第四話 男だらけの学院
「……お前、どこかで会ったか?」
心臓が止まった。
冬の山から吹き下ろしてくる風が、学院の巨大な正門を抜け、短くなったボルドーの髪を揺らしている。
周囲では新入生たちが行き交っていた。
荷物を抱えた学生。家族へ最後の挨拶をする者。入学書類を片手に走る者。
馬の嘶き。荷車の車輪。
遠くでは学院の鐘が鳴っている。
そんな音が一瞬。
すべて遠ざかった。
――終わった。
まだ入学したばかりだ。
正確には入学手続きを済ませて、学院の門をくぐっただけ。
授業すら受けていない。寮の部屋すら見ていない。
それなのに、よりによって、なぜ、この男がいる?
第二王子レオン。
二年前まで。
クラリスが妃候補の一人として、何度か顔を合わせていた相手。
夜会。
王宮の茶会。
王家主催の祝宴。
妃候補はクラリス一人ではなかった。
二人きりで親しく話したことも、ほとんどない。
当時のクラリスもまた、王子の前では余計なことを言わず、笑うときは控えめに。
声を上げすぎず、聞かれたことには簡潔に答え、相手より先に話題を奪わない。
だからレオンが知っているクラリスは、今の自分とはかなり違う。
それでも顔は見られている。
クリスは、自分の短い髪へ触れそうになった。
慌てて止める。
今は髪型は違う。服も違う。立ち方も。歩き方も。声も。話し方も。
二年間 練習した。
大丈夫。大丈夫。
――たぶん。
「……いや、初対面だと思うけど」
喉の奥を意識して、少し低い声を出す。
レオンはクリスを見た。
長い……見すぎだ。
黒い瞳が、顔のどこかに答えを探しているようだった。
「そうか?」
「ああ」
「ならいい」
途端にあっさり、レオンは視線を外した。
クリスは心の中でその場へ崩れ落ちた。
――助かった。
「悪かったな。引き止めて」
「いや」
レオンが歩き出す。
制服の背中が。
人混みの向こうへ遠ざかる。
クリスはようやく、止めていた息を吐いた。
「はあ……」
冷たい空気が一気に肺へ入った。
「何してんだ?」
「うわっ!」
今度こそ、飛び上がりそうになった。
振り向く。
そこにいたのは知らない男だった。
金色の髪、少し長めで、前髪が額へ無造作に落ちている。
瞳は鮮やかな緑。冬の薄い日差しを受けて宝石のように明るく見えた。
背が高い。肩幅も広い。学院の制服の上からでも身体が鍛えられていることが分かる。
腰には剣。
上着の意匠を見る限り、騎士科の学生らしい。
ただし顔には、騎士という言葉から想像する生真面目さとは程遠い、妙に軽い笑みが浮かんでいた。
「今の奴、怖かった?」
「……別に」
「第二王子だぞ」
「知ってる」
言ってから。
ほんの一瞬、しまったと思った。
男が片眉を上げる。
「へえ。地方から来た割には詳しいんだな」
だがここで慌てる方が不自然だ。
クリスは肩をすくめた。
「第二王子の顔くらい知ってるだろ」
「まあな」
男はあっさり笑った。白い歯が見える。
そして何の前触れもなく、いきなりクリスの肩へ腕を回した。
「よろしくな」
「――っ」
身体が、反射的に硬くなる。
だが飛び退かなかった。
二年間の訓練がなければ危なかった!
肩から、男の重みがかかる。制服越しなのに体温まで伝わる気がした。
重い・・そして、暑い。
冬の空気の中だというのに、身体の大きな男が近づくだけで妙な圧がある。
「……重い」
「冷たいなあ」
男は笑って全く気にしていない様子。
「俺、エリオット」
「クリス」
「よろしく、クリス」
「ああ。よろしく」
エリオットは改めてクリスを見て、近い距離から
「ちっさいな~、お前」
「…………」
「細いし」
「…………」
「ちゃんと飯食ってる?」
――殴っていいだろうか。
クリスはほんの少しだけ、拳を握った。
「食べてるよ」
「そう?」
エリオットはクリスの肩を軽く叩いた。
男同士ならこれくらい普通?でも馴れ馴れしくないか?
