第五話 男たちの中で
「風呂行こうぜ」
扉の向こうから聞こえた言葉を、クリスは頭の中でもう一度繰り返した。
風呂。
つまり――一緒に。
無理だ。
「クリス?「いるんだろ?」
いる。
「さっきまで喋ってただろ」
喋っていた。
「開けろよ」
絶対に嫌だ。
コンコン、もう一度鳴った。
クリスは扉に背を預けたまま、グルグルとこのピンチを切り抜けるべきか必死で考えた。
王立中央学院の浴場設備は思っていた以上に整っている。
寮には身体を洗うためのシャワー室がいくつも並び、栓を捻れば上から温かな湯が落ちてくる。
大量の学生が暮らす学院だけあって、手早く身体を洗うには便利な設備だった。
ただし、クリスにとっては致命的な問題がある。
明るすぎるのだ。
夜でも廊下と脱衣所には煌々と灯りがともされ、シャワーには仕切りこそあるものの、着替える場所まで完全な個室というわけではない。
しかも夕食後ともなれば、ひっきりなしに学生が出入りする。
その中で女だと悟られずに着替えるなど、綱渡りにもほどがある。
だからヴィクトルと相談した末、クリスはもう一つの浴場を使うつもりでいた。
学院は王都から少し離れた岩山の麓に築かれている。
この辺りでは古くから温泉が湧き、学院の敷地にもその源泉が引き込まれていた。
建物の裏手、岩山へ少し分け入ったところにある大きな露天の岩風呂。
昼間や夕食後には学生たちで賑わうが、夜が更ければ人はほとんど来ない。
巨岩が複雑に組み合わさっているため死角も多く、脱いだ服も湯のすぐそばへ置いておける。
そして何より、暗い。
学院側が設置した灯りは入口付近にしかなく、奥へ入れば頼りになるのは月明かりと、各自が持ってくる小さなランプくらいだ。
人の少ない時間を選び、岩陰から出なければ、明るいシャワー室よりはずっと安全だろう。
そう考えていた。
だから――。
エリオットと一緒に行くなど論外だった。
「……先に行ってくれ」
「何で?」
「疲れた」
「湯入った方が疲れ取れるぞ」
――うるさい。
「あとで行く」
「じゃあ待ってる」
「待たなくていい!」
思わず声が大きくなった。
扉の向こうが静かになる。
クリスは唇を噛んだ。
「……お前さ」
少し低くなったエリオットの声に、心臓が跳ねる。
「何だよ」
「もしかして……」
「…………」
「風呂嫌い?」
「…………」
次の瞬間、廊下にエリオットの笑い声が響いた。
「子供かよ!」
クリスは扉の内側で拳を握った。
――いつか殴る。
絶対に。
結局、クリスは消灯時刻ぎりぎりまで部屋を出なかった。
廊下を行き交っていた足音が一つ、また一つと消えていく。
騒がしかった寮が静まり返り、遠くで扉の閉まる音がしたのを最後に、クリスはようやく立ち上がった。
本当なら、今夜くらいシャワーで手早く済ませてもよかった。
だが、朝からずっと男として振る舞い続けた身体は、思っていた以上に疲れていた。
歩き方を意識し、声を低くし、男同士の距離感に神経を尖らせ、何気なく肩を叩かれても身を引かないようにする。
それに、胸を押さえている布も早く外したかった。
せめて眠る前くらい、何も気にせず身体を伸ばしたい。
着替えと身体を拭く布をまとめ、小さなランプを手にして部屋を出る。
石造りの廊下は昼間よりもずっと冷えていた。
靴底が床を打つ音が、誰もいない空間に小さく響く。
外へ続く扉を開けると、山から吹き下ろす冷たい風が頬を撫でた。
