第二十八話 嫌じゃないなら、もう一度
十月に入って最初の休養日の前日。
合同実地訓練の日は、朝からよく晴れていた。
王都を出る頃にはまだ柔らかな陽が差していたが、馬車を降りると、吹き抜ける風にはもう秋の冷たさが混じっている。
訓練地は王都から一時間ほど離れた丘陵地だった。
低い森と草地が続き、その間を古い街道が縫うように走っている。
参加するのは文官科と騎士科の最終学年から選ばれた十数名。
夏の行軍ほど大掛かりなものではない。
周辺の地形を確認し、限られた人員で物資の輸送経路を組み立て、負傷者が出た場合には搬送と応急処置まで行う。卒業前の総合実習の一つだった。
「今回は走らなくていいんですよね?」
説明を終えた教官にクリスが念を押すと、隣でエリオットが吹き出した。
「文官科のお前に誰が走れと言った」
「夏の行軍ではいろいろあったので、念のためです」
「騎士科と張り合うからだ」
「張り合ってません」
「クリス、体力ないもんな」
横から余計な声が飛んでくる。
「お前と比べるな」
「疲れたら背負ってやろうか?」
「始まる前から何で背負われるんだよ」
「いつでも言って」
「絶対言わない」
エリオットが笑う。
いつも通りだった。
けれど訓練が始まれば、その表情は変わった。
騎士科は先行して森へ入り、斜面や沢、崩れやすい地面など、輸送の妨げになる場所を確認する。
文官科は彼らから上がってくる報告をもとに、荷を運ぶ経路と必要な人員、時間を計算していく。
クリスが記録を取っている間にも、木々の向こうを騎士科の学生たちが駆けていった。
その先頭に、エリオットがいる。
倒木へ片手をつき、軽々と越える。後ろの学生へ何か指示を飛ばし、そのまま斜面を駆け上がっていく。
普段の軽薄さが嘘のようだった。
学院祭の演武でも思ったが、こうしている時のエリオットは、やはり格好いい。
――本人には絶対に言わないけど。
この間は一度褒めただけで、何度「惚れた?」と聞かれたことか。
クリスは小さく息を吐き、手元の記録へ視線を戻した。
*
午後になると、訓練は負傷者が出た場合の対応へ移った。
騎士科が負傷者を安全な場所まで運び、応急処置を行う。
文官科は位置と状況を把握し、どこへ救援を回すべきか判断する。
本来なら、学生の一人が負傷者役を務めるだけの訓練だった。
ところが、斜面で物資を運んでいた時だった。
「そっち、足元気をつけろ!」
誰かの声に、クリスが顔を上げる。
荷を載せた小さな運搬具が、斜面を滑ってきた。固定していた縄が緩んだらしい。
学生たちが慌てて進路を空ける。
クリスも一歩退いた。
その踵が、地面から浮いた石を踏んだ。
「あ――」
身体が傾いた。
咄嗟に伸ばした手が細い枝を掴む。
だが、乾いた音とともに折れた。
「クリス!」
聞き慣れた声と同時に、腕を強く引かれた。
倒れる代わりに、硬い胸へ身体ごとぶつかる。
「大丈夫か?」
「大丈夫 ――」
そう言いかけたところで、右の脇腹に鋭い痛みが走った。
「……痛っ」
それだけで、エリオットの表情が変わった。
「どこ」
「ちょっと擦っただけ」
「どこ?」
「脇腹」
「見せて」
「いいって。枝か何かで――」
「クリス」
いつもの軽さが消えていた。
騒ぎに気づいた教官もやってきて、服の裂けた部分を確認する。
「擦ったようだな。エリオット、お前は処置できるな」
「はい」
「連れていけ。傷を洗って薬を塗れ。必要なら包帯も」
「分かりました」
「いや、俺、自分で――」
「行け」
「……はい」
クリスは諦めるしかなかった。
*
応急処置に使われていたのは、訓練地の端に建つ古い管理小屋だった。
長く使われているらしく、木の壁にはところどころ隙間があり、閉め切っていても秋の冷たい空気が入ってくる。
簡素な机と椅子。
水桶。
薬と包帯が入った木箱。
外からは、まだ訓練を続ける学生たちの声が聞こえていた。
「どっち?」
扉を閉めながら、エリオットが聞く。
「右」
「服、上げて」
「自分でやる」
「じゃあ上げて」
クリスは渋々、上着の裾を持ち上げた。
「もう少し」
「これで見えるだろ」
「見えない」
「見える」
