第十話 秋の学院祭、舞踏会の夜
学院へ戻って半月。
あれほど長く感じた行軍も、日常へ戻ってしまえば遠い出来事のようになった。
朝になれば鐘が鳴り、学生たちは教室へ向かう。
文官科では相変わらず大量の資料と課題が待ち構え、窓の向こうからは騎士科の木剣がぶつかり合う音が響いてくる。
ただ、季節だけは確実に進んでいた。
夏の名残を含んでいた風は冷たさを増し、学院を囲む岩山の木々にも赤や黄が混じり始めている。
そして学院全体には、普段とは違う浮き立った空気が満ちていた。
秋の学院祭。
年に一度、王立中央学院の門が外へ大きく開かれる二日間である。
学生の家族や卒業生はもちろん、王都の市民も訪れる。普段なら厳格な規律に縛られた学院も、この二日ばかりは別の場所のように華やいだ。
一日目の朝。
文官科一年の教室は、小さな喫茶店へと姿を変えていた。
白い布を掛けた卓には小さな秋の花が飾られ、窓から入る冷たい風に、焼き菓子と温かな茶の香りが混じる。
クリスは白いシャツの袖を肘まで折り、腰に黒い給仕用のエプロンを巻いていた。
「クリス、三番卓」
「ああ、今行く」
盆を片手に人の間を抜けていく。
行軍を終えてから、クリスの身のこなしには以前より迷いがなくなっていた。
もともと細身で整った顔立ちをしている。
そこに野外で過ごした日々がわずかな精悍さを加え、短い髪から覗く白い首筋と、袖をまくった細い腕との組み合わせが、妙に目を引いた。
本人だけが、それに気づいていない。
「お待たせしました」
卓へ茶器を置くために身を屈めると、座っていた少女がわずかに息を呑んだ。
胸の名札を確認し、
「……ありがとうございます、クリス様」と、はにかみながらお礼を言う。
「熱いから気をつけて」
クリスは目線をチラリと向けて、彼女に微笑む。
それだけで、少女の頬が染まった。
少し離れた卓では、キャーと言いながら、別の娘たちがこちらを見ながら何かを囁き合っている。
クリスは怪訝そうにそちらを見たものの、すぐに次の客へ呼ばれて行ってしまった。
「……あれ、絶対分かってないな」
厨房側から眺めていた学生が呟いた。
だが、この日の文官科には、もう一人、さらに厄介な給仕係がいた。
レオンである。
第二王子が自ら茶を運ぶ。
それだけでも外から来た客には十分な見世物なのに、今日のレオンは制服の上着を脱ぎ、クリスと同じ白いシャツに黒いエプロンという姿だった。
余計な装飾がないぶん、かえって生まれ持った容姿が際立つ。
長い指で茶器を持ち、客の前へ静かに置く。身を屈めるたび、さらりと髪が額へ落ちる。
「どうぞ」
低く穏やかな声でそう言われた少女が、しばらく返事すらできずにいる。
レオンが去った途端、その卓から押し殺した歓声が上がった。
「……殿下」
すれ違いざま、クリスが小声で言った。
「何だ」
「今の卓、たぶん誰も茶の味分かってませんよ」
レオンが吹き出した。
「お前に言われたくない」
「何で?」
「分からないならいい」
二人が顔を寄せて話していると、それを見ていた女性客たちがまたざわめく。
クリスはますます意味が分からない。
そこへ、入口からよく通る声が飛んできた。
「おー。繁盛してんな」
エリオットだった。
騎士科の仲間を連れ、休憩時間を利用して覗きに来たらしい。
空いていた奥の従業員用の卓、「通称えこひいき卓」へ腰を下ろすなり、クリスを呼ぶ。
「給仕さん、こっち」
「お前そこ勝手に座るなよ。自分で取りに来い」
「えー?客にそれ言う?」
「友達だろ。フルサービスは致しません~」
「じゃあ友達価格で」
「倍取るぞ」
笑いながら仕方ないなと茶と菓子を運んでやると、エリオットは盆を置くクリスを上から下まで眺めた。
「……似合うな」
「エプロンが?」
「ああ。まあ、それも」
