第六話 なぜ俺を挟む
朝の王立中央学院には、まだ夜の冷気がわずかに残っていた。
高い窓から差し込む陽光が、文官科の教室に長い光の筋を作っている。始業までにはまだ時間があり、広い教室にいる学生はまばらだった。
「クリス」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
クリスは顔も上げなかった。
机いっぱいに広げた地図と資料。その上には、昨夜から何度も書き直した数字や注釈が並んでいる。
向かいに座るレオンが、呆れたように息を吐いた。
二人が取り組んでいるのは、南部街道の整備計画についての課題だった。
「ここ」
レオンの指が、街道沿いの小さな宿場を示す。
「宿場を一つ減らす案。やっぱり反対だ」
クリスのペン先が止まった。
「またそれですか」
「まただ」
「利用者数を見てください。三年前から減り続けてる。これだけの維持費を掛けるなら、次の宿場を整備した方が効率がいい」
「でも、ここを潰したら次の宿場まで険しい難所がある。地図上では簡単だが、距離の問題というより道の具合が悪いんだ。馬で行く人間ばかりじゃないし、徒歩の平均より少し遅めに計算するべきだろ」
クリスのペンが止まった。
レオンは、その一瞬を見逃さなかった。
「別の方法がないか考えよう。宿場を一度つぶせば簡単には再建できないぞ」
「……分かってます」
「分かってない顔してる」
クリスは顔を上げた。
「その顔って何ですか」
「今、俺に言われて腹が立ってる顔」
図星だった。
「……殿下」
「レオン」
「殿下」
「学院では身分より――」
「卒業した瞬間に殿下に戻るでしょう」
「じゃあ卒業するまででいい」
クリスはとうとうペンを置いた。
「何でそんなに呼び捨てにさせたいんです?」
レオンは少し考えた。
「殿下って呼ばれると、議論で負けたとき逃げられそうだから」
思いがけない答えに、クリスは目を瞬いた。
「逃げませんよ」
「じゃあレオンでいいだろ」
「嫌です」
「頑固だな」
「殿下ほどでは」
二人が机越しに睨み合った、そのときだった。
「おーい、クリス!」
廊下から聞き慣れた声が響き、クリスは小さく息を吐いた。
嫌な予感しかしない。
ほどなく扉から金色の髪が覗き、そのまま長身の青年が教室へ入ってきた。
エリオットだった。
朝の鍛錬を終えたばかりなのだろう。騎士科の制服を少し着崩し、額際の髪にはまだ汗の名残がある。
片手には、場違いなほど可愛らしく包まれた小包を持っていた。
「いたいた」
「何です?」
なぜかレオンが先に答えた。
エリオットの足が止まる。
「何で殿下が答えるんです?」
「今こいつと課題をしてるからだ」
「クリスに用があるんですけど」
「だから何の用だ」
エリオットは眉を寄せた。
「……殿下」
「何だ」
「クリスの保護者ですか?」
クリスは額を押さえた。
「エリオット朝からやめろよ。それで、何?」
「これ」
エリオットが包みを机へ置いた。
紙を開くと、ふわりと甘い香りが立った。
中には、小さな焼き菓子が何枚も丁寧に並べられていた。どれも焼き色が美しく、表面には細かく砕いた木の実が散らされている。
わずかに形の違うところが、かえって手作りらしい。
おそらく焼き上がった中から特に出来のいいものを選んだのだろう。
包み方にも随分と気を遣っている。
「……何これ」
「もらった」
「誰に?」
「知らない女の子」
クリスは顔を上げた。
「すげーじゃん。でも何で知らない女から菓子もらうんだよ」
「訓練場の外にいたんだよ。終わったところで呼び止められた」
エリオットは大して気にも留めていない様子で、包みをクリスの方へ押した。
「俺、甘いのそんな食わないからやる」
「え、いいの?」
「いいよ」
それなら、とクリスは一枚摘まんだ。
口へ入れた途端、さくりと軽い歯触りがした。
ほどよい甘さのあとから、バターと木の実の香ばしさが広がってくる。
クリスの目が丸くなった。
「……めちゃくちゃ美味い」
「そう?」
「そう? じゃないよ。これ相当うまいぞ」
クリスは嬉しそうにもう一口食べた。
