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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第一話 私は十六歳で、悪役令嬢になった

初投稿になります。

男装して文官を目指す令嬢クラリスと、彼女を取り巻く人々の物語です。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

王宮の大広間は、いつ見ても息を呑むほど美しかった。


高い天井から、幾重にも垂れ下がる水晶のシャンデリア。

数え切れないほどの蝋燭の炎が、その一粒一粒に反射して揺らめき、

磨き上げられた白い大理石の床へ金色の光を落としている。


楽団が奏でるワルツは軽やかで、弦楽器の旋律に合わせるように、

色鮮やかなドレスの裾が花のように広がっては回った。


胸元に勲章を連ねた男たち。

宝石を散りばめた女たち。

笑い声。

グラスの触れ合う澄んだ音。

香水と葡萄酒、そして窓辺に飾られた白百合の甘い香り。

王国でもっとも華やかな場所だった。


その大広間の中央を、一人の少女が歩いていた。

深い葡萄酒色の髪を結い上げた、十六歳の少女。

クラリス・アーヴェル伯爵令嬢。


背筋を伸ばし、顎を引き、歩幅を乱さない。

踵を高く上げすぎない。

視線を落としすぎない。


誰かと目が合えば、ほんの少しだけ微笑む。

幼い頃から何千回と教え込まれた、貴族令嬢としての歩き方だった。


今夜のドレスは深い青だった。

胸元には小粒の真珠だけを飾り、葡萄酒色の髪には銀細工の髪飾りを挿している。

本来ならば、第二王子妃候補の一人として堂々と歩くために選ばれた装いだった。


けれど――。


クラリスが進むたび、人々の間に奇妙な空間ができた。

ほんのわずかに身体を引く者。


目が合った瞬間、慌てて視線を逸らす者。


逆に、好奇心を隠そうともせず眺める者。


扇が開く。


顔が寄る。


そして彼女が通り過ぎると、その背後から小さな声が追いかけてくる。

「見て……クラリス様よ」


扇の陰から聞こえた。

「このあいだは男爵令嬢を突き飛ばして、怪我をさせたそうよ」


「まあ……」


「以前から随分と高慢な方だったのでしょう?」


「第二王子妃候補に選ばれて、ますます酷くなったとか」


「怖いわね」


くすくす、と笑う声。

クラリスは歩き続けた。

聞こえないふりをすることだけは、ここ数日ですっかり上手になった。


――違う。


心の中でだけ呟く。

私はソフィアを突き飛ばしてなんかいない。


あの日。


薄暗い回廊の向こうから聞こえた、小さな声。

――やめてください。


確かに、そう聞こえた。

だから行った。


男が年若い男爵令嬢ソフィアの腕を掴んでいた。

彼女は壁際へ追い詰められていた。


いつもは明るいソフィアの顔が真っ青で、細い肩が震えていた。

クラリスを見つけたとき。

あの子は確かに――助けを求めるような目をした。


だから。


クラリスは思考を止めた。

胸の奥が冷えていく。

何度説明しても同じだった。


あの男は言った。

『誤解です』


そしてソフィア自身も言った。

『あの方には何もされておりません』

それどころか。

怪我をしたのはクラリスに突き飛ばされたからだと――そう証言した。


どうして。


何度考えても分からなかった。

あんなに怯えていたではないか。

助けを求めるように、自分を見たではないか。


それなのに。