何となく言葉を濁す。
白いシャツ。細い腰に巻かれた黒い布。働くたびに頬へかかる髪。
分かっている。男だ。
なのに、やけに目につく。
行軍中から時折感じていた妙な感覚が、また胸の奥を掠めた。
エリオットは誤魔化すように塩味の豆菓子を口へ放り込んだ。
「午後、騎士科も見に来いよ。模擬戦やるから」
「当番終わったらね」
それだけの返事なのに、エリオットは満足そうに笑った。
*
午後、クリスは約束どおり騎士科の演武を見に行った。
槍術、騎馬演武、剣術。
最後の模擬戦にエリオットが出た。
開始の合図とともに、普段の気安い青年の顔が消える。
踏み込みは鋭く、受ければ即座に返す。大柄な身体に似合わず足運びは軽い。
相手の剣をいなした次の瞬間には、訓練剣の切っ先が喉元で止まっていた。
歓声が上がる。
クリスも思わず笑った。
――やっぱり強い。
行軍では実戦さえ見ている。
それでも安全な場所で改めて眺めると、騎士として鍛えられたエリオットの姿は素直に格好よかった。
こちらを見つけたエリオットへ親指を立てる。
すると、あれほど精悍だった顔が途端に崩れた。
嬉しそうに笑って、手を振ってくる。
その変わりようがおかしくて、クリスもまた笑った。
*
夕刻には、学院祭恒例の男子学生による女装競技会「通称ミスコン」が始まった。
百年以上続く伝統らしいが、誰が何のために始めたのかは誰も知らない。
騎士科の屈強な学生が桃色のドレスを堂々と着こなし、筋肉質な肩を惜しげもなく晒して投げキッスすれば、会場は割れんばかりの笑いに包まれた。
徹底して笑いを取りにいく者もいれば、化粧まで施して正統派の美しさで勝負する者もいる。
学生らしい悪ふざけと妙な本気が入り混じり、大講堂は終始大盛り上がりだった。
途中、誰かが「クリスが出れば優勝できる」と言い出した。
「絶対に出ない。似合わない」
クリスは即答した。
「いや似合うだろ、ぜったい」
エリオットがケラケラ笑う。
「お前、来年推薦してやるよ」
「殴るぞ」
レオンまで面白そうに眺めている。
「俺も一票入れる」
「殿下まで!」
三人で笑った。
そのときクリスは、本当にただの学生だった。
家も、秘密も、将来への不安も忘れて。
その夜だけは、年相応の少年として友人たちと笑っていた。
*
二日目の夕刻。
昼の賑やかさが引き始める頃、学院の空気は再び姿を変えた。
大講堂には無数の灯りがともされ、磨かれた床へ淡い光が落ちる。
楽団が奏でる音楽に、香水と酒、秋の花の香りが混じっていた。
舞踏会である。
学生主体とはいえ、王立中央学院の舞踏会だ。
男子学生たちは学生用の略式正装に身を包み、普段の制服姿とは違った精悍さを見せていた。
中でも、やはりレオンへの注目は群を抜いている。
深い色の礼装は華美ではない。
それでも姿勢や所作、何気なく人へ向ける視線の一つまで洗練されていて、第二王子という肩書きを知らずとも目を引いただろう。
何人もの令嬢が、露骨にならない程度に彼を目で追っていた。
エリオットも負けてはいない。
騎士家らしい簡潔な礼装が、広い肩と厚い胸、鍛えられた身体をかえって際立たせている。
昼間まで剣を握っていた男が正装すると、粗野さよりも逞しさが前へ出る。
若い令嬢たちの視線を集めていることなど、本人は気にも留めていないようだった。
そしてクリスもまた、別の意味で人目を引いていた。
二人に比べれば華奢だ。
けれど濃紺の礼装に包まれた細身の身体と端正な顔立ちは、まだ少年らしさを残した美青年を思わせる。
女性からの視線だけではない。
「あれが文官科のクリスか」
そんな声が、男たちの間からも時折聞こえた。
本人だけが気づいていなかった。
舞踏会が始まれば、三人はそれぞれに誘いを受けた。
レオンは王族らしく危なげなく令嬢を導き、エリオットも意外なほど手慣れた様子で踊る。