頭の中でヴィクトルの声が蘇る。
だから我慢。
「まあ、その顔なら女には困らなそうだけどな」
エリオットがにやりと笑う。
「あれ?もしかして経験ない?」
「何の」
「そりゃ――」
「エリオット」
低い声が飛んだ。
少し先で同じ騎士科の新入生だろうか、振り返ってエリオットを呼んでいる。
どうやら寮へ向かう途中で、彼が来ていないことに気づいたらしい。
「初対面の人間に何を聞いている」
「いいじゃん。男同士だろ?」
クリスの口元が、わずかに引きつった。
――そこが問題なんだよ。
「行くぞ。寮の説明が始まる」
「はいはい」
エリオットがようやく腕を外したことで、肩が一気に軽くなる。
クリスは心の底から安堵した。
王立中央学院。
ここは岩山と森に囲まれた高地に築かれた、国内最高峰の教育機関。
元は古い軍事拠点だったという。
その名残なのか、学院の建物には華美な装飾がほとんどない。
分厚い石壁。高い窓。長い廊下。天井を支える太い梁。
冬の冷気が石へ染み込んでいるのか。
建物の中へ入っても空気は少しひんやりしていた。
大講堂には入学したばかりの学生たちが集められていた。
壇上の背後には王国旗と学院旗。
高い天井から吊された鉄製の燭台が、昼間でも薄暗い講堂を照らしている。
窓の向こうには雪の残る岩山が見えた。
王立中央学院にはいくつかの主要な学科がある。
クリスが入ったのは、もちろん文官科。
行政。法。財政。外交。地方統治。国家を剣ではなく制度と実務によって支える者たちを育てる。
そしてエリオットが所属するのは騎士科。
剣術。馬術。戦術。指揮。護衛。危機管理。戦場で人と国を守る者たちを育てる。
学科は違うが一部の授業や学院行事、食堂、訓練、そして寮生活は共通している。
入学できるのは十八歳以上。
身分だけでは入れない。
高位貴族の子息であろうと試験に通らなければ入れない。
逆に商人の息子でも農民の息子でも能力を認められれば門は開かれるが、正規の学生は、男子に限る。
クリスはその最後の条件だけを偽った。
「学院生活では、身分より規律を重んじる」
壇上の教官の声が講堂へ響く。
「王族であろうが、公爵家の子息であろうが、ここでは学生だ」
一瞬多くの視線がレオンへ集まった。
本人は平然としている。背筋を伸ばして。他の学生と同じように座っていた。
王族という肩書きを誰も特別扱いしないらしい。
「寮内では、自分のことは自分で行え」
「身の回りの世話をするためだけの従者を置くことは、原則として認めない」
クリスは少し驚いた。
王族なら男性従者の一人くらい置くことができるのではないか?
だが彼の側に従者らしき者はいない。
後になって知ったことだが許可を得れば最低限の補佐役を置くことは可能だった。
それでもレオンは自ら断っていた。
学院では自分でやりたい。そう言ったらしい。
クリスの頭に、二年前の光景が蘇った。
シャツ一枚まともに整えられず、ヴィクトルから
「お前、文官になる前に一人で生きられるようになれ」
と呆れられた日。
――叔父様。ありがとう!
