第三十二話 君が離れるほど、近づきたくなる
時は進み、晩秋の王宮行事まで、あと十四日。
王都は少しずつ、その日に向けた顔へ変わり始めていた。
地方から届く荷が増え、宿には早くも使用人や商人の姿が目立つようになった。大通りでは王宮へ納める酒樽や食料を積んだ荷車が行き交い、仕立屋には礼装の注文が相次いでいる。
年に一度の大きな宮廷行事なのだから、それ自体は珍しい光景ではない。
だが今年は、例年より少しだけ早い。
人も。
物も。
動き出すのが。
学院でも、その準備が始まっていた。
昼休み、掲示板の前に人だかりができている。
「出たぞ」
「何が?」
「王宮実務の選抜」
その言葉に、クリスも足を止めた。
最終学年の学生の一部は、晩秋の王宮行事に実務補助として参加する。
文官科は各部署の事務や運営補助、騎士科は警備補助に回されるのが恒例だった。
クリスは人の間から掲示を覗き込んだ。
文官科、十二名。
上から順に名前を追って――すぐに見つけた。
クリス・アーヴェル。
「……あった」
思わず声が漏れた。
「やったな」
すぐ後ろから声がした。
振り返ると、エリオットがいた。
「お前も?」
「俺はこっち」
指差した先には、騎士科二十名の名前が並んでいる。
そこに、エリオットの名もあった。
「本当だ」
「また一緒だな」
嬉しそうに言われて、クリスも笑った。
「エリオット、一緒と言っても、期間が違うぞ」
「え?」
「文官科は行事の十日前から。騎士科の警備補助は三日前からだ」
エリオットが掲示を見直した。
「……本当だ」
露骨に残念そうな顔をする。
「七日も違うじゃん」
「仕事なんだから仕方ないだろ」
「せっかく一緒だと思ったのに」
「三日前からは一緒だよ」
「三日しかない」
「十分だ」
「……短い」
クリスは思わず笑った。
「何だよ」
「いや。お前、本当に分かりやすいなと思って」
「だって、一週間も長く王宮にいるんだろ?」
「そうだけど」
「ちゃんと飯食えよ」
「何で最初にそれなんだ」
「お前、忙しくなると忘れるから」
「忘れない」
「この前も忘れた」
「……あれは忙しかったんだよ」
「だから言ってる」
エリオットは少し考えてから、にやりと笑った。
「まあいいや。三日前から俺も行くし」
「うん」
「見つけたら食わせる」
「子供じゃない」
「知ってる」
その言い方が妙に優しくて、クリスは一瞬だけエリオットを見た。
目が合う。
あの日以来。
エリオットは、ほとんど変わらない。
秘密を知ったからといって、必要以上に守ろうともしない。
女として扱っていることを周囲に悟らせるような真似もしない。
ただ。
少しだけ、変わった。
以前なら何の躊躇もなく肩へ腕を回していたところで、一瞬こちらの顔を見る。
隣へ座る時も。
触れる時も。
ほんのわずかに、クリスの反応を確かめる。
それに気づいてしまったのは。
おそらく、自分の方が変わったからだ。
「……何?」
「何でもない」
「またそれ?」
「仕事行け」
「まだ昼休みだよ」
「じゃあ飯食え」
「一緒に食う?」
「食べる」
三日前になれば。
また王宮で会う。
その時、自分はどんな顔でエリオットを見るのだろう。
クリスはまだ知らなかった。
*
その日の夕方。
王宮の執務室では、別の名簿が机の上に広げられていた。
「増えたな」
アレクの声に、向かいの男が頷いた。
「はい。確認できただけで二十七名増えています」
「合計は?」
「過去十日ほどで、百名を超えました」
アレクは名簿へ目を落とした。
荷運び人。
馬丁。
商人の護衛。
職人。
臨時雇い。
肩書だけを見れば、何もおかしくない。
大規模な王宮行事を前に、人手が増えるのは当然だ。
だが出身地と過去を調べれば、その中に北部出身者が妙に多い。
さらに、軍や領兵として働いた経歴を持つ者が混じっている。
「全員が同じところから来たわけではないんだな」
「はい。紹介元も雇用主も分散されています」
「綺麗だな」
男が顔を上げた。
「……綺麗、ですか」
「ああ。綺麗に散らしてある」
アレクは一枚を抜き取った。
食料の取引と同じだ。
一つの商会が大量に買えば目立つ。
だから分ける。
人間も同じ。
「王都にいるだけなら、まだいい」
「はい」
「問題は、こいつらがどこへ行くかだ」
男が別の書類を差し出した。
「その件ですが」
アレクが受け取る。
数行読んだところで、目が止まった。
「……王宮?」
「はい」
晩秋の行事に向けて、王宮では大量の臨時人員が必要になる。
荷運び。
馬の世話。
厨房。
会場設営。
清掃。
燃料や水の搬入。
普段なら王宮の奥へ入れない人間でも、この時期だけは仕事を理由に門を通る。
「何人だ」
「現時点で確認できた者だけで十六名。ただし、まだ増える可能性があります」
アレクの指が、机を一度叩いた。
「誰が採用を許可した」
「一つではありません。主計、厩舎、厨房、施設管理。それぞれ別です。商会から派遣される者もいます」
「全部、正規の手続きを通っている?」
「書類上は」
アレクが顔を上げた。
「書類上は、か」
それが一番厄介だった。
一人の人間が百人を王宮へ入れたのなら、その人間を止めればいい。
だが違う。
複数の部署。
複数の商会。