クリスも女性から差し出された手を取った。
練習しているとはいえ、男役には慣れていない。
だが、女としては何度も踊らされてきたからこそ、どう導かれれば女性が動きやすいかは分かる。
相手の呼吸を読み、腰へ添える手に力を入れすぎず、ほんのわずか早く次の動きを伝える。
「クリス様、お上手なんですね」
「そうかな」
「とても踊りやすいです」
嬉しそうに笑う少女に、クリスも笑い返した。
曲が終わり、少女を送り出したところへエリオットがやって来た。
「お前、踊りは苦手って言ってたけど普通に踊れるじゃん」
「いや踊れるのと上手いのは別」
「じゃあ女役もできる?」
クリスの胸が一瞬だけ詰まった。
本来なら、そちらの方がずっと慣れている。
「……田舎じゃ女が少なかったから。男が女役をすることは多かったかな」
苦し紛れに作った説明だったが、エリオットは疑いもしなかった。
「じゃあ俺とも踊れるな」
「なんでそうなるの」
「俺が踊りたい。踊ろうぜー」
クリスは呆れて周囲を見回した。男同士でふざけて踊っている学生もいる。
学院祭なのだ。珍しくもない。
「一曲だけだからね」
差し出された手を取った。
――その瞬間までは、クリスもただの遊びのつもりだった。
エリオットの手が腰へ回る。
最初の一歩で、クリスの身体は自然に女役の動きを思い出した。
一歩退き、導かれる。
手を引かれ、回る。
再び戻れば、腰を支える腕がきちんと受け止めてくれる。
思っていた以上に踊りやすい。
「上手いじゃん、エリオット」
クリスが見上げて笑った。
「そうだろ?俺って剣だけの男じゃないんだなー」
エリオットも笑い返した。
けれど、その笑みが少しずつ消えていった。
何かがおかしい。
クリスの動きが、あまりにも自然だった。
自分の手に導かれて一歩下がる足も、回転のあと身体を預ける瞬間も。
ふざけて女役をしている男の動きには見えない。
しなやかで、美しい。
腰へ添えた手の中で身体が翻り、また戻ってくる。そのたび、クリスの顔が近づく。
長い睫毛。
灯りを映す瞳。
笑ったときにわずかに上がる口元。
「……エリオット?」
クリスが不思議そうに見上げた。
近い。
すぐ真下、この距離で名前を呼ばれた瞬間、エリオットの胸が強く鳴った。
――何だよ、これ。
女と踊ったことなどいくらでもある。
なのに、どうして男のクリスを腕の中へ収めているだけで、こんなにも落ち着かない?
次の回転で手を取る。
指先が重なる。
離れる。
また引き寄せる。
ほんの一曲が、妙に短く感じた。
音楽が終わり、クリスが離れたとき、腰にあった温度がなくなった。
それを惜しいと思った自分に、エリオットは戸惑った。
「意外だった。エリオット、ちゃんと踊れるんだ」
何も知らないクリスが笑っている。
「……お前、俺を何だと思ってんだよ」
そう返すのが精一杯だった。
ほどなくして、今度はレオンが現れた。
「次は俺だ」
「殿下まで?でも、まだ女性が順番をお待ちでは?」
「あとでいい。エリオットとは踊ったなら俺とも踊れよ」
「いいんですか?待たせても。」
「いい」
笑いながら、結局クリスは差し出された手を取った。
「一曲だけですよ」
「ああ」
レオンの指が閉じ、その手を取った瞬間、クリスは少しだけ懐かしさを覚えた。
先ほどのエリオットとはまるで違う。
クラリス時代を思い出されないよう踊らなければ、と思った。
レオンの舞踏は、美しかった。
歩幅、姿勢、手を取る角度。すべてが正確で、それでいて窮屈ではない。
王族として幼い頃から叩き込まれてきたのだろう。
そしてそれは、クラリスが令嬢として覚えさせられた舞踏と同じ世界のものだった。
だから気を付けつつも、身体が勝手に応えた。