昼間とはまるで違う景色だった。
岩山に挟まれた細長い夜空には雲が流れ、その切れ間から月が姿を見せている。
木々の黒い影の向こうから、絶えず水の流れる音が聞こえた。
温泉が近づくにつれ、白い湯気が夜気の中を漂い始める。
クリスは何度も後ろを振り返った。
誰もいない。
浴場にも人の気配はなかった。
「……よし」
大きな岩の陰を選び、ランプを低い岩棚へ置く。
小さな炎が揺れ、濡れた岩肌だけをぼんやりと照らした。
服を慎重に脱ぎ、すぐに手を伸ばせる場所へ畳んで置く。
最後に湯の中で胸をきつく押さえていた布をほどいた瞬間、肺の奥まで空気が入った。
「はあ……」
思わず長い息が漏れる。
一日中、無意識に浅くなっていた呼吸がようやく戻った気がした。
身体を流してから、そっと湯へ足を入れる。
熱すぎない。冷えた足先からじんわりと温かさが上ってくる。
肩まで浸かると、全身から力が抜けた。
「……生き返る」
誰に聞かせるでもなく呟き、岩へ背を預ける。
頭上には夜空。
周囲には湯気。
月が雲に隠れるたび、世界はほとんど闇に沈んだ。
昼間なら、ここでも周囲を警戒して落ち着かなかっただろう。
けれど今は、大きな岩が外からの視線を遮ってくれている。
足を伸ばした。腕も伸ばす。誰も見ていない。
誰もいない。
そのことが、こんなにも楽だとは思わなかった。
まだ慣れないのか、クリスでいる間は、何をするにも一度考える。
この歩き方でいいか。
今の声は高くなかったか。
座り方はおかしくないか。
誰かに触れられたとき、女のような反応をしていないか。
二年間練習した。
できると思っていた。
実際、できているが、疲れる。
けれど――。
明日から授業が始まる。
自分がここへ来た、本当の理由。
ヴィクトルの書斎で初めて政策案を読んだあの日から、ずっと知りたかった世界へようやく足を踏み入れるのだ。
クリスは目を閉じた。
今だけは。
少しだけ、クラリスへ戻ってもいい。
そう思った、そのときだった。
石を踏む音がした。
目を開ける。
一度。
そして、もう一度。
誰かがこちらへ歩いてくる。
――嘘でしょう。
クリスは反射的に身体を沈めた。
岩の向こうに、小さな灯りが見える。
ランプだ。
それがゆっくりと近づいてくる。
「……誰かいるのか?」
聞き覚えのある低い声。
クリスは目を閉じたくなった。
よりによって。
レオンだった。
「あれ?お前、今日ぶつかったクリス?」
なぜ分かる。
「……はい」
仕方なく答えると、岩の向こうからレオンが姿を現した。
手にしたランプが揺れ、黒い髪と顔の片側だけを照らしている。
クリスはさらに首から下を湯へ沈めた。
幸い、湯は暗い。絶えず立ち上る湯気もある。
少し離れれば、水面の下などほとんど見えない。
「何でこんな時間に入ってる」
「混んでるの苦手なので」
「俺もだ」
――好みは合わなくていい。
レオンは今のところ何の疑いも抱いていないらしい。
近くの岩へランプを置くと、ごく自然な動作で上着を脱ぎ始めた。
クリスはすぐに顔を背けた。
「どうした?」
「何がです?」
「こっち見ないな」
「男の裸を眺める趣味はありません」
わざと呆れたように言う。
一瞬の間を置いて、「……そうか」とだけ返ってきた。
やがて水音がして、レオンが湯へ入ってくる。
幸い、クリスのいる岩陰からは少し離れた場所だった。
それでも困ったことに変わりはない。
出られない……!
