第二十五話 俺だけが見ていればよかった
秋も深まり、学院を囲む森が赤や黄金に染まる頃。
王立中央学院は、一年でもっとも騒がしい日を迎えていた。
学院祭である。
中庭には色とりどりの布が渡され、窓辺には学生たちが作った飾りが並ぶ。
焼いた肉の香ばしい匂い。
砂糖とバターをたっぷり使った菓子の甘い香り。
普段なら規律にうるさい教官たちも、この日ばかりは多少の羽目外しには目をつぶっている。
学院の外からも家族や友人、近隣の令嬢たちが大勢訪れ、普段は男ばかりの学院が華やかな声で満ちていた。
文官科の今年の出し物は、喫茶室だった。
「クリス! 三番の卓!」
「今行く!」
「殿下、こっち茶が足りません!」
「俺に言うな。担当はトーマスだろ」
「トーマスが菓子運んでます!」
「なら俺がやる!」
普段は講義に使われている教室へ卓を並べ、学生たちが給仕をする。
ただそれだけの催しだった。
だが、これが予想以上に繁盛していた。
理由の一つは、第二王子レオンが給仕役として立っているからだ。
そしてもう一つ。
「クリス様、こちらをお願いします」
「はい」
クリスが茶器を持って近づくと、卓を囲んでいた若い令嬢たちが揃ってこちらを見る。
茶を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「菓子も追加できますよ」
「では、それもお願いします」
「分かりました」
微笑んで離れる。
背後で小さな歓声が上がった。
「……何なんだ?」
クリスが首を傾げる。
隣を通りかかったレオンが呆れたように言った。
「気づいてないのか」
「何がです?」
「いや。いい」
「何ですか」
「仕事しろ」
「殿下に言われたくないですよ。さっき五番の注文忘れてたでしょう」
「忘れてない。今持っていくところだ」
「俺が言わなかったら忘れてましたよね」
「……うるさい」
クリスは笑った。
そのやり取りを見ていた令嬢たちから、また楽しそうな声が上がる。
レオンはますます不機嫌そうな顔になった。
「ほら。お前のせいで見られてる」
「殿下のせいでしょう」
「何で俺なんだ」
「王子だから」
「お前も見られてる」
「俺はただの学生ですよ」
「……そういうところだぞ」
「何が?」
レオンは答えなかった。
昼前になってようやく客足が落ち着くと、クリスは休憩をもらって中庭へ出た。
外では騎士科の演武が始まっていた。
剣を打ち合わせる音が響く。
訓練用の剣とはいえ、騎士科の最終学年ともなれば迫力が違う。
一人が相手の剣を弾き、そのまま身体を入れ替える。
歓声が上がった。
「……あ」
エリオットだった。
いつもの軽い調子はどこにもない。
相手の動きを読み、踏み込み、剣を止める。
最後に相手の喉元へ刃先を突きつけたところで、勝負が決まった。
大きな拍手が起こった。
「やっぱり強いなあ」
思わず呟く。
少し前まで、自分の肩にまとわりついて「クリス不足」などと言っていた男とは思えない。
剣を下ろしたエリオットが、ふと客席を見た。
目が合った。
途端に顔が変わる。
にっと笑って、片手を上げた。
クリスも笑って手を振り返した。
その瞬間、近くにいた令嬢たちが一斉にエリオットを見る。
「……しまった」
余計なことをした気がした。
演武を終えたエリオットがこちらへやってくる。
「見てた?」
「見てた。格好よかったよ」
エリオットが止まった。
「……もう一回言って」
「嫌だよ」
「何で」
「一回で聞け」
「聞こえなかった」
「嘘つけ」
エリオットは笑いながら、いつものようにクリスの肩へ腕を回そうとした。
だが。
途中で、その手が止まった。