エリオットはその様子を眺めているだけで、自分から手を伸ばそうとはしない。
「ほら、エリオット、お前も食べろよ」
「俺はいいって」
「駄目だろ」
「何でだよ」
「これ、お前に食べてもらいたくて作ったんだろ。その子」
エリオットが焼き菓子を見る。
「たぶんな」
「だったら一枚くらい食べてやれよ。せっかくこんなに美味しく作ったのに」
「……そう?」
「そうだよ」
「……じゃあ食べるわ」
エリオットは一枚取って口へ運んだ。
軽い歯触りのあと、木の実の香ばしさが広がった。
甘い。
普段なら、自分から欲しがって食べるほどではない。
「どう?」
クリスがこちらを見ている。
「……なんか、うまいな」
「だろ!」
クリスがぱっと笑った。
その瞬間だった。
胸の奥が、不意にくすぐられたような気がした。
ほんの一瞬。
エリオットはクリスの顔を見たまま、動きを止めた。
短いボルドーの髪の下で、瞳が楽しそうに細められている。
たかが菓子一枚で、何をそんなに嬉しそうに笑っているのか。
なのに、その顔を真正面から見ているのが妙に落ち着かない。
エリオットはふいと目を逸らした。
そして何でもない顔をして、もう一枚取った。
「……もう一枚もらうわ」
「やっぱり美味いんじゃん」
「まあな」
二枚目を齧る。
やはり甘い。
昨日までならわざわざ二枚も食べなかっただろう。
けれど。
向かいではクリスが、まだ美味そうに焼き菓子を食べている。
それを横目にしながら食べる二枚目は。
なぜだか、一枚目よりもうまかった。
そこへ別の手が伸びた。
「あ」
レオンが一枚取った。
何の遠慮もなく口へ入れる。
「美味いな」
「殿下!」
エリオットが声を上げた。
「勝手に食べないでくださいよ」
「お前がクリスにやったんだろ」
「そうですけど」
「なら今はクリスのものだ」
「それと殿下が勝手に食うのは別でしょう」
「細かいな」
「殿下が図々しいんですよ」
また始まった。
クリスは二人を眺め、それから黙って三枚目へ手を伸ばした。
美味しいものに罪はない。
学院生活が始まって一月。
毎日顔を合わせるせいか、エリオットはレオンを王子扱いしないし、遠慮がない。
レオンもその気安さを気に入っているらしく、クリスも少しずつこの奇妙な暮らしに慣れ始めていた。
朝、自分で寝台を整える。
制服を着る。
胸元を整え、短い髪を直す。
鏡に映る姿にも、もう以前ほどの違和感はない。
部屋を出れば、クラリスではなくクリスになる。
食堂へ行き、授業を受け、図書室へ籠もる。課題に追われ、ときどきヴィクトルへ手紙を書く。
夜は人の少ない時間を選んで身体を洗う。
一つ一つは面倒だったが、二年間準備してきたことだ。
ところが実際に学院へ入ってみて分かった。
一番厄介なのは、男らしく振る舞うことではない。
人間関係だった。
「クリス!」
昼時の廊下に響く声、振り向かなくても分かる。
「今度は何」
「飯」
「俺、図書室行くんだよ」
「飯食ってから行けよ」
「あとで食べる」
「お前、それで忘れるだろ」
「忘れない」
「昨日忘れただろ」
クリスは黙った。
エリオットが勝ち誇ったように笑う。
「ほら」
そのまま肩へ腕を回そうとして、避けるようにクリスは一歩横へずれた。
腕が空を切る。
「なんだよ、冷たいなあ」
そう言いながら、エリオットは楽しそうだった。
クリスはその横顔をちらりと見る。
――こいつ。
何でこんなに俺に構うんだろう。
*
エリオットの方にも、最近少し気になることがあった。
クリスは細い。文官科なのだから、それ自体は珍しくない。
だが、身体に触れられることを妙に嫌う。
肩を組めば避ける。
腕を掴めば引く。
以前、訓練用の木剣から庇って腰を抱き寄せたときもそうだった。
あの感触を、エリオットは時折思い出した。
妙に細かった。
そして――柔らかかったような気がする。
女の身体を知らないわけではない。
騎士家に生まれ、幼い頃から年上の男たちに囲まれて育った。
学院へ入る前から、酒の味も、女の肌の感触も知っている。
だからこそ、一瞬だけ妙だと思った違和感が心の片隅に少しある。
けれど、クリスは男だ。