「俺の目がおかしいの?」
「お前の目は昔からおかしい」
言いながらも、クリスはもう少しだけ裾を上げた。
エリオットがしゃがみ込む。
「……近い」
「傷を見るんだから近づくだろ」
「そうだけど」
右の脇腹には、細長い傷が走っていた。
枝先が掠めたらしく、薄く血も滲んでいる。
「血、出てるじゃん」
「これくらいなら平気だよ」
「平気かどうか決めるのは俺」
「何でお前が決めるんだよ」
「今は俺が手当の担当だから」
水で濡らした布が、傷へそっと触れた。
「っ……」
「痛い?」
「ちょっと」
「我慢して」
「優しくするって言ってなかった?」
「してるよ」
「嘘つけ」
「じゃあ、もっと優しくする」
言葉通り、手つきがさらに柔らかくなる。
クリスは何となく黙って、その手元を見ていた。
剣を握る手だ。
指の付け根は硬く、手のひらにも薄い傷がいくつもある。
それなのに、自分の傷へ触れる時だけは驚くほど慎重だった。
「……上手いな」
「何が?」
「手当て」
「だから言っただろ」
「意外」
「まだ言う?」
エリオットが笑った。
「騎士科は、自分たちで応急処置することも多いからな」
薬を塗り終え、傷の位置を確かめる。
「これ、服が擦れるな。布当てておこう」
「いいよ」
「歩いたら痛いぞ」
「自分でやる」
「一人じゃ巻きにくい場所だろ」
「できる」
「クリス」
「できるって」
エリオットの手が止まった。
クリスも黙る。
さっきまで軽口を交わしていた小屋の中に、妙な沈黙が落ちた。
「……何でそんなに嫌がるの?」
「嫌がってない」
「嫌がってるだろ」
違う。
嫌なのではない。
できないのだ。
包帯を脇腹へ巻くなら、上着だけではなくシャツも大きく上げなければならない。
その下には、胸を隠すための布がある。
「自分でやるから」
「じゃあ、やってみて」
渡された包帯を受け取る。
脇腹へ回そうとして、クリスは止まった。
やはり無理だ。
「ほら」
「……」
「貸して」
「いい」
「怪我してる時くらい意地張るなよ」
「意地じゃない」
「じゃあ何?」
答えられない。
エリオットが少し考えたあと、立ち上がった。
「分かった。教官呼んでくる」
「待って!」
反射的に腕を掴んだ。
エリオットが振り返る。
「……教官も駄目なの?」
しまった。
クリスは唇を噛んだ。
エリオットの目から、完全に笑みが消える。
「クリス。何か隠してる?」
「何も」
「じゃあ、何で」
「本当に大丈夫だから」
「俺には大丈夫に見えない」
押し問答になりかけて。
先に折れたのは、意外にもエリオットだった。
「……分かった」
包帯をクリスの手へ戻す。
「俺、後ろ向いてる」
「え?」
「それなら自分でできる?」
クリスは彼の顔を見た。
「……絶対見るなよ」
「見ない」
「本当に?」
「信用ないな」
「あるから言ってるんだよ」
エリオットが一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「分かった」
背を向ける。
クリスはようやく息を吐いた。
上着を脱ぎ、シャツを大きく捲り上げる。
胸には、身体の線を隠すための布がきつく巻かれている。
……見られれば終わる。
そう思いながら、急いで包帯を脇腹へ回した。
一周。
二周。
「できそう?」
「話しかけるな」
「はいはい」
もう一周。
その時、外で大きな音がした。
続いて、誰かの叫び声。
「うわっ!」
エリオットが反射的に振り向いた。
「何――」
言葉が途切れた。
クリスの手も止まった。
目が合わない。
エリオットは、自分の胸元を見ていた。
男が怪我をしただけなら、そこにあるはずのないもの。
胸を消すために、幾重にも巻かれた布。
「……見るな」
掠れた声が出た。
エリオットは動かなかった。
「……何だ、これ」
クリスは我に返り、慌ててシャツを下ろした。
「見るなって言っただろ!」
「クリス」
「忘れろ」
「待って」
「何でもない」
「何でもなくない」
エリオットの顔から、ゆっくりと表情が消えていった。
驚いている。
混乱している。
見たものと、これまで知っていたクリスを、頭の中で必死に繋ごうとしている。
