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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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28/32

第二十八話 嫌じゃないなら、もう一度

十月に入って最初の休養日の前日。

合同実地訓練の日は、朝からよく晴れていた。


王都を出る頃にはまだ柔らかな陽が差していたが、馬車を降りると、吹き抜ける風にはもう秋の冷たさが混じっている。

訓練地は王都から一時間ほど離れた丘陵地だった。

低い森と草地が続き、その間を古い街道が縫うように走っている。


参加するのは文官科と騎士科の最終学年から選ばれた十数名。

夏の行軍ほど大掛かりなものではない。

周辺の地形を確認し、限られた人員で物資の輸送経路を組み立て、負傷者が出た場合には搬送と応急処置まで行う。卒業前の総合実習の一つだった。


「今回は走らなくていいんですよね?」

説明を終えた教官にクリスが念を押すと、隣でエリオットが吹き出した。

「文官科のお前に誰が走れと言った」

「夏の行軍ではいろいろあったので、念のためです」

「騎士科と張り合うからだ」

「張り合ってません」

「クリス、体力ないもんな」

横から余計な声が飛んでくる。

「お前と比べるな」

「疲れたら背負ってやろうか?」

「始まる前から何で背負われるんだよ」

「いつでも言って」

「絶対言わない」

エリオットが笑う。

いつも通りだった。


けれど訓練が始まれば、その表情は変わった。

騎士科は先行して森へ入り、斜面や沢、崩れやすい地面など、輸送の妨げになる場所を確認する。

文官科は彼らから上がってくる報告をもとに、荷を運ぶ経路と必要な人員、時間を計算していく。

クリスが記録を取っている間にも、木々の向こうを騎士科の学生たちが駆けていった。

その先頭に、エリオットがいる。

倒木へ片手をつき、軽々と越える。後ろの学生へ何か指示を飛ばし、そのまま斜面を駆け上がっていく。

普段の軽薄さが嘘のようだった。

学院祭の演武でも思ったが、こうしている時のエリオットは、やはり格好いい。


――本人には絶対に言わないけど。


この間は一度褒めただけで、何度「惚れた?」と聞かれたことか。

クリスは小さく息を吐き、手元の記録へ視線を戻した。




午後になると、訓練は負傷者が出た場合の対応へ移った。

騎士科が負傷者を安全な場所まで運び、応急処置を行う。

文官科は位置と状況を把握し、どこへ救援を回すべきか判断する。

本来なら、学生の一人が負傷者役を務めるだけの訓練だった。

ところが、斜面で物資を運んでいた時だった。


「そっち、足元気をつけろ!」

誰かの声に、クリスが顔を上げる。

荷を載せた小さな運搬具が、斜面を滑ってきた。固定していた縄が緩んだらしい。

学生たちが慌てて進路を空ける。

クリスも一歩退いた。

その踵が、地面から浮いた石を踏んだ。

「あ――」

身体が傾いた。

咄嗟に伸ばした手が細い枝を掴む。

だが、乾いた音とともに折れた。


「クリス!」


聞き慣れた声と同時に、腕を強く引かれた。

倒れる代わりに、硬い胸へ身体ごとぶつかる。

「大丈夫か?」

「大丈夫 ――」

そう言いかけたところで、右の脇腹に鋭い痛みが走った。

「……痛っ」

それだけで、エリオットの表情が変わった。

「どこ」

「ちょっと擦っただけ」

「どこ?」

「脇腹」

「見せて」

「いいって。枝か何かで――」

「クリス」

いつもの軽さが消えていた。

騒ぎに気づいた教官もやってきて、服の裂けた部分を確認する。

「擦ったようだな。エリオット、お前は処置できるな」

「はい」

「連れていけ。傷を洗って薬を塗れ。必要なら包帯も」

「分かりました」

「いや、俺、自分で――」

「行け」

「……はい」

クリスは諦めるしかなかった。




応急処置に使われていたのは、訓練地の端に建つ古い管理小屋だった。

長く使われているらしく、木の壁にはところどころ隙間があり、閉め切っていても秋の冷たい空気が入ってくる。


簡素な机と椅子。

水桶。

薬と包帯が入った木箱。

外からは、まだ訓練を続ける学生たちの声が聞こえていた。

「どっち?」