細身の男を不意に抱き止めれば、そんなふうに感じることもあるのだろう。
「きれいな顔をしているのが悪い」
そう片づけた。
そもそも、男相手に何を考えている。
「最近、女と遊んでいないから妙なことを考えるのかもしれない」
次の休暇にでも騎士科の連中を誘って街へ出るか。
その程度のことだった。
少なくとも。
今のエリオットにとっては。
「エリオット!」
訓練場の外から声がした。
反射的に顔を上げる。
柵の向こうで、クリスが一冊の本を掲げていた。
「何だ?」
「この前借りた本!」
「あとでいい!」
「図書室へ返しに行くから持ってきた!」
「俺の部屋置いとけ!」
「勝手に入れるか!」
エリオットは思わず笑った。
その瞬間。
「おい、エリオット!」
訓練用のくさり鎌が横から飛んできた。
身体を捻ってかわす。
「なんだよ!危ねえな!」
「わりぃわりぃ!ってか、訓練中に余所見すんなよ」
相手の学生が柵の向こうを見る。
「ああ、あの美少年か」
「美少年言うな。本人怒るぞ」
「お前、最近よく一緒にいるよな~」
「まあな」
「お前、女が好きじゃなかったっけ?趣味変わった?」
「殴るぞ」
周囲から笑い声が上がった。
エリオットも笑った。
馬鹿馬鹿しい。
クリスは男だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思いながら自分の木剣を構え直して。
なぜか。
もう一度だけ、柵の向こうを見た。
クリスはまだこちらを見ていた。
目が合う。
にっと笑う。
エリオットもつられて笑った。
その瞬間。
朝食べた焼き菓子の味を。
なぜか思い出した。
甘いものなんて、別に好きでもないのに。
*
昼下がりの図書室は静かだった。
高い窓から差し込む光の中を、細かな埃がゆっくりと漂っている。
「クリス」
向かいの椅子が引かれた。視線を上げるとレオンだった。
手には一冊の分厚い本。
「これ読んだか?」
表紙を見た途端、クリスの瞳が輝いた。
「北部水利史? どこにあったんです?」
「上の階」
「探してたんですよ。貸してください」
クリスが手を伸ばす。
レオンが引く。
「何で!」
「俺が先に読む」
「殿下には必要ないでしょう!」
「何でだ」
「昨日、水利政策の授業寝てたじゃないですか」
「寝てない」
「目閉じてました」
「考えてたんだよ。俺が寝るはずないだろ」
「ホントですか~?」
「考えてた」
クリスが本へ手を伸ばすたび、レオンが遠ざける。
「殿下!」
「欲しい?」
「欲しいです!」
「じゃあ――」
「何やってんだ?」
二人が振り向いた。
またエリオットだった。
レオンの顔に、隠す気もない嫌そうな色が浮かんだ。
「……お前、騎士科だろ」
「そうですけど」
「何で毎日文官科に来るんだよ」
エリオットは当然のように答えた。
「クリスがいるから」
クリスが顔を上げる。
「俺?」
「お前以外に誰がいる」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「暇なのか?」
「休憩時間です」
「訓練しろ」
「殿下こそ勉強してくださいよ」
「してる」
「本持ち上げて遊んでましたけど」
「これは――」
「子供ですか?」
「お前な」
「ちょっと」
クリスが二人を見比べる。
「何で喧嘩してるんです?」
「してない」
「してない」
声が重なった。
「してるだろ!」
二人が黙る。
その隙にクリスはレオンから本を奪った。
「あっ」
「借ります」
「まだ俺が――」
「二人がくだらない喧嘩してる間に読みます」
本を抱え、そのまま書棚の向こうへ消えていった。
残された二人の間に、妙な沈黙が落ちる。
レオンがエリオットを見る。
エリオットも見る。
「……お前のせいだ」
「殿下でしょう」
「お前が来なければ――」
「俺が来る前から遊んでたじゃないですか」
また睨み合った。
数日後、文官科と騎士科の合同演習が行われた。
大講堂の中央には巨大な地図が広げられ、その周囲を学生たちが取り囲んでいる。
今回の想定は、国境近くの町で暴動が発生した場合の対応だった。
文官科が情報を整理し、住民への対応と治安回復の方針を決める。
