↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/34

第二十三話 君が隣にいる理由  レオン

翌朝、目を覚ましたクリスは、しばらく天井を見たまま動かなかった。

身体が重い。

足が痛い。

肩も痛い。

昨日までの三日間で、使えるところは一通り使い果たしたような気がする。

それでも今日は歩かなくていい。待機日だからだ。

そう思っただけで、少しだけ幸せだった。


「……待機日って素晴らしいな」

呟いて身体を起こす。

同室の文官科の学生たちも、似たような有様だった。

誰かが呻き、誰かが寝台の上で脚を揉んでいる。

明日からまた三日かけて戻らなければならないが、一日ここにいられる。

それだけで十分だった。




朝食を終えると、文官科の学生たちは駐屯地の補給担当者のもとへ集められた。

今日の課題は、駐屯地における物資管理の実習だった。


倉庫に保管されている物資の種類と量。

平時の消費。

部隊が移動する際に必要となる補給。

輸送手段。

そして、補給が滞った場合に何が起きるのか。

昨日まで自分たちが実際に使ってきたものだけに、クリスも興味があった。


倉庫へ入ると、昨日見た光景が広がっている。

穀物。

毛布。

薬品。

革製品。

馬具。

鉄製品。


昨日、一瞬だけ覚えた違和感がまた胸をかすめた。

だが、すぐに担当官の声が飛んだ。


「第二班。ぼんやりするな」

「はい」

クリスは慌てて帳面を開いた。

隣でレオンが小さく笑う。

「何です?」

「いや」

「今、笑いましたよね」

「昨日と逆だなと思っただけだ」

「何がです?」

「今日は俺がお前の見落としを防ぐ日らしい」

「昨日も防いでもらいましたけど」

「じゃあ今日こそ、お前が俺を助けろ」

「任せてください」

何気なく返す。

レオンは少しだけ笑った。


そのやり取りが、もうずいぶん自然になっていた。




「まず、これを見ろ」

補給担当官が学生たちの前に一枚の表を広げた。

ある部隊が七日間行動する場合に必要となる物資を算出したものだった。

人数。

馬の頭数。

一人あたりの食糧。

一頭あたりの飼料。

医薬品。

毛布。

予備の革。

蹄鉄をはじめとする鉄製品。

それぞれに一定の予備が加えられている。


「補給というのは、兵の腹を満たせば終わりではない」

担当官が言った。

「人間だけなら計算は簡単だ。面倒なのは、そいつらを動かすために必要なものだ」

指が表を滑る。

「百人の兵を動かすなら、百人分の食糧だけ考えても意味がない。荷を運ぶ馬がいる。馬には飼料がいる。馬具は傷む。蹄鉄も必要になる。人間は怪我をする。雨が降れば毛布が要る。道具も壊れる」