扉を閉めながら、エリオットが聞く。

「右」

「服、上げて」

「自分でやる」

「じゃあ上げて」

クリスは渋々、上着の裾を持ち上げた。


「もう少し」

「これで見えるだろ」

「見えない」

「見える」

「俺の目がおかしいの?」

「お前の目は昔からおかしい」

言いながらも、クリスはもう少しだけ裾を上げた。

エリオットがしゃがみ込む。


「……近い」

「傷を見るんだから近づくだろ」

「そうだけど」

右の脇腹には、細長い傷が走っていた。

枝先が掠めたらしく、薄く血も滲んでいる。

「血、出てるじゃん」

「これくらいなら平気だよ」

「平気かどうか決めるのは俺」

「何でお前が決めるんだよ」

「今は俺が手当の担当だから」

水で濡らした布が、傷へそっと触れた。

「っ……」

「痛い?」

「ちょっと」

「我慢して」

「優しくするって言ってなかった?」

「してるよ」

「嘘つけ」

「じゃあ、もっと優しくする」

言葉通り、手つきがさらに柔らかくなる。


クリスは何となく黙って、その手元を見ていた。

剣を握る手だ。

指の付け根は硬く、手のひらにも薄い傷がいくつもある。

それなのに、自分の傷へ触れる時だけは驚くほど慎重だった。


「……上手いな」

「何が?」

「手当て」

「だから言っただろ」

「意外」

「まだ言う?」

エリオットが笑った。

「騎士科は、自分たちで応急処置することも多いからな」

薬を塗り終え、傷の位置を確かめる。

「これ、服が擦れるな。布当てておこう」

「いいよ」

「歩いたら痛いぞ」

「自分でやる」

「一人じゃ巻きにくい場所だろ」

「できる」

「クリス」

「できるって」


エリオットの手が止まった。

クリスも黙る。

さっきまで軽口を交わしていた小屋の中に、妙な沈黙が落ちた。

「……何でそんなに嫌がるの?」

「嫌がってない」

「嫌がってるだろ」

違う。

嫌なのではない。

できないのだ。

包帯を脇腹へ巻くなら、上着だけではなくシャツも大きく上げなければならない。

その下には、胸を隠すための布がある。

「自分でやるから」

「じゃあ、やってみて」

渡された包帯を受け取る。

脇腹へ回そうとして、クリスは止まった。

やはり無理だ。

「ほら」

「……」

「貸して」

「いい」

「怪我してる時くらい意地張るなよ」

「意地じゃない」

「じゃあ何?」

答えられない。

エリオットが少し考えたあと、立ち上がった。

「分かった。教官呼んでくる」

「待って!」

反射的に腕を掴んだ。

エリオットが振り返る。

「……教官も駄目なの?」

しまった。

クリスは唇を噛んだ。


エリオットの目から、完全に笑みが消える。

「クリス。何か隠してる?」

「何も」

「じゃあ、何で」

「本当に大丈夫だから」

「俺には大丈夫に見えない」

押し問答になりかけて。

先に折れたのは、意外にもエリオットだった。

「……分かった」

包帯をクリスの手へ戻す。

「俺、後ろ向いてる」

「え?」

「それなら自分でできる?」

クリスは彼の顔を見た。

「……絶対見るなよ」

「見ない」

「本当に?」

「信用ないな」

「あるから言ってるんだよ」

エリオットが一瞬黙った。

それから、小さく笑った。

「分かった」

背を向ける。


クリスはようやく息を吐いた。

上着を脱ぎ、シャツを大きく捲り上げる。

胸には、身体の線を隠すための布がきつく巻かれている。


……見られれば終わる。

そう思いながら、急いで包帯を脇腹へ回した。


一周。

二周。


「できそう?」

「話しかけるな」

「はいはい」

もう一周。

その時、外で大きな音がした。

続いて、誰かの叫び声。

「うわっ!」

エリオットが反射的に振り向いた。

「何――」

言葉が途切れた。


クリスの手も止まった。


目が合わない。

エリオットは、自分の胸元を見ていた。

男が怪我をしただけなら、そこにあるはずのないもの。

胸を消すために、幾重にも巻かれた布。


「……見るな」

掠れた声が出た。

エリオットは動かなかった。

「……何だ、これ」

クリスは我に返り、慌ててシャツを下ろした。

「見るなって言っただろ!」

「クリス」

「忘れろ」

「待って」

「何でもない」

「何でもなくない」


エリオットの顔から、ゆっくりと表情が消えていった。

