第八話 地獄の行軍
有事の際には文官も同行するため、平時より文官科と騎士科は共同で訓練が行われるのです。
「……重い」
誰に聞かせるつもりもなかった。
ただ、口から零れた。
前を歩く学生の背嚢が、歩調に合わせて規則正しく上下している。その向こうにも背嚢があり、さらにその先にも同じ背中が続いていた。
朝靄の残る軍用街道を、王立中央学院の学生たちが長い列を作って進んでいる。
騎士科、文官科。一年生、二年生。
約三百名の学生が十数の班に分けられ、国境方面の駐屯地を目指していた。
土を踏む何百もの靴音が重なる。
荷馬車の車輪が軋み、馬具の金具が乾いた音を立てる。時折、列の前後を行き来する騎馬の教官が、間隔を詰めろと声を飛ばしていた。
クリスは背嚢の肩紐へ指を入れ、ほんの少し位置をずらした。
それだけで、肩へ食い込んでいた痛みがわずかに場所を変える。
軽くなったわけではない。
重い。
分かっていた。
この背嚢が重いことくらい、ずっと前から知っていた。
学院へ入って間もない頃から、行軍演習へ向けた訓練は始まっていた。
走り込み。坂道。長距離歩行。荷重訓練。
最初は軽かった背嚢も少しずつ重くなり、夏には本番とほぼ同じ重量を背負って歩かされた。
足首まで覆う丈夫な編み上げ靴も、何か月も履き込んだ。
初めは硬かった革も今では足に馴染み、多少の岩場なら苦もなく歩ける。
服も普段の学院制服ではない。
丈夫な布で作られた行動着。その下には汗を吸う肌着を重ね、腰には短剣と、文官科向けの短めの剣。
背嚢には水筒、雨具、毛布、保存食、食器、着替え、応急用品。
そして自分に割り当てられた軍需品の一部まで入っている。
準備はした。
何度も歩いた。
それなのに。
「……何でこんなに重いんだ」
訓練と本番は違って自分の速度では歩けない。
疲れたからと立ち止まることもできない。
何より、一日歩けば終わった訓練とは違う。
今日歩く。
明日も歩く。
その次の日も歩く。
三日かけて国境駐屯地へ辿り着き、物資を届ける。
そして帰りも三日かけて王都へ戻る。
「クリス」
横から声がした。
顔を上げると、レオンが歩いている。
「背中、丸くなってるぞ」
「分かってます」
レオンが小さく笑った。
その額にも汗が浮かんでいる。
王族だろうと、この行軍では特別扱いされない。
「馬、乗りたいですね」
「乗りたい」
即答だった。
少し先を、二年生の学生が荷馬車に沿って馬で進んでいる。
二年生は輸送隊の管理が主な役割だ。全員分の馬があるわけではないから交代制だが、それでも今のクリスには天上の乗り物に見えた。
「来年は絶対あっちですよね?」
「乗るのは交代だから、歩兵はあるぞ」
「少しでも乗れるならいいです」
「その前に今年を歩き切らないとな」
「そうですね」
前方から号令が飛んだ。
「第七班! 間隔を詰めろ!」
三十人ほどで構成された第七班。
騎士科と文官科の混成班だ。
どういう巡り合わせなのか。
クリス、レオン、そしてエリオットは三人とも同じ班だった。
「ほら、遅れてるぞ」
少し前を歩いていたエリオットが振り返る。
「クリス、歩幅小さいからな」
「脚の長さが違うんだよ」
「ちっさいもんな」
「お前な――」
言い返しかけて、やめた。
今は口喧嘩に使う体力すら惜しい。
エリオットが笑った。
「お。賢くなった」
「……後で覚えてろ」
「まだ元気じゃん」
腹が立つ。
もっと腹が立つのは、エリオットが本当に平気そうなことだった。
もちろん汗はかいている。
騎士科だから、装備はクリスより重い。それでも歩調がほとんど崩れない。
肩も大きく揺れず、呼吸も一定だ。
「何でそんな平気なんだよ」
「慣れてるから」
「これに?」
「似たようなの、実家でやってた」
「いつから」
「十歳くらい?」
クリスは思わず顔を上げた。
「十歳?」
「親父が騎士だから」
「それで説明になるのか?」