服はすぐ近くの岩棚にあるが、数歩は歩く。
その数歩を歩くためには湯から立ち上がらなければならない。
――早く出て。
クリスは心の底から願った。
しかし願いとは裏腹に、レオンは岩へ深く背を預けた。
明らかに長居する姿勢だった。
クリスは肩まで湯に浸かったまま、暗闇の中で絶望した。
夜風が岩の間を抜けていく。
どこかで木々がざわめき、温泉が岩を伝って落ちる音だけが絶えず聞こえている。
しばらくは、どちらも何も言わなかった。
不思議な静けさだった。
やがてレオンが口を開いた。
「そういえば」
クリスは嫌な予感がした。
「アーヴェルって、あのアーヴェル伯爵家と関係あるのか?」
ーー 来た。
だが、これは想定していた。
「遠いところでは繋がってるらしいですけど」
何でもないことのように答える。
「俺は地方の傍系なんで。伯爵家とは付き合いありません」
「そうか」
レオンはそれ以上追及しなかった。
アーヴェルという姓は、もともと古い地名に由来する。
王国には同じ姓を持つ家がいくつかあり、同姓だからといって近しい血縁とは限らない。
名門のアーヴェル伯爵家と同じ姓を持つ人間が地方にいたとしても、それだけなら不自然ではなかった。
クリスは水面すれすれで、そっと息を吐いた。
ところが、しばらくすると、またレオンの視線を感じた。
「……やっぱり似てるな」
「何がです?」
「顔」
自分でもわかるくらい、胸の奥が冷えた。
「昔、妃候補にいた令嬢に似てる」
――よりによって。
裸で同じ湯に浸かりながら、その話をするのか。
「へえ……」
努めて無関心を装う。
「アーヴェル伯爵家の……」
レオンが記憶を探るように眉を寄せた。
「クラリス?」
びくっ
クリスは思わず眉を寄せた。
「候補は何人かいて、交流も薄かったから、そこまであまり覚えてないが」
知っている。分かっている。
妃候補というのは、そういうものだ。
けれど、なぜか腹が立った。
クラリスは第二王子の妃候補として、どれだけのものを覚えたと思っているのか。
外国語。
外交史。
王家の系譜。
国内の有力貴族。
宗教儀礼。
舞踏。
礼法。
それらを当然のようにこなし、決して失敗しないことを求められていた。
それなのに本人は、名前すら少し迷う程度だったらしい。
「そのクラリス様とは、親しくなかったんですか?」
「まあな」
即答だった。
だから余計に腹が立つ。
「どんな方だったんです?」
気づけば、自分から尋ねていた。
レオンは少し考えた。
「大人しかったな。礼儀正しくて、あまり自分から喋らない」
――私、そんなふうに見えていたの。
王子の前では余計なことを言わない。控えめに笑い、相手の話を聞き、自分から出しゃばらない。
それが王族の妃にふさわしい振る舞いだと、何度も教えられた。
「頭は良かったと思う」
クリスは少しだけ機嫌を直した。
「でも途中から、妙な噂が増えた」
たった一言で、湯の温かさが遠ざかった。
「男爵令嬢をいじめたとか、突き飛ばして怪我をさせたとか」
湯の中で、クリスの指がゆっくりと握られた。
二年前。
忘れたことなどない。
あの声が蘇る。
――クラリス様に突き飛ばされました。
男に脅されていた男爵令嬢を助けたはずのに、なぜか悪役令嬢に仕立てられてしまった。
「……殿下も信じたんですか?」
思ったより低い声が出た。
レオンがこちらを見る。
「いや」
予想していなかった答えだった。
「現場を見てないから分からん」
意外にも、クラリスを少し心が浮上した。
「ただ、妃候補からは外れたんだ。聞いたことはあるか?」
ほんの一瞬、心臓が速くなる。
「同じ姓だから少しは。今、その方は?」
「病気で領地へ行ったとか聞いたが詳しくは知らん」
「随分どうでもよさそうですね」
思わず刺のある声が出る。
レオンが怪訝そうにこちらを見た。
「そう聞こえたか?」
「聞こえました」
