第三十一話 王冠まで、あと二十二日
秋は、いつの間にか深くなっていた。
朝晩の空気は冷たく、学院の木々も赤や黄に染まり始めている。
つい先日まで街を歩けば上着を脱ぎたくなるほどだったのに、日が傾けば風の冷たさに襟元を押さえる者が増えた。
季節は、人の都合など待ってはくれない。
そして王太子アレクサンダーが追っていたものもまた、待ってはくれなかった。
*
王宮の一角にある執務室で、アレクサンダーは届いたばかりの報告書に目を通していた。
机の上には、ここ数か月で集められた資料が広げられている。
穀物、鉄、革、馬具、薬、毛布。
クリスが行軍の最中に気づいた物資の量は、その後も少しずつ増えていた。
一つの商会が大量に買い込んでいるわけではない。
購入する商会も違えば、運ぶ業者も違う。保管される倉庫も複数に分かれている。
だが、それらを丹念に辿っていけば、ノーマン・ベルクやオスカー・アンジューの名が現れ、そのさらに向こうに、まだ姿の見えない者たちがいる。
そこまでは、これまでと同じだった。
今日届いた報告が、それを変えた。
「物だけなら、まだよかったんだがな」
アレクサンダーが呟くと、机を挟んで立っていた直属の文官が頷いた。
「人も動き始めています」
「ああ」
アレクサンダーは別の紙を手に取った。
そこに並んでいるのは商取引ではない。ここ半月ほどの間に、王都へ入った者たちの記録だった。
秋の収穫を終えた商人。冬になる前に仕事を求めてやってくる職人。荷運び人。貴族に仕える従者。商家の護衛。
王都には毎日、大勢の人間が出入りする。それ自体は珍しいことではない。
だが、その中に妙な集団が混じり始めていた。
「北門から入った三十二名。届け出では街道補修の人足です」
「雇い主は?」
「複数に分かれています。ただ、王都での宿泊先は同じです」
アレクサンダーの視線が紙の上で止まった。
「ほかは」
「西門から入った十七名は荷運び人、南門からの二十四名は商家の護衛として届け出ています。こちらも名目上の雇い主は別々ですが、滞在先を調べると三か所に集中しました」
一人ずつを見れば、何もおかしくない。
王都で働く人足も、荷運び人も、商人に雇われた護衛も、どこにでもいる。
だが。
アレクサンダーは、机に広がる資料へ目を落とした。
物資と同じなのだ。
一件ずつなら普通に見えるものを並べてみると、そこに別の形が浮かび上がってくる。
「出身地は?」
「ばらばらです。ただ、何人かは過去の経歴を確認できました」
文官が一枚の紙を差し出した。
「地方軍にいた者が混じっています」
アレクサンダーはそれを受け取った。
五年前。七年前。九年前。
所属していた時期も部隊も違う。すでに退役した者もいれば、短期間しか軍にいなかった者もいる。
だが少なくとも、剣を握ったことも、命令を受けて集団で動いたこともない人足ではなかった。
「何人確認できた」
「十一名です」
「……少ないな」
「はい」
アレクサンダーはしばらく紙を眺めてから、低く続けた。
「少なすぎる」
十一人では何もできない。
だからこそ、その数字に意味がある。
確認できたのが十一人なら、まだ確認できていない者は何人いるのか。
アレクサンダーは背もたれに身体を預けた。
穀物、薬、毛布、革、馬具、鉄。
そして今度は、それを使うかもしれない人間まで王都へ入り始めた。
「倉庫の監視は?」
「続けています。出入りは増えていますが、大量に搬出された形跡はありません」
「なら、まだ集めている段階か……」
何のために。
その問いは、もうずっと前からある。
政治的な工作だけなら、これほどの物資はいらない。
王太子の出生を疑わせ、支持を削り、王位継承を揺るがすだけなら、兵として動ける人間を王都へ入れる必要もない。
何かが変わった。
いや。
何かを急ぐ理由が生まれたのだ。
アレクサンダーの視線が、机の端に置かれた一通の書状へ向いた。
晩秋に行われる、王宮の大きな集まり。
冬を前に地方の有力貴族や高官たちが王都へ集まり、各地の状況と翌年の方針を確認する、毎年恒例の行事だった。
……今年は、例年とは違う意味を持つことになる。
それを知ったのは、数日後であった。
*
国王の寝室には、薬草の匂いが染みついていた。
厚いカーテンの隙間から秋の淡い光が差し込み、寝台の傍らには飲みかけの薬と水差しが置かれている。
父が病に伏して、すでに数か月になる。
初めの頃は体調のいい日を選んで執務室へ出ていたが、それも次第に難しくなった。
大臣たちからの報告を受け、地方から届く陳情を読み、国王の裁可を必要とする案件を整理する。
その多くを今ではアレクサンダーが担っている。
王太子が国王を補佐している。
表向きはそういうことになっている。
だが実際には、王から王太子へ、国を動かす仕事が少しずつ移り始めていた。
「そこに座れ、アレク」
寝台から声がした。
アレクサンダーは傍らへ椅子を寄せた。
病を得る前の父は、大柄でよく動く男だった。
幼いアレクサンダーを馬へ乗せ、地方へ連れ出し、軍営にも、工事中の水路にも、収穫前の農地にも連れていった。
――王宮から国を見ようとするな。
父から何度そう言われただろう。
幼い頃は、ただ父の後ろをついて歩いた。
成長すると、今度は必ず問われるようになった。
――お前ならどうする?
