第七話 友人というもの
学院へ入って二か月。
王立中央学院の図書室。
高い窓から差し込む午前の光が、長机の上に淡い四角を作っている。壁一面を埋める書棚からは古い紙と革表紙の匂いが漂い、ときおり頁をめくる音や、ペン先が紙を擦る音だけが静かな室内に響いた。
最近、このやり取りが増えた。
「クリス」
「嫌です」
「だから、まだ何も言ってないだろ」
クリスは本から顔を上げなかった。
「殿下がその声で話しかけてくる時は、だいたい面倒なことを頼む時です」
「偏見だ」
ようやくクリスが顔を上げる。
「昨日は?」
「ノートを貸してくれと言った」
「一昨日」
「課題を見せてくれ」
「その前」
「……食堂の席を取っておけ」
「覚えてるじゃないですか」
うんざりした様子でクリスは言うも、レオンは悪びれる様子もなく向かいへ腰を下ろした。
「で、今日は何です?」
「これ」
一枚の紙が机を滑ってくる。
文官科の課題だった。
『河川氾濫時における三村の住民避難計画』
「これが?」
「お前の案を見たい」
「嫌です。まだ自分で考えてないでしょう?」
「考えた」
「じゃあ見せてください」
「嫌だ」
「何で!」
「お前が先に見せろ」
「殿下が見たいって言ったんでしょう!」
「声」
離れた場所から司書の鋭い声が飛んできた。
二人は同時に口を閉じた。
しばらくしてレオンが少し身を乗り出す。
「……じゃあ、同時に出すか」
クリスも声を落とした。
「最初からそう言えばいいんですよ」
「三つ数えるぞ」
「どうぞ」
「一、二、三」
二枚の答案が同時に机へ置かれた。
互いに相手の紙を取る。
読む。
「…………」
「…………」
先に眉を寄せたのはクリスだった。
「殿下」
「何だ」
「避難先、ここですか?」
「ああ」
「川に近すぎます」
「高台だぞ」
クリスは机の中央に地図を広げた。
「でも増水時にこの道が使えなくなる可能性があります。ここを見てください」
指先で川沿いの道を辿る。
レオンも身体を寄せた。
「お前の避難先は遠すぎる」
「安全です」
「老人や子供が歩けない」
「荷車を使えば――」
「全員を運べるだけの荷車が三村にあるのか?」
「…………」
クリスの指が止まった。
まただ。
自分が数字や効率を優先すると、レオンはそこにいる人間を見る。
以前なら、それがただ腹立たしかった。
今も腹は立つ。
だが。
少しだけ。
面白くもなっていた。
「……じゃあ」
クリスがさらに地図を引き寄せる。
「中間にある、この修道院は?」
レオンが隣へ移った。
「収容人数が足りない」
「全員を入れなければいいんです」
「どういうことだ?」
「歩ける人は俺の案の避難所へ行く。老人や小さな子供は――」
「こっちの修道院か」
「そう」
二人の頭が近づいた。
肩が触れる。
だがクリスは気にしない。
議論に夢中になると、昔から周囲が見えなくなる。
「それなら医者も――」
言いながら顔を上げた。
「殿下?」
レオンの言葉が止まった。
近い。
思っていた以上に。
クリスが下から自分を見上げている。
澄んだ瞳。長い睫毛。
何かを考えているときの、僅かに寄った眉。
そして。
近づいた拍子に、ふっと柔らかな匂いがした。
石鹸だろうか?髪からなのかもしれない。
胸の奥が。
きゅ、と妙な縮み方をした。
「……殿下?」
「…………」
「聞いてます?」
「聞いてる」
「じゃあ、変なもん食べ――」
「クリス」
「何です?」
「お前、本当に睫毛長いな」
「は?」
クリスの顔が一気に険しくなった。
「……ケンカ売ってます?」
「何が」
「女顔の話!」
「いや、そういう意味じゃ――」
「じゃあどういう意味です?」
「…………」
自分でも分からなかった。
レオンは視線を地図へ戻した。
「何でもない」
「何なんですか!」
クリスも不満そうに地図へ戻る。
二人は再び議論を始めた。
ただ。
レオンだけが。
