!お前触ると怒るじゃん!」

「起こすときはいいんだよ!お前他になんか変なもん見てねえだろうな?!」

「見てねえよ!知らねえよ!」

言い合いながらクリスは知らない。

昨夜、同じように自分の寝顔を見ていた男がもう一人いることを。

そしてレオンも言わない。

言えるわけがない。

額へかかった髪を払ったことも、指先が肌をかすめたことも。

その温度を、今も覚えていることも。



朝食を終える頃には、駐屯地はすっかり動き始めていた。

兵士たちが交代し、馬が引き出され、昨日運び込んだ物資がそれぞれの倉庫へ振り分けられていく。

学生たちにも仕事がある。

帰路へ向けた物資の確認、学院へ持ち帰る軍用文書、修理が必要な装備品、空になった輸送箱。


行きほどではないが、帰りも手ぶらというわけではなかった。

クリスは帳簿を手に、荷馬車の前へ立っていた。

「三番車。補修依頼品が七箱」

「六じゃないか?」

レオンが言う。

「昨日一箱追加されたんです」

「ああ、馬具か」

「そうです」

二人で確認する。

いつもの調子だった。

昨夜のことなど、何もなかったように。

けれど、クリスが帳簿へ目を落とすたび、レオンの視線が、ほんの一瞬だけ額へ行く。

昨夜、自分の指が触れた場所。

それに気づくたび、レオンは帳簿へ視線を戻した。


「殿下?」

「何だ」

「聞いてます?」

「聞いてる」

「じゃあ次」

「軍用文書、封印済み四箱」

「正解」

「何でお前が試験官なんだ」

クリスが笑った。

その笑顔を見て。

レオンも少しだけ笑った。


向こうから。

「クリス!」

エリオットが歩いてくる。

「何?」

「帰りの隊列の編成出たぞ」

「どこ?」

「俺、お前の二人後ろ」

「近いな」

「だろ」

嬉しそうに笑う。

そしてクリスの横へ来た瞬間。

いつものように。

肩へ腕を回した。

「重い!」

「帰りもよろしくな」

「聞けよ!」

クリスが肘で押す。

エリオットは笑いながら離れない。

その拍子にクリスの髪が ふっ と近づいた。

ほんの微かに朝と同じ匂い。

エリオットはまた無意識に息を吸った。

「…………」

「何?」

クリスが見上げる。

「いや」

エリオットは笑った。

「何でもない」

自分でもまだ分からない。

ただこの匂いをもう知っている。

人混みの中でも、たぶん分かる。

そんな気がした。


その二人を。

レオンが少し離れたところから見ていた。

クリスの肩に乗ったエリオットの腕。

近い顔。

何かを話して笑う二人。

胸の奥に。

小さな棘のようなものが引っかかった。

理由は考えなかった。

考えれば、昨夜の続きをまた考えてしまいそうだったから。


「第七班! 集合!」


号令が響いた。

三人が顔を上げる。

帰りも三日。

再びあの街道を歩く。

けれど行きと帰りでは少しだけ違っていた。


クリスは知らない。

たった一晩の間に

二人の男がそれぞれ違う時間に

同じ寝顔へ見入っていたことを。


そして、そのどちらもが

まだ自分の感情に名前をつけられずにいることを。


国境の朝。

長い帰路が始まろうとしていた。



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