第二十七話 知らないふりをするには、近すぎる
翌朝。
クリスは食堂に入った瞬間、踵を返したくなった。
「おはよう、お姫様」
「殺すぞ」
席に着くより先に、エリオットが笑った。
「朝一番で物騒だな」
「誰のせいだと思ってる」
「俺、何もしてないけど?」
「推薦した」
「ああ」
エリオットは悪びれもせず、パンをちぎった。
「優勝したじゃん」
「したくてしたんじゃない」
「途中からめちゃくちゃ勝ちにいってたけど」
「……うるさい」
思い出したくない。
舞台の上。
あの衣装。
あの歓声。
そして――。
自分で唇に指を当てて、客席へ投げた口づけ。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「顔赤いよ」
「黙れ」
「昨日かわいかったなー」
「黙れって言ってるだろ!」
エリオットが楽しそうに笑う。
その笑い方がいつも通りだったので、クリスは少しだけ安心した。
昨夜の舞踏会。
エリオットの手が、露わになった背中に触れた。
たったそれだけだ。
それなのに妙に意識してしまった。
正装の下にあるエリオットの身体を。
自分が知っているせいだ。
肩も。
胸も。
腹も。
首筋の熱まで。
「……何?」
エリオットがこちらを見ていた。
「いや」
「今、俺のこと見てただろ~」
「見てない」
「見てた!」
「見てない」
「どこ見てた?」
「パン」
「俺の胸の辺りにパンはないけど」
「朝からうるさいな!」
クリスがパンを口へ押し込む。
エリオットが笑った。
――やっぱり、いつものエリオットだ。
そう思った。
クリスは知らなかった。
向かいに座る男が、昨夜から何度も同じ光景を思い出していることを。
クリスの白い背中。
そこへ置いた自分の手。
指先の下にあった、滑らかな肌。
そして。
自分の唇で、あの背中に赤い花を散らしたいと思ったこと。
エリオットはパンを噛みながら、ひどく真面目に考えた。
――やっぱり、まずいな。
好きだと自覚する前より、ずっとまずい。
触れたいと思う理由を、もう誤魔化せない。
しかも本人は何も知らずに、平気でこちらの身体を見ている。
「クリス」
「何」
「俺の身体、そんなに好き?」
「ぶっ!」
「汚いな」
「誰のせいだ!」
周囲の学生が何事かと振り返った。
クリスは慌てて声を落とす。
「お前な……!」
「だって見てたじゃん」
「見てない!」
「この前は好きなだけ触ったのに?」
「筋肉をな!」
「また触る?」
「触らない!」
「残念」
そう言いながら、エリオットは笑っている。
けれど。
その目が一瞬だけ、自分の唇へ落ちたことには、クリスは気づかなかった。
*
「……何を騒いでいる」
低い声に振り向く。
レオンが立っていた。
「殿下」
「おはようございます、殿下」
エリオットだけが妙に爽やかだ。
レオンは二人を見比べた。
「朝から食堂の端まで聞こえていたぞ」
「エリオットがくだらないこと言うからですよ」
「クリスが俺の身体見てたって話です」
「言うな!」
レオンの眉がわずかに動いた。
「……身体?」
「何でもありません」
「この前、クリスが――」
「エリオット!」
「はいはい」
楽しそうに笑って、エリオットが口を閉じる。
レオンはその隣へ座った。
いつもの朝だった。
いつもの三人。
そのはずなのに。
レオンは、クリスの横顔を見た。
ボルドーの短い髪。
男物の学院服。
パンを頬張りながら、エリオットに腹を立てている。
「だから何でお前は余計なことばっかり言うんだよ」
「照れてる?」
「怒ってる」
「似たようなもんだろ」
「全然違う」
どこから見ても、クリスだ。
華奢だが男だし、昨夜の美しい人と同じなように見えない。
まして。
――クラリス・アーヴェル。
あの令嬢とは、あまりにも違う。
クラリスは静かだった。
王宮で会えば完璧な礼を取り、必要以上のことを口にしない。
笑う時でさえ、声を立てることはほとんどなかった。
目の前の男は、朝から友人とくだらないことで喧嘩をしている。
「殿下?」
不意にクリスがこちらを向いた。
「いや」
「さっきから見てません?」
「昨日のきれいなお前を思い出してな」
「あれは忘れてください!」
顔をしかめる。
その表情を見れば見るほど。
違うと思う。
なのに昨夜、自分の腕の中で踊った身体の動きだけが、どうしても頭から離れなかった。
手を置く位置。
曲が変わる瞬間の足運び。
回転のあと、相手へ身体を預けるわずかな間。
王宮の舞踏会で何度も見た。
貴族令嬢として幼い頃から教え込まれた者の動き。
器用だから、で身につくものではない。
「クリス」
「はい?」
「昨日の舞踏だが」
クリスの手が止まった。
「……まだ何か?」
「お前、幼い頃から習っていたのか」
「昨日も聞きませんでした?」
「聞いた。だが、お前は『一応』としか答えなかった」
「……それが何か?」
「一応習った人間の踊り方には見えなかった」
一瞬。
クリスの目が泳いだ。
「家で習ったんですよ。いろいろと」
「誰に?」
「……何でそんなに興味あるんです?」
逆に聞き返され、レオンは黙った。
言えるはずがない。
お前の踊り方が、昔見た女に似ているからだ、などと。
「別に」
「なら、いいでしょう」
クリスは再びパンを食べ始める。
