第二十六話 今夜だけ、女として触れて
夕刻。
学院祭の喧騒が少しずつ形を変え始める頃、中央講堂の大広間には無数の灯りがともされていた。
昼間まで学生たちが笑い声を響かせていた場所は、今は別の場所のようだった。
壁際には花が飾られ、天井から下がる灯りが磨かれた床へ柔らかく映っている。
昼の催しが学生たちのためのものなら、夜の舞踏会は招待客も交えた学院祭最後の華やかな催しだ。
学生たちも制服ではない。
騎士科も文官科も、それぞれ略式の正装に身を包んでいる。
そして。
その大広間から少し離れた控え室で。
「……何で昼より豪華になってるんだよ」
クリスは鏡の前で呟いた。
昼の衣装はすでに返した。
これでようやく男へ戻れる。
そう思っていたのに。
目の前に用意されていたのは、昼より明らかに上等なドレスだった。
「優勝者だから」
衣装係が当然のように答える。
「だからって何でまた着るんだよ」
「恒例だから」
「聞いてない」
「言ったら逃げただろ」
「逃げるよ!」
深みのある色のドレスは、昼の衣装よりも落ち着いていた。
胸元は幾重にも重ねられた繊細なレースで覆われている。
そのおかげで身体の線は巧みに誤魔化され、鏡の中だけを見れば、細身の若い令嬢にしか見えない。
問題は。
「……また背中開いてる」
「昼の衣装が評判だったから」
「誰にだよ」
「大勢に」
「最悪だ……」
今回も肩甲骨の下から腰近くまで、背中が大きく露わになっている。
昼より布地が上等なぶん、かえって白い肌が目立った。
美しい背中の筋がなまめかしい。
化粧も直された。
昼より薄い。
けれど、灯りの下で映えるように目元と唇には色が残されている。
髪も整え直され、最後に小さな飾りが留められた。
「できた」
「嬉しくない」
「自信持て、綺麗だぞ!」
「もっと嬉しくない」
「あとこれ」
渡されたものを見て、クリスは眉を寄せた。
仮面だった。
目元だけを覆う、小さな装飾用の仮面。
「何で?」
「優勝者はこれをつけて入場する。男だっていう目印でもあるな」
「全員、俺だって知ってるだろ」
「そういう趣向だ」
「今さら何を隠すんだよ……」
ぼやきながら、クリスは仮面をつけた。
鏡を見る。
そこには見知らぬ女がいた。
いや。
見知らぬわけではない。
ずっと昔。
王宮の舞踏会へ出るため、母や侍女たちに支度をされていた頃。
鏡の中には、こんな自分がいた。
クラリス。
クリスは一瞬だけ鏡を見つめ、それから目を逸らした。
「……行くか」
今夜だけだ。
*
大広間へ入った途端。
いくつもの視線が集まった。
「ほら、来たぞ」
「昼の優勝者」
「仮面つけてる」
「意味あるのか、あれ」
クリスは心の中で大きく頷いた。
本当に意味がない。
昼間、全員に顔を晒している。
今さら仮面をつけたところで誰なのかは一目瞭然だった。
「クリス」
聞き慣れた声に振り返る。
エリオットだった。
一瞬。
クリスは言葉を忘れた。
騎士科の略式正装は、普段の制服より身体の線がはっきり見える。
濃い色の上着。
高い襟。
肩から胸にかけての仕立ては、鍛えた体格を隠すどころか際立たせていた。
昼間、剣を持っていた姿とはまた違う。
「……エリオット」
「何?」
「お前、そういう格好すると格好いいな」
エリオットの眉が上がった。
「そういう格好しなくても格好いいけど?」
「はいはい」
「流すなよ」
「自分で言うか?」
「言うよ」
エリオットが笑った。
「惚れるだろ?」
「すごい自信だな」
「で?」
「何が」
「惚れた?」
クリスは仮面越しにエリオットを見る。
冗談を言っている顔だった。
いつもの顔なのに。
目だけが、妙に真っ直ぐだった。
「……何で二回聞くんだよ」
「大事だから」
「惚れない」
「即答かあ」
「自分で聞いたんだろ」
エリオットは笑った。
「残念」
その声が思ったより本気に聞こえて、クリスは少しだけ首を傾げた。
けれど、すぐに別のことに気づいて、目が行った。
正装姿のエリオットの胸元。
厚い布に覆われている、その下。
――知っている。
ふいに思った。
あの服の下にある身体を、自分は知っている。
広い胸。
硬い腹。
指で押したときに動いた筋肉。
太い首筋へ触れたときの熱……。
「……」