複数の紹介者。
一つひとつを見れば、通常の手続きに見える。
「配置を調べろ」
「全員、外しますか」
「いや」
即答だった。
「今外せば、こちらが気づいたと教えるだけだ」
「しかし、王宮内へ入れるのは危険です」
「分かっている」
アレクは椅子へ深く背を預けた。
見逃すつもりはない。
だが、ここで十六人を捕らえたところで、その背後にいる人間は残る。
金を動かした者。
物を集めた者。
人を送り込んだ者。
そして。
王宮の中で、その人間たちを受け入れようとしている者。
「警備責任者には俺から話す。ただし、全体には知らせるな」
「はい」
「内側の警備は、理由をつけて少しずつ信頼できる人間へ替えろ。武器庫、王族居住区、主要な門は特にだ」
「承知しました」
「臨時人員の通行証も、表向きの手続きは変えるな。ただし写しを全部こちらへ回せ」
そこでアレクは少し考えた。
「それと」
「はい」
「誰が、どこへ配置を決めているのかを追え」
男の表情が変わった。
「……王宮内部に協力者がいると?」
「まだ分からない」
アレクは静かに答えた。
「だから調べる」
ただ。
もし偶然ではないのなら。
外から来た人間より。
中にいる人間の方が厄介だった。
*
四日後。
晩秋の王宮行事まで、あと十日。
クリスは朝早く、王宮の門をくぐった。
何度か来たことはある。
アレクへの報告でも。
学院の行事でも。
だが今日は違う。
客ではない。
実務をする側として入る。
胸元には、学院から支給された実務補助者の証票。
手には筆記具と小さな帳面。
王宮の内側では、すでに大勢の人間が動いていた。
荷車から木箱を下ろす者。
廊下を急ぐ侍従。
客室の割り当てを確認する官吏。
地方から届いた荷の数量を読み上げる者。
厨房へ運び込まれる食料。
厩舎へ引かれていく馬。
クリスの目が、自然と輝いた。
――これだ。
机の上だけではない。
人が来る。
物が来る。
それをどこへ置き、誰へ渡し、何人で動かし、いくら使うのか。
一つ間違えば、その先の仕事が全部止まる。
「クリス・アーヴェル」
「はい」
「君は客室管理と搬入記録の補助だ。まず西棟へ」
「はい!」
返事が少し大きくなった。
担当官が一瞬こちらを見る。
「……元気だな」
「すみません」
「いや。結構」
クリスは帳面を抱え直した。
やっぱり、好きだ。
こういう仕事がしたい。
来年の二月。
卒業できれば、文官登用試験を受ける。
ずっと、そのつもりだった。
その「卒業できれば」という言葉が、以前より少しだけ重くなっていることには気づかないふりをした。
*
昼を過ぎた頃。
クリスは西棟の廊下で、見慣れた人物と鉢合わせた。
「クリス?」
「殿下」
レオンだった。
王宮では学院にいる時より、当然ながら王子らしい格好をしている。
「今日からか」
「はい」
「どこに入った」
「客室管理と搬入記録です」
「似合いそうだな」
「何ですか、それ」
「数字ばっかり見て喜んでるだろ」
「失礼ですね」
「違うのか」
「……いえ、さっきまで楽しかったです」
「ほら」
レオンが笑った。
クリスもつられて笑う。
こうして話していると。
やっぱり、楽だ。
二年近く。
何度も一緒に勉強して。
街へ出て。
行軍では何日も隣で仕事をした。
なのに。
レオンが一歩近づいた瞬間。
クリスは無意識に、半歩だけ後ろへ下がった。
レオンの目が、その動きを追った。
「……何だ」
「え?」
「いや」
レオンは何も言わなかった。
けれど。
少しだけ、面白くなさそうな顔をした。
クリスは気づかない。
以前なら。
こんなことはなかった。
クリスの方から顔へ触れた。
腕を掴んだ。
肩が触れても気にしなかった。
同じ寝台で眠ったことすらある。
なのに最近は。
自分が近づくと。
ほんの少しだけ、距離を取る。
――何でだ。
「殿下?」
「何でもない」
今度はレオンがそう答えた。
「それより。今年の行事、例年より大きいんですか?」
「どうしてそう思う」
「人も荷も多いので」
レオンの表情がわずかに変わった。
「……父上から、重要な話があるらしい」
「陛下から?」
「ああ」
それ以上、レオンは言わなかった。
言えなかった。
父の状態が軽いものではないこと。
兄がすでに多くの政務を代わって担っていること。
そして今回の行事が、王家にとって大きな節目になるかもしれないこと。
それはまだ。
王宮の外へ出していい話ではない。
クリスも追及しなかった。
ただ、最近は国王が公の場へ姿を見せる機会が減っている。
そして、回ってくる公文書には以前より明らかに王太子の名が増えた。
その程度なら、文官を目指している学生でも気づく。
「王太子殿下も、お忙しそうですね」
レオンがクリスを見る。
「そういうところまで見てるのか」
「文官志望ですから。誰が何を決めているかくらい、気になりますよ」
「……お前、本当に好きだな。そういうの」
「はい」
即答すると、レオンが笑った。
その声が妙に優しくて。
クリスはまた、少しだけ困った。
「では、仕事に戻ります」
「ああ」
クリスが歩き出す。
数歩進んだところで。
「クリス」
振り返った。
「はい?」
レオンは何か言いかけた。
――最近、俺を避けてるか?