やがて。
その視線が、ようやくクリスの顔へ戻った。
「……お前」
声が掠れていた。
「女なのか?」
身体から、すっと血の気が引いた。
何か言わなければと思った。
違うと笑えばいい。
理由をつければいい。
これまでだって、そうしてきた。
風呂も。
着替えも。
同室になった夜も。
何度も危ない場面を切り抜けてきた。
なのに。
喉が動かなかった。
見られた。
とうとう。
学院に知られたらどうなる。
卒業まで、あと数か月しかない。
その先には二月の文官登用試験がある。
そのために家を出た。
男になった。
ヴィクトルに教わり、二年間学び、二度の行軍にも耐えた。
もう少しだった。
あと少しで。
全部、終わるかもしれない。
指先が冷たくなった。
「……クリス」
エリオットが名前を呼んだ。
一歩近づこうとする。
クリスは反射的に退いた。
「来るな!」
自分でも驚くほど硬い声が出た。
エリオットの足が止まる。
本当に、止まった。
いつもなら勝手に肩を抱き、頭を小突き、こちらの都合などお構いなしに距離を詰めてくる男が。
何も言わず、そこに立っている。
「……誰かに言う?」
ようやく、それだけ聞いた。
エリオットの眉が寄った。
「言うわけないだろ」
あまりにも早い返事だった。
クリスは顔を上げた。
「でも、俺は――」
「言わない」
今度は、はっきりと。
「お前が二年も隠してきたことを、俺が勝手に誰かに話すわけないだろ」
「……理由は……」
「聞きたい」
正直な返事に、思わずエリオットを見る。
「死ぬほど聞きたい。何で男のふりしてるのかも、どうやって学院に入ったのかも。でも、お前が今言えないなら聞かない」
その言葉を聞いた時。
張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
秘密を知られたことは、怖い。
学院に知られることも。
未来を失うことも。
怖くてたまらない。
けれど。
目の前にいるエリオット自身を、怖いとは思っていなかった。
この男なら大丈夫だと。
どこかで、もう知っていた。
「……ありがとう」
小さく言うと、エリオットは困ったような顔をした。
それから、何かを確かめるようにクリスを見た。
「……一個だけ聞いていい?」
「何」
「ずっと?」
「何が」
「学院に入った時から」
「……うん」
「最初から女だった?」
「……途中で変わるわけないだろ!」
思わず声を荒らげる。
エリオットも「そうだよな」と頭を抱えた。
「じゃあ、俺が風呂に誘った時も?」
「やばいと思ったよ」
「行軍の時も?」
「だから絶対一緒に入らなかっただろ!」
「着替えも?」
「見えないようにしてた!」
「待って。じゃあ俺……」
急に、エリオットの顔つきが変わった。
嫌な予感がする。
「……何」
「お前の前で、普通に脱いでたよな?」
クリスの動きが止まった。
七月、クリスをかばって泥水に濡れたエリオット。
濡れたシャツを脱いで、露わになった肩。
広く厚い胸。
引き締まった腹。
自分の指で触れた、鍛えられた身体。
エリオットがゆっくり顔を上げた。
「……お前、あのとき」
「何」
「俺が脱いだとき」
「…………」
「知ってた?」
「何を」
「自分が女だって」
「当たり前だろ!!」
「だよな!?」
「何なんだよ、その確認!」
「じゃあ俺の腹を触ったのも?」
「筋肉が珍しかったから!」
「胸も?」
「それはお前が触らせたんだろ!」
「首も?」
「お前が勧めた!」
「脚も」
「一回だけだろ!」
エリオットが黙った。
そして片手で顔を覆う。
耳まで赤くなっている。
「……無理」
「何が」
「今それ思い出すの、ほんと無理」
「勝手に思い出したのはお前だろ」
「だって、お前、女だったんだぞ」
「……悪かったな。最初からそうだよ!」
思わず笑ってしまった。
張り詰めていたものが切れたように。
エリオットも、つられるように笑った。
ようやく。
いつもの二人に戻れた気がした。
――はずだった。
笑い声が消えても、エリオットはクリスを見ていた。
さっきまでとは違う。
舞踏会でも。
時々、こんな目で見られていた気がする。