クラリスが説明すればするほど、噂は膨らんだ。


ー身分の低い令嬢を虐げていた。


ー気に入らない令嬢を夜会から追い出した。


ー第二王子レオンに近づく女を許さない。


昨日までは存在すらしなかった話が、翌朝には「誰もが知っている事実」になっていた。


そしていつの間にか、名前まで付いていた。

――悪役令嬢。


誰が最初にそう呼んだのかも知らない。

けれどその言葉だけは、火の粉のように社交界を駆け巡った。


クラリスは唇を噛んだ。

私はただ。

困っている人を助けようとしただけなのに。


大広間の端に立つ第二王子レオンの姿が、ふと視界に入った。

黒い髪。

まだ少年の面影を残しながらも、王族らしい端正な顔立ち。


周囲には数人の若い貴族たちがいた。


レオンはこちらを見ていなかった。

クラリスも声をかけなかった。


彼と特別親しかったわけではない。

妃候補は自分一人ではなかったし、王宮の茶会や祝宴で何度か言葉を交わした程度だ。


それでも。


いつか、この人の隣に立つかもしれない。

そう言われて育てられてきた。


その未来が。


今夜、消える。


その夜。

クラリス・アーヴェルは正式に、第二王子妃候補から外された。


______________________________


「恥ずかしい奴め!」


翌朝。

アーヴェル伯爵邸の書斎に、父の怒声が響いた。


窓の外では細い雨が降っていた。

昨夜の華やかな夜会とは打って変わり、王都は朝から灰色の雲に覆われている。

窓硝子を雨粒が絶え間なく流れ落ち、暖炉の火だけが薄暗い室内を赤く照らしていた。


クラリスは父の大きな机の前に立っていた。

昨夜ほとんど眠れなかったせいで、目の奥が重い。

机には王家から届いた書状が広げられている。


父はそれを拳で叩いたせいでインク壺が小さく跳ねた。

「お前にどれだけ金と時間を掛けてきたと思っている!」


クラリスは俯いた。

「申し訳ありません」


「礼法、舞踏、外国語、歴史、王家の典礼――何のために学ばせた!」


何のため。

そんなことはクラリスにも分かっていた。

複数名選出される第二王子妃候補の一人に選ばれたと知らされた日、それは嬉しかった。

誇らしかった。


アーヴェル家の娘として生まれた以上、良い婚姻を結び、家に貢献する。

まして王族と縁を結ぶことができれば、それ以上の誉れはない。

そう教えられてきた。

そしてクラリス自身も、それを疑ったことなどなかった。


だから王子妃候補としての教育にも耐えた。

遊びたい日も勉強した。

友人たちが芝居を観に行った午後に、一人で王家の系譜を暗記した。

庭に雪が積もった日も、暖炉の前で隣国の歴史を学んだ。

いつか必要になるからと、難しい外国語まで覚えた。

それが自分の役目なのだと思っていた。


それなのに。

たった数日で、すべてが消えた。


「……私は、嘘をついていません」

クラリスは顔を上げた。


父の眉が動いた。

「あの日、私は確かに見ました。ソフィアの腕をあの方が掴んで――」

「まだ言うか!」

「でも――」

「相手の男もソフィア嬢も、お前の話を否定している!」

父の手が再び机を叩いた。


雨音に混じって、乾いた音が響く。


「ソフィア嬢本人が、男から乱暴などされていないと言っているのだぞ。怪我をしたのは、お前に突き飛ばされたからだと!」


「それは……」


分かっている。だから何故ソフィアが嘘をついたのか、やむを得ない事情だったのかが分からないのだ。

クラリスは唇を震わせた。

「でも、私は――」


「もういい」

