第二話 私にも、できること
叔父ヴィクトルのいる領地の屋敷まで馬車に揺られること三日。
王都を離れるにつれ、窓の外の景色は大きく変わっていった。
初めのうちは、どこまで行っても石造りの家々が続いていた。
商人の看板が軒を連ね、朝になると市場へ向かう荷車が街道を埋める。
それが半日走ると家々の間隔が広がり。
翌日には、窓の外を占めるものは建物より畑の方が多くなった。
そして三日目。
クラリスが目を覚ましたとき、馬車は広大な麦畑の中を走っていた。
「……すごい」
思わず窓を開けると冷たい風が頬を撫でた。
見渡す限りの麦畑。まだ青みを残した穂が、風が渡るたびに一斉に傾き、波のように遠くへ広がっていく。
その向こうには、霞んだ低い山々。
街道では荷馬車が行き交い、畑の脇では農夫たちが腰を伸ばして汗を拭っている。
湿った土。草。馬。
王都では嗅いだことのない匂いが、開いた窓から次々と入り込んでくる。
クラリスは馬車の窓から身を乗り出すようにして、それを眺めた。
「お嬢様」
向かいに座る侍女が、呆れた声を出した。
「何?」
「少しはお行儀よくなさってください」
「誰も見てないじゃない」
「私が見ております」
「あなたはいいの」
「よくありません」
クラリスは笑った。
侍女――マーサは深いため息をついた。
幼い頃からクラリスの身の回りを世話してきた女である。
クラリスが歩き始めた頃も。
初めて夜会へ出た日も。
第二王子妃候補に選ばれた日も知っている。
だからこそ。
この三日間のクラリスの変貌に、まだついていけていないらしい。
王都を出てから、身体が妙に軽かった。
“心を病んだ令嬢”を演じる必要もない。
泣く必要もなければ、夜中に裸足で廊下を歩き回る必要もない。
何より――。
明日の予定がない。
朝から王家の系譜を暗唱する必要もない。外国語の教師も来ない。
舞踏も。
礼法も。
宗教史も。
外交儀礼もない。
第二王子妃候補になってからは、国内の有力貴族の勢力関係から、近隣諸国との外交史まで叩き込まれた。嫌いではなかった。むしろクラリスは、勉強そのものは好きだった。
新しい言葉を覚え、複雑な系譜が頭の中で繋がる。
過去の戦争が、現在の国境や条約へどう影響したのかを知る。
そういうことは面白かった。
だからこそ、数いる令嬢の中から第二王子妃候補の一人に選ばれたのだという自負も、少しはあった。
けれど、いつからだろう。
学ぶことが「王子の妻になるために必要なこと」になってしまったのは。
クラリスは流れていく麦畑を眺めながら、ふと思った。
「ねえ」
「はい」
「療養って、何をすればいいの?」
マーサは少し考えた。
「……何もしないことでしょうか」
クラリスは振り返った。
「何もしないか~」
「はい」
「一日中?」
「おそらく」
「明日も?」
「療養中ですから」
「明後日も?」
「もちろん」
クラリスは黙った。
馬車の車輪が、がたん、と石を踏んだ。
――それは困る。
三日前までは、何もしなくていい生活を夢見ていたはずなのに。
自由とは・・・思っていたより退屈なのかもしれない。
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ヴィクトル・アーヴェルの屋敷へ着いたのは、午後もかなり傾いた頃だった。
丘陵地の中腹に建つ、大きな石造りの屋敷だった。
古い。
けれど、荒れてはいない。
何世代にもわたって使われてきた建物なのだろう。
石壁には蔦が這い、玄関の太い柱の根元には少し苔がついている。