「どうした?」
「何でもない!」
「何で急に怒るんだよ」
「怒ってない!」
クリスは慌てて視線を逸らした。
何を考えているんだ。
筋肉を見ただけだ。
触っただけだ。
別に何もおかしくない。
男同士なのだから。
――男同士。
今日は、その言葉が妙に使いにくかった。
「ところで」
エリオットがクリスの顔を覗き込む。
「その仮面、取らないの?」
「一応、優勝者はつける決まりらしい」
「昼に全部見せたのに?」
「俺もそう言ったよ」
「じゃあ取れば?」
「お前なあ」
エリオットの指が仮面へ伸びた。
「ほら」
「あ」
するりと外される。
「勝手に取るなよ」
文句を言いながら顔を上げる。
エリオットが黙った。
昼とは違う。
明るい舞台の上ではなく、揺れる灯りの中。
薄く施された化粧。
赤い唇。
少し怒った目。
その後ろに、白い肩と背中が続いている。
昼間浮かんだものが、また頭を過ぎった。
白い背中に。
自分の唇で、赤い花を散らしたい。
エリオットは仮面をクリスの顔へ戻した。
「……やっぱりつけとけ」
「は?」
「その方がいい」
「何なんだよ!」
「俺にも分からない」
「取ったのお前だろ!」
仮面を押しつけられ、クリスが怒る。
エリオットは笑って誤魔化した。
本当は分かっていた。
これ以上、見たくないわけではない。
むしろ逆だ。
自分だけなら、いくらでも見ていたい。
*
舞踏会が始まった。
招待された令嬢たちと学生が次々に踊り始める。
クリスも当然、逃げられると思っていた。
だが。
「優勝者が壁に張りついてどうする」
と係の学生に追い出された。
しかもドレス姿のまま。
「俺、どっちをやればいいんだよ」
「好きな方。男でも女でも」
「雑だな!」
結局、最初は招待客の令嬢から誘われた。
「クリス様、踊っていただけます?」
「俺が男役でいいなら」
「もちろん」
ドレス姿のクリスが令嬢の腰へ手を添える。
周囲から笑いと歓声が上がった。
「似合うぞー!」
「どっちが男役だ!」
「俺だよ!」
何曲か踊るうちに、クリスも慣れてきた。
仮面も暑くてすぐに外してしまった。
そして一曲が終わり、令嬢を席まで送ったところで。
「クリス」
振り返る。
エリオットが立っていた。
「今度、俺」
「お前と?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
クリスはエリオットを見る。
「俺、女役?」
「そうだろ。俺を女役にする?」
想像した。
「……嫌だな」
「だろ?だからクリスは女役ね」
エリオットが手を差し出す。
「踊ろう」
クリスは少し迷ってから、その手へ自分の手を重ねた。
「踏んでも怒るなよ」
「受け止めてやるよ」
「何で転ぶ前提なんだ」
「最近よく俺に落ちてくるから」
「それ、殿下の方だろ」
「……それ今言う?」
笑っていたエリオットの眉が少しだけ下がった。
「何だよ」
「別に」
「変なやつ」
曲が始まった。
エリオットの手が、クリスの腰へ回る。
その瞬間。
二人とも、わずかに動きを止めた。
布がない。
エリオットの手のひらが、直接肌へ触れていた。
背中の開いたドレス。
腰へ添えた大きな手が、露わになったクリスの肌へ重なっている。
「……」
「……」
クリスが先に口を開いた。
「エリオット」
「ん?」
「手」
「……うん」
「そこ、背中」
「知ってる」
「なら何で動かないんだよ」
「今、頑張ってる」
「何を?」
「いろいろ」
やがてエリオットの手が、ごくわずかに位置を変えた。
必要以上に動かさない。
指を滑らせない。
ただ、踊るために支える。
昼間、美しいクリスを見た瞬間。
この背中に口づけたいと思った。
今は、その場所へ手を置いている。
……温かい。
想像していたよりずっと柔らかい。
指を少し動かせば、艶めかしい背骨の筋を辿れる。
そのまま引き寄せれば――。
エリオットは息を吐いた。
……しない。
クリスはそんなことを知らない。
ただ、いつもと違う距離に戸惑っていた。
エリオットの身体が近い。
肩が高い。
胸が広い。
手が大きい。
いつも肩を抱かれている。
引っ張られたこともある。
抱きとめられたこともある。
背負われたことさえある。
それなのに。
今は、まるで違った。