父は大きく息を吐いた。

怒鳴り疲れたのか、椅子へ深く身体を沈める。


その声に、クラリスは一瞬だけ期待した。

もしかすると。

少しだけでも、自分の話を聞いてくれるのではないか。

父なのだから。

せめて父だけは。


「第二王子が駄目なら、次だ」


クラリスは瞬きをした。

「……次?」


父は机の端から別の書類を取り出した。

「侯爵家から話が来ている」


雨粒が一つ、窓硝子を伝った。

クラリスは書類へ目を落とした。


三十二歳。

侯爵家当主。

数年前に妻を亡くし、幼い子が二人いる。

王宮にも領地にも確かな基盤を持つ、申し分のない家だった。


「先方は、お前の評判についても承知している。それでも話を進めてもよいとのことだ」

クラリスはしばらく黙った。


驚きはした。

だが、結婚そのものに異を唱える発想は、まだ彼女にはなかった。

貴族の婚姻とは、そういうものだからだ。

自分の母もそうだった。

友人たちも、いずれそうなる。十六歳なら決して早くもない。

相手とほとんど面識がないことだって珍しくはなかった。

それでも――。


「……今の私では、先方にご迷惑なのではありませんか」

父が眉を寄せた。


「何?」

「社交界で、私は……あれほどの噂になっています」

クラリスは言葉を選んだ。

「せめて噂が落ち着くまで、お待ちいただいた方が――」


「先方が構わないと言っている」

「ですが」


「何が不満だ」

「不満ではありません。ただ――」


ただ。

何なのだろう。

クラリス自身にも、うまく言葉にできなかった。

胸の中に、何か重たいものが落ちていた。

怖かった。

また何かが、自分の知らないところで決まっていく。


ソフィアを助けた。

悪役令嬢になった。

第二王子妃候補から外された。

そして今度は、別の男の妻になる。


そのすべてが、自分の頭上を通り過ぎていく。

自分の人生の話をしているはずなのに。

そこに、自分だけがいない。


「近日中に先方がお越しになる」

父は書類を閉じた。

「失礼のないようにしろ。今度こそ、アーヴェル家の名を汚すな」


クラリスは何も言えなかった。

窓の外では、まだ雨が降っていた。


数日後。

朝からよく晴れていた。

雨に洗われた王都の空は高く澄み、アーヴェル伯爵邸の白い外壁に冬の淡い陽射しが降り注いでいた。

屋敷は朝から妙に騒がしかった。


玄関広間の床は何度も磨かれ、銀器は曇り一つないほど磨き上げられた。

厨房からは焼き菓子の甘い匂いが漂い、廊下では侍女たちが花瓶を抱えて行き交っている。

客間には新しい花が飾られた。

父の指示だった。


侯爵家の当主を迎えるのだ。

しかも娘の縁談のために失礼があってはならない。


クラリスは、その騒がしさを自室の鏡越しに聞いていた。

侍女たちが葡萄酒色の髪を丁寧に結い上げていく。

髪を梳く櫛が、頭皮を規則正しく撫でる。

今日のドレスは淡い灰青色。

胸元は控えめで、袖も長い。

宝石も小粒の真珠だけ。


悪評の立った娘だからこそ、派手さを避け、慎ましく見せるよう父から指示されていた。

鏡の中には。

大人しく。

品よく。

従順そうな伯爵令嬢が座っている。


――これが私?


自分の顔なのに、少し遠く感じた。

窓の外から馬車の音が聞こえた。

車輪が石畳を踏む音。馬の蹄。


やがて玄関前が俄かに騒がしくなる。

「侯爵様がお着きになりました」

侍女の声に、クラリスの指先が震えた。

膝の上で握り合わせる。


逃げたい。

そう思った自分に驚いた。

なぜ?