王都のアーヴェル邸とは、まるで違った。左右対称に刈り込まれた庭木もなければ、来客に家格を見せつけるための彫像もない。
庭師が定規でも当てたように整えた花壇もない。
木々は好き勝手に枝を伸ばしていた。
鶏まで歩いている。
そして。
屋敷の横には、かなり大きな菜園があった。
キャベツ、豆、香草、根菜らしき葉。
クラリスは馬車から降りるなり、それを見た。
「……葱?」
「第一声がそれか」
低い声がした。
クラリスが振り向くと、玄関前に、一人の男が立っていた。
父より少し若い、飾り気のない濃色の上着。
首元も王都の貴族たちのように窮屈に締めてはいない。
白いものの混じり始めた髪は、きちんと整えられてはいるが、流行とは無縁だった。
父と同じ血を引いていることは顔立ちを見れば分かる。
けれど、纏っている空気は、まるで違った。
ヴィクトル・アーヴェル。
父の弟。
かつて長く王宮で文官を務め、ある日突然、その職を辞した男。
今では社交界にもほとんど顔を出さず、領地へ引っ込んで暮らしている。
ー変人。
ー偏屈。
ー王宮で何か問題を起こした。
ー女嫌い。
ーいや、男色らしい。
ー実は国王と喧嘩した。などなど
王都では好き勝手な噂が流れていた。
本人に会うのは、何年ぶりだろう。
クラリスは慌てて姿勢を正した。
スカートの裾を摘む。
「ご無沙汰しております、叔父様」
完璧な礼。
ヴィクトルはクラリスを眺めた。
顔。
髪。
ドレス。
靴。
そしてまた顔へ戻る。
「元気そうだな」
クラリスの動きが止まった。マーサも固まった。
「…………」
「…………」
風が吹いた。菜園の葱が揺れた。
「心労で伏せっていると聞いたが?」
クラリスは目を伏せた。
「……田舎の空気が、身体に合ったのでしょうか」
「まだ一歩も屋敷に入っていないぞ」
「…………」
ヴィクトルはクラリスをじっと見る。
クラリスも黙っている。
マーサだけが、二人の顔を交互に見ていた。
やがてクラリスは、そっと顔を上げた。
「叔父様」
「なんだ」
「父には内緒にしていただけます?」
ヴィクトルの眉が、わずかに上がった。
なぜ元気なのか、何をしたのか、一切聞かなかった。
「入れ」
それだけ言って背を向けた。
クラリスは、その背中を見て少しだけ、この叔父が好きになった。
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療養生活は、十日で限界を迎えた。
最初の三日は楽しかった。
初日から三日目までは、毎日朝寝坊した。
陽が高くなるまで寝台にいるという背徳感を味わった。
庭を散歩した。
好きな時間にお茶を飲んだ。
誰にも「午後は舞踏です」とも、「外国語の先生がお待ちです」とも言われない。
最高だった。
四日目。
屋敷の庭をほぼ全部歩いた。
五日目。
馬小屋へ行き、馬丁から馬の蹄鉄について長々と説明を受けた。
六日目。
料理場へ入って、大鍋の中を覗き、焼きたてのパンを摘まみ。
料理人から「お嬢様がおられると仕事になりません」と追い出された。
七日目。
村まで一人で歩こうとしてマーサに捕まった。
「療養中のお嬢様が一人で村まで歩いてどうするのです!」
「散歩よ」
「片道一時間ございます!」
「ちょうどいいじゃない」
「よくありません!」
八日目。
クラリスは本を読み始めた。
九日目。
持参した本をほぼ読み終えた。
十日目。
昼食を終えてもすることがなく、窓辺の長椅子に横になり、天井を眺め、時計の振り子の音を百回ほど数えたところで、とうとうクラリスは立ち上がった。
――無理。
こんなの耐えられない!
