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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第二十九話 君の身体が、俺を覚えている

翌朝。

目を覚ましたエリオットは、見慣れた天井を眺めながら、昨日起きたことを最初から順番に思い返していた。


実地訓練。怪我をしたクリス。古い管理小屋。

そして、シャツの下に巻かれていた布。


クリスは女だった。


そこまで考えたところで、口元が勝手に緩んだ。

昨夜から、これを何度繰り返しているか分からない。


ただ、驚きはまだ消えていない。

どうやって学院へ入ったのか、なぜそこまでして男のふりをしているのか、聞きたいことなら山ほどある。

けれど、それ以上に。


――嫌とは言ってない。


思い出した途端、エリオットは片手で目元を覆った。

「……それは駄目だろ」

朝から何を思い出しているのだと、自分でも思う。

けれど忘れろという方が無理だった。


クリスを好きだと自覚した時、エリオットはかなり困った。

相手は男だった。

それでも好きなものは仕方がないと、そこまでは案外早く諦めがついた。

問題は、その先だった。

クリスは自分を友人として信頼している。

それを壊してまで気持ちを押しつけるつもりはなかったし、仮に想いを告げたところで、受け入れてもらえる可能性は低いと思っていた。

だから、触れたくても止めた。

抱き寄せたくなっても、いつものふざけた肩抱きで誤魔化した。

唇を見てしまった時には、自分から目を逸らした。


それでも好きだった。

だから、どうしようもなかった。


それが昨日。

世界の方が突然、ひっくり返った。


女だった。

クリスは、女だった。

しかも。

キスをしても、嫌がらなかった。


もちろん、それだけで自分を好きなのだと勘違いするほど、エリオットも馬鹿ではない。

クリス自身が言った。

まだ分からない、と。


……だったら、これから分かってもらえばいい。


そう考えた途端、昨日まで行き止まりだったはずの道が、いきなりどこまでも続いて見えた。

恋人になれるかもしれない。

卒業してからも会える。

堂々と口説ける。

いつか―― 結婚だって。


そこまで考えたところで、エリオットは天井を見たまま瞬きをした。


結婚。


その言葉を意識した途端、想像が勝手に先へ進んだ。

学院祭の女装とは違う。

男物の服でも、仮面舞踏会の衣装でもない。

美しい白い婚礼衣装をまとったクリスが、自分の隣に立っている。

いつものように口が悪くて、きっと緊張すると怒ったような顔をして。

それでも、自分の妻になると誓ってくれる。


その日の熱い初夜まで想像しかけて……。

エリオットは勢いよく上半身を起こした。

「……いや、待て」

さすがに早い。

昨日、女だと知ったばかりだ。

しかもまだ振られてすらいない代わりに、受け入れてもらってもいない。


なのに少し経つと、今度は別の想像が浮かんだ。

もし結婚したら。

家はどうする?