相手は悪い人ではない。

会ったことさえないのだ。家柄も申し分ない。

父の言う通り、この状況で自分を迎えてもよいと言ってくれるのなら、むしろありがたい縁談なのかもしれない。それなのに。

胸の奥が狭くなる。

ドレスの胴衣が急にきつくなったような気がした。


「お嬢様?」

侍女が鏡越しに心配そうに見る。

クラリスは息を吸った。

立ち上がる。

「……行きましょう」


応接室には午後の光が差し込んでいた。

大きな窓から入る陽射しが、磨かれた家具の縁を柔らかく照らしている。

銀の茶器から細い湯気が立ち、焼き菓子と茶葉の香りが部屋に満ちていた。


侯爵は、想像していたよりずっと穏やかな男だった。

三十二歳。

クラリスの倍の年齢だ。

けれど威圧感はなかった。

濃い茶色の髪には、よく見ればほんの少しだけ白いものが混じっている。

落ち着いた物腰で、笑うと目元に柔らかな皺ができた。

クラリスが部屋へ入ると、彼はすぐに立ち上がった。


「お会いできて光栄です、クラリス嬢」

「こちらこそ……」

クラリスも礼を返す。

声が少し震えた。

侯爵は気づいたようだった。

けれど、何も言わなかった。


最初は父も同席し、領地の話、今年の作物、王都の天候。当たり障りのない会話が続いた。

やがて父が席を外し、少し離れたところに侍女だけを残して、二人で話す時間が設けられた。


侯爵は自分のことを静かに話した。

亡き妻を深く愛していたこと。

二人の子どもを何より大切にしていること。

上の子は最近、馬に乗りたがって困っていること。

下の子は本が好きで、一度読み始めるとなかなか眠らないこと。

話しているときの侯爵の顔には、父親の顔が浮かんだ。


「再婚を急いでいるわけではありません」

侯爵は穏やかに言った。

「子どもたちのためにも、無理に母親を作ろうとは思っていないのです」

「では、なぜ……私を?」

思わず聞いてしまった。


侯爵は少し驚いたあと、微笑んだ。

「率直ですね」

「申し訳ありません」

「いえ。その方がいい」

侯爵は茶器を置いた。

陶器が受け皿に触れて、小さな音を立てる。


「噂だけで人を判断するのは、あまり好きではありません」

クラリスは顔を上げた。

「それに、今日お会いした限りでは」

侯爵は少し考えてから言った。

「私が聞いていた“恐ろしい令嬢”には、とても見えません」

クラリスは何も言えなかった。

胸の奥が、わずかに痛んだ。


この人は自分の話をほんの少しだけでも聞こうとしてくれている。

父よりも。初めて会ったこの人の方が。


「もちろん、今日すぐに何かを決める必要はありません」

侯爵は続けた。

「いろいろなことが一度に起こったのでしょう。今日は顔を合わせるだけでも構いませんよ」

その言葉に。

なぜかクラリスは泣きそうになった。


――この人に嫁げば。

案外、幸せになれるのかもしれない。


優しい夫。二人の子ども。

静かな侯爵家。


王宮の妃教育からも、社交界の噂からも離れられる。

侯爵夫人として屋敷を取り仕切り。

やがて自分も子を産むのだろう。

穏やかな日々。悪くない。


むしろ。


今の自分には、望外に恵まれた未来なのかもしれない。

クラリスは目の前の男を見た。


大きな手。穏やかな瞳。

亡き妻を語るときに浮かんだ、寂しそうな微笑み。

悪い人ではない。

だからこそ。

逃げ道がなくなるような気がした。


ふと。

十年後の自分が見えた気がした。


この人の隣に座っている。

侯爵夫人と呼ばれている。

子どもがいる。

立派な屋敷がある。

何一つ不自由はない。

けれど。

その人生のどこに。

自分が選んだものがあるのだろう。


「クラリス嬢?」

侯爵の声で我に返った。


「はい」

「顔色が優れないようですが」

本当に優しい。

クラリスは膝の上で手を握った。

爪が掌に食い込む。

「……申し訳ありません」

「謝ることではありません」

侯爵が微笑む。


その優しさが。

今は、苦しかった。

この人が嫌なのではない。

この人だから嫌なのでもない。

では、何が嫌なのか。


その瞬間。

初めて。

ほんの少しだけ分かった。

自分の人生を、自分が知らないところで決められること。

それが怖いのだ。


第二王子妃候補になったときも。

候補から外されたときも。

そして今も。

いつも誰かが決めて。

自分は、

「はい」

と言うだけだった。


――このままでは駄目だ。

「……失礼します」

クラリスは立ち上がった。

侯爵が目を見開いた。

「クラリス嬢?」


奥にいた父も立ち上がる。

「クラリス?」

低い声。

けれどクラリスは振り返らなかった。

応接室を飛び出した。


廊下へ出た途端、窓から射し込む冬の日差しが眩しかった。

ドレスの裾を掴み、走る。

背後で誰かが自分の名を呼んだ。

それでも止まらなかった。


自室へ戻るなり、扉を閉めた。

背中を扉へ預ける。

心臓が激しく鳴っている。

息が苦しい。

髪に挿していた飾りを一つ外した。

次も。

床に落ちた銀細工が、絨毯の上で鈍く光った。


これから逃げる?

どこへ?

金もない。

十六歳の女が一人で宿に泊まることすら難しい。

家出などしたところで、すぐ連れ戻される。


父を説得する?