驚いている。

混乱している。

見たものと、これまで知っていたクリスを、頭の中で必死に繋ごうとしている。

やがて。

その視線が、ようやくクリスの顔へ戻った。

「……お前」

声が掠れていた。


「女なのか?」


身体から、すっと血の気が引いた。

何か言わなければと思った。

違うと笑えばいい。

理由をつければいい。

これまでだって、そうしてきた。

風呂も。

着替えも。

同室になった夜も。

何度も危ない場面を切り抜けてきた。


なのに。

喉が動かなかった。


見られた。

とうとう。


学院に知られたらどうなる。

卒業まで、あと数か月しかない。

その先には二月の文官登用試験がある。

そのために家を出た。

男になった。

ヴィクトルに教わり、二年間学び、二度の行軍にも耐えた。

もう少しだった。

あと少しで。


全部、終わるかもしれない。


指先が冷たくなった。

「……クリス」

エリオットが名前を呼んだ。

一歩近づこうとする。

クリスは反射的に退いた。

「来るな!」

自分でも驚くほど硬い声が出た。

エリオットの足が止まる。


本当に、止まった。

いつもなら勝手に肩を抱き、頭を小突き、こちらの都合などお構いなしに距離を詰めてくる男が。

何も言わず、そこに立っている。


「……誰かに言う?」

ようやく、それだけ聞いた。

エリオットの眉が寄った。

「言うわけないだろ」

あまりにも早い返事だった。

クリスは顔を上げた。

「でも、俺は――」

「言わない」

今度は、はっきりと。

「お前が二年も隠してきたことを、俺が勝手に誰かに話すわけないだろ」

「……理由は……」

「聞きたい」

正直な返事に、思わずエリオットを見る。

「死ぬほど聞きたい。何で男のふりしてるのかも、どうやって学院に入ったのかも。でも、お前が今言えないなら聞かない」


その言葉を聞いた時。

張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。


秘密を知られたことは、怖い。

学院に知られることも。

未来を失うことも。

怖くてたまらない。

けれど。


目の前にいるエリオット自身を、怖いとは思っていなかった。


この男なら大丈夫だと。

どこかで、もう知っていた。


「……ありがとう」

小さく言うと、エリオットは困ったような顔をした。

それから、何かを確かめるようにクリスを見た。

「……一個だけ聞いていい?」

「何」

「ずっと?」

「何が」

「学院に入った時から」

「……うん」

「最初から女だった?」

「……途中で変わるわけないだろ!」

思わず声を荒らげる。

エリオットも「そうだよな」と頭を抱えた。


「じゃあ、俺が風呂に誘った時も?」

「やばいと思ったよ」

「行軍の時も?」

「だから絶対一緒に入らなかっただろ!」

「着替えも?」

「見えないようにしてた!」

「待って。じゃあ俺……」

急に、エリオットの顔つきが変わった。

嫌な予感がする。

「……何」

「お前の前で、普通に脱いでたよな?」

クリスの動きが止まった。


七月、クリスをかばって泥水に濡れたエリオット。

濡れたシャツを脱いで、露わになった肩。

広く厚い胸。

引き締まった腹。

自分の指で触れた、鍛えられた身体。


エリオットがゆっくり顔を上げた。

「……お前、あのとき」

「何」

「俺が脱いだとき」

「…………」

「知ってた?」

「何を」

「自分が女だって」

「当たり前だろ!!」

「だよな!?」

「何なんだよ、その確認!」

「じゃあ俺の腹を触ったのも?」

「筋肉が珍しかったから!」

「胸も?」

「それはお前が触らせたんだろ!」

「首も?」

「お前が勧めた!」

「脚も」

「一回だけだろ!」


エリオットが黙った。

そして片手で顔を覆う。

耳まで赤くなっている。

「……無理」

「何が」

「今それ思い出すの、ほんと無理」

「勝手に思い出したのはお前だろ」

「だって、お前、女だったんだぞ」

「……悪かったな。最初からそうだよ!」


思わず笑ってしまった。

張り詰めていたものが切れたように。

エリオットも、つられるように笑った。


ようやく。

いつもの二人に戻れた気がした。


――はずだった。


笑い声が消えても、エリオットはクリスを見ていた。