自分が騎士になって、クリスは文官になりたがっている。

二人とも王都勤務なら都に住むのか。

子供は――。


「……何人だ?」

思わず声に出した。


そこで我に返り。

エリオットは両手で顔を覆った。

「気が早すぎるだろ、俺」


けれど。

笑いが込み上げた。


昨日までなら、考えることすらなかった未来だった。

叶うかどうかは分からない。

クリスに振られるかもしれない。

それでも…… にやにやが止まらない。


『想像してもいい未来』になった。


そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


そしてもう一つ。

昨夜、寝台へ入ってから気づいたことがある。


―― 殿下にも。

―― 言わない。


あの時は、クリスを安心させることしか考えていなかった。

だが。


レオンは知らない。


エリオットは以前から、第二王子がクリスを見る目に気づいている。

本人がどこまで自覚しているかは知らない。

けれど、少なくともただの友人を見る目ではなくなっている。


そのレオンは。

まだ、知らない。


エリオットはしばらく考えたあと、ゆっくり笑った。

「……これ、結構でかいな」


クリス本人から口止めされているのだ。

当然、約束は守る。

これは友人としての義理であり、クリスから預かった秘密だ。


ただし。

その間、自分がクリスを口説いてはいけないとは一言も言われていない。


「悪いな、殿下」

エリオットは寝台から降りた。


まったく悪いと思っていなかった。




一方。

クリスの朝は、エリオットとは正反対だった。

ほとんど眠れなかった。


目を閉じるたび、昨日の管理小屋を思い出した。

最初に浮かぶのは、秘密を知られた瞬間の恐怖だった。

その次に、誰にも言わないと答えたエリオットの顔。

そこまではいい。

問題は、そのあとだ。


頬に触れた大きな手。

近づいてきた顔。

熱い唇。

背中に回った、男らしい腕。

長く触れ合ううちに、自分とエリオットのどちらのものか分からなくなった体温。


離れた時。

寒いと思った。


そこまで思い出して、クリスは寝台の上で枕へ顔を埋めた。

「……何でそこまで覚えてるのよ」


嫌ではなかった。

それはもう、認めるしかない。

問題は、なぜ嫌ではなかったのかだ。


エリオットだから。

信頼しているから。

友人として好きだから。

そこまでは分かる。


けれど。

本当に、それだけなのだろうか。


答えが出ないまま朝食の時間になり、クリスは重い足取りで食堂へ向かった。

そして扉をくぐった瞬間。


帰りたくなった。


エリオットがいた。

しかも、すぐに目が合った。


向こうが笑う。いつもの顔だ。

それを見て、クリスは少しだけ安心した。

昨日のことで急によそよそしくなるのも困る。変に気を遣われるのも嫌だ。

今まで通りでいてくれるなら、それが一番いい。


そう思った。


数秒後。

その考えが甘かったことを知った。


「おはよう、クリス」

「……おはよう」

隣まで来たエリオットが、ごく自然に肩へ腕を回す。

いつもやっていたことだ。


なのに。

「――っ」

クリスの身体が小さく跳ねた。


肩にかかる腕の重さが分かる。

服越しの体温が分かる。

顔が近い。

それだけではない。

ふわりと鼻先を掠めたエリオットの匂いにまで、身体の方が先に反応した。


昨日。

もっと近い場所で感じた匂いだった。


「離れろ!」

慌てて腕を外す。

エリオットは抵抗せず離したが、ひどく楽しそうだった。

「何で?」

「近い」

「昨日まで平気だったじゃん」

「昨日までと今日は――」

言いかけて、止まった。


遅かった。


エリオットの口元が上がる。

「今日は?」

「……何でもない」

「昨日までと今日は、何?」

「うるさい」

「聞きたいな」

「黙れ」


クリスが睨む。

エリオットはますます嬉しそうに笑った。


腹が立つ。


だが。

その笑顔が、いつもより妙に晴れやかに見えた。


「おはよう」

背後から声がして、クリスはほっとして振り返った。

「殿下。おはようございます」

レオンだった。


いつも通り整った制服姿で、片手には食堂へ来る途中まで読んでいたらしい書類を持っている。

レオンはクリスへ軽く頷き、それからエリオットを見る。

