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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第三話 クリスになるまで

「まず、歩いてみろ」


「歩く?」

クラリスは怪訝な顔で叔父を見た。

昼下がりの書斎。

開け放した窓から、初夏を迎えつつある領地の風が入り込み、薄いカーテンをゆっくりと膨らませていた。庭では使用人たちが何かを運んでいるらしい。

遠くから荷車の車輪が軋む音が聞こえる。

ヴィクトルは書斎の長椅子へ深く腰を下ろし、頬杖をついていた。


「そうだ。そこから扉まで歩け」

「何のために?」

「いいから」


妙なことを言う。

そう思いながらも、クラリスは立ち上がった。

スカートの裾を整え、背筋を伸ばし、顎を引く。

そして歩き出した。


音を立てない。歩幅を揃える。裾を乱さない。

背筋は伸ばしても、胸を張りすぎない。

曲がるときにも身体を大きく揺らさない。


幼い頃から何千回と繰り返してきた動作だった。

まだ少女だった頃には、頭の上に本を載せられたことさえある。

落とせば最初からやり直し。

第二王子妃候補となってからは、さらに厳しくなった。

王族の隣を歩く女は、美しくなければならない。

だが、目立ちすぎてもならない。

優雅でありながら控えめに。

そんな矛盾した要求を、身体が覚えるまで叩き込まれた。

扉の前まで行き、滑らかに身体を返す。


「どう?」

ヴィクトルは即答した。

「駄目だ」

「は?」

「どこから見ても令嬢だ」

クラリスの眉が寄った。

「私は令嬢ですもの」

「男になるんだろう?」

「……そうでした」


ヴィクトルが深いため息をつく。

「髪を切って男物の服を着れば、どうにかなると思っていたのか?」

・・まさか!・・え、いや・・?


思っていた? かも・・かなり。


クラリスは答えなかった。

ヴィクトルは指を立て「もう一度やってみろ」


クラリスは歩く。

今度は歩幅を広げた。肩も少し振ってみる。

「やりすぎだ」

ぴたりと止まる。

「では、どうしろと?」

「普通に歩け」

「だから、その普通を教えてください!」

「俺は普通に歩いている」

「叔父様の歩き方なんて見てません!」

「なら見ろ!」

初日から喧嘩になった。


クラリスがヴィクトルの領地へ移ってから、季節がひとつ巡ろうとしていた。

麦畑の色は日に日に濃くなり、昼間の日差しには夏の気配が混じり始めている。

王都では今も、

『アーヴェル伯爵令嬢は、急なる病のため領地で療養中』

とだけ伝えられていた。

実際には、クラリスはすっかり元気だった。

いや、王都にいた頃より、むしろ元気かもしれない。


朝食が終われば本を読み、ヴィクトルの書斎へ入り浸り。

領地から上がってくる帳簿まで勝手に覗き込む。

最近では、ヴィクトルが仕事をしている横から、

「これは何?」

「なぜこちらの村だけ税収が少ないの?」

「この橋の補修費、高すぎない?」

と口まで出す。


最初の頃、ヴィクトルは「邪魔だ」と追い払っていた。

だが、追い払っても戻ってくる。別の本を読んで戻ってくる。翌日になっても聞いてくる。


とうとうある日、ヴィクトルは根負けした。

「そこまで知りたいなら、実際に見てこい」

それが始まりだった。

ただし、問題が一つあった。

マーサである。


クラリスが幼い頃から側にいる乳母であり、現在は身の回りを世話する侍女でもある。

そしてもう一つ。

王都のアーヴェル伯爵家へ、クラリスが領地でどのように暮らしているかを報告する役目も持っていた。


「お嬢様。午後からどちらへ?」

玄関で外套を羽織るクラリスに、マーサが尋ねる。

「叔父様と散歩よ」

「昨日も散歩なさいましたね」

「療養には運動が必要でしょう?」

マーサの目が細くなった。

「最近、ずいぶん活動的でいらっしゃいます」

「元気になってきたのよ」

嘘ではない。むしろ元気すぎるくらいだ。

マーサはクラリスをじっと見た。

「…………」

「…………」

「夕刻までにはお戻りくださいませ」

「分かってる」

クラリスはにっこり笑った。


その三十分後。屋敷から少し離れた古い納屋。

「……叔父様」

「なんだ」

「これ、本当に必要?」

「必要だ」

クラリスは鏡の前で帽子を押さえた。

男物のシャツ、丈夫なズボン、革靴。

初めて着たときは、脚を布で一本ずつ包まれている感覚が妙だった。

何より、スカートがない。

脚を大きく開いても裾を気にしなくていい。階段を上るのも楽だった。

――男って、こんなに動きやすい服を着てるの?