けれど今は、逸らさない。
「……何」
エリオットが一歩近づいた。
今度はクリスも退かなかった。
エリオットの大きな手が上がり、クリスの頬へ触れる指先は、驚くほど慎重だった。
いつもなら肩を抱く時も、頭を小突く時も遠慮などしない男が、初めて触れるもののように頬を包む。
「クリス」
「……何」
エリオットの目が、ゆっくりと唇へ落ちた。
何をしようとしているのか。
気づいた時には、近すぎた。
「エリ――」
呼び終える前に。
唇が重なった。
声が消えた。
何が起きたのか理解するより先に、クリスの両手が押し返そうとして上がる。
掌が、エリオットの胸へ触れた……。
硬い。
知っている。
あの日、自分の指で、掌で、触った身体だった。
鍛えられた厚い胸も。肩も。
その下に続く、美しく鍛えられた腹も。
けれど今は。
薄い服の向こうから、体温まで伝わってくる。
いつも近くにいたから知っているはずの匂いも、こんな距離ではまるで違った。
唇が離れた。
ほんの短い口づけだったはずなのに。
エリオット自身も、自分が何をしたのか今になって気づいたような顔をしている。
「……ごめん」
クリスは何も言えなかった。
「嫌だった?」
問われて初めて、自分の中を探した。
驚いたし、混乱している。
心臓もひどくうるさい。
けれど、不快ではなかった。
腹も立っていない。
怖くもない。
それどころか、離れた途端になくなった熱を、身体のどこかが惜しいと感じている。
……どうして。
エリオットだからなのかもしれない。
ずっと隣にいた。
何度も助けられた。
秘密があると分かっていても、無理に聞かなかった。
この男が自分を傷つけないことを、クリスはもう知っている。
それとも、それだけではないのか。
そこまでは、分からなかった。
「クリス」
もう一度呼ばれる。
クリスは迷った末に、小さく答えた。
「……嫌とは言ってない」
エリオットの目が変わった。
「待て」
クリスは即座に言った。
「今のなし!」
「無理」
「エリオット」
「今のは絶対忘れない」
「そういう意味じゃない。俺は――」
「分かってる」
低い声だった。
いつもの軽い調子はない。
「嫌じゃないだけだろ」
クリスが止まる。
「俺が好きだって言ったわけじゃない」
ちゃんと分かっている。
それが、少し意外だった。
「……うん」
「それでもいい」
頬に触れていた親指が、そっと動いた。
けれど今度は、すぐには近づいてこなかった。
ただ、クリスを見ている。
待っているのだと気づいた。
顔を背ければいい。
一歩退けば、それで終わる。
なのに。
クリスは動かなかった。
その答えを確かめてから、エリオットが顔を寄せた。
二度目の口づけは、最初とは違った。
初めは確かめるように、ゆっくりと。
一度触れて、離れて。
もう一度重なった唇は、今度は簡単には離れなかった。
傷を避けるように背へ回った腕が、クリスの身体を引き寄せる。
エリオットの胸を近くに感じて、クリスの気持ちが乱れる。
肩も。腕も。その下にある男らしい身体まで知っている。
けれど、こんなふうに自分ごとその熱に包まれるのは初めてだった。
エリオットがわずかに角度を変える。
下唇を柔らかく捉えられて、クリスの肩が小さく揺れた。
「……っ」
漏れた息を追うように、また唇が重なる。
どうしていいのか分からない。
自分はただ触れられているだけなのに、エリオットはクリスが息をつく間も、戸惑って顔を動かす癖も知っているようだった。
――慣れている。
唐突に、それだけは分かった。
どうして慣れているのか。
誰と、などと考えかけたことに、自分でも驚く。
けれど、それに腹を立てる余裕さえなかった。
少し離れたと思った唇が、また戻ってくる。
触れて。
離れて。
息をつけば、また重なる。
もう何度目なのか、分からない。
いつの間にか目を閉じて、胸を押していたはずの手は、いつしかエリオットの服を掴んでいる。
それに気づいた瞬間、クリス自身が一番驚いた。
離れたいわけではない。
むしろ。
唇がわずかに離れた、その一瞬。
次を待ってしまった。
――私、今。
次を待った?
