↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/44

第三十一話 王冠まで、あと二十二日

秋は、いつの間にか深くなっていた。

朝晩の空気は冷たく、学院の木々も赤や黄に染まり始めている。

つい先日まで街を歩けば上着を脱ぎたくなるほどだったのに、日が傾けば風の冷たさに襟元を押さえる者が増えた。

季節は、人の都合など待ってはくれない。

そして王太子アレクサンダーが追っていたものもまた、待ってはくれなかった。




王宮の一角にある執務室で、アレクサンダーは届いたばかりの報告書に目を通していた。

机の上には、ここ数か月で集められた資料が広げられている。


穀物、鉄、革、馬具、薬、毛布。

クリスが行軍の最中に気づいた物資の量は、その後も少しずつ増えていた。

一つの商会が大量に買い込んでいるわけではない。

購入する商会も違えば、運ぶ業者も違う。保管される倉庫も複数に分かれている。

だが、それらを丹念に辿っていけば、ノーマン・ベルクやオスカー・アンジューの名が現れ、そのさらに向こうに、まだ姿の見えない者たちがいる。

そこまでは、これまでと同じだった。

今日届いた報告が、それを変えた。


「物だけなら、まだよかったんだがな」

アレクサンダーが呟くと、机を挟んで立っていた直属の文官が頷いた。

「人も動き始めています」

「ああ」

アレクサンダーは別の紙を手に取った。

そこに並んでいるのは商取引ではない。ここ半月ほどの間に、王都へ入った者たちの記録だった。

秋の収穫を終えた商人。冬になる前に仕事を求めてやってくる職人。荷運び人。貴族に仕える従者。商家の護衛。

王都には毎日、大勢の人間が出入りする。それ自体は珍しいことではない。

だが、その中に妙な集団が混じり始めていた。


「北門から入った三十二名。届け出では街道補修の人足です」

「雇い主は?」

「複数に分かれています。ただ、王都での宿泊先は同じです」

アレクサンダーの視線が紙の上で止まった。

「ほかは」

「西門から入った十七名は荷運び人、南門からの二十四名は商家の護衛として届け出ています。こちらも名目上の雇い主は別々ですが、滞在先を調べると三か所に集中しました」

一人ずつを見れば、何もおかしくない。

王都で働く人足も、荷運び人も、商人に雇われた護衛も、どこにでもいる。

だが。

アレクサンダーは、机に広がる資料へ目を落とした。

物資と同じなのだ。

一件ずつなら普通に見えるものを並べてみると、そこに別の形が浮かび上がってくる。


「出身地は?」

「ばらばらです。ただ、何人かは過去の経歴を確認できました」

文官が一枚の紙を差し出した。

「地方軍にいた者が混じっています」

アレクサンダーはそれを受け取った。

五年前。七年前。九年前。

所属していた時期も部隊も違う。すでに退役した者もいれば、短期間しか軍にいなかった者もいる。

だが少なくとも、剣を握ったことも、命令を受けて集団で動いたこともない人足ではなかった。

「何人確認できた」

「十一名です」

「……少ないな」

「はい」

アレクサンダーはしばらく紙を眺めてから、低く続けた。

「少なすぎる」

十一人では何もできない。

だからこそ、その数字に意味がある。

確認できたのが十一人なら、まだ確認できていない者は何人いるのか。


アレクサンダーは背もたれに身体を預けた。

穀物、薬、毛布、革、馬具、鉄。

そして今度は、それを使うかもしれない人間まで王都へ入り始めた。

「倉庫の監視は?」

「続けています。出入りは増えていますが、大量に搬出された形跡はありません」

「なら、まだ集めている段階か……」


何のために。

その問いは、もうずっと前からある。

政治的な工作だけなら、これほどの物資はいらない。

王太子の出生を疑わせ、支持を削り、王位継承を揺るがすだけなら、兵として動ける人間を王都へ入れる必要もない。


何かが変わった。

いや。

何かを急ぐ理由が生まれたのだ。


アレクサンダーの視線が、机の端に置かれた一通の書状へ向いた。

晩秋に行われる、王宮の大きな集まり。

冬を前に地方の有力貴族や高官たちが王都へ集まり、各地の状況と翌年の方針を確認する、毎年恒例の行事だった。


……今年は、例年とは違う意味を持つことになる。

それを知ったのは、数日後であった。




国王の寝室には、薬草の匂いが染みついていた。

厚いカーテンの隙間から秋の淡い光が差し込み、寝台の傍らには飲みかけの薬と水差しが置かれている。


父が病に伏して、すでに数か月になる。

初めの頃は体調のいい日を選んで執務室へ出ていたが、それも次第に難しくなった。

大臣たちからの報告を受け、地方から届く陳情を読み、国王の裁可を必要とする案件を整理する。

その多くを今ではアレクサンダーが担っている。

王太子が国王を補佐している。

表向きはそういうことになっている。

だが実際には、王から王太子へ、国を動かす仕事が少しずつ移り始めていた。


「そこに座れ、アレク」

寝台から声がした。

アレクサンダーは傍らへ椅子を寄せた。

病を得る前の父は、大柄でよく動く男だった。

幼いアレクサンダーを馬へ乗せ、地方へ連れ出し、軍営にも、工事中の水路にも、収穫前の農地にも連れていった。


――王宮から国を見ようとするな。


父から何度そう言われただろう。

幼い頃は、ただ父の後ろをついて歩いた。

成長すると、今度は必ず問われるようになった。


――お前ならどうする?