ほんの一瞬だった。
結局いつものように肩へ腕は乗ったが、クリスはその間に気づかなかった。
「午後、逃げるなよ」
「……何の話?」
「美人競べ」
クリスの顔から笑みが消えた。
「忘れてたのに!」
「忘れるなよ。主役」
「誰が主役だ!」
「優勝候補」
「出場辞退する」
「無理。もう衣装まで来てる」
「お前ほんと覚えてろよ」
「楽しみだな」
「俺は全然楽しくない!」
エリオットは楽しそうに笑った。
このときまでは。
*
午後。
中央講堂は、朝から続く学院祭の中でもひときわ異様な熱気に包まれていた。
学院祭恒例。
女装美人競べ「通称:ミスコン」である。
「エリオット。覚えてろよ」
控え室の隅で、クリスは鏡越しに睨んだ。
「何で俺だけなんだよ。推薦したの、俺だけじゃないぞ」
「最初に言い出したのはお前だろ」
「でも賛同者いっぱいいたじゃん」
「お前が名前書かなきゃ始まってない!」
エリオットは悪びれもしない。
去年、期末試験を終えて長期休暇へ入る前。
王都へ出た夜。
酒に酔ったクリスを背負って寮へ戻り、その晩に見た夢。
女の姿をしたクリス。
目を覚ましたあとも、妙に鮮明に残っていた。
だから学院祭の候補者を募る紙を見たとき。
つい名前を書いた。
本物を見てみたい。
そんな、我ながらどうしようもない理由だった。
「だいたい、お前なら勝てるって」
「何でそんな自信があるんだよ」
「顔」
「殴るぞ」
「褒めてる」
「嬉しくない!」
化粧係がクリスの顎を掴んだ。
「動くな。口紅がずれる」
「……はい」
鏡の中のクリスは、すでにいつもの自分ではなくなりつつあった。
目元が濃く縁取られ、長い睫毛が強調されている。
頬にも薄く色が入り、最後に赤い口紅が唇をなぞった。
その上から艶のあるものが重ねられる。
クリスが唇を軽く合わせると、赤が濡れたように光った。
「……すごいな」
後ろから覗き込んだエリオットが呟いた。
「何が」
「いや……」
思っていたより。
ずっと――。
「お前、邪魔」
背後から衣装係に肩を掴まれた。
「俺?」
「お前以外に誰がいる。着替えるから出ろ」
「俺、推薦者なんだけど」
「だから何だ。出ろ」
「ちょっと待て、まだ――」
扉の外へ押し出される。
閉まる寸前、鏡越しにクリスと目が合った。
片方の耳にはまだ飾りがなく、髪も途中までしか整えられていない。
それでも、すでに十分いつものクリスとは違っていた。
「エリオット」
「ん?」
「笑ったら殺すからな」
扉が閉まった。
エリオットはしばらくそこに立っていた。
やがて、口元を緩める。
「……やっぱり見たいじゃん?」
その後、何度か中を覗こうとして、そのたびに追い払われた。
結局、完成したクリスを見ることなく、エリオットは客席へ戻ることになった。
*
ミスコンが毎年盛り上がるのには、理由がある。
もちろん、男ばかりの学院で、日頃むさ苦しい仲間がドレス姿になる。
それだけでも十分面白い。
だが、それだけではない。
参加者は申し込みの際、自分が所属する演習班や訓練班など、一つの班を登録する。
優勝者が出れば、その班には学院祭の賞金が入る。
そして歴代の優勝班が、その金を握って街の酒場へ繰り出すのも、いつしか恒例になっていた。
ゆえに応援する側も本気だった。
「クリス! 肉だぞ!」
客席から声が飛ぶ。
「お前が勝てば肉が食える!」
「酒もだ!」
「俺を酒代にするな!」
舞台袖から怒鳴り返すと、笑いが起きた。
クリスの前では、騎士科の大男が桃色のドレスを翻していた。
胸には何かを詰めすぎて、不自然なほど豊かになっている。
男が腰をくねらせるたび、講堂が揺れるほどの爆笑が起きた。