自分が女の姿をしているからだろうか。
エリオットが、ひどく大きく見える。
「……お前って、こんなに大きかったっけ」
「今さら?」
「いつも近いから分からない」
「それ、俺のせい?」
「だいたいお前のせい」
「じゃあもっと近づく?」
「何でそうなる」
エリオットが笑う。
その笑い声が、すぐ近くで響く。
クリスは顔を上げた。
普段より少し高い位置に、エリオットの顔がある。
その瞬間。
また、この正装の下の身体を思い出した。
この厚い胸の下に。
自分が触った身体がある。
妙に意識してしまい、視線を逸らす。
「クリス?」
「何」
「顔赤くない?」
「化粧」
「昼より薄いだろ」
「暑いんだよ」
「ふうん」
楽しそうな声だった。
「何だよ」
「別に」
エリオットの手が、背中を支えている。
その手は大きく、温かい。
曲に合わせて身体を返したとき、クリスの足がわずかに遅れた。
身体がエリオットへ近づく。
胸元が触れそうなほどの距離。
反射的に背中の手へ力が入り、支えられた。
「大丈夫?」
「……うん」
「踏んでない?」
「踏んでない」
「ならよかった」
クリスはそのまま顔を上げた。
エリオットも見下ろしている。
いつもの笑顔ではなかった。
あ。
一瞬だけ思う。
綺麗な顔をしている。
格好いい、ではなく。
男の顔だ。
胸の奥が、妙に落ち着かなくなった。
それでも、不思議と離れたいとは思わなかった。
大きな手に背中を支えられている。
この男なら、自分が足をもつれさせても、きっと倒さない。
そんな安心感があった。
曲が終わった。
けれど。
エリオットの手は、すぐには離れなかった。
クリスも動かなかった。
ほんの数秒。
互いに見つめる。
やがてクリスが笑った。
「踊れるじゃん」
エリオットも笑う。
「騎士だからな」
「関係ある?」
「令嬢と踊れない騎士は困るだろ」
「じゃあ俺じゃなくて、本物の令嬢と踊ってこいよ」
「今日はお前がいい」
「……変なやつ。じゃあな」
クリスが離れる。
今度はエリオットも手を離した。
背中から熱が消えた。
そのことを。
クリスは少しだけ、惜しいと思った。
*
レオンは、少し離れた場所にいた。
そこで、クリスがエリオットと踊る、その一部始終を見ていた。
正確には、見たくないのに見ていた。
「……殿下?」
声をかけられ、ようやく目の前の令嬢へ視線を戻す。
「申し訳ない」
「いいえ」
踊っている最中だった。
我ながら失礼だと思う。
それでも視線が勝手に向いてしまう。
エリオットの手が、クリスの背中にある。
昼間から気に入らなかった、あの露出した背中に。
しかも。
問題はエリオットだけではなかった。
クリスもだ。
嫌がっていない。
むしろエリオットを見上げている。
いつもの二人なら、もっとふざける。
何か言い合って、クリスが叩く。
エリオットが笑う。
そういう二人だった。
なのに今は。
まるで。
「お二人、お似合いですね」
腕の中の令嬢が言った。
レオンの足が一瞬止まりかけた。
「……誰がです?」
「クリス様と、エリオット様」
令嬢が楽しそうに笑う。
「本当に殿方同士とは思えません」
レオンはもう一度二人を見た。
「……男同士ですよ」
「ええ。存じています」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
曲が終わる。
レオンは令嬢へ礼をした。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
そして。
次の相手を探すより先に歩き出した。
*
「クリス」
呼ばれて振り返る。
レオンだった。
「殿下」
「踊るか」
「……え?」
「踊るかと聞いた」
クリスは周囲を見た。
「俺と?」
「他に誰がいる」
「でも殿下には令嬢がいっぱい――」
「今はお前に聞いている」
少し強い言い方だった。
クリスは目を瞬いたあと、笑った。
「いいですよ」
手を差し出す。
「でも、今度は俺が殿下の足踏むかもしれませんよ」
「踏んだら倍にして返す」
「王子が言うことじゃないでしょう」
レオンがその手を取った。
*
向かい合った瞬間。
クリスは、少しだけ妙な気分になった。
レオンとは何度も近づいた。