喉まで出た。
だが。
「……いや。何でもない」
「?」
「仕事しろ」
「呼び止めたの殿下でしょう!」
クリスは呆れた顔で去っていく。
レオンはその背中を見送った。
――やっぱり。
少し、離れる。
*
午後。
クリスは搬入記録の束と格闘していた。
食料。
酒。
薪。
水。
寝具。
馬の飼料。
消耗品。
客が増えれば、当然すべて増える。
最初は純粋に面白かった。
何人の客に対して、どれだけの物資が必要なのか。
学院で習った数字が、実際の人間の生活へ変わっていく。
だが、何枚目かの帳票で、クリスの手が止まった。
「……多い?」
食料ではない。
そこは説明できる。
予定外の随行員を連れてくる地方貴族もいる。
保存食には余裕を持たせる。
気になったのは、人だった。
荷運び。
厩舎補助。
厨房補助。
設営。
清掃。
臨時に入る人間の数が多い。
もちろん、これも説明はできる。
大きな行事だ。
人手はいくらあっても困らない。
クリスは別の帳票を取った。
搬入予定。
荷車の数。
荷の量。
それを運ぶ人間。
一つずつなら普通だった。
だが。
並べると。
「……人が、多い」
荷の量に対して。
必要な人数より、わずかに多い。
一件だけなら何でもない。
二件でも。
三件でも。
だが同じような「少し多い」が、いくつもある。
クリスは筆を置いた。
頭の中に、これまで追ってきたものが並ぶ。
穀物。
鉄。
革。
馬具。
薬。
毛布。
金。
そして。
人。
――一つずつなら、普通。
行軍の時と同じだった。
一つの荷だけを見ても、何も分からない。
全部を並べて初めて。
その向こう側にいる人間の数が見える。
クリスは窓の外へ目を向けた。
中庭では、臨時の荷運び人たちが木箱を下ろしている。
笑っている者。
指示を受けている者。
汗を拭っている者。
ごく普通の光景だ。
なのに。
背中に薄い寒気が走った。
*
同じ頃。
アレクの机には、王宮へ入る予定の臨時人員の名簿が積み上がっていた。
「また増えたか」
「はい」
「配置は?」
「厨房、西棟、厩舎、外庭。ほかに会場設営です」
アレクは一枚ずつ確認した。
散っている。
綺麗に。
だが。
その中に。
王族居住区へ物資を運ぶ経路に入る者がいる。
武器庫に近い外庭へ配置される者がいる。
主要な門の設営補助に入る者もいる。
偶然なら。
随分と都合のいい偶然だった。
「配置変更は」
「ご指示通り、表向きは最小限に。内側だけ、こちらの人間を増やしています」
「武器庫は?」
「済んでいます」
「王族居住区」
「明日までに」
「門は」
「信頼できる者を副責任者として追加しました」
アレクは頷いた。
準備はする。
だが、まだ相手には見せない。
今ここで全員を排除すれば。
外にいる人間は逃げる。
金の流れも。
物資の行き先も。
北部との繋がりも。
そして何より。
王宮の中にいるかもしれない人間も。
「殿下」
「何だ」
「もし、これが意図的なものなら」
男が言葉を選ぶ。
「相手は、かなり以前から王宮内部の配置を知っていたことになります」
アレクの目が細くなった。
そうだ。
金を流すだけなら、外からできる。
物を買うのも。
人を集めるのも。
だが。
その人間を。
どの門から入れ。
どこへ置くか。
それは。
外にいる者だけでは難しい。
「……中にいるな」
初めて。
アレクがそう口にした。
誰なのかは、まだ分からない。
一人なのか。
複数なのかも。
だが。
王宮の中に。
扉を開けている者がいる。
晩秋の王宮行事まで。
あと十日。
金は、すでに流れた。
物は、すでに集まっている。
人も、王都へ入った。
そして今。
その人間たちのために。
王宮の内側から、扉を開けようとしている者がいる。