「朝から騒がしいな」

「こいつがうるさいんです」

「俺?」

「お前以外に誰がいる」


レオンの口元がわずかに緩んだ。

「いつものことだろ」

「殿下まで」


三人で席へ向かう。

クリスは、ほとんど無意識にレオンの隣へ座った。


その瞬間。

エリオットが一度だけ眉を上げた。


向かいの席しか空いていなかっただけだ。

クリスに他意はない。


だがレオンは。

少しだけ機嫌がよくなった。


「昨日の実地訓練はどうだった」

パンを取りながら、レオンが尋ねる。

「特に問題は――」

「怪我したよ」

向かいからエリオットが言った。

クリスが顔を上げる。

「言わなくていい!」

「怪我?」

レオンの手が止まった。


視線がすぐにクリスの身体へ向く。

「どこだ」

「脇腹を少し擦っただけです。本当に大したことありません」

「見せろ」

「何でですか!」

あまりに即答だったので、エリオットが吹き出した。

レオンも自分の言葉に気づいたらしい。

「……いや。見せなくていい」

「当たり前です」

「手当てはしたのか」

「しました」

「誰が?」


クリスが一瞬黙る。


その一瞬を。

レオンは見た。


「俺」

エリオットが答えた。


レオンの視線が向かいへ移る。

「お前が?」

「騎士科ですから。応急処置くらいできますよ」

「……そうか」


それだけだった。

けれど。

エリオットには分かった。


面白くないらしい。


エリオットはパンを口へ運びながら、何食わぬ顔をした。


――悪いな、殿下。


やはり、まったく悪いと思わなかった。




その日の午後。

文官科には護身実技の授業があった。

文官に剣で敵を倒す技量までは求められない。

だが地方視察や輸送路の確認に出れば、盗賊や暴徒に遭遇する可能性はある。

そのため、最終学年では何度か騎士科の学生が補助に入り、掴まれた時の逃れ方や、最初の一撃をかわして距離を取る方法を習う。


訓練場へ入ったクリスは、補助役の騎士科学生たちを見て。

嫌な予感がした。


エリオットがいる。


そして

目が合った途端、笑った。


絶対にわざとだ。


「何でお前がいるんだよ」

授業が始まる前に近づいて問い詰めると、エリオットは涼しい顔をした。

「教官に頼まれた」

「本当に?」

「本当。昨日の実地訓練で応急処置もちゃんとできてたから、今日は補助に入れって」

「……そう」

「残念そうだな」

「安心したんだよ」

「俺と組みたくない?」

「組みたくない!」

「即答だなあ」


だが、教官が組み合わせを読み上げると

「クリス・アーヴェル。エリオット・グレイヴ」

クリスは天を仰いだ。


向かいでエリオットが嬉しそうに笑っている。


「よろしく」

「……絶対ふざけるなよ」

「授業中は真面目だよ」

「授業中は?」

「今のところは」

「帰りたい」


最初に行うのは、正面から腕を取られた場合の離脱だった。

エリオットが攻撃役となり、クリスの右手首を掴む。

「力任せに引くなよ。俺みたいなの相手だと絶対抜けないから」

「分かってる」

「身体をこっちへ入れて、手首の細い方を俺の親指側へ向ける」

言われた通りに動く。

掴まれた腕を捻り、一歩踏み込んで抜く。

「そう。それなら逃げられる」


真面目だ。


クリスは少しだけ安心した。


次は、背後から肩を掴まれた場合。

その次は、正面から腕を伸ばされた時に身体を横へずらし、相手の勢いを利用して脇を抜ける。

何度か繰り返すうち、クリスの身体から余計な力も抜けてきた。


「次は少し速く行く」

「分かった」

「俺が右肩を取りに行くから、左へかわして後ろへ抜けろ」


これなら情景は単純だ。

エリオットが正面から一歩踏み込み、右手をクリスの肩へ伸ばす。

クリスはその腕を見て、左へ身体をずらす。


一度目は成功した。

「いいじゃん」

「当たり前だ」

「じゃあ、もう少し速く」


二度目。

エリオットの踏み込みが速くなる。

クリスも横へ避けた。


その時。

隣の組から離脱してきた学生が、後ろからクリスの肩へぶつかった。

「わっ」

体勢が崩れる。


咄嗟にエリオットが腰を抱いた。

だが、避けようとしていたクリス自身の勢いもついている。

支えたエリオットまで足を取られ。

二人まとめて、訓練用に敷かれた厚い布の上へ倒れ込んだ。


