第三十三話 君を抱いて、恋だと知った
王宮での実務が始まって、三日が過ぎた。
最初の二日は、何をするにも新鮮だった。
地方から届く書状を分類し、客室の割り当てを確認し、搬入される物資と帳票を照合する。
学院で学んできたことが、そのまま王宮という巨大な組織を動かす仕事へ繋がっている。
楽しくないはずがなかった。
ただし、楽しいことと、疲れないことは別だった。
夜もかなり更けた頃。
クリスは書類の束を抱え、西棟から事務棟へ続く廊下を歩いていた。
明日に回してもいい仕事だった。
だが、あと少しで片づくと思うと残して帰る気になれない。
「これを置いたら終わり……」
誰にともなく呟いた時だった。
「まだいたのか」
聞き慣れた声に顔を上げる。
廊下の向こうから、レオンが歩いてきた。
学院で見る制服姿ではない。王宮での公務を終えたらしく、昼間よりは簡素だが、それでも王族らしい装いをしている。
「殿下こそ」
「ここは俺の家だ」
「そうでした」
「忘れるな」
レオンが呆れたように笑った。
「それ、まだ仕事か?」
「これを置いたら終わりです」
「明日は?」
「午後からです。午前中は行事の予行があるので、学生は入らなくていいそうです」
「なら、朝は遅くていいんだな」
「久しぶりに寝られます」
「そうか」
レオンが少し考えた。
「じゃあ、少し付き合えよ」
「何にです?」
「酒」
クリスは瞬いた。
「今から?」
「一杯くらいならいいだろ」
「殿下と?」
「他に誰がいる」
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
連日の仕事で疲れていたし、明日は久しぶりに朝が早くない。
それに。
レオンとゆっくり話すのは、街へ出た日以来だった。
「……一杯だけですよ」
「分かった」
「本当に一杯ですからね」
「分かったって」
この時。
クリスは自分が言った「一杯だけ」を、もう少し真剣に守るべきだった。
*
レオンの私室へ入るのは、初めてだった。
王宮の奥にある王族の居住区。
当然豪華ではあるのだが、クリスが想像していたよりずっと落ち着いていた。
濃い木で作られた机と本棚。壁際には長椅子があり、棚には読みかけらしい本が何冊も置かれている。
飾られている品も少なく、学院のレオンをそのまま少し上等な部屋へ移したような印象だった。
「……なんか、普通ですね」
レオンが振り返った。
「何が」
「殿下のお部屋」
「お前、俺の部屋を何だと思ってんだ」
「もっと金ぴかの椅子とかあるのかと……」
「ない」
「天蓋から宝石が垂れてるとか?」
「趣味悪いな。あるわけないだろ」
「王子なのに?」
「お前、王子を何だと思ってる」
クリスが笑った。
「王子」
「またそれか」
そのやり取りが、この前の街へ出た日のようで。
レオンも笑った。
侍従が運んできたのは、香りの柔らかな果実酒だった。
強い酒ではない。
軽い食事も一緒に用意され、クリスはようやく自分が空腹だったことに気づいた。
「お前、まさか夕食も食ってなかったのか?」
「食べるつもりでした」
「それは食べてないって言うんだ」
「忙しかったんですよ」
「エリオットがいたら怒られるぞ」
「……あいつはすぐそれ言うんですよ」
クリスが少し笑った。
レオンは、その顔を見た。
最近。
エリオットの名前を出した時のクリスが、以前と少し違う気がする。
何が違うのかは分からない。
ただ。
何となく、面白くない。
「何です?」
「別に」
「最近、殿下それ多いですね」
「お前もだろ」
グラスを合わせる。
果実酒は思ったより甘く、疲れた身体には心地よかった。
仕事の話。
学院の話。
卒業試験の話。
何でもないことを話しているうちに、一杯目はすぐになくなった。
「もう一杯飲むか」
「……少しだけ」
「一杯だけじゃなかったのか」
「殿下が勧めたんでしょう」
「俺のせいか」
「殿下のせいです」
二杯目を注いでもらったところで、クリスが机の上の書類へ手を伸ばした。
「これ、何です?」
「触るな。まだ整理してない」
「見るだけです」
「だから――」
レオンが取り返そうとした拍子に、クリスの肘がグラスへ当たった。