廊下へ出て、何となく屋敷を歩き、普段あまり入らない一角まで来た。
そこで、一つの扉が目に入った。
ヴィクトルの書斎。
クラリスは少し迷った。
そして。
扉を開けた。
「…………」
その場で立ち止まった。
壁一面が、本だった。
天井近くまで続く書棚、革張りの本、布張りの本、古びて背表紙の文字さえ読めなくなったもの。
窓から差し込む午後の日差しの中で、細かな埃が金色に舞っている。
古い紙と革。わずかにインク。不思議な匂いがした。
王国法、外交史、財政、軍制、農政、水利。
各国の商業制度。
歴代の条約集。
王都の父の書斎にも本はあった。
けれど種類が違う。こちらは仕事をするための本だ。
それだけではない。本棚の一角には、紐で綴じられた古い文書が大量に並んでいた。
クラリスは表紙に手書きで記されている一冊を引き抜いた。
――北部三州穀物税制改定案。
「……?」
本ではない。
実際に王宮へ提出された政策案だった。
ページをめくると書き込みだらけだった。余白に数字が並んでいる。線が引かれている。
誰かが書いた文章を別の誰かが消し、その横に反論を書き込んでいる。
別の棚から一冊取る。
――西部河川改修計画。
その隣。
――南部商業都市関税見直し案。
さらに。
――隣国通商交渉議事録。
クラリスの目が輝いた。
これは教科書ではない。
王子妃教育で税制の仕組みは習ったし、各国との条約も学んだ。
主要産業も、易路も。
王国財政の基礎も知っている。
けれどその制度が作られる途中を見たことはなかった。
完成した条約ではなく、その条約を結ぶために、何を要求し、何を諦め、どこで折り合ったのか。
成立した政策ではなく、採用されなかった案。
誰かが書き込んだ反論、書き直された数字。
そして大きく書かれた。「却下」の文字。
「……面白い」
気がつけば、クラリスは絨毯の上へ座り込んでいた。
一冊読む、次を取る。また読む、分からない言葉が出る。
別の本を探す、戻る。
読み直す、そういう意味か。なら、こちらの数字は?
気になる、また別の資料を開く。
頭の中で、今まで点だった知識が次々と線になっていく。
気づけば、窓から差し込んでいた白い午後の光が、橙色へ変わっていた。
「人の書斎で何をしている」
背後から声がして、クラリスは飛び上がった。
「きゃっ!」
振り返ると、ヴィクトルが立っていた。
「申し訳ありません!」
「それは構わん」
ヴィクトルは床を見る。開かれた本。資料。その真ん中に座り込んだ姪。
「それを読んでいたのか」
「はい」
「分かるのか?」
クラリスは少しムッとした。
「全部ではありません」
「そうだろうな」
「でも、ここ」
クラリスは立ち上がることさえ忘れ、文書を開いた。
「この通商交渉です。最終的な条約では王国側が関税を譲歩したと習いました」
「ああ」
「でも、最初から関税を守る気がなかったんですね」
ヴィクトルの目が動いた。
クラリスは気づかない。
夢中だった。
「こちらを譲る代わりに、港湾使用権を取るつもりだった。だから最初に相手が嫌がる条件をわざと出して――」
「誰に教わった」
クラリスが顔を上げる。
「今、読みました」
「……そうか」
ヴィクトルはそれだけ言った。
だがもう一度、姪が持つ文書を見た。
それは新人の文官に読ませても、交渉の意図を掴むまで少し時間がかかる資料だった。
「夕食だ」
「もうそんな時間?」
「窓を見ろ」
クラリスが振り返る。
「あ……」
空が赤い。
何時間ここにいたのだろう。慌てて資料を片付けるクラリスの背中を、ヴィクトルは黙って見ていた。
その日から、書斎の扉に鍵が掛かることはなくなった。
それからの日々は、あっという間だった。
クラリスは本を読み、資料を読み、分からなければヴィクトルを追いかけた。