エリオットが下になった。


「……痛っ」

「悪い! 大丈夫?」

「俺は平気。お前は?」

「俺も――」

答えながら顔を上げ。

クリスは止まった。


自分は、ほとんどエリオットの上へ乗るような格好になっていた。

両手は胸の上。

腰には、倒れる瞬間に支えられた腕が残っている。

そして。

顔を上げれば。


すぐそこに、エリオットの顔があった。


近い。


昨日までなら、慌てて起き上がって「悪い」で済んだだろう。


今日は。

駄目だった。


掌の下にある硬い胸。

腰を支える腕。

触れ合った身体から伝わる熱。


全部、昨日と繋がってしまう。


エリオットも何も言わなかった。

ただ、クリスを見上げている。


その視線が。

ほんの一瞬だけ。

唇へ落ちた。


それだけで。

昨日の感覚が蘇った。


クリスの頬がカッと熱くなる。

慌てて起きようとした。

「待って。脇腹」

「え?」

「昨日の傷。手ついて起きたら捻るだろ」

腰に回っていた腕が、傷へ触れない位置で身体を支える。


そんなところまで覚えている。


それが余計に困る。


「……離せ」

「起きるまで」

「自分で起きられる」

「また転んだら?」

「転ばない」


エリオットが少し顔を寄せた。

ほんのわずかに。

周囲から見れば、起き上がろうとしている二人にしか見えない程度に。


そして。

クリスの耳にだけ届く声で囁いた。

「昨日の俺の顔、覚えてる?」


クリスの目が見開かれた。

「……っ、お前」

「声、大きい」

さらに小さな声で言われる。


秘密。


それを思い出し、クリスは慌てて口を閉じた。

エリオットの目が笑っている。


「その顔するってことは、覚えてるんだ」


囁き声。

自分にしか聞こえない。


それが。

妙に。

昨日の小屋を思い出させた。


「……あとで覚えてろ」

クリスも声を潜めて返す。

「楽しみにしてる」

「そういう意味じゃない」


その時。

「クリス、大丈夫か?」

少し離れたところから声がした。


レオンだった。


別の組で補助を受けていたらしい。

こちらを見ている。


クリスは我に返った。

「大丈夫です!」

今度こそエリオットの胸を押して起き上がる。

だが急いだせいで、脇腹に痛みが走った。

「っ」

身体が傾く。


エリオットがすぐに起き上がり、背中へ腕を回した。

「だから言っただろ」

「平気」

「平気じゃない」

「もう離せ」

「ちゃんと立ってから」


そのやり取りを。

レオンは黙って見ていた。


エリオットがクリスに触れること自体は珍しくない。

以前からそうだった。


違うのは。

クリスの方だった。


触れられるたびに、妙に意識している。

目を合わせては逸らす。

怒っているようで、本気で嫌がっているわけでもない。


そして今。

二人は何かを囁き合っていた。


自分には聞こえない何かを。


胸の奥に、嫌なものが落ちた。


昨日、二人は同じ選抜の実地訓練に参加した。


そこで、何かがあった。


そうとしか思えなかった。




授業が終わると、クリスはいつものように図書室へ向かった。

昨夜ほとんど眠れなかったせいで頭が重い。

今日はもう、エリオットから離れて静かに過ごしたかった。


窓際の席へ座り、資料を広げる。

しばらくして。

向かいの椅子が引かれた。


クリスは顔も上げずに言った。

「帰れ」

「俺だ」


顔を上げる。


レオンだった。

「……殿下」

「誰だと思った」

「エリオット」

答えると。

レオンは一瞬黙った。


「今日はずっと一緒だったようだからな」

「一緒じゃありません。あいつが勝手に絡んでくるんです」

「そうか」


レオンは持ってきた本を机へ置いた。

それから、クリスの顔を見る。

「疲れているな」

「ちょっと寝不足で」

「昨日の傷が痛むのか」

「いえ。それは大丈夫です」


レオンの視線が、クリスの右脇腹へ落ちた。

「本当に?」

「はい」

「ならいい」


それだけ言って、本を開く。


静かだった。


エリオットといる時とは、まるで違う。

何か言い返さなければならないこともない。

突然距離を詰められることもない。


ただ同じ机で、それぞれの本を読む。


二年間。

何度もこうして過ごした。