次に出てきた学生は一転して正統派だった。
淡い色のドレスに髪まで綺麗に整え、遠目なら本当に令嬢と見間違えそうなほどだった。
女性客から黄色い歓声が飛ぶ。
ふざける者もいれば、本気で美しさを競う者もいる。
誰かが笑われれば本人まで大笑いし、本当に美しい者が出れば男たちまで本気で歓声を送る。
学院祭らしい、馬鹿馬鹿しくも楽しい熱気に講堂全体が包まれていた。
「次! 文官科、クリス・アーヴェル!」
呼ばれた。
クリスは一度、深く息を吐いた。
――もういい。
ここまで来たのだ。
化粧までされて。
ドレスまで着せられて。
どうせなら。
勝ってやる。
「クリス! 酒!」
「肉!」
「たのむぞ~!」
客席から優勝を期待する、同じ班の学生たちの声がきこえる。
クリスは覚悟を決め、口元を上げた。
その瞬間から、歩き方を変える。
舞台へ出る。
眩しい光。
ざわめいていた講堂が、静かになった。
クリスはゆっくり顔を上げた。
濃く縁取られた目。
長い睫毛。
艶を含んだ赤い唇。
いつもの少年めいた顔立ちは、化粧によってまるで違うものへ変わっていた。
そして、ドレス。
身体の前面は上品に覆われている。
だが。
背面は違った。
肩甲骨の下から布が大きく割れ、腰のすぐ上まで背中が露わになっている。
細い肩。
白い背中。
肩甲骨の間から、腰へ向かって落ちていく背骨の筋。
男の身体を女に見せるための衣装のはずだった。
それなのに、クリスが歩くたび、その背中には妙な艶が生まれた。
エリオットは。
笑うのを忘れた。
夢で見た、女の姿のクリス。
だから見たかった。
面白半分で推薦した。
――いや。
面白半分だったのは、もっと前だ。
今はもう違う。
自分がクリスを好きなのだと知っている。
男だと思っていても欲しいと思った。
抱きしめたいと思った。
口づけたいと思った。
なのに。
女の姿をしたクリスは、想像していたよりずっと――。
「……嘘だろ」
思わず漏れた。
クリスが舞台の端まで歩き、身体を返す。
露わになった背中が客席へ向けられた。
エリオットの視線が、肩甲骨から背骨の筋を辿った。
そのまま、腰へ。
あの日。
自分の身体へ触れていた指を思い出した。
胸を押し。
腹をなぞり。
首筋へ触れた、細い指。
あのときは、自分が触れられる側だった。
今、目の前にある白い背中へ。
もし自分が触れたら。
――あそこに、唇を落としたら。
白い背中に、唇を這わせ、赤い花を散らしたい……。
そんな欲が、ひどく鮮明に浮かんだ。
エリオットは息を呑んだ。
何考えてるんだ、俺。
慌てて視線を上げる。
だが、一度意識してしまった背中は、もうただの背中には戻らなかった。
それどころか。
周囲から歓声が上がる。
「すげえ……」
「本当にクリスか?」
「綺麗だな……もう女じゃん!」
エリオットの眉が寄った。
今さら気づいた。
みんな見ている。
当然だ。
そのための舞台なのだから。
自分が推薦した。
自分が名前を書いた。
自分がクリスをここへ出した。
「……推薦するんじゃなかった」
隣の学生が聞き返す。
「何で?」
「……俺だけ見ればよかった」
「は?」
「何でもない」
エリオットは額を押さえた。
本当に。
何で推薦したんだ、俺。
*
レオンもまた、少し離れた客席からクリスを見ていた。
最初に目を奪われたのは、顔だった。
――綺麗だ。
そう思ったあと。
一人の女が、記憶を掠めた。
クラリス。
レオンは眉を寄せた。
以前から顔立ちは似ていると思っていた。
女の格好をすれば、なおさらなのかもしれない。
けれど。
王宮で見たクラリスとは、まるで違う。