「叔父様」
「なんだ」
「この数字は?」
「自分で調べろ」
翌日。
「叔父様」
「……なんだ」
「調べました」
「そうか」
「分かりませんでした」
「…………」
「三冊読みました」
ヴィクトルが顔を上げる。
「三冊?」
「はい。でも分からないから聞いてるんです」
深いため息。
「そこへ座れ」
教えてくれた。
また別の日。
「叔父様」
「今度はなんだ」
「この政策、失敗してません?」
ヴィクトルの手が止まる。
「……どれだ」
クラリスが差し出した資料を見る。
「教本では成功したと習いました」
「成功したことになっている」
クラリスが顔を上げた。
「なっている?」
「ああ」
「でも」
クラリスは資料を指す。
「この政策を実施した翌年から数字が悪化してます」
「そうだな」
「その次の年も」
「ああ」
「だったら失敗じゃないですか」
ヴィクトルが笑った。
初めて見る笑いだった。
声を上げるでもない。
口元だけに、どこか皮肉そうな笑みが浮かべて「王宮でそれを言えば嫌われるぞ」
「どうしてです?」
「正しいからだ」
クラリスは眉を寄せた。
「意味が分かりません」
「そのうち分かる」
「今教えてください」
「嫌だ」
「どうして!」
「面白いからだ」
「叔父様!」
ヴィクトルはまた笑った。
彼はその笑顔の奥で、別のものを見ていた。
昔、まだ若かった頃の自分。正しいものは、正しいと言えばいい。良い案なら採用される。
能力があれば評価される。理屈を尽くせば、人は理解する。
――そう信じていた頃の自分を。
ある午後。
外では強い風が吹いていた。
屋敷の窓が時折、かたかたと鳴る。ヴィクトルは執務室で領地から上がってきた報告書を読んでいた。
向かいではクラリスが、いつものように別の資料へ目を落としている。
ここ最近、この光景が当たり前になっていた。
「叔父様」
「今度は何だ」
「この村、今年の税を減らした方がよくありません?」
ヴィクトルが顔を上げた。
「理由は」
クラリスは帳簿を差し出した。
「三年前から収穫量が落ちています。去年は川も氾濫している。それなのに税率がほとんど変わってない」
「川の修復に金が要る」
「分かってます」
クラリスは別の紙を出した。
「だから全部下げるんじゃなくて、被害の大きかった地区だけ一年猶予するんです。その代わり――」
説明する。
ヴィクトルは黙って聞いていた。
最初は、面白がっているだけだと思っていた。本好きの娘なのだろう、と。
ところが違った。
クラリスは読むだけではない。数字の変化を見つける。前年度と比較する。原因を探す。
そして、では、どうすればいいのかを考える。
「……誰がそんなことをしろと言った」
「誰も」
「では、なぜ調べた」
クラリスはきょとんとした。
「気になったからです」
「…………」
「変ですか?」
「いや」
ヴィクトルは資料を受け取った。
もう一度読む。荒く、抜けもある。実務を知らない人間の案だ。
だが、十六歳の娘が誰に命じられたわけでもなく、領地の帳簿を読んでここまで考えた。
「続けろ」
「はい」
その日から、クラリスはヴィクトルの仕事を少しずつ手伝うようになった。
最初は資料整理、次に計算、やがて簡単な報告書。
間違えた。
何度も赤字を入れられた。
「根拠」
その一言だけ書かれて戻ってくる。書き直す。
今度は
「数字が古い」
また書き直す。
次は。
「誰が金を出す」
「もう!」
クラリスは机を叩いた。
「叔父様、性格悪い!」
「政策は善意で動かん」
「分かってます!」
「分かってないから書き直せ」
悔しい。だから調べる。書き直す。また出す。そして、クラリスは夢中になった。
自分が学んできたものが初めて誰かの生活につながっていく。