さっきまでとは違う。

舞踏会でも。

時々、こんな目で見られていた気がする。

けれど今は、逸らさない。


「……何」

エリオットが一歩近づいた。

今度はクリスも退かなかった。

エリオットの大きな手が上がり、クリスの頬へ触れる指先は、驚くほど慎重だった。

いつもなら肩を抱く時も、頭を小突く時も遠慮などしない男が、初めて触れるもののように頬を包む。

「クリス」

「……何」

エリオットの目が、ゆっくりと唇へ落ちた。


何をしようとしているのか。

気づいた時には、近すぎた。

「エリ――」

呼び終える前に。

唇が重なった。


声が消えた。

何が起きたのか理解するより先に、クリスの両手が押し返そうとして上がる。

掌が、エリオットの胸へ触れた……。


硬い。


知っている。

あの日、自分の指で、掌で、触った身体だった。

鍛えられた厚い胸も。肩も。

その下に続く、美しく鍛えられた腹も。


けれど今は。

薄い服の向こうから、体温まで伝わってくる。

いつも近くにいたから知っているはずの匂いも、こんな距離ではまるで違った。


唇が離れた。

ほんの短い口づけだったはずなのに。

エリオット自身も、自分が何をしたのか今になって気づいたような顔をしている。

「……ごめん」

クリスは何も言えなかった。


「嫌だった?」


問われて初めて、自分の中を探した。


驚いたし、混乱している。

心臓もひどくうるさい。

けれど、不快ではなかった。

腹も立っていない。

怖くもない。


それどころか、離れた途端になくなった熱を、身体のどこかが惜しいと感じている。


……どうして。


エリオットだからなのかもしれない。

ずっと隣にいた。

何度も助けられた。

秘密があると分かっていても、無理に聞かなかった。

この男が自分を傷つけないことを、クリスはもう知っている。


それとも、それだけではないのか。


そこまでは、分からなかった。

「クリス」

もう一度呼ばれる。

クリスは迷った末に、小さく答えた。

「……嫌とは言ってない」


エリオットの目が変わった。

「待て」

クリスは即座に言った。

「今のなし!」

「無理」

「エリオット」

「今のは絶対忘れない」

「そういう意味じゃない。俺は――」

「分かってる」

低い声だった。

いつもの軽い調子はない。

「嫌じゃないだけだろ」

クリスが止まる。

「俺が好きだって言ったわけじゃない」


ちゃんと分かっている。

それが、少し意外だった。

「……うん」

「それでもいい」


頬に触れていた親指が、そっと動いた。

けれど今度は、すぐには近づいてこなかった。

ただ、クリスを見ている。


待っているのだと気づいた。


顔を背ければいい。

一歩退けば、それで終わる。

なのに。

クリスは動かなかった。


その答えを確かめてから、エリオットが顔を寄せた。

二度目の口づけは、最初とは違った。

初めは確かめるように、ゆっくりと。

一度触れて、離れて。

もう一度重なった唇は、今度は簡単には離れなかった。


傷を避けるように背へ回った腕が、クリスの身体を引き寄せる。


エリオットの胸を近くに感じて、クリスの気持ちが乱れる。

肩も。腕も。その下にある男らしい身体まで知っている。

けれど、こんなふうに自分ごとその熱に包まれるのは初めてだった。


エリオットがわずかに角度を変える。

下唇を柔らかく捉えられて、クリスの肩が小さく揺れた。

「……っ」

漏れた息を追うように、また唇が重なる。


どうしていいのか分からない。

自分はただ触れられているだけなのに、エリオットはクリスが息をつく間も、戸惑って顔を動かす癖も知っているようだった。


――慣れている。


唐突に、それだけは分かった。

どうして慣れているのか。

誰と、などと考えかけたことに、自分でも驚く。

けれど、それに腹を立てる余裕さえなかった。


少し離れたと思った唇が、また戻ってくる。

触れて。

離れて。

息をつけば、また重なる。

もう何度目なのか、分からない。


いつの間にか目を閉じて、胸を押していたはずの手は、いつしかエリオットの服を掴んでいる。


それに気づいた瞬間、クリス自身が一番驚いた。


離れたいわけではない。


むしろ。

唇がわずかに離れた、その一瞬。

次を待ってしまった。


――私、今。


次を待った?