さっきよりほんの少し、クリスとの間に距離を取っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「お前ら付き合ってんの?」
昼食時。
エリオットがあまりにも自然に言ったので、クリスは盛大にむせた。
「げほっ……!」
「汚いなー」
「誰のせいだ!」
「何が?」
「今なんて言った!」
「付き合ってんの?」
エリオットは肉を切りながら、何でもないことのようにもう一度言った。
レオンがパンを置く。
「誰と誰が」
「殿下とクリス」
「何でそうなる」
「最近ずっと一緒じゃないですか」
「同じ文官科だから当然だろ」
「他にも文官科はいるでしょう」
「課題をやってる」
「毎日?」
「毎日ではない」
「そうでもないですよ?昨日も一昨日も一緒でしたよね」
エリオットの指摘に、レオンの目が細くなった。
「お前、何で知ってる」
「見てるから」
今度はクリスが止まった。
「……何で見てるんだよ」
「お前がいるから」
あっさり。
何の照れもない。
クリスは少し困った。
最近分かってきた。
エリオットには、あまり深い意味がない。
思ったことをそのまま口にする。
クリスがいるから来た。クリスと飯を食いたい。クリスを見つけた。
大型犬みたいな男だ。
「暇なんだな、お前」
「なんだよ。騎士科は忙しいぞ!」
「じゃあ訓練しろよ」
「いや、飯くらい食わせろ」
レオンが横から言った。
「別の席で食えばいいだろ」
「殿下」
「何だ」
「俺、邪魔です?」
「別に」
「じゃあここでいいですよね」
「好きにしろ」
「そうします」
エリオットは満足そうに肉を口へ放り込んだ。
クリスは二人を交互に見る。
最近、妙なのだ。
二人とも仲が悪いわけではない。
訓練の話もする。
政治の話をしているところも見たことがある。
なのに自分が間に入ると、なぜか少しだけ空気が悪くなる。
「……二人とも」
「何だ?」
「何?」
「俺がいないところでは普通に仲いいよな?」
二人が黙った。
エリオットがパンを齧る。
レオンが水を飲む。
「何で俺がいると喧嘩するの?」
「知らん」
「俺も」
「絶対なんかあるだろ」
「ない」
「ないない」
クリスはしばらく疑わしそうに二人を見ていたが結局分からず、食事へ戻った。
食堂を出たあと。
レオンは一人、本館へ続く回廊を歩いていた。
昼の光が石柱の間から差し込み、床へ長い影を落としている。
頭の中に。
先ほどのエリオットの言葉が残っていた。
――お前ら付き合ってんの?
男同士だ。
そんなもの、冗談に決まっている。
そもそもクリスとは課題を一緒にやっているだけだ。
考え方が違うから議論になる。
腹が立つことも多い。
だが自分では気づかなかったところを、あいつは平然と突いてくる。
話していて退屈しない。
むしろ最近では教官から課題を出されると。
――クリスなら、どう考えるだろう。
そんなことを思うようになっていた。
もし、あいつが女だったら。
レオンの歩みが、いつの間にかゆっくりになった。
女だったら、どんな姿になるのだろう。
短いボルドーの髪が伸びる。
肩を越えて、背中まで流れる。
学院の制服ではなく、夜会で令嬢たちが纏うようなドレス。
クリスは細い。
腰も。首も。女物の服を着せれば、きっとよく似合う。
そういえば、目が綺麗だ。
近くで見ると、思っていたよりずっと澄んでいる。
答案を覗き込むとき。
議論に夢中になると、クリスは距離を忘れる。
今日もそうだった。
――殿下、ここです。
そう言って、すぐ隣から見上げてきた。
長い睫毛。
何かを思いついた瞬間、ぱっと輝く瞳。
女の姿で。
同じように自分を見上げたら。
かなり綺麗だろう。
いや。
かなり、どころではないかもしれない。
唇も。
レオンの脳裏に、先ほどの顔が浮かんだ。
クリスの唇は、妙に形がいい。
怒るときゅっと結ばれて。