冬の王都では、寝台まで一緒に使った。
図書室では、転んで膝の上へ乗ったこともある。
顔を両手で挟んだこともある。
この間の行軍では一週間、ほとんど毎日隣にいた。
なのに。
こうして正装したレオンと、舞踏の形で向き合うと。
昔のことを思い出す。
第二王子。
かつて自分が妃候補として、その隣へ立つかもしれなかった人。
「……やっぱり殿下って、綺麗な顔してますね」
レオンが眉を上げた。
「知ってる」
クリスは吹き出した。
「自分で言います?」
「言う」
「すごい自信だな」
「俺も自分が格好いいと思ってる」
「そこまで言います?」
「事実だろ」
あまりに堂々としていて、クリスは笑ってしまった。
「まあ、事実ですけど」
「それに」
レオンがクリスを見る。
「お前、俺の顔好きだろ」
「…………はい?」
「前からよく見てる、俺の顔」
「見てません!」
「それに、褒めるだろ」
「綺麗だからですよ!」
「だから好きなんだろ?」
「そういう意味の好きじゃありません!」
「別に」
レオンの口元が少し上がった。
「そういう意味でも構わないけど?」
クリスは言葉を失った。
「……殿下」
「何だ」
「今日、何か変なもの食べました?」
「失礼だな」
「だって変ですよ」
「お前に言われたくない」
曲が始まる。
レオンの手が、クリスの手を取った。
もう一方が腰へ添えられる。
「それに」
レオンが言った。
「お前も綺麗だ」
クリスの足が止まりかけた。
「……はい?」
「昼も思った」
「やめてくださいよ」
「なぜ」
「何か恥ずかしい」
「お前、今日一日その格好で人前に出てただろ」
「それと殿下に言われるのは違うんです!」
「何が違う?」
「知りません!」
レオンは笑った。
それが妙に近い。
クリスは視線を逸らした。
エリオットと踊ったときとは、違う。
エリオットは大きかった。
手も。
身体も。
熱も。
その身体に守られているような感覚があった。
レオンは違う。
見る。
ただ、ひどくよく見るのだ。
顔を。
目を。
まるで何かを探しているように。
「……あんまり見ないでください」
「なぜ?」
「恥ずかしいから」
「さっき俺の顔は好きだと言っただろ」
「そういう話じゃないでしょう」
「じゃあ、どういう話だ」
「……知りません」
クリスはまた顔を逸らした。
その頬が、灯りのせいだけではなく赤い。
「顔が赤い」
「化粧です」
「昼より薄い」
「暑いんです」
「さっきもエリオットに同じこと言ってたな」
クリスがぱっと顔を上げた。
「聞いてたんですか?」
「見えてた」
「見すぎですよ」
「何を」
「俺を」
レオンは一瞬、黙った。
「……悪いか?」
思っていなかった返事だった。
クリスの口が止まる。
レオンも、なぜそんなことを言ったのか分からないように見えた。
けれど。
視線だけは逸らさなかった。
「……悪くないですけど」
今度はレオンが黙った。
二人の間から、さっきまでの軽口が消えた。
音楽だけが流れている。
手を取り。
腰を支え。
互いの顔を見ている。
その瞬間。
クリスの中から、ふと「俺」が消えた。
自分は女で。
この人は男なのだ。
そんな当たり前のことを、久しぶりに思い出した。
胸の奥が騒ぐ。
けれど身体は、音楽を忘れていなかった。
レオンの手に自分の手を預ける。
一歩下がる。
身体を返す。
次の動きへ入る寸前、わずかに顎を上げる。
導かれるより少し早く重心を移し、相手が次に出す足へ自然に合わせる。
レオンの表情が変わった。
クリスは気づかない。
幼い頃から叩き込まれたものだった。
王宮で恥をかかないため。
貴族の令嬢として。
そして。
第二王子妃候補として。
何度も何度も練習した。
身体が覚えている。
レオンもまた。
覚えていた。
手を預ける位置。
身体を返す瞬間。
わずかに顎を上げる癖。
回転のあと、ほんの少しだけ遅れてこちらへ身体を預ける、その間。
昔。
王宮の舞踏会で。
何度かこの手を取った。
――クラリス。
レオンの胸が大きく鳴った。
違う。
顔が似ているだけだと思った。
女装をすれば似て見えるだけだと。
昼間、あんな投げキッスをするクリスを見て、やはり違うと思った。
あのクラリスが、あんなことをするはずがない。
けれど、これは……?