無理だ。

母は父に逆らわない。

兄なら――。

クラリスは首を振った。

兄は優しい。

けれどきっと、

「父上もお前の将来を考えている」

と言う。

妹はまだ十三歳。

頼れるはずもない。


誰も。

誰も、自分をここから出してはくれない。


クラリスはゆっくり顔を上げた。

鏡の中に、自分がいる。

結い上げた髪。真珠。

淡いドレス。


貴族令嬢。

娘。

妃候補。

未来の侯爵夫人。

誰かが自分につけた名前ばかり。


――追い出してもらうしかない。この家から。

その瞬間、何かが頭の中で繋がった。

クラリスは鏡の中の自分を見つめた。

しばらくして。

その唇が、ほんの少しだけ動いた。




翌朝。

カーテンは閉めたままだった。


薄暗い寝室。昨晩、激高した父に杖で鞭うたれた身体が痛むものの

しばらくの謹慎を言い渡されたクラリスは

計画を実行に移した。


侍女が用意した朝食の盆には手をつけていない。

大きな声で突然奇声を発し「誰かが見ているの」と騒ぐ。

寝台の上で毛布を胸まで引き上げ、震えた。


突然の奇行に駆け付けた母が青ざめる。

「クラリス……?」

ぼんやりと指さし

「窓の外」

「窓?」

母が恐る恐る振り返る。

厚いカーテンの向こうには朝の庭があるだけだ。


「誰もいないわ」

「いるの」

クラリスは虚空を見つめた。

「ずっと……私を見てる」


母の顔から血の気が引いた。


その日以降、食事を取らなかった。

正確には、人前では。


侍女がいなくなった隙に、クラリスは引き出しに隠しておいた焼き菓子を口へ押し込んだ。

喉が渇いた。水を飲む。

そして廊下に足音が聞こえた瞬間、慌てて寝台へ戻った。

――危ない。


こんなことまでしなければならないとは思わなかった。

夜になると、裸足で廊下を歩いた。

石の床は冷たかった。本当に冷たい。

足の裏から身体の芯まで冷える。

――病人って、もっと暖かい格好をしててもいいんじゃない?