気づいた途端、胸の奥が大きく跳ねた。
けれど考える時間など与えてくれない。
また口づけられて、浮かびかけた疑問まで消えていく。
背中に回された腕。
胸元に触れる身体。
服越しに伝わる体温。
初めは、エリオットが熱いのだと思っていた。
けれど、いつからだろう。
長く触れ合っているうちに、その熱が自分へ移ったのか、それとも自分の熱が向こうへ伝わったのか、分からなくなっていた。
触れているところから、少しずつ同じ温度になっていく。
そんな奇妙な感覚がした。
十月の小屋は、少し肌寒かったはずなのに。
今は寒さなど感じない。
エリオットの胸に触れているところも、背中を包む腕の内側も、ひどく暖かかった。
足に力を入れているつもりなのに、膝が頼りない。
エリオットの口づけが気持ちいい。
それが悔しい。
もっと悔しいのは。
それでも、終わってほしいとは思えないことだった。
ようやく、長い長い口づけが終わった。
エリオットが何度も吸うので、クリスの唇はぽってりと赤く濡れている。
唇が離れても、二人の身体はすぐには離れなかった。
クリスは浅く息を繰り返しながら俯いた。
その額が、そのままエリオットの胸に触れる。
顔を上げられなかった。
頬が熱い。
唇にもまだ、触れられていた感覚が残っている。
きっと目だって、いつもの自分のものではない。
今、エリオットを見上げたら。
自分がどれほど翻弄されたのか、全部知られてしまう気がした。
だから額を厚い胸に預けたまま、乱れた呼吸が静まるのを待った。
エリオットも何も言わない。
背中に回された腕も、そのままだった。
額の向こうで、エリオットの胸が上下している。
いつもより速い。
鼓動も乱れている。
平気ではないのは、自分だけではない。
そう分かったことに、なぜか少しだけ救われた。
「……何で」
胸元へ額をつけたまま、クリスは呟いた。
「何が?」
いつもより低い声が、すぐ上から落ちてくる。
「何で……嫌じゃないんだよ」
エリオットが答えない。
代わりに、胸が小さく揺れた。
「……笑った?」
「ちょっと」
「最低」
「いや。だって」
エリオットの声にも、まだいつもの余裕は戻っていなかった。
「それ、俺に聞く?」
「だって……分かんない」
すると、背中を支えていた手がほんの少し動いた。
「じゃあ」
「……何」
「もう一回したら分かるかも」
クリスはようやく顔を上げた。
「調子に乗るな!」
胸を押す。
けれど、さっきまでの勢いで押し返せない。
エリオットは一歩下がりながら笑った。
「あ、やっと顔見せた」
「……!」
「クリス、顔――」
「見るな!!」
慌てて顔を背ける。
エリオットがまた笑った。
「何で。かわいいのに」
「黙れ!」
「昨日のお姫様より、今の方がかわいい」
「本当に黙れ!」
言い返しながら、クリスは自分の腕を抱いた。
「……寒っ」
思わず漏れた。
その言葉に自分で驚いた。
小屋の中は、最初からこの温度だった。
急に寒くなったわけではない。
さっきまでが、暖かすぎただけだ。
身体を離したところから、冷たい空気が入り込んでくる。
胸元も。
背中も。
ついさっきまでエリオットの熱があった場所だけが、妙に心許ない。
――もう一度、触れたら暖かいのに。
そこまで考えて。
クリスはぎょっとした。
何を考えてるの、私。
ちらりと隣を見る。
エリオットはまだ自分を見ていた。
「……何」
「いや」
「何だよ」
「俺も寒いなと思って」
「そう」
「もう一回くっつく?」
「断る」
「即答?」
「当たり前だ!」
そう言いながら。
クリスは自分の身体に残った温もりが消えていくのを、ほんの少しだけ惜しいと思った。
*
「……あ」
少しして、エリオットが声を上げた。
「何」
「手当て」
二人で同時に脇腹を見る。
途中まで巻かれた包帯が、何とも間の抜けた状態で垂れていた。
クリスは一気に現実へ引き戻された。
「……もう自分でやる」
「俺がやろうか?」
「やらなくていい!」
「もう知ってるんだから――」
「知ってるから余計に嫌なんだよ!」
エリオットが笑う。
「分かった、分かった。後ろ向いてる」
今度こそ、本当に背を向けた。
クリスは急いで包帯を巻き直した。
それでも。
指が少し震えている。