「あ」
倒れた。
「うわっ!」
果実酒が、クリスの上着からシャツへかかる。
二人とも固まった。
「…………」
「…………」
レオンが先に口を開いた。
「何やってるんだ」
「殿下が引っ張るからでしょう!」
「お前が勝手に見るからだ!」
「書類が置いてあったら見るでしょう!」
「見ない!」
言い合っている場合ではない。
甘い酒が胸元まで染みている。
レオンは息を吐いた。
「着替えろ」
「着替えなんて持ってませんよ」
「俺のを貸す」
「殿下の?」
「濡れたままでいる気か?」
「……借ります」
*
隣室で着替えを済ませ、クリスが戻ってきた。
レオンは何気なく顔を上げて。
そのまま、黙った。
「……何です?」
「いや」
「変ですか?」
「違う」
当然だが。
大きい。
レオンのシャツはクリスの肩には余り、袖は二度折ってもまだ長い。
下も借り物だから、全体にひどく不格好なはずだった。
なのに、妙に目を引いた。
いつもの学院の制服とは違う。
身体の線を隠すためにきっちり整えられた服でもない。
大きなシャツの襟元から覗く首。
余った袖から出ている指先。
細い足首。
――何を見てるんだ、俺は。
レオンは視線を逸らした。
だが自分の服を着たクリスが、自分の部屋にいる。
その事実そのものが、ひどく落ち着かない。
「殿下?」
「袖」
「え?」
「もう一回折れ」
「これでも二回折ってますよ」
「もう一回」
「そんなに違います?」
「違う」
クリスが笑った。
「殿下、私より大きいですもんね」
知っている。
当然知っていた。
何度も並んで歩いているのだから。
なのに今夜は、その体格差を妙に意識する。
「……もう飲むな」
「何でです?」
「何となく」
「まだ二杯目が残ってます」
クリスはさっさとソファへ戻った。
「着替えたら寒くなくなりました」
「人の話を聞け」
「明日は午後からです」
「だからって」
「もう一杯だけ」
「さっきも聞いたぞ、それ」
結局……。
飲み直すことになった。
それが、いけなかった。
*
しばらくすると、クリスはすっかり寛いでいた。
酔いつぶれているわけではない。
話も普通にできる。
ただ、いつもよりよく笑う。
頬は淡く色づき、ソファの背へ身体を預けて、少し眠そうに瞬きをしている。
「……殿下」
「何だ」
「近いです」
レオンは二人の距離を見た。
「お前が寄ってきたんだろ」
「そうでした?」
「そうだ」
「じゃあ、いいです」
「何が」
クリスがレオンを見た。
酒のせいなのか。
いつもより目が潤んで見える。
「殿下なら、いいです」
心臓が鳴った。
――こいつ。
本当に。
今、自分がどんな顔をしているのか分かっているのか。
レオンは視線を外した。
見ない方がいい。
そう思うのに、また見てしまう。
自分の服。
赤い頬。
少し乱れた髪。
酒で潤んだ瞳。
今までクリスを見て、こんなふうに思ったことがなかったわけではない。
近すぎると困る。
触れられると落ち着かない。
顔を見ていると、時々どうしようもなく目を逸らしたくなる。
ただ、今夜は逃げ場がない。
「……殿下?」
「見るな」
「見てるの殿下でしょう」
「うるさい」
「今日、変ですね」
「誰のせいだ」
「私?」
「お前以外に誰がいる」
クリスが楽しそうに笑った。
その笑顔を見ているうちに、レオンの胸にずっと引っかかっていたものが、また浮かんできた。
「クリス」
「はい?」
「……最近、俺を避けてるか?」
笑っていたクリスの目が瞬いた。
「避けてませんよ」
「じゃあ、何で離れる」
「え?」
「俺が近づくと、最近お前、離れるだろ」
クリスが黙った。
「前は違った」
「……よく見てますね」
「見るだろ」
「何で」
「俺が聞いてる」
レオンはグラスを置いた。
「前はお前の方から触ってきた。腕を掴んだり、肩へ寄ってきたり。俺の顔まで勝手に触っただろ」
「あれは……」
「男同士だからいいでしょう、って」
クリスが吹き出した。
「何で笑う」
「だって」
笑いながら、レオンを見る。
「殿下、それ気にしてたんですか?」
「悪いか」
「悪くないですけど」
「じゃあ笑うな」