心からそう思った。
「なお」
教官の声が少し強くなる。
「男子寮への女性の私的な立ち入りは禁止する」
クリスの背筋がわずかに伸びた。
「学院が雇用する食堂・清掃等の職員などを除き、母親、姉妹、その他の家族であっても、許可なく寮内へ入ることはできない」
分かっていた、分かっていたけれど。
改めて聞くと、自分がとんでもないことをしていると認識する。
いや実際とんでもないことをしている。
クリスはそっと周囲を見る。
男。男。男。
右。左。前。後ろ。
十八。十九。二十。
若い男ばかり。がさつそうな者もいる。
ほとんどが今までクラリスが社交界で接してきた男たちとは違う。
これから着替えや入浴、寝起きに細心の注意を払わねばならない。
今さらながら実感した。
胃のあたりがほんの少し縮む。
それでも胸の奥には別の熱もあった。
ここには読みたかった本がある。学びたかったことがある。
自分と同じように難しい試験を突破してきた人間たちがいる。
誰も「令嬢なのだから」とは言わない。
ここでは自分が答えれば、その答えが自分のものとして評価される。
家柄ではなく、容姿でもなく、婚姻でもなく、自分の頭で考えたものが評価される。
そのことを考えるだけで、怖さより期待の方が勝った。
*
その頃。
遠く離れたヴィクトルの屋敷では、午後の静かな空気を一人の女の声が切り裂いていた。
「お嬢様?」
マーサである。王都からヴィクトルの屋敷に戻ってすぐにお嬢様に挨拶しようとしたのに返事がない。
嫌な予感を感じ、青ざめて廊下を歩いて探す。
「クラリスお嬢様?」
部屋。
いない。
庭。
いない。
書斎。
いない。
馬小屋にも。
温室にも。
テラスにも。
いない。
最初は散歩へ出たのかと思った。
次に、村かもしれないと思った。
だが何かがおかしい。この時間、いつも使う外套や靴、すべてが部屋に残っているのだ。
何より屋敷の使用人の誰も、お嬢様がどこへ行ったのか知らないと言う。
マーサの背中に冷たいものが走った。
「旦那様」
執務室の扉を開ける。
ヴィクトルは平然と書類を読んでいた。
窓から午後の陽が差し。机の上には領地から届いた帳簿が積まれている。
まるで何も起きていないように。
「なんだ」
「お嬢様はどちらへ?」
「王都」
マーサは瞬きをした。
「……王都?」
「ああ」
「何をなさりに?」
ヴィクトルが頁をめくる。
さらり。
「学院へ行った」
「学院?」
「王立中央学院」
沈黙。
壁の時計が、かちかちと音を立てている。
マーサは考えた。
王立中央学院。確か。そこは。
「……旦那様」
「なんだ」
「王立中央学院は……」
「うん」
「殿方しか学生として入れなかったのでは?」
「そうだな」
マーサの顔から血の気が引いた。
「…………」
ヴィクトルがようやく本から顔を上げた。
姪を育ててきた乳母が完全に青ざめている。
「座るか?」
次の瞬間。
「何をなさったのですか――!!」
怒声が屋敷中へ響いた。
廊下を歩いていた使用人がびくりと止まった。
厨房では料理人が手にしていた皿を落としかけた。
「髪を!?」
「ああ」
「切った!?」
「ああ」
「男物の服を!?」
「ああ」
「男子寮!?」
「ああ」
「全寮制!?」
「ああ」
マーサは椅子へ沈み込んだ。胸へ手を当てる。
「……私は終わりです」
「大袈裟だな」
「どこがです!」
「本人が望んだことだ」
「私には伯爵様よりお預かりしたお嬢様をお守りする責任がございます!」
「守っていただろ」
「私が王都へ戻っている間に、髪を切って男のふりをして消えたのですよ!」
「消えてはいない。居場所は分かっている」
「そういう問題ではございません!!」
マーサは頭を抱えた。
信じられない!この叔父がいくら変人と言われようと、さすがにこれはないだろう!
自分が乳を与え、熱を出せば夜通し側に座り、初めて歩いた日も、初めて夜会へ出た日も見てきた娘。
その娘が自分が少し王都へ戻っている間に、男になって男子寮へ。
「奥様……」
その名を口にした瞬間さらに青ざめた。
「奥様になんと申し上げれば……」
「そのまま言えばいい」
「言えるわけがございません!」
「じゃあ言わなければいい」
「もっと無理です!」
ヴィクトルは少し考えた。
「兄上には言うな」
マーサが顔を上げる。
「……伯爵様に?」
「ああ」
「では?」
「義姉上にだけ知らせろ」
マーサはしばらくヴィクトルの顔を見た。
そして低い声で。
「奥様を共犯にするおつもりですか」
「選ぶのは義姉上だ」
「…………」
マーサは目の前の男を睨んだ。
「……あなた様は、本当に恐ろしい方です」
「よく言われる」
「褒めておりません」
*
知らせを受け取った母は。
最初、意味が分からなかった。
王都のアーヴェル伯爵邸。
窓の外には冬の淡い日差し。庭師が枯れ枝を整えている。いつもなら静かな時間だった。
母は届いた手紙を開いた。
読む。
止まる。
もう一度。
読む。
三度目。
文字の並びを一つずつ確認する。
それでも意味が変わらない。
「…………男子寮?」
そこだけ声に出た。
娘が男の名を名乗り、男子しか学生として入れない学院へ入り、全寮制の男子寮で暮らしている。
手紙を持つ指が震えた。
十八歳。
周囲は同じ年頃の青年ばかり。もし女だと知られたら。もし誰か一人に知られて弱みを握られたら。
もし秘密と引き換えに何かを要求されたら。
そこで母は思考を止めた。その先を考えたくなかった。
「馬車を」
立ち上がる。
側にいた侍女が驚く。
「奥様?」
「すぐに」
「どちらへ?」
一瞬、王立中央学院が浮かんだ。
駄目だ。自分が乗り込んで「娘を返してください」などと言えば、その瞬間全てが露見する。
男子寮へ母親が押しかけること自体、ただでは済まない。
では息子に?