その問いに答えるために人の話を聞き、数字を見て、自分の目で確かめる癖がついた。
その父が今は寝台にいる。身体は目に見えて細くなった。
それでもアレクサンダーを見る目には、昔と変わらない力が残っていた。
「今日は顔色がいいですね」
「嘘をつけ」
間髪を入れず返され、アレクサンダーは笑った。
「少しくらい喜ばせて差し上げようかと」
「お前はそういう嘘が下手だ。昔からな」
父王も笑ったが、その途中で咳き込んだ。
アレクサンダーはすぐに水を差し出した。
かつては、自分が父から水をもらっていた。
馬で遠出をした日も、剣の稽古でへばった日も。
いつから逆になったのだろう。
そんなことを思いながらも、アレクサンダーは何も言わなかった。
父王もまた、息が落ち着くと何事もなかったように水を返した。
「晩秋の集まりだが」
「はい」
「そこで、お前のことを話す」
「私の?」
「王位だ」
アレクサンダーの表情から笑みが消えた。
「……父上」
「そんな顔をするな。今すぐ死ぬと言っているわけではない」
「病床で王位の話をされれば、息子としてはそういう顔にもなります」
「息子としては、か」
父王はわずかに笑った。
「では王太子として聞け」
アレクサンダーは姿勢を正した。
「この身体では、以前のように政務を続けるのは難しい。お前も分かっているだろう?」
否定はできなかった。
「お前が補佐しているという形でここまで来たが、実際に国を動かしているのは、もう半分以上お前だ」
「まだ父上の裁可を必要とすることは多くあります」
「だから、その形を終わらせる」
父王は静かに言った。
「晩秋の集まりで、諸侯の前にお前を立たせる。アレクサンダーが次の王であると、私の口から改めて告げる」
アレクサンダーは黙って父を見た。
「それだけではない。譲位の時期も示すつもりだ」
「……そこまでお考えでしたか」
「ああ。私が生きているうちに、お前へ渡す」
父の言葉に迷いはなかった。
アレクサンダーは少しだけ視線を落とした。
幼い頃。
レオンが母に抱かれている姿を見て、羨ましいと思ったことがある。
転べば抱き上げてもらい、眠くなれば膝へ乗せてもらう弟を見ながら、どうして自分には母がいないのだろうと考えた。
現王妃が自分まで抱き寄せてくれることもあった。それでも、幼い子供にとって母親がいないという事実は、それだけで寂しいものだった。
けれど。
父は、いつもいた。
母のいない息子を憐れむのではなく、自分の隣へ連れていった。
国を見せ、人を見せ、失敗させ、考えさせた。
アレクサンダーが今、自分の足でここに立っていられるのは、その時間があったからだ。
だからこそ、父が自分へ王位を渡すというなら。
受け取らなければならない。
「……承知しました」
父王がアレクサンダーを見た。
「それだけか」
「では、もう少し取り乱した方がよろしいですか?」
「可愛げのない息子だな」
「父上がお育てになった結果です」
父王は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。
「そういうところは、母親に似た」
アレクサンダーが目を上げた。
「母上に?」
「ああ。あれも腹を決めた後は強かった」
父王の顔が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
アレクサンダーにはほとんど記憶のない人。
けれど父にとっては、今もはっきりと覚えている人なのだろう。
「……父上」
「何だ」
「例の噂については」
父王の表情が変わった。
「くだらん」
低い声だった。
「ですが、地方の貴族にまで――」
「分かっている」
父王は苛立たしげに息を吐いた。
「お前のことだけなら、好きに言わせておけと言いたいところだ」
「私のことだけなら?」
「お前の母まで侮辱している」
アレクサンダーは黙った。
先王妃と、彼女の護衛を務めていた男。
二人が親しかったことを利用し、アレクサンダーは国王の実子ではないという噂が、昔から消えずに残っている。
「国のために私の妻になった女だ」
父王は窓の方へ顔を向けた。
「政略で始まった縁だった。だが、あれはよく私を支えてくれた。私も、あれを信頼していた」
しばらく沈黙してから、父王は続けた。
「お前を産んで身体を壊して、それでも最後までお前のことばかり心配していた女だ。それを今さら、誰の子を産んだ女だと言うのか」