「俺が決めたことじゃないからな」
「でも、あなたの妃候補でしょう」
言ってから。
クリスは少し後悔した。
いくら何でも食ってかかりすぎだ。
だがレオンは怒らなかった。
しばらく水面を眺めた後、静かに言った。
「俺には兄上がいる」
「……?」
「兄上が王になる。俺は兄上を支える。それで終わりだ」
クリスは横顔を見る。
暗がりの中で、レオンの表情はよく見えなかった。
「……だから自分の結婚もどうでもいいというより、そういうものだと思っている」
その言葉に。
クリスの中にあった怒りが、少しだけ形を変えた。
ーそういうもの。
自分も同じだった。
王族と縁を結ぶ。
家のため。一族のため。
生まれた場所によって役目が決まり、その役目を果たすのが当然なのだと思っていた。
レオンもまた、立場は違っても自分で選んだわけではない道の上に立っていたのかもしれない。
「王子って、大変なんですね」
少し意地悪く言うと、レオンは笑った。
幸い、そのあとすぐにレオンは湯から上がってくれたため、クリスは湯でタコにならずに湯から上がることができた。
*
翌朝。
文官科の校舎には、山間の冷たい朝日が差し込んでいた。
高い窓から入る光が石床に長い影を作り、教室へ向かう学生たちの足音が廊下に重なって響いている。
クリスは教室の扉を開けた。
そして、思わず足を止めた。
階段状に並んだ机。
壁一面の書棚。
正面には大きな黒板と教壇。
窓際には地図を広げるための大きな台まである。
古い紙とインクの匂い。
誰かが開いている本の頁をめくる音。
これだ。
二年間、ここへ来るために勉強した。
昨日までとは違う緊張が胸を満たしていく。
怖いのではない。
早く始めたい。
空いている席へ向かい、鞄を置く。
「よう」
隣から声がした。
見るとそれはレオンだった。
「……おはようございます、殿下」
「ここではレオンでいい」
「いえ、王子を呼び捨てにして、卒業後に首が飛んだら困ります」
「飛ばさん」
レオンが呆れたようにクリスを見る。
「お前、頑固だな?」
クリスは答えなかった。
そのとき、教官が教室へ入ってきた。
椅子の音が一斉に止まり、ざわめきが消える。
教官は挨拶もそこそこに黒板へ向かい、白墨を走らせた。
『北部三領における穀物価格高騰への対応』
クリスの目が、わずかに見開かれた。
「最初の課題だ」
資料が配られる。
収穫量。人口。輸送路。税率。備蓄量。市場価格の推移。
クリスは一枚目に目を通しただけで、周囲の音が気にならなくなった。
面白い。
数字がある。原因がある。そして答えが一つではない。
ヴィクトルと何度もやった。
資料を読む。数字の変化を拾う。その裏にある理由を探す。
何を守り、何を諦めるのかを考える。
いつの間にか、ペンが走り始めていた。
一時間後。
答案が回収された。
午後の講義では、そのうちいくつかが名前を伏せて紹介された。
一つの案が読み上げられたところで、クリスは眉を寄せた。
教官が教室を見渡す。
「意見は?」
気づけば手が上がっていた。
「クリス」
「はい」
立ち上がる。
「この案では、価格高騰を十分には抑えられないと思います」
教室の視線が集まった。
けれど。
不思議と緊張しなかった。
「理由は?」
「輸送補助を出せば商人は動きます。ただし、その財源が示されていません。それに備蓄穀物の放出と同時に行えば、短期的には価格を下げられても――」
資料の数字を示す。
どこに問題が出るのか。何が不足しているのか。代わりに何をすべきか。
頭の中にあったものを、順番に言葉へ変えていく。
「以上です」
席へ戻る。
教官が小さく頷いた。
「よく読んでいる」
その一言が。
胸の奥へ落ちた。
嬉しい。
王子妃候補として礼法を褒められたときとは違う。
容姿を褒められたときとも違う。
自分が考えたことを見てもらえた。
その瞬間。
前の方から声がした。