騎士科は、その命令をもとに部隊を動かす。
「ここを封鎖します」
クリスが駒を置いた。
「待て」
レオンが止める。
「市場まで封鎖したら食料が入らない」
「暴徒が市場へ入れば略奪が起きます」
「だから騎士を配置する」
「人数が足りません」
レオンがエリオットを見る。
「何人出せる?」
「二十」
「少ない」
クリスが即座に言った。
「二十で十分」
エリオットが答える。
「どうして?」
「入口を全部守ろうとするから足りなくなる」
エリオットは地図へ身を乗り出し、一つの路地を指した。
「ここを塞ぐ。そうすれば人の流れは二つに絞れる。兵を置くのはそこだけでいい」
クリスは地図を見直した。
頭の中で人の流れを動かす。
「……なるほど」
「だろ?」
エリオットが笑う。
「じゃあ市場は残す」
クリスはすぐに案を書き直し、隣で見ていたレオンが言った。
「素直だな」
「いい案なら使います」
「俺のときは毎回反論するくせに」
「殿下の案には穴が多いから」
「お前な」
エリオットが吹き出した。
三人で考えると、一人では見えなかったものが見える。
クリスは数字と制度を見る。
レオンは人を見る。
エリオットは現場を見る。
気づけば三人は、身分も科も忘れて一枚の地図を囲んでいた。
少し離れたところから教官がその様子を見ていた。
何も言わず、ほんの少し口元を緩めた。
演習が終わった頃には、窓から差し込む光も傾いていた。
クリスは大量の資料を両腕に抱え、文官科の校舎へ戻っていた。
ーー重い。
前もほとんど見えない。フラフラしながら階段を一段上ったところで、上から手が伸びた。
腕に掛かっていた重さが、半分になる。
「危ねえぞ」
「エリオット」
「最初から呼べよ」
「一人で持てるけど?」
「持てねーよ」
「持てる」
「前見えてなかったぞ」
「見えてた」
「嘘つけ」
二人で並んで階段を上る。
一人で抱えていたときより、驚くほど軽い。
「……ありがとう」
「おう」
しばらく、二人の靴音だけが石の階段に響いた。
「なあ」
エリオットが言った。
「お前さ。何で文官になりたいんだ?」
クリスの足が、ほんの少し止まった。
「急に何」
「いや、お前いつも必死だろ? ……まあ皆そうなんだけど」
本当のことは話せない。
文官になりたい理由をすべて話そうとすれば。
クラリスのことまで話さなければならなくなる。
「……面白いから仕事にしたい」
「それだけ?」
「悪い?」
「いや」
エリオットは笑った。
「お前らしい」
また歩き出す。
「じゃあお前は?」
「俺?」
「何で騎士になるんだ」
今度はエリオットが黙った。
少しして。
「格好いいから」
「馬鹿」
「何だよ!」
「俺より理由薄いじゃん!」
「ちゃんとあるよ!」
「じゃあ言えよ」
「今度な。お前も全部言ってねえだろ」
エリオットが笑う。
クリスの足が止まった。
エリオットも一段上で立ち止まる。
目が合った。
クリスが少し笑った。
「……お互い様か」
「ああ」
エリオットも笑った。
そのとき、階段の上から足音がした。
レオンだった。
二人を見て、足を止める。
エリオットがクリスの資料を半分持っている。
そして二人で笑っている。
それを見た瞬間。
胸の奥に、小さな不快感が生まれた。
理由は分からない。
「クリス」
「殿下?」
「探したぞ」
「何です?」
「昨日の政策案。今日までだろ」
「あ」
クリスの顔色が変わった。
「忘れてた!」
そのまま資料を抱え直す。
「エリオット、それ俺の机に置いといて!」
「おい!」
「頼んだ!」
クリスは階段を駆け上がった。
レオンもその後を追う。
取り残されたエリオットは二人の背中を見送り。
それから、両腕に残された大量の資料を見た。
「…………俺、荷物持ち?」
誰も答えなかった。
*
クリスはまだ知らない。
この生活の中で自分を見る男たちの視線が、少しずつ
友人を見るそれとは違うものへ変わり始めていることを。
そしてエリオット自身もまだ知らなかった。
次の休暇に女と遊べば、最近の妙な感覚など消える。
今ならまだ。
そう簡単に考えていられた。