その問いに答えるために人の話を聞き、数字を見て、自分の目で確かめる癖がついた。

その父が今は寝台にいる。身体は目に見えて細くなった。

それでもアレクサンダーを見る目には、昔と変わらない力が残っていた。


「今日は顔色がいいですね」

「嘘をつけ」

間髪を入れず返され、アレクサンダーは笑った。

「少しくらい喜ばせて差し上げようかと」

「お前はそういう嘘が下手だ。昔からな」

父王も笑ったが、その途中で咳き込んだ。

アレクサンダーはすぐに水を差し出した。


かつては、自分が父から水をもらっていた。

馬で遠出をした日も、剣の稽古でへばった日も。

いつから逆になったのだろう。

そんなことを思いながらも、アレクサンダーは何も言わなかった。

父王もまた、息が落ち着くと何事もなかったように水を返した。

「晩秋の集まりだが」

「はい」

「そこで、お前のことを話す」

「私の?」

「王位だ」


アレクサンダーの表情から笑みが消えた。

「……父上」

「そんな顔をするな。今すぐ死ぬと言っているわけではない」

「病床で王位の話をされれば、息子としてはそういう顔にもなります」

「息子としては、か」

父王はわずかに笑った。

「では王太子として聞け」


アレクサンダーは姿勢を正した。

「この身体では、以前のように政務を続けるのは難しい。お前も分かっているだろう?」

否定はできなかった。

「お前が補佐しているという形でここまで来たが、実際に国を動かしているのは、もう半分以上お前だ」

「まだ父上の裁可を必要とすることは多くあります」

「だから、その形を終わらせる」

父王は静かに言った。


「晩秋の集まりで、諸侯の前にお前を立たせる。アレクサンダーが次の王であると、私の口から改めて告げる」

アレクサンダーは黙って父を見た。

「それだけではない。譲位の時期も示すつもりだ」

「……そこまでお考えでしたか」

「ああ。私が生きているうちに、お前へ渡す」


父の言葉に迷いはなかった。

アレクサンダーは少しだけ視線を落とした。


幼い頃。

レオンが母に抱かれている姿を見て、羨ましいと思ったことがある。

転べば抱き上げてもらい、眠くなれば膝へ乗せてもらう弟を見ながら、どうして自分には母がいないのだろうと考えた。

現王妃が自分まで抱き寄せてくれることもあった。それでも、幼い子供にとって母親がいないという事実は、それだけで寂しいものだった。


けれど。

父は、いつもいた。

母のいない息子を憐れむのではなく、自分の隣へ連れていった。

国を見せ、人を見せ、失敗させ、考えさせた。

アレクサンダーが今、自分の足でここに立っていられるのは、その時間があったからだ。


だからこそ、父が自分へ王位を渡すというなら。

受け取らなければならない。

「……承知しました」

父王がアレクサンダーを見た。

「それだけか」

「では、もう少し取り乱した方がよろしいですか?」

「可愛げのない息子だな」

「父上がお育てになった結果です」

父王は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。

「そういうところは、母親に似た」

アレクサンダーが目を上げた。

「母上に?」

「ああ。あれも腹を決めた後は強かった」


父王の顔が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

アレクサンダーにはほとんど記憶のない人。

けれど父にとっては、今もはっきりと覚えている人なのだろう。


「……父上」

「何だ」

「例の噂については」

父王の表情が変わった。

「くだらん」

低い声だった。

「ですが、地方の貴族にまで――」

「分かっている」

父王は苛立たしげに息を吐いた。

「お前のことだけなら、好きに言わせておけと言いたいところだ」

「私のことだけなら?」

「お前の母まで侮辱している」


アレクサンダーは黙った。

先王妃と、彼女の護衛を務めていた男。

二人が親しかったことを利用し、アレクサンダーは国王の実子ではないという噂が、昔から消えずに残っている。

「国のために私の妻になった女だ」

父王は窓の方へ顔を向けた。

「政略で始まった縁だった。だが、あれはよく私を支えてくれた。私も、あれを信頼していた」

しばらく沈黙してから、父王は続けた。

「お前を産んで身体を壊して、それでも最後までお前のことばかり心配していた女だ。それを今さら、誰の子を産んだ女だと言うのか」

その声には、病で弱った男とは思えない怒りがあった。