本当に少し拗ねている。
クリスはそれがおかしくて。
それから少しだけ、かわいいと思った。
「嫌だから離れてるんじゃないですよ」
レオンが止まった。
「……嫌じゃない?」
「はい」
「なら、何で」
それは、言えない。
エリオットに女だと知られてから。
キスをされてから。
自分の中で何かが変わった。
男の身体。
男の手。
男の声。
以前なら何も考えなかったものを、意識するようになった。
そして。
困ったことに。
それはエリオットだけではなかった。
レオンが近づいても。
以前とは違う。
「……秘密です」
「またそれか」
「すみません」
「お前、本当に秘密ばっかりだな」
少し寂しそうに言われて。
胸が痛んだ。
「でも」
クリスは身体を起こした。
「嫌いだからじゃないです」
「それは聞いた」
「むしろ」
少し考える。
酒のせいで、普段なら飲み込む言葉がそのまま出た。
「私、殿下のこと好きですよ?」
レオンが完全に止まった。
「…………は?」
「好きです」
「待て」
「何です?」
「待て、クリス」
「はい」
「今のは、どういう意味だ」
クリスは首を傾げた。
「どういう意味って……」
近い。
その顔で。
その目で。
首を傾げるな。
「一緒にいると楽しいですし」
「……ああ」
「安心するし」
「ああ」
「殿下といるの、好きです」
レオンは片手で顔を覆った。
駄目だ。
絶対に。
自分が期待している意味ではない。
「殿下?」
「少し黙れ」
「何でですか」
「俺にも限界がある」
クリスが覗き込んできた。
「顔、赤いですよ」
「酒だ」
「殿下、そんな飲んでないでしょう」
「うるさい」
そして。
クリスの手が伸びた。
レオンの頬に触れる。
「熱い」
その瞬間。
レオンは息を止めた。
――これだ。
最近なくなったもの。
クリスは以前、何のためらいもなく自分へ触れた。
顔にも。
腕にも。
肩にも。
それがなくなったことを。
自分は、こんなにも寂しいと思っていたのか。
レオンは頬に触れているクリスの手を掴んだ。
「……何で最近、これをしなかった」
「だから、それは秘密です」
「嫌じゃないんだろ?」
「嫌じゃないですよ」
レオンは、その手を離さなかった。
掌を返し。
その指先へ、そっと唇を触れさせた。
クリスの目が大きくなる。
「……殿下?」
「何だ」
「何してるんです?」
「見れば分かるだろ」
「分かりますけど」
今度はクリスの頬が赤くなった。
その顔を見た瞬間。
胸の奥にずっと曖昧なまま置いていたものが、急に形を持った。
かわいいと思う。
触れたいと思う。
離れてほしくない。
卒業した後も隣にいてほしい。
誰かと親しくしていれば気になる。
自分から離れれば、寂しい。
会えなければ。
会いたい。
――もう、十分だろ。
男だからとか。
クラリスに似ているとか。
そんなことを考えて。
ずっと答えを先延ばしにしてきた。
違う。
クリスだから。
――俺は、クリスが好きなんだ。
認めた途端。
驚くほど、すべてが腑に落ちた。
「クリス」
「はい」
レオンは掴んでいた手を引いた。
「え?」
身体ごと。
腕の中へ抱き込む。
クリスの身体が胸へぶつかった。
「殿下?」
「少し、このままでいろ」
「……何でです?」
「俺がそうしたい」
腕に力を込める。
細い。
以前から知っていたはずなのに。
こうして抱きしめると、思っていた以上に自分の腕の中へすっぽり収まる。
自分の服を着たクリスから、自室で使っている石鹸の香りがする。
ひどくまずい。
好きだと認めた途端。
今まで見ないふりをしていたものまで、全部目に入る。
「……苦しくないか」
「大丈夫です」
クリスは抵抗しなかった。
それどころか。
少しして。
自分からレオンの胸へ頬を預けた。
レオンの腕に、もう一度力が入る。
「殿下」
「何だ」
「やっぱり安心します」
やめろ。
「あったかいし」
本当にやめてほしい。
「私、殿下のこと――」
「それ以上言うな」
クリスが顔を上げた。
「何で?」
近い。
赤い頬。
潤んだ瞳。
少し開いた唇。
レオンの視線が、そこへ落ちた。
ほんの少し。
顔を近づければ届く。