「うちではなる」
エリオットは笑った。
「十五くらいから領内の討伐にも連れていかれたし」
「討伐?」
「山賊とか、獣とか」
「……戦ったのか?」
「少しな」
あまりにも軽く言う。
いつもは女の話をして、人の肩に勝手に腕を回して、焼き菓子をもらえばクリスへ押しつけてくる。
いつも笑っている男。
だがその身体には、自分の知らない時間が積み重なっているらしい。
「前」
レオンの声で我に返った。
「え?」
「前見ろ。また何か飛んでくるぞ」
「何が?」
「木剣」
「いつまで言うんですか!」
前でエリオットが吹き出した。
まだ、この頃は。
三人ともよく喋っていた。
*
昼を過ぎた頃には、会話が減った。
さらに二時間ほど歩くと、ほとんど誰も口を開かなくなった。
クリスは前を歩く学生の背嚢だけを見ていた。
そしてクリスには、ほかの学生にはない問題があった。
絶対に倒れられない。
疲れ切った身体を診る救護担当に、悪意などないが、だからこそ怖い。
意識を失えば、身に着ける行動着を緩められるかもしれない。
胸元へ手を入れられるかもしれない。
呼吸を確認するため、身体へ触れられ、必要なら服を脱がされる。
そうなれば、終わる。
だから、どれほど苦しくても、自分だけは意識を失うわけにはいかなかった。
幸いだったのは、月のものが行軍直前に終わっていたことだ。
それだけは、本当に運が良かった。
もう一つ。
行軍用の服装は普段より厚い。
体形が外から分かりにくいため、胸を押さえる布も普段ほど強く巻く必要がなかった。
呼吸ができる。それは大きかったが、別の問題がある。
――便所。
朝、出発前に済ませた。それ以降は行っていない。
大量に汗をかくため、尿意そのものは驚くほど少なかったが
とはいえ。
男たちのように街道脇へ少し外れて済ませることはできない。
昼の休憩で何人かが草むらへ消えていくのを横目に、
少なくとも、今夜の駐屯地までは我慢するしかない。
そんなことを考えていたときだった。
少し前を歩いていた学生の身体が揺れた。
右へ。
戻る。
今度は左へ。
それでも歩いている。
教官が気づいた。
「おい」
「はい!」
返事だけは妙にはっきりしている。
教官が学生の横へ並んだ。
「大丈夫か」
「はい!」
その顔を見た瞬間。
教官の表情が変わった。
「俺を見ろ」
学生が顔を上げる。目は開いている。だが、視線が合っていない。
「名前を言えるか?」
「歩けます!」
質問と答えが噛み合っていない。
「名前は?」
「大丈夫です!」
異変を感じた教官は学生の前へ回った。
後続の隊列は、その横を通り過ぎていく。
行軍そのものは止まらない。
教官が三本の指を立てた。
「何本だ?」
学生は一生懸命見ようとした。
「…………二本です」
今度は一本。
「これは?」
「……三本」
「よし。分かった」
教官の声が急に柔らかくなった。
「よく頑張ったな。休もう。」
「でも……歩けます」
「分かってる心配するな。荷物を下ろすぞ」
背嚢を外された途端、学生の膝が崩れた。
「救護!」
上級生が駆けてくる。
支えられた学生は、それでも前へ行こうとしていた。
「先生……行かないと」
「大丈夫だ」
「でも……」
「ここが休憩所だ。お前はちゃんと着いた」
学生の顔から、ようやく少し力が抜けた。
「……着いた?」
「ああ」
「……よかった」
「よく頑張った。休め」
隊列は進む。
クリスは一度だけ振り返った。
救護班に支えられた学生が遠ざかっていく。
怖かった。
倒れたことが、だけではない。
倒れるまで、自分では分からなかったことが怖かった。
*
その夜。
一日目の駐屯地へ着いた頃には、空が赤く染まっていた。
「到着!」
あちこちから安堵の息が漏れる。
クリスもその場へ座り込みたかった。
「一年生! 座るな!」
教官の声が飛んだ。
「物資確認! 宿営準備!」
絶望した。
「嘘だろ……」