「でも、それだと小規模商人が潰れる」
クリスの眉が動いた。
レオンだった。
こちらを見ている。
「……なぜ?」
「お前の案は効率を優先しすぎだ」
胸の奥で何かが引っかかった。
「効率の悪い政策を維持する意味がありますか?」
「効率だけで切れば、そこで生活している人間が消える」
「なら代案を」
「ある」
レオンが立ち上がった。
説明を始める。
クリスとは違い、数字の詰めには甘いところがある。
そこはすぐに分かった。
だが筋は通っている。
しかも。
クリスが切り捨てても仕方がないと思った部分を、レオンは最初から問題として見ていた。
悔しい。
「それでは時間がかかります」
「お前の案より、脱落する人間は少ない」
「だからといって全員を救おうとすれば、今度は政策そのものが――」
「そこまで」
教官の声が二人を止めた。
教室はいつの間にか、しんと静まり返っている。
教官はクリスとレオンを交互に見た。
クリスには全然面白くない。
「クリス」
「はい」
「お前は数字を見るのが速い」
少しだけ胸を張る。
「ただし、人を見るのが遅い」
胸に刺さった。
脳裏に、ヴィクトルに連れて行かれたあの橋が浮かぶ。
帳簿の上では、たった一行だった橋。
けれど。
そこを子供が渡り、老人が渡り、農作物を積んだ荷車が渡っていた。
「レオン」
「はい」
「お前は人を見る」
レオンの口元がわずかに上がった。
「ただし、数字が甘い」
今度はクリスの口元が上がった。
レオンが横目で睨む。
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
「二人とも、相手の答案を持って帰れ」
「え?」
声が重なった。
「明日までに、二つの案を統合した政策案を作れ」
「二人で?」
また重なった。
教官が呆れたように二人を見る。
「文官の仕事は、自分の正しさを証明することではない」
誰も笑わなくなった。
「違う考えを持つ人間と、よりましな答えを作ることだ」
クリスは何も言えなかった。
悔しい。
でも。
その言葉は、妙に胸に残った。
授業が終わると、学生たちが一斉に立ち上がった。
椅子を引く音と話し声が教室に満ちる。
その中で、レオンが答案を差し出した。
「よろしくな」
「……仕方ありません」
「負けず嫌いだな」
「負けてません」
「そういうところだ」
「何です?」
レオンは答案を渡したまま、クリスの顔を眺めた。
「なんかあいつと性格が全然違うな」
またそれ。ー婚約者時代のクラリスと比べられた。
ピンときたクリスの眉がぴくりと動いた。
「殿下、いい加減にしてください」
「何が?」
「令嬢に似てるだの、性格が違うだの!」
思った以上に声が響いた。
周囲の学生がちらりとこちらを見る。
それでも、もう止まらなかった。
「ただでさえ女顔なのがコンプレックスなんだ!」
これは、ヴィクトルと事前に決めていた。
顔立ちを指摘されたら否定しすぎない。むしろ自分から嫌がれ。その方が自然だ。
けれど今は半分以上、本当に腹が立っていた。
「どこの誰かも知らん令嬢を、いちいち俺に重ねるなよ!」
「いや、別に――」
「そんなに俺が女に見えるなら、殿下が欲求不満なんじゃないの?」
静寂。
レオンが固まった。
周囲も固まった。
そして、言った本人も固まった。
――言いすぎた。
王子に。
欲求不満。
クリスの顔から血の気が引く。
「……すみません」
レオンの肩が震えた。
「……くっ、ははっ!」
レオンは額を押さえて笑っている。
「申し訳ありません」
しばらく笑ったあと、レオンはようやく息を整えた。
「分かった。悪かった」
「本当に?」
「ああ。もう言わん」
「絶対ですよ」
「分かったよ」
レオンは改めてクリスを見る。
その目から 昨日までの探るような色が 少し消えていた。
クリスは知らなかった。