「……クリス」
「はい?」
「お前、舞踏を習っていたのか」
「え?」
一瞬。
クリスの顔が強張った。
「……一応」
「どこで」
「昔です」
「誰に?」
「色々ですよ」
答えながら、笑う。
「俺、器用なんです」
レオンは何も言わなかった。
器用。
それだけで説明できるだろうか。
この動きは。
舞踏を知っているだけではない。
貴族社会の舞踏会で、何度も踊ってきた人間のものだ。
曲が終わった。
それでもレオンは、すぐには手を離さなかった。
クリスが見上げる。
「殿下?」
近い。
昼より薄い赤の乗ったクリスの唇が目に入った。
レオンの視線が、そこへ落ちる。
一瞬。
ほんの一瞬。
それから、逃げるように目を逸らした。
「……仮面」
「え?」
「やっぱり、つけておけ」
クリスが呆れた。
「エリオットにも同じこと言われましたよ」
「そうか」
「何なんですか、二人とも」
「なら」
レオンはようやく手を離した。
「エリオットも、たまには正しいことを言う」
「本人に言ったら怒りますよ」
「言わなければいい」
クリスは笑った。
その笑い方は。
レオンの知っているクリスそのものだった。
*
夜も更け。
舞踏会が終わる頃には、クリスは心底疲れていた。
控え室へ戻り、鏡の前へ座る。
髪飾りを外す。
耳飾りを外す。
唇の赤を、布で拭う。
少しずつ。
鏡の中から女が消えていく。
エリオットの声を思い出した。
――惚れるだろ?
大きな手。
背中へ直接触れた熱。
正装の下にある、あの身体。
次に。
レオンの声。
――お前も綺麗だ。
じっと見つめてきた目。
腰に添えられた手。
――悪いか?
クリスは化粧を落とす手を止めた。
「……何なのよ、もう」
口にしてから。
自分で固まった。
今。
「俺」ではなかった。
クリスは鏡の中の自分を見る。
化粧は半分ほど落ちている。
男でも女でもないような、妙な顔だった。
今夜は少しだけ、男であることを、忘れていた。
……違う。本当は。
男のふりをしていることを、忘れていた。
クリスは残った口紅を丁寧に拭った。
*
同じ頃。
レオンは寝台に横になったまま、眠れずにいた。
昼間のクリスの赤い唇。
白い背中。
得意げな投げキッス。
夜のクリス。美しかった。
灯りの中で、自分を見上げた顔。
……顔が似ている。
それだけなら偶然で済む。
話し方も違う。
振る舞いも違う。
性格などはまるで違う。
自分の知るクラリス・アーヴェルは、いつも静かだった。
王宮で求められる令嬢として振る舞い、一歩もそこから外れようとしなかった。
だが、クリスは違う。
笑う。
怒る。
遠慮なく自分へ触る。
寝台では人の毛布を奪う。
梯子を使わず椅子へ乗る。
行軍では数字を見ながら歩き、疲れれば荷車で眠る。
舞台の上から投げキッスまでした。
同じ人間であるはずがない。
そう思う。
なのに、目を閉じると最後に浮かぶのは舞踏だった。
手を預ける位置。
回る瞬間。
顎を上げる癖。
こちらの動きへ身体を預ける、そのわずかな間。
あれを。
自分は知っている。
レオンは目を開けた。
暗い天井を見つめる。
しばらく動かなかった。
そして。
誰もいない部屋で、小さくその名を口にした。
「……クラリス」