少し腹が立ったくらいである。

問題は髪だった。

まだ切れない。

突然短くなれば、マーサが確実に気づく。

長い葡萄酒色の髪をきつくまとめ、帽子の中へ押し込む。

胸元も布で押さえ、上着で身体の線を隠した。

鏡を見る。


「……まだ女に見えますね」

「女だからな」

「それを何とかするのが叔父様です~!」

「俺は魔法使いじゃない」と、あきれたようにヴィクトルは言う。

「今日は遠くの村へ行く。お前の顔を知っている者はほとんどいない」

「私は何者ということになっているの?」

「俺の遠縁の甥」

「名前は?」


ヴィクトルがクラリスを見る。

「自分で決めろ」

「叔父様が決めてくださっても――」

「自分の人生だろう?」

クラリスは黙った。

不意に。胸の奥へその言葉が落ちた。


ー自分の人生


父なら決めただろう。

服も、教師も、何を学ぶかも。

誰と結婚するかも、どこへ行くかも、何をするかも。


けれど、この叔父は妙なところで突き放す。

――自分で決めろ。

クラリスはしばらく考えた。

そして。

「……クリス」

「安直だな。クラリスから取ったのか?」

「いいでしょう、別に」

「そうよ」

帽子を深く被る。

「忘れないため」

「何を?」

クラリスは鏡を見る。

そこには、男物の服を着た、奇妙な少女がいた。

「私がクラリスだってことを」


男になりたいわけではない。女であることを捨てたいわけでもない。

ただ、女では開けてもらえない扉がある。

ならその扉を開けるまで、少しだけ別の名前を借りればいい。

「クリスにする」

ヴィクトルはそれ以上何も言わなかった。

納屋の扉を開ける。眩しい光が差し込んだ。

そして。

「分かった。行くぞ、クリス」

初めて、その名前で呼ばれた。

クラリスは瞬きをした。胸の奥が妙にくすぐったかった。

「……うん」

ヴィクトルが小さく笑った。


男として外へ出ることは、クラリスが想像していたより、遥かに難しかった。

「兄ちゃん、これ持ってくれ」

村の男から突然、大きな麻袋を渡された。

「え?」

「こっちだよ」

「わ、私――」

男が妙な顔をする。

横から、ヴィクトルが咳払いした。

クラリスはハッとした。

「……俺?」

男がさらに怪訝そうな顔をした。

「そうだよ。兄ちゃんだよ」

「あ、ああ。分かった」

袋を抱える。

「――っ!」

重い。

中身は穀物だった。

腕が一気に下へ引っ張られる。

「大丈夫か、兄ちゃん?」

「もちろん!」


意地で運んだ。

その日の夜、腕が上がらなくなった。


「叔父様」

「なんだ」

「お身体はどうですか? 私、今本当に自分がひ弱な女だと痛感しています。男になるには体力もしっかり鍛えないといけませんね。」

「貴族令嬢だったんだから仕方ない。ま、庶民は男女関係なく、これくらいは運んでるがな」


そしてヴィクトルは、呆れたように付け加えた。

「それと、『私』はやめろ」

クラリスが顔をしかめる。

「叔父様と二人きりでしょう?」

「今はな。だが、咄嗟のときに出るぞ」

「……じゃあ、どうすれば?」

「俺」

「俺?」

「今日からクリスでいる間は『俺』だ」

クラリスは露骨に嫌そうな顔をしつつも、俺、俺、とつぶやき

「慣れないとといけませんわね」

「語尾」

「……慣れないといけない」

「もう一度」

「俺には慣れないといけないな」

「そのうち慣れる。慣れなきゃ学院には入れんぞ」

「そうですね・・」


それからだった。

クラリスの修業に、もう一つ「言葉づかい」という厄介な項目が加わった。

クリスでいる間は、決してクラリスに戻らない。


またある日は、領地の若い書記官に、いきなり肩を組まれた。

「なあ、クリス!」

「うわっ!」

反射的に飛び退いた。

書記官が目を丸くする。

「……どうした?」

「な、何でもない」

「変な奴だな」

笑いながら去っていく。

しばらくして、それを見ていたヴィクトルに言われた。


「今のは駄目だ」

「だって急に触るから!」

「男同士で肩を組むくらい普通だ」

「……~!」

言いかける。

止まった。

ヴィクトルがじっと見る。

「……何だ」

「いや」


ヴィクトルが言う。

「今ので分かるだろう?」