気づいた途端、胸の奥が大きく跳ねた。

けれど考える時間など与えてくれない。

また口づけられて、浮かびかけた疑問まで消えていく。


背中に回された腕。

胸元に触れる身体。

服越しに伝わる体温。

初めは、エリオットが熱いのだと思っていた。


けれど、いつからだろう。

長く触れ合っているうちに、その熱が自分へ移ったのか、それとも自分の熱が向こうへ伝わったのか、分からなくなっていた。


触れているところから、少しずつ同じ温度になっていく。

そんな奇妙な感覚がした。


十月の小屋は、少し肌寒かったはずなのに。

今は寒さなど感じない。

エリオットの胸に触れているところも、背中を包む腕の内側も、ひどく暖かかった。


足に力を入れているつもりなのに、膝が頼りない。

エリオットの口づけが気持ちいい。

それが悔しい。

もっと悔しいのは。


それでも、終わってほしいとは思えないことだった。


ようやく、長い長い口づけが終わった。

エリオットが何度も吸うので、クリスの唇はぽってりと赤く濡れている。

唇が離れても、二人の身体はすぐには離れなかった。

クリスは浅く息を繰り返しながら俯いた。

その額が、そのままエリオットの胸に触れる。


顔を上げられなかった。

頬が熱い。

唇にもまだ、触れられていた感覚が残っている。

きっと目だって、いつもの自分のものではない。


今、エリオットを見上げたら。

自分がどれほど翻弄されたのか、全部知られてしまう気がした。


だから額を厚い胸に預けたまま、乱れた呼吸が静まるのを待った。

エリオットも何も言わない。

背中に回された腕も、そのままだった。


額の向こうで、エリオットの胸が上下している。

いつもより速い。

鼓動も乱れている。


平気ではないのは、自分だけではない。

そう分かったことに、なぜか少しだけ救われた。


「……何で」

胸元へ額をつけたまま、クリスは呟いた。

「何が?」

いつもより低い声が、すぐ上から落ちてくる。

「何で……嫌じゃないんだよ」


エリオットが答えない。

代わりに、胸が小さく揺れた。

「……笑った?」

「ちょっと」

「最低」

「いや。だって」

エリオットの声にも、まだいつもの余裕は戻っていなかった。

「それ、俺に聞く?」

「だって……分かんない」


すると、背中を支えていた手がほんの少し動いた。

「じゃあ」

「……何」

「もう一回したら分かるかも」


クリスはようやく顔を上げた。

「調子に乗るな!」

胸を押す。

けれど、さっきまでの勢いで押し返せない。

エリオットは一歩下がりながら笑った。

「あ、やっと顔見せた」

「……!」

「クリス、顔――」

「見るな!!」

慌てて顔を背ける。

エリオットがまた笑った。

「何で。かわいいのに」

「黙れ!」

「昨日のお姫様より、今の方がかわいい」

「本当に黙れ!」


言い返しながら、クリスは自分の腕を抱いた。

「……寒っ」

思わず漏れた。


その言葉に自分で驚いた。

小屋の中は、最初からこの温度だった。

急に寒くなったわけではない。


さっきまでが、暖かすぎただけだ。


身体を離したところから、冷たい空気が入り込んでくる。

胸元も。

背中も。

ついさっきまでエリオットの熱があった場所だけが、妙に心許ない。


――もう一度、触れたら暖かいのに。


そこまで考えて。

クリスはぎょっとした。


何を考えてるの、私。


ちらりと隣を見る。

エリオットはまだ自分を見ていた。

「……何」

「いや」

「何だよ」

「俺も寒いなと思って」

「そう」

「もう一回くっつく?」

「断る」

「即答?」

「当たり前だ!」


そう言いながら。

クリスは自分の身体に残った温もりが消えていくのを、ほんの少しだけ惜しいと思った。




「……あ」

少しして、エリオットが声を上げた。

「何」

「手当て」

二人で同時に脇腹を見る。

途中まで巻かれた包帯が、何とも間の抜けた状態で垂れていた。

クリスは一気に現実へ引き戻された。


「……もう自分でやる」

「俺がやろうか?」

「やらなくていい!」

「もう知ってるんだから――」

「知ってるから余計に嫌なんだよ!」

エリオットが笑う。

「分かった、分かった。後ろ向いてる」

今度こそ、本当に背を向けた。

クリスは急いで包帯を巻き直した。


それでも。

指が少し震えている。


何をしているんだろう、自分は……。


女だと知られた。