導かれるままに下がり、回り、再び彼の腕へ戻る。
レオンが息を呑んだ。
先ほどエリオットと踊るクリスを見ていた。
妙に胸がざわついた。
その理由を確かめるような気持ちも、どこかにあった。
だが実際に腕の中へ入れてみると、想像以上だった。
クリスは美しく踊った。
男が冗談で女役をしているような硬さがない。
レオンが手を上げれば、その下をするりと回る。
裾こそドレスではないのに、動きの残像だけを見れば、そこに一人の令嬢がいるようだった。
そして戻ってくる。
細い身体が、自分の腕の中へ。
ふとレオンの頭の中で、礼装がドレスへ変わった。
短い髪が長くなり、肩を流れる。
その姿でクリスが自分を見上げた。
ぞくり、とした。
「……殿下?」
現実のクリスが呼んでいる。
「どうしました?」
レオンは答えなかった。
腰へ置いた手から伝わる細さが、妙に意識に残る。
体温と吐息を感じる距離。
男だ。
分かっている。
なのに灯りの下でこちらを見上げるクリスの顔が、今夜だけはどうしても別のものに見える。
睫毛が伏せられる。
また上がる。
そのたびに瞳が光を拾う。
レオンは目を逸らせなくなった。
「殿下?」
もう一度呼ばれた。
「……何でもない」
声が、自分でも分かるほど低くなった。
曲はまだ続いている。
もう少し。
あと少しだけ、このままでいたい。
そんな考えが浮かんだことに、レオン自身が驚いた。
視線の先で、クリスがふっと笑う。
その笑顔を見た瞬間。
――もし本当に女だったら。
また、あの考えが浮かんだ。
今度は以前よりずっと鮮明に。
もしクリスが女なら、自分はきっと、この手を簡単には離さない。
胸の奥が騒いだ。
その理由を、レオンはまだ恋とは呼べなかった。
視界の端にエリオットがいた。
壁際で杯を持ち、こちらを見ている。
目が合った。
エリオットの表情から、先ほどまでの笑みが消えていた。
レオンも目を逸らさない。
ほんの一瞬。
言葉もないまま、二人の間に妙な緊張が走った。
何を争っているのか、なぜ気に入らないのか。
二人とも、まだ説明できない。
ただ
今、自分の腕の中にいるクリスを、相手に渡したくない。
その感情だけは、妙にはっきりしていた。
やがて曲が終わった。
クリスは何の未練もなく手を離した。
「はい、おしまい」
その軽さに、レオンはわずかな物足りなさを覚えた。
「もう一曲」
「ダメですよ、次の方がお待ちです」
笑いながら離れていく。
その直後、若い令嬢がクリスへ声を掛けた。
次の曲を申し込まれたらしい。
クリスはいつもの気安い笑顔でその手を取り、今度は男役として少女を連れて踊りの輪へ戻っていった。
先ほどまで自分の腕の中で美しく女役を踊っていた男が、今は別の女性の腰へ手を添えている。
レオンは無言でその姿を目で追った。
やがて隣にエリオットが来た。
「……殿下」
「何だ」
「あいつ、女にモテますね」
「ああ」
「何か、腹立ちません?」
レオンは少し黙った。
「……少しな」
エリオットが小さく笑った。
「ですよね」
珍しく意見が一致した。
一方、その頃。
クリスは腕の中の少女から、頬を染めながら尋ねられていた。
「クリス様には……恋人はいらっしゃるんですか?」
「いないよ」
「では、好きな方は?」
「それもいない」
迷いのない即答だった。
少女の表情がぱっと明るくなる。
その向こうで
同じ答えを偶然耳にした二人の青年が、それぞれ違う意味で胸を騒がせたことなど、クリスは知る由もなかった。
楽団は次の曲を奏で始める。
灯りの下で若者たちが笑い、踊り、秋の夜は更けていく。
行軍を経て近づいた三人の距離。
けれどその夜、エリオットとレオンの胸に生まれたものは、もう友情という言葉だけでは収まりきらなくなり始めていた。
当のクリスだけを置き去りにして。