「……はい」


「学院へ入れば、こんなものでは済まんぞ。あっちでは寮生活だしな。」

「…………」


「周りは完全に男ばかり。むっさい男、男、男だ。着替えもある」

「…………」


「あ、風呂もあるな……」


二人は黙った。

風が吹き、木の葉がざわざわと鳴った。


「叔父様」

「なんだ」

「お風呂のこと、考えてなかったでしょう」

「今考えている」

「今!?」

問題は山積みだった。


それでも、クラリスはやめなかった。

歩き方。座り方。声。男同士の距離。言葉遣い。食べ方。服の扱い。

人前で驚いたときの反応。誰かに急に話しかけられたときの返事。

そして、一人称。


最初の頃は何度も「私――」と言ってしまったが、その都度、ヴィクトルに訂正された。


夏が過ぎた。

麦畑が黄金色になった。


秋が来た。

領地の木々が赤く染まった。


やがて冬。

雪が畑を白く覆った。


その頃には、村でクリスとして過ごしている間、一人称を間違えることはほとんどなくなっていた。

だが、ヴィクトルは油断を許さなかった。

「普段できるのは当たり前だ。問題は焦ったときだ」

「分かってる」


「寝起き」

「俺」


「怒ったとき」

「俺!」


「驚いたとき」

「俺!」


「転んだとき」

「俺!!」


「よし」

「何なんだよ、この訓練!」遊ばれているような気がしたクラリスは、つい口答え。

ヴィクトルは笑った。


だが、その訓練が必要な理由はクラリスにも分かっていた。

一度でも間違えれば、自分だけの問題では済まない。

何も知らない実家の人間まで巻き込む可能性がある。

だからこそ、クリスでいる間だけは、完璧にクリスでいなければならない。


そして、思いもよらない難敵が現れた。

生活だった。

「叔父様」

「今度はなんだ」

「シャツの皺がうまく取れません」

「アイロンを掛けろ」

「どうやって?」

ヴィクトルが顔を上げた。

「……お前、今までどうしてたんだ?」

「マーサが」


ヴィクトルは「ああ、そうか」と額を押さえた。

「お前、文官になる前に一人で生きられるようになれ。男子寮にマーサは連れていけん!」


クラリスは黙った。

正論だった。

こうして修業項目に、身の回りの一切を整える項目が追加された。

最初に洗ったシャツは皺だらけになったが、それでも一つずつ覚えた。


ヴィクトルが最も厳しかったのは、男装ではなかった。

勉強だった。

王立中央学院の入学試験は難関である。

騎士科。

文官科。

いずれも王国中から優秀な若者が集まる。

中でも文官科は、将来、王国の行政そのものを担う人材を育てる場所だった。

クラリスは第二王子妃候補として、一般の令嬢より遥かに高度な教育を受けていた。

王国史。外国語。外交。法の基礎。諸外国の王家や貴族社会。経済。


それでも、ヴィクトルの書斎には知らない世界が山ほどあった。

地方行政。税制。治水。交易。農業。司法。都市計画。

国家予算。外交文書の実例。軍の兵站。国境管理。


クラリスは夢中になった。

知れば知るほど、さらに知りたいことが増える。

そして、知識を得るほど――。

「この予算、削れると思う」と、具体的に見えるものが増えた。

ある日、クラリスは帳簿の一行を指した。


「橋の補修?」

「去年も補修しているでしょう? 今年は後回しでも――」

「じゃあ見てこい」

「え?」

ヴィクトルは帳簿を閉じた。

「クリス。現場を見てこい」


その橋は、クラリスが想像していたより、ずっと小さかった。

豪華でもない、立派でもない、古びた石橋だった。

だが、子供が渡る。老人が渡る。荷車が渡る。農作物を積んだ馬車が、毎日そこを通る。

橋の下では、雪解け水で増した川が、轟々と音を立てて流れていた。

「ここが落ちたらな、向こうの村まで半日遠回りだ」「秋の収穫時期にそれをやられたら困る。荷馬車が一日に何往復もするからな」

村人が言った。


クラリスは黙った。


石橋を見る。ひびが入っている。一部は雨水で削られていた。

帳簿では、たった一行だった。

ー橋梁補修費。

高いと思った。削れると思った。でも、目の前では人が暮らしていた。

子供が橋を駆けていく。向こう岸から籠を背負った老婆が歩いてくる。