そう思ったが、今さら引き返せない。


侍女が近づく。

クラリスは大きく目を見開いた。

「お嬢様?」

「来ないで!」

自分でも驚くほど大きな悲鳴が出た。

侍女が飛び上がった。

――ごめんなさい。

心の中で謝る。


翌日侯爵家から届け物が届いた。

美しい花と、小さな菓子箱だった。

それを見た瞬間、クラリスは床へ落とした。

「いや……」

「お嬢様?」

「いや!」

花瓶は派手な音を立てて割れた。

水が絨毯へ広がり、花が床に散る。


父が飛んできた。「何をしている!」

クラリスは父を見るなり、頭を抱えた。

「来ないで!」

父が固まった。


今までクラリスが父へそんな声を出したことなど、一度もなかった。

父の顔に浮かんだ驚きを見ながら内心でクラリスは思った。

――ごめんなさい、お父様。

そして。

――でも、絶対に負けない。


三日。

五日。

一週間。

母は毎日部屋へ来た、妹も何度か扉の前まで来ていた。

その気配に気づくたび、胸が痛んだ。

――私、最低かもしれない。


演技は、想像以上に大変だったが、とうとう父が医師を呼んだ。


医師はクラリスを診察し、長い時間、母や父とも話した。

脈を取られている間、クラリスは緊張で本当に脈が速くなっているのではないかと心配になった。

「強い心労でしょう」医師が言った。

クラリスは毛布の中で息を潜めた。

「しばらく王都を離された方がよろしいかと」

父が黙った。

「どれくらいだ」

「分かりません。社交界から離れ、静かな土地で療養させることです」

長い沈黙。

暖炉で薪が爆ぜた。

やがて父が言った。

「……ヴィクトルのところへ送る」

クラリスの心臓が跳ねた。


父の弟。ヴィクトル・アーヴェル。

かつて王宮で文官を務め、今は領地で暮らしている変わり者の叔父。

王都からは遠い。かなり遠い。

「これ以上、王都で醜聞を増やされてはかなわん」

父が疲れた声で言った。

「表向きは、急なる病で療養としておけ」


――やった。


身体中が一瞬で熱くなり、叫びそうになった。笑いそうになった。

必死で虚ろな目を作る。


そのとき、父の視線が動いた。部屋の隅に立っていた少女へ。

十三歳の妹。


父は何も言わなかった。ほんの一瞬だった。

それでもクラリスには分かった。

胸の中に、冷たいものが落ちた。

――次は、あの子なのだ。


自分が使えなくなったから、次は妹が家のための婚姻を背負う。

先ほどまで胸いっぱいに広がっていた喜びが、少しだけ萎んだ。

それでもクラリスは何も言えなかった。今ここで何か言えばすべてが終わる。


侯爵との縁談は白紙になった。

彼は、クラリスが見合いの後にどのような状態になったのかを誰にも語らなかった。

父に送られてきた手紙には、ただ、

『今はご令嬢の心身を第一にお考えになるべきでしょう』とだけ記されていたという。


その手紙の存在を知ったとき、クラリスは少しだけ胸が痛んだ。

やはり悪い人ではなかったのだ。

だからこそあのまま流されていれば、自分はきっと彼の妻になっていた。

そして案外幸せだったのかもしれない。

それでもクラリスは自分の選択を後悔しなかった。

後に社交界へ伝わったのは「急なる病のため、クラリス・アーヴェル嬢は領地で静養する」

それだけだった。


出発の日。

王都には薄い朝霧がかかっていた。

夜明け前まで降っていた雨が石畳を濡らし、馬車の車輪が通るたび、まだ眠りから覚めきらない街に水音が響いた。

クラリスを乗せた馬車が、王都の門を抜ける。

窓の外を見て思い出す。母は最後まで心配そうに何度も手を握られた。

「無理をしては駄目よ」

そう言われた。

兄は、

「ゆっくり休め」と言った。

妹は、何も言わなかった。

ただ馬車が動き出す直前まで、こちらを見ていた。


石造りの街並みが遠ざかる。

朝市へ向かう荷車。教会の尖塔。遠くにそびえる王宮。

やがて巨大な城壁も小さくなった。


馬車の音が変わった。硬い石畳から、土の道へ。

がたがたと揺れる。

隣には幼い頃からクラリスを知る、乳母のマーサが侍女として座っている。

「お嬢様」

「……何?」

「お加減は」

クラリスは窓の外を確認した。

城壁はもう小さい。王都が丘の向こうへ消えた。

完全に見えなくなった。

「…………」

クラリスはゆっくり窓を開け、冷たい風を感じる。

長い葡萄酒色の髪が舞い上がる。草の匂いがした。湿った土の匂い。

王都の石と香水と煙の匂いではない。

クラリスは大きく息を吸った。

肺いっぱいに。

そして。


「…………やった」


侍女が固まった。

「……はい?」

「やった! 出られた!」

「お嬢様?」

「もう演技しなくていい!」

「ええっ!?」

侍女の顔が見る見る青ざめる。

「ま、まさか……全部……?」

クラリスは笑いながら窓の外を向いた。

「何のこと?」

「お嬢様!」

堪えきれず声を上げて笑った。馬車の中に笑い声が響く。

こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。涙まで出てきた。

クラリスは胸いっぱいに空気を吸った。

自由だ!


もう誰かの妻になる必要もない。王子妃になるための勉強もしなくていい。夜会にも出なくていい。誰かに笑われても聞こえない。

――私。

――自分で逃げたんだ。


初めてだった。

自分が決めたことによって、自分の人生が動いた。

それが嬉しかった。どうしようもなく。


生まれてから十六年間、私はあの城壁の中しか知らなかった。


クラリスは前を向いた。行く先には、まだ見たことのない土地がある。

ヴィクトル叔父がいる。

この先、自分が何をするのか。何になれるのか。何も分からない。

それでも今度は自分で決めてみたい。


風に煽られた葡萄酒色の髪を手で押さえながら、クラリスは目を細めた。

雲の切れ間から朝の光が差し込んでいる。

濡れた街道の先が、白く光っていた。


このときの彼女は、まだ知らない。

この小さな逃亡の先で、人生の変わる決断をすることを。

やがて母が好きだと言ってくれたその長い髪を、自らの手で切り落とし、

男の服を纏い「クリス」という名で、男しかいない王立中央学院の門をくぐることを。

そしてそこで

自分の人生に大きく関わる男たちと出会うことを――。


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