触れたい。
その衝動が、今までで一番はっきりと湧いた。
けれど。
レオンは唇へは行かなかった。
代わりに。
額へ、そっと口づけた。
クリスが目を見開く。
「……殿下?」
もう一度。
今度は髪へ。
離れようと思った。
それなのに。
クリスが逃げない。
腕の中にいたまま、自分を見上げている。
その目を見たら。
止まれなかった。
目尻へ。
頬へ。
反対の頬へ。
触れるだけの口づけを、何度も落とす。
「……殿下」
「嫌か?」
クリスは少し考えた。
それから。
ゆっくり首を横に振った。
「……嫌じゃないです」
その一言で。
ぎりぎり残っていた何かが切れた。
レオンはもう一度、クリスを強く抱きしめた。
髪へ。
額へ。
頬へ。
何度口づけても足りない。
唇だけは。
触れなかった。
そこへ行けば。
たぶん。
もう、今夜は戻れない。
「……殿下」
「何だ」
「今日、すごいですね」
「誰のせいだと思ってる」
「私?」
「お前以外に誰がいる」
「私、何もしてませんよ」
レオンは思わずクリスを見た。
「本気で言ってるのか」
「はい」
「……たちが悪いな」
「何でです?」
「もういい」
クリスが笑う。
その顔を見て、また頬へ口づける。
「またした」
「嫌じゃないんだろ」
「……そうですけど」
「ならいい」
「殿下、急に横暴になってません?」
「王子だからな」
クリスが吹き出した。
「そういう時だけ王子を使うんですね」
「うるさい」
そのまま。
どれくらいそうしていたのか分からない。
話をして。
少し笑って。
時々、レオンがクリスを抱き寄せる。
クリスももう離れなかった。
やがて、返事が少なくなった。
「クリス?」
「……はい」
「眠いのか?」
「眠くないです」
「目、閉じてるぞ」
「……考え事です」
「嘘つけ!」
レオンは笑った。
「もう寝ろ」
「……部屋に戻らないと」
「今から?」
「はい」
「その状態で?」
「歩けます」
「さっき床が動くって言ってただろ」
「もう動いてません」
「信用できない」
「殿下」
レオンはクリスを見た。
「明日は午後からなんだろ」
「……はい」
「なら、今日はここで寝ろ」
「え?」
「客用の寝台を使ってもいいし、俺の寝台でもいい」
「さらっと変なこと言わないでください」
「何が変なんだ」
「殿下の寝台ですよ?」
「寝るだけだろ」
「そうですけど……」
「今のお前を一人で部屋まで戻す方が面倒だ」
「そこまで酔ってません」
「床が動いた奴が言うな。疲れているんだろ?明日の着替えは、朝取りに行けばいい」
「殿下、最初から泊める気満々じゃないですか」
「今決めた」
「……王子って便利ですね」
「そういう時だけ王子を使うな」
さっきの仕返しをすると。
クリスが小さく笑った。
「クリス」
「はい」
「寝台まで歩けるか」
「歩けます」
立ち上がった。
一歩。
二歩。
少しふらついた。
「ほら」
レオンが腰を支える。
「歩けます」
「説得力がない」
「ちょっとだけです」
「それを酔ってるって言うんだ」
レオンは呆れて。
そのまま、クリスの身体を抱き上げた。
「えっ」
クリスの身体が浮く。
「殿下!」
「暴れるな。落ちる」
「歩けます!」
「床が動く奴は歩くな」
いわゆる。
完全なお姫様抱っこだった。
クリスは恥ずかしさに顔を赤くした。
「下ろしてください」
「嫌だ」
「何で!」
「俺がこうしたい」
「今日そればっかりですね!」
言いながらも。
クリスも落ちないよう、レオンの首へ腕を回した。
その瞬間。
二人の顔が近づく。
レオンは一瞬だけ息を止めた。
腕の中にいる。
自分の服を着て。
自分の首へ腕を回して。
こちらを見ている。
――駄目だ。
本当に。
今夜のこいつは駄目だ。
「……クリス」
「はい?」
「その目で見るな」
「どの目です?」
「それが分からないから困ってる」
クリスが笑った。
*
寝台へ下ろす頃には。
クリスは、ほとんど眠りかけていた。
「ほら。寝ろ」
「……はい」
レオンが身体を離そうとする。
首へ回っていた腕が。
離れない。
「クリス」
「……ん」
「離せ」
「……やだ」
レオンが固まった。
「おい」