笑えば柔らかく形が変わる。
女になっても、きっと口は悪い。
想像の中のクリスが長い髪を肩へ流したまま、自分の答案を覗き込んで笑った。
――殿下。ここ、間違ってますよ。
絶対に言う。
女になっても、きっと言う。
レオンの口元が、知らず緩んだ。
それなら、付き合っても案外楽しいかもしれない。
夜会で隣に立っていても退屈しない。
誰もいないところでは、今と同じように喧嘩をして。
そして。
また近くへ寄ってきて。
あの目で見上げる。
ふと。
記憶の中に匂いまで蘇った。
今日、肩が触れたとき。
クリスからした、ほのかな匂い。
あの柔らかな匂いを纏った女のクリスが、もっと近くへ来たら。
自分は――。
そこでようやく、レオンの足が止まった。
「…………」
回廊の真ん中だった。
いつの間にこんなところまで想像していたのだ。
しかも、やけに具体的に。
髪、
瞳、
睫毛、
唇、
匂いまで。
「…………」
レオンは片手で顔を覆った。
あいつは男だ。
クリスだ。
毎日のように自分へ食ってかかってくる、口の悪い男。
なのに。
女だったら付き合ってもいいどころか、
今の想像では、かなり好みだった。
王族として自分は必要な教育は受けている。
男女のことを何も知らないわけではない。
一度だけだが、経験もあった。
成人を前に、最低限の嗜みとして王家が用意した相手だった。
美しい女性だったと思う。
けれど。
あのときは緊張していた。
何をどうすればいいのか頭で考えているうちに、慣れた相手に導かれ。
ほとんど一方的に奉仕されるまま。
気づけば終わっていた。
正直何が何だか分からなかったが、だからといって女に興味がないわけではない。
夜会で胸元の開いたドレスを見れば、目が行くことだってある。
美しい令嬢を見れば、美しいと思う。
自分だって普通の男だ。
それなのに。
一人の女を、
髪から。
瞳から。
唇から。
匂いまで。
こんなふうに頭の中で作り上げたことなどなかった。
しかも元になったのは、男だ。
「…………」
レオンは深く息を吐いた。
辺りを見る。幸い、誰もこちらを見ていない。
「……美少年って怖いな」
ぽつりと呟いた。
それで終わったことにして、再び歩き出した。
だが、その日の午後。
「殿下、ここなんですけど」
向かいの席からクリスが身を乗り出した瞬間、レオンの視線は一度、その唇へ落ちた。
「……何です?」
「いや」
慌てて答案へ目を戻す。
「何でもない」
そして今度は、あの匂いまで意識してしまった。
――エリオット。
余計なことを言いやがって!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
学院にはクリスがこれまで知らなかった世界がいくつもあった。
その一つが。
平民出身の学生たちだった。
入学前、
クラリスが付き合ってきた人間のほとんどは貴族だった。
けれど学院では違う。
「これ」
ある日の授業中。
隣から紙が差し出された。
「何?」
「さっきの計算、間違ってる」
クリスが見る。
確かに一桁ずれている。
「……本当だ」
「ここ」
「ありがとう」
「お前でも間違えるんだな」
「間違えるよ」
「いつも教官に褒められてるから、何でもできるのかと思ってた」
トーマス。
商人の息子で、平民出身。計算が異様に速い。
「トーマス」
「何?」
「この計算、どうやった?」
「暗算」
「嘘だ」
「本当」
「もう一回やって」
「嫌だよ」
「お願い」
クリスの目が輝いた。
机へ手をつき、ぐっと身を乗り出す。
「やって!」
「近い近い!」
トーマスが思わず身体を引いた。
クリスは気づかない。
ただ計算方法を知りたいだけだ。
その様子を。
少し離れた席からレオンが見ていた。
さっきまで読んでいた本の頁が、しばらく進んでいない。
さらに、廊下の向こうから騎士科のエリオットも見ていた。