どこかから誰かの呻きが聞こえた。
それでも身体を動かす。
荷を確認する。
食事を取る。
便所へ行く。
――ようやく。
扉を閉めた瞬間、クリスは壁へ額をつけた。
「……助かった」
人生でこれほど便所に感謝したことはない。
*
二日目。
そして三日目。
地獄は続いた。
朝起きると、一日目より身体が痛い。
その身体へ昨日と同じ背嚢を背負わせる。
歩く。
休む。
また歩く。
国境へ近づくにつれ、街道は険しくなった。
山が深くなる。
三日目の午後、号令が飛んだ。
「ここから警戒区域へ入る!」
疲れ切っていた隊列の空気が変わった。
「騎士科、防具確認!」
厚手の防護服。
前腕の防具。
軽量の兜。
剣。
エリオットも背嚢へ括りつけていた兜を外し、顎紐を締めた。
腰の剣をわずかに引き、すぐ抜けることを確かめる。
いつもの軽い表情が薄れる。
*
襲撃は、その一時間後だった。
馬の鋭い嘶き。
怒号。
隊列が止まる。
「第七班! 荷馬車を中央へ!」
「文官科、物資を守れ!」
森から現れた男たちは、顔を布で覆っていた。
剣。
斧。
弓。
盗賊。
騎士科の学生たちが一斉に剣を抜く。
エリオットの顔から、完全に笑みが消えた。
「騎士科、前へ!」
走り出す。
「エリオット!」
思わずクリスが呼んだ。
一瞬だけ振り返った。
「大丈夫」
いつもの軽い声ではなかった。
「自分の仕事しろ」
そして前へ向かう。
クリスも剣を抜いた。
隣ではレオンが構えている。
「殿下」
「ああ」
背後には医薬品を積んだ荷馬車。
食料。
補修資材。
三日間かけて、ここまで運んできたもの。
前方から金属音が響いた。
エリオットの剣が盗賊の刃を受ける。
速い。
訓練場で自分を相手にしていたときとは、まるで違う。
そのとき。
「クリス!」
レオンの声。
荷馬車の反対側。
森から一人の男が飛び出した。
前線を抜けた盗賊だった。
狙いはクリスではない。
その後ろ。
医薬品。
男が剣を振り上げる。
逃げればいい。
自分を狙っているわけではない。
だが。
三日間。
自分たちは何のために、これを運んできた。
ヴィクトルの声が蘇った。
――文官が剣を抜く時は、勝つためじゃない。
――生き残るためだ。
――そして。
――自分が預かったものを守るためだ。
クリスは剣を構えた。
盗賊が踏み込む。
刃が来る。
受ける。
衝撃が腕を抜けた。
「っ……!」
重い。
訓練用の木剣とは違う。
一撃で分かった。
勝てない。
力が違う。
なら勝たなくていい。
二撃目。
かわす。
下がる。
盗賊が苛立ったように踏み込む。
クリスも下がる。
荷馬車からは離れない。
時間を稼げ。
それだけでいい。
三撃目。
剣で受け流す。
腕が痺れた。
その瞬間。
横から別の剣が入った。
レオンだった。
「一人でやるな!」
「殿下!」
二人になる。
盗賊が舌打ちする。
そして。
さらに向こうから。
「クリス!」
エリオットの声。
盗賊の顔がそちらへ向いた。
ほんの一瞬だった。
エリオットが走り込む。
剣が閃いた。
男の武器が弾かれ、地面へ落ちた。
次の瞬間には、その身体が地面へ押さえ込まれている。
「怪我は?」
エリオットが振り返った。
息が上がっている。
額から汗が流れている。
クリスは答えようとして。
ようやく自分の手が震えていることに気づいた。
「……ない」
「本当に?」
エリオットの目が、クリスの全身を確かめるように動く。
そして。
ようやく息を吐いた。
「ならいい」
その言葉が。
妙に優しかった。
*
国境駐屯地へ到着したのは、夕暮れ近くだった。
山間に築かれた石造りの砦。
高い防壁。
見張り塔。
風には、どこか煙と鉄の匂いが混じっていた。
門をくぐった瞬間。
三日間張り詰めていたものが、ようやく少し緩んだ。
物資を引き渡す。
数量を確認する。
破損を調べる。
盗賊との接触について報告する。