「晩秋の集まりで終わらせる」

父王は言った。

「アレクサンダーが我が子であり、次の王であることに何の疑いもない。私自身が諸侯の前で告げる」

「……ありがとうございます」

「礼を言われることではない」

父王は不機嫌そうに眉を寄せた。

「私が息子を息子だと言うのに、なぜこんな面倒なことをせねばならん」

アレクサンダーは思わず笑った。

「王だからでは?」

「本当に面倒だな、王というものは」

「もうすぐ私に押しつけるおつもりでしょう」

「だから今のうちに言っておく」


父王も小さく笑った。

だが、すぐに疲れたように目を閉じた。

「アレク」

「はい」

「王になる準備をしておけ」

アレクサンダーは父を見た。

「もうしております」

父王は目を閉じたまま、口元だけを緩めた。

「知っている」




アレクサンダーは現在へ意識を戻した。

机の上には、父との会話をした後に届いた報告書が広がっている。

金。

物資。

そして、人。


父の病状が悪化し、自分が政務の多くを担うようになった。

晩秋の王宮行事では、父自身が王位継承について諸侯へ告げる。

さらに譲位の時期まで示すつもりでいる。


アレクサンダーは、もう一度人員の記録へ目を落とした。

王太子である今と、国王になった後では違う。

即位すれば、王国軍を動かす最終的な権限も自分へ移る。各地の諸侯も、将軍たちも、新たな王に対して改めて忠誠を示すことになる。

そして何より。

現国王が存命のうちに、自らアレクサンダーを後継者として諸侯の前に立たせ、王位を譲る。

そうなれば。

長い時間をかけて燻り続けてきた出生への疑念も、政治の武器としては大きく力を失う。


「……急いでいるのか」

アレクサンダーが呟くと、文官が顔を上げた。

「彼らが、ですか」

「ああ」

「なぜでしょう」

「まだ分からん」

アレクサンダーは即答した。


分からない。

だからこそ、決めつけてはいけない。

だがもし。

今動いている者たちが、自分の王位継承を望まない者たちと繋がっているのなら。

彼らに残された時間は、急速に減っている。


「行事まで、あと何日だ」

「二十二日です」

三週間ほど。

何年も前から何かを積み上げてきた者にとって、そのすべてを失うには十分すぎるほど短い。


「王都へ入る者の確認を増やせ」

「門で止めますか」

「いや。今止めれば、こちらが気づいたと教えるだけだ」

アレクサンダーは人員の記録を机へ戻した。

「止めるな。追え。誰が来る。どこへ泊まる。誰と会う。誰から金を受け取る。何を運ぶ。全部だ」

「承知しました」

「倉庫の監視も続けろ。ただし手を出すな」


ここまで来たのなら。

相手が何をしようとしているのか、見極めなければならない。


「クリス・アーヴェルには?」

文官に問われ、アレクサンダーは少し考えた。

クリスはすでに深く入りすぎている。

ベルク。

アンジュー。

分散された資金。

不自然に集められた物資。

あの学生は、自分が命じた以上のところまで辿り着いてしまった。


だが数字を追うのと、人間を追うのとでは危険が違う。

「今まで通り、記録だけを追わせろ」

「人の動きについては?」

「知らせなくていい」

「よろしいのですか」

「あいつは文官志望の学生だ」

アレクサンダーは静かに答えた。

「兵を相手にさせるために使っているわけじゃない」


文官は一礼した。

「承知しました」

扉が閉まり、一人になると、アレクサンダーは椅子から立ち上がった。

窓の向こうに王都が広がっている。

遠くには城壁が見え、その向こうから今日も人が入ってくる。

商人。

職人。

人足。

護衛。

その中の誰が、ただ冬を前に王都へ来ただけの人間で。

誰が、別の目的を持っているのか。

今はまだ分からない。


ただ金の流れを追っていたはずだった。

その先で物資を見つけた。

そして今。

物資の向こうから、人間が姿を現し始めている。


偶然ではないのなら、誰かが動かしている。


アレクサンダーは、机の端に置かれた晩秋の王宮行事の予定表へ視線を戻した。

父王が、諸侯の前で自分を次の王と宣言する日。

そして。

父から自分へ王権を渡す時期が、初めて公になる日。


それまで、あと二十二日。

アレクサンダーはしばらくその数字を見つめた。


もし、長い時間をかけて何かを企んできた者がいるのなら。


その者たちにとっても。


残された時間は、あと二十二日だった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。