二人とも。
なんとなく面白くなかった。
理由は、
まだ分からなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
別の日。
騎士科の訓練場。
乾いた音が、青空の下に響いていた。
木剣と木剣がぶつかる音。
教官の怒鳴り声。土を蹴る靴音。
夏へ近づく陽射しの中で、騎士科の学生たちは汗だくになって剣を振っている。
「クリス!」
放課後、訓練場の近くを通るクリスを見つけたエリオットは手招きした。
「何?」
「来いよ!」
「嫌だ」
「いいから」
「俺、資料返却に行くとこなんだけど?」
ため息をつきながらエリオットのそばにいくクリス。
「まあそう言うなって」
ポンと渡された木剣を、クリスは反射的に受け取った。
「……何これ! 俺、ひ弱な文官科だぞ!お前とやったら死ぬだろが!」
「構えて」
「何で?」
エリオットは自分の木剣を肩へ担いだ。
「前から気になってた。お前、身体の使い方が変じゃない?」
クリスの心臓が跳ねた。
だが顔には出さない。
「叔父に習った。そら本格的な騎士様と比べたら変だろうよ」
嘘ではない。
「へえ」
エリオットの目が変わった。
「じゃあやろうぜ」
「何で」
「勝てるわけないだろ!」
「手加減する」
「それ腹立つ!」
「じゃあ手加減しない」
「もっと嫌だ!」
周囲から笑いが起こった。
「やれよ、クリス!」
「エリオット倒せ!」
「無茶言うな!」
いつの間にか逃げられない空気になっている。
クリスは渋々、木剣を構えた。
「……絶対手加減しろよ」
「どっちだよ」
「怪我させるなって意味!」
「分かった分かった」
エリオットが木剣を構える。
その瞬間。
空気が変わった。
クリスは息を呑んだ。
さっきまで笑っていた男が消えたように見えた。
立ち方。
目。
呼吸。
何もかもが違う。隙がない。
――強い。
ヴィクトルとは違う。
叔父が教えたのは、生き延びるための剣だ。
エリオットが学んできたのは、戦うための剣。
「いつでも来い!」
エリオットの声を合図に、クリスは踏み込んで、振る。
簡単に止められる。
「遅いぞー。重心が後ろへ逃げてるぞ」
「うるさい!」
もう一度、止められる。
横からの一撃も、避けられる。
「くっ!」
「腕だけ振るなよ。今度は重心が高いって」
「分かってる!」
エリオットが笑った。
「ほら」
一歩、懐へ入られた。
「――っ!」
木剣が手から弾き飛ばされる。
次の瞬間、足を払われた。
「うわっ!」
身体が大きく傾いた。
地面へ叩きつけられる!
そう思った瞬間。
クリスの腰へ強い腕が回った。
「…………」
エリオットの腕が、クリスの背中支えている。
咄嗟に掴んだクリスの手は、エリオットの胸元にあった。
近い。
以前、訓練場で庇われたときよりも。
ずっと。
「……お前」
エリオットの声が、すぐ上から落ちてくる。
クリスが顔を上げたその拍子に、短いボルドーの髪がエリオットの顎先をかすめた。
ふわりと、何かが香った。
エリオットは無意識に息を吸った。
汗をかいているはずなのに、不思議と嫌な匂いがしない。
石鹸だろうか、それとも髪なのか。
ほのかに甘く、清潔な匂い。
――何だ、これ。
もう一度。
確かめるように息を吸いかけたところで。
エリオットは、自分たちの姿勢に気づいた。
近すぎる。
腕の中に、クリスの身体がすっぽり収まっている。
細い腰。
軽い身体。
すぐ近くにある顔。
頬には訓練で乱れたボルドーの髪が張りつき。
少し上がった呼吸に合わせて、唇が僅かに開いている。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が。
どくん、と鳴った。
――やっぱり、おかしい。
この前もそうだった。
クリスが笑っただけで、妙に目を奪われた。