荷車の車輪が石を踏む。その一つ一つをあの数字が支えている。


帰り道。

クラリスは珍しく静かだった。

「叔父様」

「なんだ」

「私、間違えたわ」

今日はもう男装を解き、屋敷へ戻る途中の夕暮れの中。二人の影が街道へ長く伸びている。

ヴィクトルは振り向きもしなかった。

「そうだな」


少し歩いてからヴィクトルが言った。

「だから現場を見るんだ。帳簿だけで全部分かるなら、役人は王都から出なくていい」

クラリスは叔父を見る。

「…………」

「行動して見えるものがある。そして数字の向こうには人間がいる。忘れるな」


クラリスは橋を振り返った。

恥ずかしい。

でも…不思議と嫌ではなかった。

次はもっと考えよう。数字の向こうに何があるのか。

ちゃんと見よう…。そう思った。




一年ほど経った頃。

母が領地を訪れた。

春だった。

庭では小さな花が咲き始め、冬の間、灰色だった木々にも若い葉が戻っている。


「まあ……」

久しぶりに娘を見た母は、しばらく言葉を失った。

「何です?」

「少し……日に焼けた?」

クラリスの心臓が跳ねる。

「散歩をするようになったから」

「そう」

母はクラリスの手を取った。

「手も少し荒れているわ」

指先には。

紙で切った小さな傷。馬の手綱を握ったときにできた硬い部分。

「……庭仕事もするの」

少し苦しい。

母は不思議そうだった。それでも追及はしなかった。

それより娘の顔をじっと見る。

「元気そうね」

その声には、心からの安堵があった。

「ええ」

「王都にいた頃より……」


母は少し寂しそうに笑った。

「ここでの暮らしが合っているのね」

「……うん」


母は数日滞在し、王都へ戻った。

クラリスは、遠ざかる馬車をいつまでも見送った。

心が少し痛む。母は知らない。

娘が何をしようとしているのか……。



さらに季節が巡った、十八歳の春。

王立中央学院への入学を目前に控えたある日、母が再び領地を訪れた。

数日の滞在を終え王都へ戻る日、マーサも同行することになった。

アーヴェル家にいる父への報告もある。

そしてマーサ自身も久しぶりに王都の家へ帰りたがっていた。

彼女には王都には息子も娘もいて、特に娘のレベッカ――ベッキーはアーヴェル伯爵邸でメイドとして働いている。


「たまにはゆっくりしてきなさい」

クラリスが言った。

マーサは嬉しそうだった。

「では、お言葉に甘えまして」

「ベッキーにもよろしく」

「ええ」

「お土産買いすぎないようにね」

「お嬢様こそ」

マーサがじろりと見る。

「私がいないからと無茶をなさいませんよう」

クラリスはにっこり笑った。

「もちろん」

横にいたヴィクトルが、すっと目を逸らした。


馬車が動き出す。

クラリスは手を振った。

母とマーサを乗せた馬車が小さくなる。街道の向こうへ。さらに小さく。

やがて完全に見えなくなった。


沈黙。


クラリスがゆっくり手を下ろした。

ヴィクトルが言う。

「……行ったな」

「ええ」

「王都まで三日。マーサは向こうで数日休む。戻ってくるまで一週間以上」

クラリスは屋敷へ向き直った。

「十分よ」

「今更だが、本当にやるのか?」

クラリスは叔父を見る。

二年前なら、この問いに、一瞬くらい迷ったかもしれない。

今は違う。

「そのための二年間でしょう?」


鋏が、クラリスの葡萄酒色の髪を挟んだ。

シャキン。

一房……床へ落ちる。


クラリスは鏡を見た。

もう一度。……シャキン。

また一房。


母が好きだと言ってくれた髪だった。

マーサが何年も手入れしてくれた。

ベッキーと幼い頃、互いの髪に花を挿して遊んだこともある。

夜会の日、侍女たちが時間をかけて結い上げた。

第二王子妃候補となった日には、母が自分で髪飾りを選んでくれた。

床へ落ちていく、十六年間の自分が、少しずつ。


チクリと胸が痛んだ。

「……まだやめられるぞ」

後ろからヴィクトルが言った。


クラリスは鏡越しに叔父を見る。

そして、シャキン。迷いごと切り落とした。

肩が急に軽くなり、鏡の中には見慣れない顔。

短いボルドーの髪。白い肌。大きな瞳。整った鼻梁。


まだ、女に見える。

いや? 男に見えないこともない。