クリスは少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。


しばらくして。

紙の上へ影が落ちた。

「寝るな」

低い声に顔を上げる。

「寝てません」

「今、目を閉じていただろ」

「考え事です」

「三十秒も?」

「長考です」


レオンが小さく笑った。


「今日はもう戻って寝ろ」

「でも、これだけ――」

「明日でもできる」

「殿下に言われたくないです。前に三日連続で夜まで図書室にいたでしょう」

「よく覚えているな」

「一緒にいたので」


何気なく答えた。


レオンの手が止まった。


――一緒にいたので。


たったそれだけの言葉だった。

けれど。

朝から胸の奥に沈んでいたものが、ほんの少し軽くなった。


自分にも、クリスと積み重ねてきた時間がある。


エリオットにはエリオットの距離がある。

なら。

自分には、自分の距離がある。


「クリス」

「はい?」

「帰るぞ」

「え?」

レオンは本を閉じた。

「部屋まで送る」

「すぐそこですよ」

「知っている」

「じゃあ何で」

「俺も寮に戻るからだ」


嘘ではない。

だが、それだけでもなかった。


クリスは不思議そうな顔をしたあと、素直に資料を片づけ始めた。


二人で図書室を出る。秋の夕暮れは早い。

廊下の窓から差し込む光はすでに橙色を帯び、石床に二人の影を長く伸ばしていた。


「殿下」

「何だ」

「今日、何か機嫌悪くなかったです?」


レオンの足が、ほんの少しだけ遅くなる。

「……別に」

「そうですか?」

「そうだ」

「ならいいですけど」


クリスはそれ以上聞かなかった。

そのまま隣を歩く。


肩が触れるほど近くはない。

エリオットのように腕を回すこともない。


それでも、いつの間にか歩幅は同じになっていた。


レオンは前を向いたまま、そのことを意識した。


何があったのかは知らない。

エリオットとクリスの間に、自分の知らない何かが生まれたことだけは分かる。


面白くない。


それを認めるのは、思ったより簡単だった。


だが。


だからといって。

黙って見ている必要もない。


「クリス」

「はい」

「今度の休養日、空いているか?」

クリスが顔を上げた。

「……たぶん。何でです?」


レオンは一瞬考えた。

特に用事はなかった。


「……街へ行く」

「何か買うんですか?」

「今から考える」

「何ですか、それ」

クリスが笑った。


その笑顔を見て。

レオンも、ほんの少し笑った。


「嫌ならいい」

「嫌とは言ってませんよ」


レオンは足を止めた。


クリスは気づかず、二歩ほど先へ進む。

「殿下?」


「……いや」

レオンは再び歩き出した。


もちろん。

その言葉が昨日、別の男にどんな意味で使われたのか。

レオンは知らない。


ただ。

「じゃあ、決まりだ」

そう言う声は。

さっきまでより、少しだけ機嫌がよかった。




その夜。

クリスは寝台に横になりながら、長い一日を思い返していた。


朝からエリオットに振り回された。

授業でも振り回された。

倒れ込んだ時の顔など、恥ずかしくて思い出したくもない。


なのに、思い出す。


――昨日の俺の顔、覚えてる?


「……忘れられるわけないでしょ」

誰もいない部屋で呟いて。

すぐに布団を被った。


今までなら。

肩を抱かれても。

腰を支えられても。

胸に触れても。

何とも思わなかった。


今は。

触れられるたびに。

あの口づけまで思い出してしまう。


しかも。

エリオットはそれを分かっている。


「絶対、面白がってる……」


腹が立つ。


けれど、クリスはまだ知らなかった。

朝、エリオットがあんなに晴れやかな顔で笑っていた理由を。


エリオットの頭の中ではすでに。

自分を口説いて。

好きにさせて。

いつか白い婚礼衣装を着せて。

その先の人生まで。

勝手に始まっていることなど、知るはずもなかった。


そして、もう一人。


何も知らないまま、ようやく自分の胸の内にある嫉妬を認め始めた男が。

次の休養日に何をするつもりなのかも。

まだ、クリスは知らなかった。






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