焼き菓子だって、こいつが美味そうに食べてたから口にしただけなのに、いつもより妙に美味く感じた。
そして今は。
男を抱き止めただけで。
こんなに意識している。
――やっぱり欲求不満なのか、俺。
この前、街へ出ようと思っていた。
だが結局、急な訓練が入って行けなかった。
今度こそ行くか。
騎士科の連中を誘えば、喜んでついてくる奴はいくらでもいる。
酒を飲んで。
女と遊んで。
そうすれば、こんな馬鹿げた感覚も消えるだろう。
そう思ったのに。
腕を離す前、エリオットはもう一度だけ、クリスの髪から漂う匂いを吸い込んでいた。
自分でも気づかないほど自然に。
「……離せよ」
「あ」
エリオットは腕をほどいた。
クリスが立ち上がり、一歩離れる。
途端にさっきまで鼻先にあった匂いも遠ざかった。
「お前、強すぎ!」
「……お前こそ弱すぎ。女みてぇな……身体の使い方してんじゃねえよ」
周囲から笑い声が上がり、エリオットもいつものように笑った。
けれどクリスが落とした木剣を拾いながら
さっきの匂いが、まだ鼻の奥に残っているような気がした。
――いい匂いだったな。
そこまで考えて。
「……いやいやいや」
誰にも聞こえない声で呟く。
男だぞ。
今度こそ、街へ行こう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
その夜。
クリスはヴィクトルへ手紙を書いた。
窓の外では、夜風が木々を揺らしている。
机の上のランプが、便箋を柔らかく照らしていた。
『 叔父様へ。
学院生活にはだいぶ慣れました。
文官科の授業は、想像していた以上に面白いです。
平民出身の学生にも、優秀な人がたくさんいます。』
少し考える。
レオンのことは書くべきだろうか?仮にも元婚約者。バレるリスクは高い人物。
いや、叔父様に隠しても良くない。彼はクラリスをほぼ覚えていないのだ。
『 第二王子殿下とも、よく議論をします。』
さらに。
ペンが止まった。
エリオットについては何と書こう。
少し迷ってから。
『 騎士科にも友人ができました。
今日、その学生と木剣で勝負して完敗しました。
少し悔しい。帰ったら、もう少し剣を教えてください。』
他にも学院で学んだ諸々書いて、封を閉じた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
数日後。
ヴィクトルの屋敷。
窓辺の椅子で手紙を読んでいたヴィクトルの目が止まった。
『第二王子殿下。』
『騎士科の学生と木剣で勝負して完敗しました。』
「…………」
もう一度読む。嫌な予感しかしない。
「クラリス……何をやってるんだ、あいつは」
そこへマーサが入ってきた。
「お嬢様からですか?」
「ああ」
「お元気です?」
「元気すぎる」
「まあ」
マーサは安心したように笑った。
「それなら良かったではありませんか」
ヴィクトルは手紙から顔を上げた。
「マーサ」
「はい?」
「男ってのは何歳くらいが一番馬鹿だと思う?」
「…………」
マーサの笑顔が消えた。
「旦那様」
「なんだ」
「今さら何を心配なさっているのです?その道に引き込んだのをお忘れですか?」
「……そうだな」
二人は黙った。
遠い王都。男子寮。
十八歳前後の男たち。そこに一人だけ「女」が紛れている。
クラリスの手紙からは、どうにも大人しくしている様子は感じられない。
ヴィクトルが額を押さえる。
「行軍までには、もう少し護身を――」
「行軍?」
マーサが止まった。
ヴィクトルも止まった。
「…………」
「旦那様」
「なんだ」
「行軍とは?」
「……王立中央学院の恒例行事だ」
「どのような?」
「大したものじゃない」
マーサの目が細くなった。
「旦那様」
「……実際の軍の駐屯地を巡る」
「はい」
「物資を運びながら」
「はい」
「一年は歩兵扱いで」
「はい」
「数日間、行軍する」
「…………」