その声には、病で弱った男とは思えない怒りがあった。
「晩秋の集まりで終わらせる」
父王は言った。
「アレクサンダーが我が子であり、次の王であることに何の疑いもない。私自身が諸侯の前で告げる」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
父王は不機嫌そうに眉を寄せた。
「私が息子を息子だと言うのに、なぜこんな面倒なことをせねばならん」
アレクサンダーは思わず笑った。
「王だからでは?」
「本当に面倒だな、王というものは」
「もうすぐ私に押しつけるおつもりでしょう」
「だから今のうちに言っておく」
父王も小さく笑った。
だが、すぐに疲れたように目を閉じた。
「アレク」
「はい」
「王になる準備をしておけ」
アレクサンダーは父を見た。
「もうしております」
父王は目を閉じたまま、口元だけを緩めた。
「知っている」
*
アレクサンダーは現在へ意識を戻した。
机の上には、父との会話をした後に届いた報告書が広がっている。
金。
物資。
そして、人。
父の病状が悪化し、自分が政務の多くを担うようになった。
晩秋の王宮行事では、父自身が王位継承について諸侯へ告げる。
さらに譲位の時期まで示すつもりでいる。
アレクサンダーは、もう一度人員の記録へ目を落とした。
王太子である今と、国王になった後では違う。
即位すれば、王国軍を動かす最終的な権限も自分へ移る。各地の諸侯も、将軍たちも、新たな王に対して改めて忠誠を示すことになる。
そして何より。
現国王が存命のうちに、自らアレクサンダーを後継者として諸侯の前に立たせ、王位を譲る。
そうなれば。
長い時間をかけて燻り続けてきた出生への疑念も、政治の武器としては大きく力を失う。
「……急いでいるのか」
アレクサンダーが呟くと、文官が顔を上げた。
「彼らが、ですか」
「ああ」
「なぜでしょう」
「まだ分からん」
アレクサンダーは即答した。
分からない。
だからこそ、決めつけてはいけない。
だがもし。
今動いている者たちが、自分の王位継承を望まない者たちと繋がっているのなら。
彼らに残された時間は、急速に減っている。
「行事まで、あと何日だ」
「二十二日です」
三週間ほど。
何年も前から何かを積み上げてきた者にとって、そのすべてを失うには十分すぎるほど短い。
「王都へ入る者の確認を増やせ」
「門で止めますか」
「いや。今止めれば、こちらが気づいたと教えるだけだ」
アレクサンダーは人員の記録を机へ戻した。
「止めるな。追え。誰が来る。どこへ泊まる。誰と会う。誰から金を受け取る。何を運ぶ。全部だ」
「承知しました」
「倉庫の監視も続けろ。ただし手を出すな」
ここまで来たのなら。
相手が何をしようとしているのか、見極めなければならない。
「クリス・アーヴェルには?」
文官に問われ、アレクサンダーは少し考えた。
クリスはすでに深く入りすぎている。
ベルク。
アンジュー。
分散された資金。
不自然に集められた物資。
あの学生は、自分が命じた以上のところまで辿り着いてしまった。
だが数字を追うのと、人間を追うのとでは危険が違う。
「今まで通り、記録だけを追わせろ」
「人の動きについては?」
「知らせなくていい」
「よろしいのですか」
「あいつは文官志望の学生だ」
アレクサンダーは静かに答えた。
「兵を相手にさせるために使っているわけじゃない」
文官は一礼した。
「承知しました」
扉が閉まり、一人になると、アレクサンダーは椅子から立ち上がった。
窓の向こうに王都が広がっている。
遠くには城壁が見え、その向こうから今日も人が入ってくる。
商人。
職人。
人足。
護衛。
その中の誰が、ただ冬を前に王都へ来ただけの人間で。
誰が、別の目的を持っているのか。
今はまだ分からない。
ただ金の流れを追っていたはずだった。
その先で物資を見つけた。
そして今。
物資の向こうから、人間が姿を現し始めている。
偶然ではないのなら、誰かが動かしている。
アレクサンダーは、机の端に置かれた晩秋の王宮行事の予定表へ視線を戻した。
父王が、諸侯の前で自分を次の王と宣言する日。
そして。
父から自分へ王権を渡す時期が、初めて公になる日。
それまで、あと二十二日。
アレクサンダーはしばらくその数字を見つめた。
もし、長い時間をかけて何かを企んできた者がいるのなら。
その者たちにとっても。
残された時間は、あと二十二日だった。