この瞬間レオンの中でクリスという男は、クラリスに似た少年ではなく。
口が悪く、気が強く、
妙に負けず嫌いな男。ー クリス。
その輪郭が、初めてはっきりしたことを。
*
「おーい、クリス!」
廊下の向こうから、昨日から聞き慣れ始めた大声が飛んできた。
エリオットだ。
「昼飯行こうぜ!」
「行く」
「お、今日は素直」
「腹減った」
エリオットが隣へ並ぶと、当然のように肩へ腕を回そうとする。
クリスは身体を半歩ずらし、するりと避けた。
腕が空を切る。
「おっと」
「それやめろ」
「何で?」
「重い」
「俺そんな重くないだろ」
「人の身体、ベタベタ触るな」
「冷たいなあ」
エリオットはいつものように笑った。
けれど。
ほんの一瞬だけ。
その緑の瞳が。
避けたクリスの身体を追った。
*
数日後。
午後の中庭には、剣を打ち合わせる乾いた音が響いていた。
騎士科の訓練場では、何組もの学生が木剣を手に打ち合っている。
クリスはその脇を通りながら、午後の講義でもらった資料に目を落としていた。
どうしても一箇所、数字が合わない。
歩きながらもう一度計算する。
そのとき。
「――危ない!」
声がした。
顔を上げると視界の端に何かが飛び込んできた。
木剣。
「え――」
次の瞬間、腕を強く引かれた。
身体が大きく傾き、紙が手から落ちる。
そして硬いものへぶつかる感覚。
人の身体。
エリオットだった。
「馬鹿! 前見て歩け!」
耳元で怒鳴られる。
「……っ」
気づいた瞬間、クリスの身体が強張った。
エリオットの片腕が腰へ回って、転ばないように抱き止められている。
近い。
あまりにも。
近い。
制服越しに相手の身体の硬さが分かる。
クリスの顔から、さっと血の気が引いた。
「離せ!」
反射的に胸を押す。
「お、おう」
エリオットが驚いたように腕を離した。
クリスは一歩、さらにもう一歩、距離を取る。
「ちょっと書類見てただけだ!」
「それがダメなんだろ!歩きながら読むなよ!」
「分かってる!」
「てめぇ態度わりいな!死にかけてんだろ!」
クリスは言葉に詰まった。
それは、間違いない。
「……ごめん。ありがとう」
「おう」
地面に散らばった書類を拾い集めると、クリスは逃げるようにその場を離れた。
エリオットはしばらくその背中を見送っていた。
いつもの軽い笑みがまだ口元に残っている。
だが、少しずつ消えた。
「…………」
何か違和感を感じ、自分の右手を見る。
ほんの少し前までクリスの腰を抱いていた手。
細かった。
ただ華奢な男などいくらでもいる。
ましてクリスは文官科で、騎士科の自分たちとは身体つきが違って当然だ。
なのに何かが引っかかる。
エリオットは顔を上げた。
中庭を横切り、足早に文官科の校舎へ向かう後ろ姿。
短いボルドーの髪。細い背中。
歩き方は、一応、男。
服も。
声も。
言葉遣いも。
まあ、何もおかしくない。
それなのに。
「……なんだ?」
自分でも分からなかった。
ただ、抱き止めた瞬間
頭で考えるより先に身体のどこかが小さな違和感を覚えた。
その夜。
クリスは机の前で、レオンの答案を読んでいた。
窓の外はもう暗い。
机に置いたランプの炎が、紙の上で小さく揺れている。
「腹立つなー」
そう言いながらもう一度読む。
やはり悪くない。
認めるのは悔しいが、彼の答案には自分にはなかった視点がある。
自分ならもっと効率よくできる。もっと短期間で数字を改善できる自信がある。
でも自分には帳簿では見えない現実があると知った過去がある。
ヴィクトルの領地にあった。
小さな橋。
レオンが見ているのはそこなのかもしれない。
クリスはもう一度この二つの答案を並べた。
「……絶対、もっといい案にしてやる」
ペンを取り、気づけば夜は深くなっていた。
翌朝、レオンと自分が一晩かけて書き直した二人の政策案は、
驚くほど似た場所へ辿り着いていた。