「俺も学院時代にやったやつだ」
「それで?」
「何が」
「…………」
マーサの目が怖い。
ヴィクトルは視線を逸らした。
「盗賊が出ることもある」
「――旦那様!!」
古い屋敷の窓硝子が震えそうな声だった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夏の終わり。
王立中央学院の大講堂に、全学生が集められた。
約三百名。文官科。騎士科。
一年生から上級生までが階段状の座席を埋めている。
高い天井には王国旗と学院旗。
開け放たれた窓から入る風が、壁際の旗をゆっくり揺らしていた。
壇上へ学院長が立つ。
ざわめきが止まる。
「今年も、この時期が来た」
上級生の間から、小さな笑いが起こった。
一年生の文官科には、すでに嫌そうな顔をしている者もいる。
騎士科の一部だけが妙に姿勢を正していた。
その中にエリオットもいる。
クリスは横目で見た。このイベントは有名な恒例行事。
みんな予備知識があるとは言え、すでに嫌な予感しかしない。
「王立中央学院、野外行軍演習を実施する。君たちの言うところの『地獄の行軍』だ!」
講堂がざわめき、学院長の背後に大きな地図が広げられる。
王都。
軍用街道。
中継駐屯地。
山間部。
そして。
国境方面。
「本演習は、訓練のみを目的とするものではない。諸君には、国境駐屯軍へ物資を届けてもらう」
「諸君が運ぶ一箱は、演習用の荷物ではない。国境を守る兵士が、実際に使う物資だ。」
「紛失は許されない。破損もだ」
そして。
少し間を置いて
「街道には盗賊も出る」
一年生文官科の空気が凍った。
逆に騎士科の何人かが僅かに身を乗り出す。
「過去十年で、学院輸送隊は四度、盗賊と接触している」
クリスはゆっくり向こう側に整列する騎士科を見た。
エリオット。
きっと目が輝いているはず。
学院長は構わず続ける。
「班編成は騎士科・文官科混成」
「一班、およそ三十名」
「上級生は輸送隊の管理」
「一年生は――」
一拍。
「全行程、徒歩だ」
クリスの顔から笑みが消えた。
翌朝。
学院本館の掲示板の前には、朝早くから学生たちが群がっていた。
野外行軍演習の班編成表が張り出されたのだ。
「見えない……」
クリスは人垣の後ろで背伸びをした。
前にいるのは、よりによって騎士科の学生ばかり。
肩越しに覗こうとしても紙の端しか見えない。
右へ動く。
駄目。
左へ回る。
やっぱり駄目。
「ちょっと、そこ――」
「クリス!」
人垣の向こうから声が飛んできた。
聞き間違えるはずもない。
「こっち!」
「でかい声で呼ぶなよ!」
「早く来いって!」
何がそんなに嬉しいのか。
学生たちの間を抜けていくと。
掲示板の前にエリオットが立っていた。
妙に機嫌がいい。
「何だよ」
「ここ」
指差された先。
第七班。
クリスは名前を追った。
そして。
クリス・アーヴェル。
そのすぐ近くに。
エリオット・グレイヴ。
「……一緒か」
「おう」
エリオットの口元が大きく上がった。
エリオットは自分の名前を見つけたときより。
クリスの名前を見つけた瞬間の方が嬉しかった。
――よっしゃ。
ほとんど反射だった。
数日間、飯も、休憩も、野営も、同じ班で動く。
それなら、きっと楽しい。
「クリス!」
「何だよ」
エリオットは、そのまま。
がしっとクリスの肩へ腕を回した。
「うわっ!」
ぐっと引き寄せられる。
「一緒だな!」
「見れば分かる! 重い!」
「いいじゃん、別に」
「暑いんだよ!」
「まだ朝だぞ」
「お前が暑い!」
「いやいや、照れるなよ~」
エリオットは笑いながら。
さらにクリスを自分の方へ引き寄せた。
すっぽり。
腕の中へ収まる。
そしてふっと、あの匂いがした。
「…………」
ほんの一瞬。
エリオットの意識が、そこへ引かれた。
髪なのか。
肌なのか。
以前、抱き止めたときと同じ ほのかな匂い。