返事はない。
完全に眠っている。
「寝ながら拒否するな」
腕を外そうとして。
……やめた。
眠っている顔が、すぐ近くにある。
さっきまで笑っていた顔。
好きだと言った口。
自分の口づけを嫌ではないと言った頬。
――キスしたい。
今度こそ。
唇に。
けれど、眠っている相手にするものではない。
レオンは小さく息を吐いた。
「……起きてる時にする」
誰に聞かせるでもなく呟いて。
額へ一度だけ口づけた。
その時クリスが少し身じろぎした。
「……レオン」
レオンの動きが止まった。
殿下ではない。
レオン。
「…………お前」
眠ったまま。
クリスはまた少し身体を寄せてくる。
「……反則だろ」
その声に。
返事はなかった。
*
本来なら。
自分は隣室で眠るべきなのだろう。
レオンはしばらく、本気でそう考えた。
だが、寝台の端に腰掛けて眠っているクリスを見ているうちに。
どうにも動く気になれなくなった。
自分の部屋。
自分の寝台。
自分の服を着たクリス。
こんな光景を。
あと何度見られるのだろう。
卒業まで、もう長くない。
学院を出れば、クリスは文官試験を受ける。
自分は王族として、また別の道へ戻る。
今までのように。
毎日のように顔を合わせることはなくなるかもしれない。
嫌だった。
その未来を。
初めて、はっきり嫌だと思った。
――そばにいてほしい。
レオンは横になった。
広い寝台だから、触れずに眠ることくらいできる。
少し距離を空けて。
隣に。
眠れる気はしなかった。
横を向けば、クリスの寝顔がある。
しばらく見ていると。
クリスが寝返りを打った。
こちらへ。
距離が縮まる。
さらに。
額がレオンの胸元へ触れた。
「…………」
レオンは天井を見た。
無理だ。
こんな状態で眠れるわけがない。
それでも。
離す気にもなれなかった。
そっと腕を回す。
クリスの身体を、自分の方へ少しだけ引き寄せる。
抵抗はない。
当然だ。
眠っている。
レオンはその髪へ顔を寄せた。
そして。
最後にもう一度だけ。
頭へ口づけた。
「……好きだ」
今度は。
誰にも聞こえないほど小さく。
「俺、お前が好きだ」
クリスは眠っている。
返事はない。
それでよかった。
今夜は。
それで十分だった。
*
翌朝。
クリスは、ゆっくり目を開けた。
見慣れない天井だった。
「…………」
……どこだ?
ぼんやり考える。
そして、
すぐ近くに人の気配がある。
顔を横へ向けると、
レオンがいた。
「…………」
もう一度。
自分を見る。
レオンの服。
もう一度。
隣を見る。
レオン。
昨夜の記憶が。
一つずつ戻ってきた。
酒をこぼした。
服を借りた。
飲み直した。
――私、殿下のこと好きですよ?
「…………っ!」
抱きしめられた。
手にキスされた。
額。
髪。
頬。
何度も。
――嫌じゃないです。
言った。
自分で。
「…………」
逃げたい。
今すぐ。
そっと身体を起こそうとした。
「……どこ行くんだ」
恐る恐る見ると、レオンが目を開けてこちらを見ている。
「おはよう」
「……おはようございます」
逃げられなかった。
「よく眠れたか?」
「…………はい」
「そうか」
レオンは少し笑った。
「俺はあまり眠れなかった」
「……何でですか」
「お前のせいだ」
「知りません」
クリスは布団から出ようとした。
その手首をレオンが軽く掴む。
「何です?」
「また離れるのか?」
クリスが止まった。
昨日、自分が言った言葉を思い出す。
ーー嫌だからではない、と。
レオンがこちらを見ている。
少しだけ、楽しそうに。
「嫌じゃないんだろ?」
クリスの顔がカッと熱くなった。
「……それを朝から言うんですか」
「確認」
「何の」
「俺が近くてもいいかどうか」
「…………」
昨日までのレオンとは少し違う。
何か、余計な自信を与えてしまった気がする。
「……嫌じゃないです」
レオンが笑った。
その顔を見て。
クリスは、昨夜よりも困った。
晩秋の王宮行事まで。
あと七日。
クリスはまだ知らなかった。
自分が眠っている間に。
レオンがようやく。
自分の気持ちに、名前をつけたことを。