キスもされた。

一度ではなく何度も。

しかも。


嫌ではなかった。


考えるほど、分からなくなる。


「クリス」

背を向けたまま、エリオットが呼んだ。

「何」

「さっきのこと」

包帯を結ぶ指が止まった。

「……忘れろって言っても、無理だから」

「分かってるよ」

「あと」

「まだあるの?」

「ある」

少しだけ間があった。

「俺、お前が男だと思ってる時から好きだったから」


包帯が、手から落ちた。


「……は?」

エリオットが振り返る。

クリスは呆然とその顔を見た。

「お前……」

「うん」

「今、何て言った?」

「好きだった」

「いつから!?」

「結構前」

「結構前っていつだよ!」

「さあ。気づいたのは少し前だけど。初めて会った時からかも?」

「待て。俺が男だと思ってたんだろ?」

「うん」

「それで好きだったの!?」

「うん」

あまりにも普通に答えるので、クリスの方が混乱する。

「何で言わなかったんだよ!」

「言ったらお前、困るだろ」

「今めちゃくちゃ困ってるよ!」

「だから言わなかったんだって」

「じゃあ何で今言った!」

エリオットは少し考えた。

「……もうキスしたし?」

「順番がおかしいだろ!!」


エリオットが笑った。

つられて怒鳴りそうになって。

けれど。

その表情が変わった。


「クリス」

今度の声は、静かだった。

「女だったから好きになったわけじゃないよ」


クリスは黙った。


「今日知ったことは、俺にとっては大きい。正直、めちゃくちゃ驚いてる」

少し困ったように笑う。

「でも、それで好きになったわけじゃない」


いつもの軽い男が。

今だけは、真っ直ぐにこちらを見ている。


「俺が好きになったのは、ずっとクリスだから」


胸の奥が、また大きく鳴った。

さっきまでとは違う。

唇に残る熱でも。

抱きしめられた身体の温もりでもない。

もっと奥の。

自分でも触れたことのない場所を、いきなり掴まれたようだった。


何と答えればいいのか、分からない。


好きではない、とも言えなかった。

けれど。

同じ意味で好きだとも、まだ言えない。


エリオットは、そんなクリスをしばらく見ていた。

そして。

「返事は?」

「……できない」

正直に答えた。

「今は、できない」


少し怖かった。

さっきまで笑っていた男の顔が、曇るかもしれないと思った。

けれどエリオットは、ほんの一瞬目を細めただけだった。

「そっか」

それだけだった。


「……それだけ?」

「何が?」

「いや……」

「今分かんないんだろ?」

「……うん」

「じゃあ仕方ないじゃん」

あっさり言って。

それから、いつもの笑い方をした。


「でも俺は好きだから」

「……うん」

「そこはもう遠慮しないよ」


クリスが顔を上げる。

「何が?」

「いろいろ」

「いろいろって何だよ」

「それはこれから考える」

「考えなくていい」

「俺の自由だろ」

「嫌な予感しかしない」


外から、教官の声が飛んできた。

「おーい! 処置は終わったか!」

二人とも扉を見る。

「……戻るぞ」

「うん」

クリスは上着を整えた。

扉へ向かいかけて。

振り返る。

「エリオット」

「何?」

「本当に……誰にも言わないで」


笑っていたエリオットの顔が、少しだけ真面目になる。

「言わない」

「絶対に」

「うん」

「殿下にも」


一瞬だけ。

エリオットの目が動いた。

けれど、すぐに頷いた。

「言わない」


その返事に、クリスはようやく扉へ手をかけた。

外へ出る。

冷たい風が頬を撫でた。

ついさっきまでの小屋の中より、ずっと寒い。


訓練場では、何も変わらず学生たちが動いていた。

教官が指示を飛ばし、騎士科の学生が走り、文官科の学生が記録を取っている。


世界は何一つ変わっていない。


なのに。

クリスは唇に残る感覚を意識した。

身体にはまだ、エリオットの腕の温もりが残っている。

そして何より。


――俺が好きになったのは、ずっとクリスだから。


その言葉だけが、どうしても消えてくれなかった。


少し遅れて小屋から出てきたエリオットが、何事もなかったように隣へ並ぶ。

肩が触れそうになる。

いつもなら気にも留めない距離だった。


今日は。

それだけで、また心臓が鳴った。





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