外国語も、歴史も、数学も、礼法さえ、交渉の場では意味を持つ。
王子の妻になるためだけの知識だと思っていたものが、別の形で使える。
いやもしかすると最初から、知識とは誰かの妻になるためのものではなかったのではないか。
そんな当たり前のことに、十六歳になって初めて気づいた。
そしてある日。
ヴィクトルから返された報告書の端に、いつもの赤字がなかった。
クラリスは紙を裏返す。
何もない。
もう一度表を見る。
下の方に。
一言だけ記されていた。【採用】。
「…………」
クラリスはその文字を見つめた。
胸の奥がじわりと熱くなった。
第二王子妃候補に選ばれた日を思い出した。
あの日も嬉しかった。
母が泣いた。父が珍しく褒めてくれた。屋敷中がお祝いをした。
でも今、たった二文字を見ている方が、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
これはアーヴェル家の娘だからもらったものではない。
容姿でも、血筋でも、婚姻でもない、自分が考えたものだ。
「……採用」
もう一度、小さく読んだ。自然と口元が緩んだ。
その紙をクラリスはその後、ずっと捨てなかった。
「叔父様」
夕食の席、窓の外には夜の闇が広がっていた。
暖炉では薪が静かに燃え、銀の食器に、その赤い光が揺れている。
「なんだ」
ヴィクトルは肉を切りながら答えた。
「私、文官になりたいです」
ナイフが止まった。
ほんの一瞬。
それから再び動いた。
「……そうか」
クラリスは少し意外だった。
もっと驚くと思っていた。
「止めないんですか?」
「止めてほしいのか」
「いいえ」
「なら聞くな」
「でも」
クラリスは身を乗り出した。
「男でないとなれません」
「知っている」
ヴィクトルはスープを飲んだ。
「では話は終わりだ」
「ですから、叔父様にお願いがあります」
ヴィクトルの手が止まった。
嫌な予感がして、ゆっくり顔を上げる。
クラリスは、とてもいい笑顔をして、「私を男にしてください」
ヴィクトルは無言になった。
暖炉で、薪がぱちんと爆ぜた。
「…………」
「…………」
「もう一度言ってみろ」
「男として、王立中央学院の文官科を受験させてください」
「断る」
即答だった。
「なぜです?」
「犯罪だからだ」
「まだ何もしてません」
「今からしようとしているだろう」
「でも能力があれば、何か道はないのですか?――」
ヴィクトルは額を押さえた。
「お前は自分が何を言っているか分かっているのか」
「分かっています」
「身分を偽る。性別を偽る。虚偽の書類を提出する。学院を欺く」
一つずつ指を折る。
「どこからどう見ても犯罪だ」
「……そう言われると、かなり悪いことに聞こえますね」
「かなり悪いんだ!」
「でも――」
「バレればお前だけでは済まん」
クラリスの表情が変わった。
「当然だ、一族に波及する」
クラリスは黙った。
ヴィクトルはそれを見て「だから諦めろ」
長い沈黙のなか、暖炉の火が揺れた。
「……嫌です」
ヴィクトルが眉を寄せる。
クラリスは顔を上げた。
「方法を考えます」
「クラリス」
「実家に迷惑を掛けない方法も」
「そんなもの――」
ヴィクトルは言葉を止めた。
ほんの一瞬。
クラリスは見逃さなかった。
「ありますよね?」「今、何か考えましたね」
「考えていない」
「嘘です」
「お前な」
「叔父様は元王宮文官でしょう?」
「だから何だ」
「制度のことなら、私よりずっと詳しい」
「俺を犯罪の相談役にするな」
「お願いします」
クラリスは頭を下げた。
今度は冗談ではなかった。
「私……やってみたいんです」
ヴィクトルは黙った。
「王子妃になるためじゃない。お父様のためでも、家のためでもない」