年齢より少し幼く見える、美しい少年。


髪を整えたクラリスを見て、ヴィクトルがぽつりと言った。

「さよなら、クラリス。よろしくな、クリス。」

クラリスは首を振って少し笑う。

「違うよ。彼女にはしばらく隠れててもらうだけ」


クラリスは消えない。これは自分だ。女であることも捨てない。

ただ扉の向こうへ行くまで、少しだけ隠す。


クラリスは立ち上がり、用意してあった男物のシャツへ袖を通す。

ズボン。革のベルト。上着。

そして鏡の前へ戻る。

もうドレス姿の少女はいなかった。



背筋を伸ばし少し力を抜く。顎をほんの少し上げる。

足を肩幅ほどに開き、二年間で身体に叩き込んだ立ち方。

声もわずかに低くしてヴィクトルを見返した。

「――俺は、クリス・アーヴェルだ」

その瞬間。

ヴィクトルの目から、ほんの少しだけ笑みが消えた。

目の前にいるのは、もう兄の娘ではなかった。

少なくとも、そう見えた。

そしてヴィクトルは笑った。

「よし」

一度、頷く。

「行ってこい、クリス!」




数日後。


岩山を縫うように続く街道の向こうに、巨大な建造物が見えた。

クリスは馬車の窓から顔を上げた。

「……あれが」

王立中央学院。王国の中央部。

切り立った山々に囲まれた高地に築かれた学院だった。

古い砦を拡張して造られたという。

灰色の石壁。高い塔。巨大な正門。


その背後には、さらにいくつもの校舎や寮が段々に建っている。

騎士科と文官科。

王国の軍と行政を担う者たちが学ぶ場所。

馬車を降りた途端、空気が違った。街の中心部より冷たい。

山から吹き下ろす風が、短くなった髪を揺らした。

鐘が鳴っている。

馬の嘶き。荷車の音。男たちの声。


「そこ、荷物を置くな!」

「新入生は受付へ行け!」

「騎士科の剣は武器庫へ!」

制服姿の学生たちが行き交っている。

濃色の上着。丈夫そうなズボン。革靴。


騎士科らしい大柄な青年が、剣を肩へ担いで笑っている。

文官科らしき学生たちは大量の本を抱えて歩いている。

男。

男。

男。

右を見ても、左を見ても。

男。

当然分かっていたが、目の前に見ると圧倒される。

しみじみ夢じゃない現実だと実感する。


現在、王立中央学院で正規の学生として入学を認められているのは男子だけ。

そして全寮制。


すこし怖い。

でもそれ以上に、胸が高鳴っていた。

二年間ここへ来るために準備した。試験を突破した。

ヴィクトルの手を借り、クリス・アーヴェルとして学院へ入るための身分も整えた。

ここから先は誰もクラリスを助けてはくれない。

一歩 正門へ近づく。

大きな門柱が頭上に影を落とす。

その向こうに自分がずっと行きたかった場所がある。


クリスは息を吸いこみ、一歩門をくぐった。

そのときだった。


どん!


肩がぶつかった。

思った以上に強い衝撃。

「っ」

身体がよろめく。


相手の手が反射的にクリスの腕を掴んだ。

大きな手だった。

「悪い」

低い声。

「いや、こっちこそ――」

顔を上げる。

クリスの呼吸が止まった。


黒い髪。

精悍になった横顔。


二年前より。

少し大人びて、肩も広く、背も伸びた。

少年だった面差しから、青年へ変わり始めている。

けれど。

忘れるはずがない。

王宮の夜会で、何度も遠くから見た。

話したこともある。

父から。

お前がいずれ隣へ立つかもしれない方だ。

そう言われ続けた男。


第二王子レオン。


――どうして。


頭が真っ白になる。


――どうして、あなたがここにいるの。


レオンが、クリスを見ていた。

黒い瞳。


一秒。

二秒。


クリスは息をすることさえ忘れた。

腕を掴まれている場所から体温が伝わってくる。

レオンの眉がわずかに寄った。何かを探すように。クリスの顔を見ている。

そして。


「……お前」


心臓が大きく跳ねた。


レオンが目を細める。

「どこかで会ったか?」


――終わった。


クリスは学院の巨大な正門の下で立ち尽くした。


まだ、学院生活は一日も始まっていないのに……




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