「重いって言ってるだろ!」
クリスは肘で脇腹を力いっぱい押し、エリオットから離れようとした。
「痛えな!」
「離れろ!」
「同じ班になった記念じゃん」
「意味分からん!」
エリオットはワハハと笑って、全くクリスを離さなかった。
嬉しいのだから。
それでいい。
少し離れたところでは。
レオンも班編成表を見上げていた。
第七班。
上から名前を追う。
そして。
レオン・アルヴァレス。
自分の名前を確認する。
そのまま。
視線が下へ動いた。
一人。
違う。
その次。
違う。
さらに下。
レオン自身、自然に探して、そして見つけた。
クリス・アーヴェル。
「あった」
小さく声が漏れた。
口元が緩む。自分でも止めるより先に。
にんまりと笑っていた。
――一緒だ。
胸の奥へ、じわりと嬉しさが広がる。
昨日までは面倒な学院行事の一つだった。
それなのにクリスが同じ班だと分かっただけで。
急に、少し楽しみになった。
「殿下」
声に振り返るとクリスがいた。
そして。
その肩にはエリオットの腕。
「…………」
レオンの目が、そこへ落ちた。
「離れてやれよ」
「いいでしょ、このくらい」
「よくない!」
クリスが腕を引き剥がそうとしている。
だが力で敵うはずもない。
さっきまでレオンの口元にあった笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
何となく面白くない。
その理由を考えるより先に、エリオットが気づいた。
「あ。殿下」
「殿下も第七班ですよね?」
「ああ」
レオンはクリスの反対側へ立った。
「俺も今確認した」
「三人一緒ですね」
「ああ」
「最悪だ……」
真ん中でクリスが呟いた。
「何が最悪なんだよ」
エリオットが肩を抱いたまま覗き込む。
「お前がいること」
「ひでえ!」
「殿下もですよ」
「なぜ俺まで入る」
「二人揃うとうるさいからです」
「俺はうるさくない」
「殿下は別方向で面倒なんです」
「どういう意味だ」
クリスを挟んで、ふとレオンとエリオットの視線が合った。
「…………」
「…………」
ほんの一瞬、
何かが、ぱち、と弾けた。
エリオットの腕はまだクリスの肩にある。
レオンの視線が一度だけそこへ落ち、再びエリオットへ戻る。
エリオットも、なぜかクリスを離さないまま、レオンを見る。
だが二人とも、その感情に名前をつけるほどではなかった。
だからエリオットが先に笑った。
「まあ、よろしくお願いします。殿下」
「ああ」
レオンも笑う。
「よろしく、エリオット」
「何だよ。二人だけ急に爽やかになるなよ」
真ん中からクリスが言った。
「クリスもよろしくな!」
エリオットが腕に力を込める。
「ぐえっ」
「締めるな!」
レオンが吹き出した。
「お前、本当に騎士科か。味方を殺してどうする」
「この程度じゃ死にませんよ」
「俺で試すな!」
朝の廊下に、三人の笑い声が響いた。
その中でレオンはもう一度クリスを見た。
エリオットの腕の中で文句を言っている。
楽しそうだった。
――まあいい。
行軍の数日間は一緒なのだから。
そう思うと、また少しだけ口元が緩んだ。
一方、エリオットも上機嫌だった。
肩の下にはクリスがいる。
さっきから時折、あの匂いがする。
何となく離すのが惜しい。
そんなことにはまだ気づかないまま。
「行こうぜ、クリス。朝飯!」
「だからまず離れろ!」
「このままでいいだろ」
「歩きにくい!」
「殿下も行きます?」
「ああ」
三人で歩き出した。
クリスを真ん中に、片方にはエリオット、もう片方にはレオン。
クリスだけがまだ知らなかった。
地獄の行軍を前に同じ班になった二人の男が
それぞれ本人が思っている以上に喜んでいたことを。
そして数日後クリス自身もまた
この二人が同じ班だったことを
心の底から幸運だったと思うことになる。