ゆっくり言葉を探す。
「初めてなんです」
「何が」
「自分で、これをやりたいって思ったのが」
ヴィクトルの目が僅かに揺れた。
「だから……駄目だと言われただけで諦めたくありません」
沈黙が落ちた。
長い。
長い沈黙だった。
やがてヴィクトルは椅子にもたれた。
「……昔な」
ぽつりと言った。
「俺も似たようなことを言った女官に一人、とんでもなく頭の切れる女がいた」
クラリスが顔を上げる。
「女官?」
「ああ。そこらの若い文官を十人集めるより使えた」
ヴィクトルはグラスを手にした。
葡萄酒が、暖炉の光を受けて暗い赤に揺れる。
「だが女だった。それだけで終わりだ」
クラリスは黙って聞いた。
「市井にもいた。商人にも、農民にも。学ぶ機会さえ与えれば、とんでもない仕事をするだろうと思う奴が何人もいた」
「……叔父様は、何かしたんですか?」
「したさ」
ヴィクトルは笑った。
自嘲するような笑いだった。
「登用制度を変えろ。家柄だけで役職を決めるな。女にも試験くらい受けさせてみろ。色々書いた」
「どうなったんです?」
「何にもならなかった」
それだけ言った。
短い言葉。
けれどその言葉の中に、何年もの時間があることはクラリスにも感じられた。
「努力した人間が馬鹿を見て、何もしていない人間が家柄だけで上へ行く」
ヴィクトルは窓の外を見た。
真っ暗な窓硝子に、自分の顔が映っている。
「嫌というほど見た」
「だから王宮を?」
「……疲れたんだ」
クラリスは初めて。
“変人の叔父”と呼ばれる男の横顔を、じっと見た。
この人も。
逃げてきたのだろうか。
自分と同じように。
ただ自分よりずっと長く戦ったあとで。
ヴィクトルが再びクラリスを見る。
「だからこそ言っている。簡単じゃない」
「はい」
「お前が思っているより、ずっと面倒な世界だ」
「はい」
「正しいことを言えば通ると思うな」
「……はい」
「努力すれば報われるとも思うな」
クラリスは少し黙った。
「それでも、やってみたいです」
ヴィクトルは目を閉じ、長く息を吐く。
「……まったく」
そして、クラリスには聞こえないほど小さな声で呟いた。
「兄上。お前はこの娘を、何に使うつもりだったんだ……」
「叔父様?」
「何でもない」
ヴィクトルは立ち上がった。
「今夜は寝ろ」
「でも――」
「手伝うとは言っていない」
クラリスの肩が落ちる。
ヴィクトルはそのまま部屋を出ていった。
その夜。
屋敷中が寝静まった頃、ヴィクトルの書斎だけには、まだ明かりが灯っていた。
窓の外では風が木々を揺らしている。枝が時折、窓硝子を掠めた。
机の上には古い法令集。王立中央学院の規則。
貴族子弟の身元保証に関する規定。
ヴィクトルは一冊ずつ開いていった。
頁をめくる音だけが。
静かな書斎に響く。
そして別の引き出しから、古い名簿を取り出した。
眼鏡を掛け直す。
「……遠縁の男子を、後見人が保証する場合」
指が止まった。
読む。
もう一度読む。
椅子へ深く座る。
自分は何をしている。
つい先ほどまで。
あれほど馬鹿なことはやめろと言っていたはずなのに。
それでも頭はもう、どうすれば可能なのか考え始めていた。
発覚すれば誰が責任を取ることになるか。どこまで罪が及ぶか。
兄の家へ火の粉を飛ばさずに済ませるには。
そして――。
第二王子レオン。
ヴィクトルの表情が曇った。王宮にいた頃から感じていた王太子を快く思わない者たち。
第一王子の出生をめぐって、消えずに燻り続ける噂。
第二王子の母方一族。
そして。
そこへ近づいていった、自分の兄。
兄が何も知らないとは、ヴィクトルには思えなかった。
だからこそクラリスが第二王子妃候補から外されたと聞いたとき、口には出さなかったが少し安堵した。