すべてが終わった頃には、クリスは立っているだけで精一杯だった。
そこへ
「風呂だ!」
誰かが叫んだ。
死んでいた学生たちが一斉に顔を上げた。
国境駐屯地には名物がある。
岩山から湧く温泉を利用した、大きな露天風呂。
厳しい気候と勤務に耐える兵士たちにとって、身体を温め、疲労を取ることは贅沢ではなく必要なことだった。
そのため、この砦は武骨な造りに似合わず、浴場設備だけは妙に充実している。
三日間歩いた身体を。
温泉へ沈められる。
学生たちは、出発前からそれだけを楽しみにしていた。
「クリス」
案の定、エリオットが来た。
「風呂行こうぜ」
「行かない」
「は?」
「シャワーでいい」
エリオットが本気で理解できないという顔をした。
「お前、馬鹿なの?」
「何でだよ」
「三日歩いたんだぞ」
「俺も歩いたから知ってる」
「あそこの露天、すげえらしいぞ」
「知ってる」
「じゃあ行こうぜ」
「嫌だ」
「何で!」
――女だからだよ。
言えるものなら言っている。
「疲れた。さっさと洗って寝たい」
「湯に浸かった方が疲れ取れるって」
「いいんだよ」
「もったいねえ……」
心の底から残念そうだ。
横にいたレオンが言った。
「放っといてやれ」
「殿下」
「こいつ、風呂に妙なこだわりあるから」
クリスがぎくりとした。
「何ですか、それ」
エリオットがクリスを見る。
「こだわり?」
「……混んでるのが嫌なんだよ」
「変な奴」
「うるさい」
エリオットはまだ何か言いたそうだったが、向こうにいる騎士科の仲間に呼ばれた。
「エリオット! 早く来い!」
「分かった!」
そしてクリスを見る。
「気が変わったら来いよ」
「変わらない」
「絶対気持ちいいのに」
「早く行け!」
笑いながら去っていく。
レオンも少し遅れて露天風呂へ向かった。
クリスは二人の背中が見えなくなるまで待った。
それから、反対方向へ歩いた。
駐屯地には、大浴場とは別に小さなシャワー室が並んでいた。
夜警から戻った兵士。
勤務の合間に短時間で身体を洗いたい者。
怪我などで大浴場を使えない者。
そうした兵士のための設備だ。
豪華なものではない。
石造りの小さな区画。
だが、一つ一つに簡素な扉があり、中から鍵を掛けられる。
しかも今夜。
学院生のほとんどは露天風呂へ行っている。
静かだった。
クリスは一番奥へ入った。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
かちり。
小さな音。その瞬間。動けなくなった。
三日間。
男たちの中を歩いた。
男たちと食べ。
男たちと眠った。
倒れないように。
触れられないように。
服を脱がされないように。
便所へ行くことすら考え続けていた。
「…………疲れた」
小さな声が落ちた。
三日間で初めて。誰にも聞かれず、弱音を吐いた。
誰にも見られない小さな空間で。
クラリスは、ようやく一人になった。
*
身体を洗い、清潔な下着へ替え、胸布を巻き直し、完全にクリスへ戻ってから宿舎へ向かう。
部屋番号を確認する。
扉を開けた。狭い。壁際に二段寝台が二つ。
小さな机が一つ。
四人分の背嚢を置けば、床の大半が埋まる。
そしてすでに二人いた。
「お」
上半身裸のエリオットが振り返った。
髪が濡れている。
「クリス」
「…………」
その向こう。
レオンもいた。
同じく風呂上がりだった。
「遅かったな」
クリスは部屋番号をもう一度見た。
間違っていない。
「……嘘だろ」
「何が?」
エリオットが聞く。
クリスは壁の名札を見る。
レオン・アルヴェイン。
エリオット・グレイヴ。
そして。
クリス・アーヴェル。
もう一人は同じ第七班の騎士科学生。
四人部屋。
クリスは静かに目を閉じた。
三日間歩いた。
盗賊にも襲われた。
正体も守った。
ようやく国境駐屯地まで辿り着いた。
なのに、どうやら、
試練はまだ終わっていなかったらしい。