無理だ。
息子に話せば夫へ伝わる。そうなれば学院どころではない。
ならば怒りの矛先は一人しかいない。
母は手紙を握りしめた。
「ヴィクトル様の領地へ参ります」
*
数日後、学院の郵便室から一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間クリスの顔が引きつった。
――お母様。
寮の自室。
小さな窓からは冬の山が見える。夕方の冷たい光が机の上へ差していた。
クリスはしばらく封筒を見つめ、意を決して封を開ける。
短かった。
『一度、学院の外で会いましょう。』
母は優しい。でも貴族の妻だ。父に逆らうことを恐れている。
泣いて頼まれたら自分も揺らぐかもしれない。
何よりまだ学院へ入ったばかりだ。
ようやくここまで来た。ここで帰るわけにはいかない。
クリスは机へ座った。
便箋を一枚取り出す。ペン先をインクへ浸した。
『お母様。
ご心配をおかけして申し訳ありません。私は元気です。
ただ、授業と課題が大変忙しく、しばらく学院を離れることができません。』
便箋を見つめ「……ごめんなさい」と、小さく呟いた。
*
ーー入学式の日に戻る。
外はすっかり日が暮れていた。
夕食の時間も終了し、ゴーンゴーンと学院の鐘が消灯前の時刻を告げた。
寮の廊下にはまだ学生たちの声が響いている。
笑い声。
誰かが部屋を間違えたらしい声。部屋で荷物を引きずる音。
遠くで「そっち俺の部屋だ!」という怒鳴り声まで聞こえた。
クリスはようやく自分の荷物を片付け終えた。
部屋は狭いが一人部屋だった。
贅沢さなど何一つない。王都の自室と比べれば、使用人の部屋ほどの大きさしかない。
けれどクリスには十分だった。
何より一人でいられる。これはヴィクトルが何としてでも確保した条件の一つだった。
共同部屋ならきっと一晩で終わっていたかもしれない。
クリスは寝台へ腰を下ろした。
天井を見る。
長い一日だった。
明日から本当に授業が始まる。
胸が少しだけ高鳴ったそのとき
コンコン。
扉が鳴った。
クリスは身体を起こす。
「誰だ?」
「俺」
知らない。
「俺って誰だよ」
扉の向こうから。
笑い声。
「エリオット」
嫌な予感でクリスは立ち上がる。
扉へ近づき、ほんの少しだけ開ける。
「何だ?」
廊下は壁に取り付けられたランプの光で暗くはない。
そこに、エリオットが立っていた。
制服の上着を脱ぎ、肩へ引っ掛けている。
シャツの袖も少し捲られていた。
昼間よりさらに気安い。完全に寮の男の顔だ。
「風呂行こうぜ」
クリスは固まった。
「…………何?……風呂?」
「うん」
「一緒に?なんで?」
エリオットが何を言ってるんだという顔をして、それから笑った。
「いいじゃん。仲良くしようぜ」
クリスは、静かに扉を閉めた。
パタン
「おい」
無視。
「クリス?」
無視。
「何で閉めるんだよ!」
扉の向こうでエリオットがドンドンと扉をたたいて笑っている。
クリスは扉に背中を預けた。
いきなりの訳のわからなさで、心臓が変な速さで鳴っている。
そしてゆっくり天井を見上げた。
――叔父様。
二年間。
あれだけ準備したのに。
最大の問題がいきなりやってきました!