あの娘まであの世界へ巻き込まれる必要はない。
ヴィクトルは法令集へ目を戻した。
蝋燭の炎が揺れた。
「女だから駄目、か」
何十年も前、自分が何度も聞かされた言葉だった。
今さら何かを変えようとは思わない。
王宮での地位もない。出世もいらない。守るべき妻子もいない。
失うものなど、もう大して残っていなかった。
なら一度くらい。
昔、自分が正しいと思ったことに賭けてみてもいいのかもしれない。
ヴィクトルは紙を一枚取り出した。
ペン先をインクへ浸す。
少し考えて。
男の名前をいくつか書いた。
しばらく眺める。
そして。
鼻で笑った。
「……名前くらいは、本人に決めさせるか」
紙を丸めて。
暖炉へ放り込んだ。
炎が紙の端を舐め、赤い火の中へ消えた。
翌朝。
何も知らないクラリスが食堂へ入ってきた。
窓から朝日が差し込んでいる。
昨夜の風は止み、庭では小鳥が鳴いていた。
「おはようございます、叔父様」
「クラリス」
「はい?」
ヴィクトルは新聞を畳んだ。
「昨日の話だ」
クラリスの目が大きくなる。
「はい!」
「条件がある」
一瞬。
クラリスの表情が輝いた。
「まだ何も言っていない!」
ヴィクトルは額を押さえた。
それから真顔になる。
「もしやるなら、中途半端にはやらん」
クラリスも笑うのをやめた。
「はい」
「男として入る以上、卒業まで男として通せ」
「はい」
「途中で怖くなっても、簡単には戻れない」
「はい」
「そして――」
ヴィクトルはクラリスをまっすぐ見た。
「バレたときの責任は、俺が取る」
クラリスの顔から笑みが消えた。
「それは駄目です」
「なら手伝わん」
「でも、私が決めたことです」
「知っている」
「だったら――」
「お前は俺に命じられたことにする」
「嫌です!」
椅子が床を擦った。
クラリスが立ち上がる。
「そんなの卑怯です!」
「生き残るための準備だ」
「叔父様だけが罪を被るなんて――」
「俺にはもう、失うものがほとんどない」
静かな声だった。
クラリスは言葉を失った。
ヴィクトルは続ける。
「兄上の家にも多少は火の粉が飛ぶだろう」
クラリスの顔が曇る。
「お父様たちに……」
「その程度は我慢してもらう」
「でも――」
ヴィクトルの目が、ほんの少し険しくなった。
「十六の娘をここまで追い込んで、俺のところへ寄越したんだ」
クラリスは黙った。
「それくらいは払ってもらうさ」
そして、新聞を開き直す。
まるで話は終わったとでもいうように。
「さて」
「……?」
「まず、お前を男に見せる方法から考える」
クラリスは自分の身体を見る。
長い葡萄酒色の髪。
ドレス。
細い腰。
白い手。
「…………」
ヴィクトルも見る。
「…………」
二人の間に何とも言えない沈黙が落ちた。
クラリスが自分の髪を掴んだ。
「切ります」
即答だった。
ヴィクトルが新聞の向こうから姪を見る。
「惜しくないのか」
クラリスは自分の髪を見る。
幼い頃から何度も褒められた、母が好きだと言ってくれた髪。
毎晩、侍女が時間をかけて梳いてくれた。
王子妃候補として夜会へ出るたび、美しく結い上げられた髪。
十六年間ずっと自分と一緒だった。
指の間から葡萄酒色の髪がさらさらと零れる。
少しだけ胸が痛んだ。それでもクラリスは笑った。
「また伸びます」
ヴィクトルは姪を見た。
そしてほんの少し笑った。
「そうか」
クラリスは髪を握り締める。
これは逃げるためじゃない。あの日、侯爵との縁談から逃げたときとは違う。
今度は行きたい場所へ行くために切る。
――こうして。
クラリス・アーヴェルが消え。
一人の少年が生まれる準備が始まった。
その少年が、やがて名乗ることになる名前は。
クリス。