何をしているんだろう、自分は……。
女だと知られた。
キスもされた。
一度ではなく何度も。
しかも。
嫌ではなかった。
考えるほど、分からなくなる。
「クリス」
背を向けたまま、エリオットが呼んだ。
「何」
「さっきのこと」
包帯を結ぶ指が止まった。
「……忘れろって言っても、無理だから」
「分かってるよ」
「あと」
「まだあるの?」
「ある」
少しだけ間があった。
「俺、お前が男だと思ってる時から好きだったから」
包帯が、手から落ちた。
「……は?」
エリオットが振り返る。
クリスは呆然とその顔を見た。
「お前……」
「うん」
「今、何て言った?」
「好きだった」
「いつから!?」
「結構前」
「結構前っていつだよ!」
「さあ。気づいたのは少し前だけど。初めて会った時からかも?」
「待て。俺が男だと思ってたんだろ?」
「うん」
「それで好きだったの!?」
「うん」
あまりにも普通に答えるので、クリスの方が混乱する。
「何で言わなかったんだよ!」
「言ったらお前、困るだろ」
「今めちゃくちゃ困ってるよ!」
「だから言わなかったんだって」
「じゃあ何で今言った!」
エリオットは少し考えた。
「……もうキスしたし?」
「順番がおかしいだろ!!」
エリオットが笑った。
つられて怒鳴りそうになって。
けれど。
その表情が変わった。
「クリス」
今度の声は、静かだった。
「女だったから好きになったわけじゃないよ」
クリスは黙った。
「今日知ったことは、俺にとっては大きい。正直、めちゃくちゃ驚いてる」
少し困ったように笑う。
「でも、それで好きになったわけじゃない」
いつもの軽い男が。
今だけは、真っ直ぐにこちらを見ている。
「俺が好きになったのは、ずっとクリスだから」
胸の奥が、また大きく鳴った。
さっきまでとは違う。
唇に残る熱でも。
抱きしめられた身体の温もりでもない。
もっと奥の。
自分でも触れたことのない場所を、いきなり掴まれたようだった。
何と答えればいいのか、分からない。
好きではない、とも言えなかった。
けれど。
同じ意味で好きだとも、まだ言えない。
エリオットは、そんなクリスをしばらく見ていた。
そして。
「返事は?」
「……できない」
正直に答えた。
「今は、できない」
少し怖かった。
さっきまで笑っていた男の顔が、曇るかもしれないと思った。
けれどエリオットは、ほんの一瞬目を細めただけだった。
「そっか」
それだけだった。
「……それだけ?」
「何が?」
「いや……」
「今分かんないんだろ?」
「……うん」
「じゃあ仕方ないじゃん」
あっさり言って。
それから、いつもの笑い方をした。
「でも俺は好きだから」
「……うん」
「そこはもう遠慮しないよ」
クリスが顔を上げる。
「何が?」
「いろいろ」
「いろいろって何だよ」
「それはこれから考える」
「考えなくていい」
「俺の自由だろ」
「嫌な予感しかしない」
外から、教官の声が飛んできた。
「おーい! 処置は終わったか!」
二人とも扉を見る。
「……戻るぞ」
「うん」
クリスは上着を整えた。
扉へ向かいかけて。
振り返る。
「エリオット」
「何?」
「本当に……誰にも言わないで」
笑っていたエリオットの顔が、少しだけ真面目になる。
「言わない」
「絶対に」
「うん」
「殿下にも」
一瞬だけ。
エリオットの目が動いた。
けれど、すぐに頷いた。
「言わない」
その返事に、クリスはようやく扉へ手をかけた。
外へ出る。
冷たい風が頬を撫でた。
ついさっきまでの小屋の中より、ずっと寒い。
訓練場では、何も変わらず学生たちが動いていた。
教官が指示を飛ばし、騎士科の学生が走り、文官科の学生が記録を取っている。
世界は何一つ変わっていない。
なのに。
クリスは唇に残る感覚を意識した。
身体にはまだ、エリオットの腕の温もりが残っている。
そして何より。
――俺が好きになったのは、ずっとクリスだから。
その言葉だけが、どうしても消えてくれなかった。
少し遅れて小屋から出てきたエリオットが、何事もなかったように隣へ並ぶ。
肩が触れそうになる。
いつもなら気にも留めない距離だった。
今日は。
それだけで、また心臓が鳴った。