彼女はいつも控えめだった。
上品に笑い、決められた場所へ立ち、決められた言葉を選んだ。
目の前にいるクリスは。
舞台中央で止まった。
観客を見渡す。
最初はあれほど嫌がっていたくせに、どうやら完全に腹を括ったらしい。
クリスの片方の口角が上がる。
そして。
赤い唇へ、ゆっくり指先を当てた。
投げキッス。
一瞬遅れて、講堂が爆発した。
「クリスーーー!」
「こっち向け!」
「もう優勝でいいだろ!」
「まだ投票前です! 落ち着いてくださーい!」
司会の声まで歓声にかき消される。
クリスは得意げに笑い、ドレスの裾を摘まんで一礼した。
レオンは片手で目元を押さえた。
違う。
絶対にクラリスではない。
あの女が、こんなことをするはずがない。
そう思うのに、指の隙間からもう一度見てしまう。
そしてクリスが背を向けた瞬間。
今度は別の意味で思考が止まった。
「……何だ、あの服」
背中がほとんど露わになっている。
白い肌が、腰近くまで続いていた。
周囲の男たちも見ている。
「クリス、背中すげえな」
「女にしか見えねえ」
「黙れ」
隣にいた学生が振り返った。
「え?」
「……何でもない」
思ったより低い声が出た。
レオンは再び舞台を見る。
クリスが笑っている。
楽しそうだった。
それを見ると自分も少し笑いたくなるのに。
周りの男たちが同じものを見ていると思うと、妙に腹が立つ。
「……見すぎだろ」
小さく呟く。
自分も見ていることには、気づかないふりをした。
*
結果は、圧勝だった。
「今年度、女装美人競べ優勝者――文官科、クリス・アーヴェル!」
名前が読み上げられた瞬間、登録されていた班の仲間たちが立ち上がった。
「酒だあああ!」
「肉!」
「クリス愛してるぞ!」
「金目当てじゃねえか!」
クリスが舞台から怒鳴る。
講堂が笑いに包まれた。
舞台を降り、控え室へ戻った途端。
クリスは壁に手をついた。
「…………死にたい」
「さっきまでノリノリだったじゃん」
声がした。
振り返る。
エリオットが扉にもたれている。
「見た?」
「見た」
「忘れろ」
「無理」
即答された。
「特に最後」
「言うな!」
「投げキッス」
「言うなって!」
耳まで赤くなったクリスを見て、エリオットは笑った。
舞台の上にいた女と、目の前で恥ずかしがっているクリスが、同じ人間に思えない。
けれど。
どちらも好きだ。
男の格好をして笑っているクリスも。
自分の身体へ無邪気に触れてきたクリスも。
さっき舞台の上で、誰より綺麗に笑っていたクリスも。
全部。
「……何だよ」
見つめられていることに気づいたクリスが眉を寄せる。
「いや」
エリオットは少し笑った。
「優勝おめでとう」
「……おう」
「これで飲みに行けるな」
「俺を肴にして飲むなよ」
「無理だろ」
「何でだ!」
また笑う。
いつものクリスだった。
それに少し安心して。
同時に、少しだけ惜しいと思った。
「そういえば」
衣装係が声をかけた。
「クリス。夜の舞踏会の衣装、もう届いてるぞ」
「……え?」
クリスの笑顔が消えた。
「何で?」
「優勝者だから」
「昼で終わりじゃないの?」
「まさか」
「聞いてない!」
「言ってないからな」
「何で言わないんだよ!」
「逃げるだろ」
「逃げるよ!」
エリオットが吹き出した。
クリスが睨む。
「笑うな!」
「いや、だって」
「お前も知ってたな!?」
「もちろん」
「エリオット!」
その日の夜。
学院祭最後の催しとして、大広間では舞踏会が開かれる。
そして今年。
その華やかな人々の中へ。
女装美人競べの優勝者も、ドレス姿で加わることになっていた。