それ以上は聞かなかった。
聞けば、何かが分かる気がした。
だが。
分かってしまうことを、どこかで恐れているような気もした。
自分でも、その理由はまだ分からない。
*
学院祭が終わると、学院は急速に日常へ戻った。
華やかな飾りは外され、校舎には再び講義と実習の日々が戻ってくる。
季節も進んだ。
朝晩の空気には冷たさが混じり始め、学院を囲む木々は日に日に色を深めていた。
最終学年に残された時間も、そう長くはない。
卒業まで、あと数か月。
クリスはその言葉を、以前より頻繁に意識するようになっていた。
卒業。
そして、その先にある文官登用試験。
そのためにここへ来た。
男の姿になって。
家を出て。
ここまで来た。
あと少しだ。
もう少しだけ。
クリスでいられればいい。
*
学院祭から十日ほど経った頃。
クリスは王都の一角にある小さな貸事務所を訪れていた。
王太子アレクサンダーから連絡が来たのは、その前日だった。
「増えていますね」
机に広げられた記録を見て、クリスは言った。
穀物。
革。
薬。
馬具。
鉄。
行軍の前なら、それぞれ別の取引として見ていたかもしれない。
だが、今は違う。
必要な人間の数へ置き換えて見る癖がついている。
「以前より多いです」
「ああ」
アレクサンダーが答えた。
「ただ」
クリスは紙を一枚ずつ見比べた。
「急激に増えたというほどではありません」
「そうだな」
「少しずつ……ですね」
「ああ」
それがかえって不気味だった。
誰かが目立たないよう、意図的に量を抑えているようにも見える。
「アンジュー男爵は?」
「まだ触れるな」
「……はい」
「不満か?」
「少し」
素直に答えると、アレクサンダーがわずかに笑った。
「正直でよろしい」
「でも、分かっています。一人捕まえて終わる話じゃない」
「その通りだ」
アレクサンダーは別の紙を取り上げた。
「むしろ今は、少し泳がせたい」
「泳がせる?」
「動き始めているからな」
クリスが顔を上げる。
「何がです?」
「まだ分からん」
「……またそれですか」
「分からないものを分かったと言う王太子よりいいだろう」
「それはそうですけど」
アレクサンダーは紙を指先で軽く叩いた。
「ただ、金の流れが少し変わった」
「どういうふうに?」
「これまで使っていなかった相手が混じり始めた」
クリスは差し出された記録を見る。
知らない名だった。
商人。
地方の小さな取引業者。
運送を請け負う者。
一見したところ、何の繋がりもない。
「新しい仲介?」
「かもしれない」
「ベルクだけでは足りなくなった?」
「あるいは、ベルクから遠ざけたい金が出てきた」
クリスはもう一度、記録を見る。
まだ何も分からない。
だが。
何かが変わり始めている。
それだけは分かった。
「クリス」
「はい」
「北へ行くなよ」
「行きませんよ」
「お前の『行きません』は信用していない」
「ひどい」
「実績がある」
「ありません」
「エリオットを連れて商人を尾行した人間が何か言ったか?」
「……あれは王都です」
「場所の問題ではない」
言い返せず、クリスは口を閉じた。
アレクサンダーが小さく笑う。
だが、その目は記録から離れなかった。
まだ。
何かが起きたわけではない。
ただ、これまで静かに流れていた水の向きが、ほんの少し変わった。
そんな気がした。
*
十月に入って間もなく。
午後の講義を終えたクリスは、掲示板の前で足を止めた。
「……また?」
隣からエリオットが覗き込む。
「何?」
「これだよ」
掲示板には、最終学年向けの通知が貼られていた。
――合同実地訓練。
文官科と騎士科の最終学年から複数名を選び、王都近郊で一日、実地訓練を行う。
地形確認。
輸送路の確保。
負傷者への初期対応。
状況報告。
夏の行軍ほど大規模ではない。
卒業前の総合実習の一つだった。
「お前、選ばれてるじゃん」
エリオットが名簿を指す。
そこには、見慣れた名前があった。
クリス・アーヴェル。
その少し下へ目を移す。
「……エリオット、お前もじゃん」
「ほんとだ」
「何で嬉しそうなんだよ」
「だって一緒じゃん」
「訓練だぞ」
「知ってる」
エリオットは笑った。
「今度は一週間も離れなくて済むな」
「一日だからな」
「十分」
クリスは呆れながら、もう一度通知を見る。
騎士科。
文官科。
医療担当の教官。
少人数での合同実習。
行軍を終えたあとだけに、それほど大変なものには思えなかった。
「これくらいなら楽そうだな」
「油断するなよ」
「お前に言われたくない」
「怪我したら俺が運んでやる」
「縁起でもないこと言うな」
「治療もできるよ」
クリスが振り向いた。
「お前が?」
「騎士科なめんな。応急処置くらいできる」
「意外」
「失礼だな」
エリオットがクリスの頭を軽く小突いた。
「怪我したらちゃんと俺に言えよ」
「しない」
「したら?」
「教官に言う」
「俺に言えよ」
「何でだよ」
「俺の方が優しくするから」
「信用できない」
クリスは笑って、その手を払い落とした。
そのときは。
本当に、ただの軽口だった。
エリオットも。
クリスも。
この一日の訓練で。
二年間、誰にも知られず守ってきた秘密が――。
最初に、
この男の前でほどけることになるとは知らなかった。