クリスは書き留めながら聞いていた。

「それに、七日動くから七日分、というわけにもいかん。予定通り着けないことを考える。道が崩れる。馬車が壊れる。病人が出る。だから予備を持つ」


レオンが隣で小さく言った。

「聞いたか?」

「……昨日のことは忘れてください」

「荷馬車の馬」

「忘れてくださいって」

レオンが笑った。

クリスは肘で軽くその腕を押した。

担当官がこちらを見る。

二人は同時に口を閉じた。


まるで叱られた子供のようで、クリスは笑いそうになるのを堪えた。

横を見ると、レオンも同じ顔をしていた。




午前の実習が終わっても、クリスは倉庫に残っていた。

課題として渡されたのは、条件の異なる部隊について必要な物資を算出することだった。

人数を変える。

日数を変える。

騎馬の割合を変える。

それだけで必要量は大きく変わる。

クリスは木箱の上に帳面を広げ、計算していた。

「二百人、五日。騎馬三十……」

横から別の数字が書き込まれる。


「飼料」

「あ」

顔を上げるとレオンだった。

「今回は忘れてません」

「まだ書いてなかっただろ」

「今から書くところでした」

「本当か?」

「本当です」

「怪しいな」

「殿下」


笑いながらレオンが隣の木箱へ腰を下ろす。

クリスは再び帳面へ目を落とした。

しばらく二人で計算を続けた。

やがてレオンが答えを読み上げる。

クリスが自分の数字を見る。


「……合わない」

「どこだ?」

二人の帳面を並べる。

計算過程を追う。

しばらくして、クリスが一点を指した。

「殿下、ここ」

「ん?」

「帰路の分、往路と同じ消費率で計算してます」

「……あ」

「帰りは荷が減ってます。必要な荷馬車の数も減らせますよ」

レオンが黙って自分の計算を見る。

「本当だな」

クリスは得意げに笑った。

「ほら」

「何だ」

「助けました」

「……そうだな」

「約束でしょう?」

「ああ」

「やっぱり俺たち、いいコンビですね」

また言った。


レオンは今度こそ、笑ってしまった。

「お前、それ気に入ったのか?」

「事実でしょう?」

「自分で言うか、普通」

「殿下だって否定しないじゃないですか」

「否定する理由がない」

「じゃあいいでしょう」

クリスは満足そうに計算へ戻った。


否定する理由など、本当になかった。

むしろ。

そう言われるのが、少しずつ楽しみになっている自分がいる。




昼を過ぎる頃、実習は実際の倉庫管理へ移った。

学生たちは補給担当官について倉庫の奥へ入る。


「ここにあるのは、この駐屯地だけで消費する物資ではない」

担当官が説明する。

「有事には周辺の部隊へ回す。逆にここが不足すれば、別の拠点から送らせる。だから一か所の数字だけ見ても全体は分からん」

クリスの筆が止まった。

一か所の数字だけ見ても。


どこかで聞いたような気がした。

いや。

聞いたのではない。

自分が、このところずっと見てきたものだ。

一件一件は小さい。

どれも不自然とは言えない。

穀物。

鉄。

革。

馬具。

薬。

毛布。

それぞれ別の商人から買われ、別の帳簿に記されていた。

だが、その裏に同じ仲介人や保証人がいる。

そして物資の一部は、北へ向かっていた。


クリスは倉庫を見回した。

積み上げられた穀物袋。

棚に収められた薬品。

束ねられた革。

壁に掛けられた馬具。

鉄製品の入った木箱。


同じだ。


胸の奥で、何かが引っかかった。

「……質問してもいいですか」

担当官が振り向く。

「何だ」

「例えば、三百人くらいの兵を一週間動かすとしたら、どれくらい必要になります?」

「三百?」

担当官は少し考えた。

「条件による。歩兵だけか、騎馬を含むか。どこを通るか。途中で補給できるか。それだけでも違う」

「大まかで構いません」

「大まかなら――」

担当官が近くの板へ数字を書き始めた。

クリスも帳面を開く。


人。

日。

食糧。

馬。

飼料。

薬。

革。

鉄。

毛布。

荷馬車。


数字が並んでいく。

昨日までなら、それはただの計算だった。

けれど今は違う。


クリス自身が三日間、その一部を運んできた。

何人いれば、どれほどの食糧が減るのか。

馬がどれほど飼料を食うのか。

一日の移動で、何が傷み、何が失われるのか。

数字の向こう側にあるものが、初めて実感として分かる。


「クリス?」

レオンの声にも、すぐには答えられなかった。

クリスは帳面をめくった。

今回の行軍で書いた数字。

そして記憶の中にある、アレクサンダーから渡された記録。


オスカー・アンジュー男爵

ソフィアの父。

分散された取引。

北へ向かった荷。

古い軍用路。

使われていないはずの倉庫。


一つ一つを見るな。

まとめて見る。


クリスは頭の中で、ばらばらだった数字を集め始めた。

正確な量までは覚えていない。

それでも、おおよその規模なら分かる。

穀物だけではない。

馬も。

革も。

鉄も。

薬も。

毛布も。


それらを「商品」として見るから分からなかった。

何を買っているのかではない。


――何人を動かせるのか。


背筋に冷たいものが走った。

「……殿下」

「何だ?」

「この課題、あとで帳面を借りてもいいですか」

「構わないが……どうした?」

「ちょっと、確かめたいことがあります」

レオンがクリスの顔を見る。

「例の卒業研究か?」

一瞬、答えに詰まる。

「……そんなところです」

嘘ではない。

だが本当でもない。

レオンはそれ以上聞かなかった。

「分かった」

その代わり、低い声で言う。

「一人でどこかへ行くなよ」

「行きませんよ」

「ならいい」


以前なら、その言葉に少しだけ窮屈さを感じたかもしれない。

今は違った。

「殿下」

「何だ」

「ありがとうございます」

「……何が」

「色々です」

レオンが怪訝そうな顔をする。

クリスは笑った。

「殿下がいてくれて、助かってます」


まただ。


レオンは何か言おうとして、結局やめた。

「……そうか」

「はい」

「じゃあ、俺にも何かあったら助けろ」

「もちろんですって」

「忘れるなよ」

「忘れません」


クリスはまた帳面へ視線を落とした。

レオンはその横顔を見ていた。

昨日から、何度この言葉に喜ばされているのだろう。

頼りになる。

助かった。

一緒でよかった。


友人からそう言われて嬉しいのは、当たり前だ。

だから、これもきっと当たり前なのだろう。

そう思うことにした。




夕方。

クリスは宿舎の片隅で、一人、帳面を広げていた。

正確な取引記録は学院に置いてきている。

だから今できるのは、記憶している数字を大まかに当てはめることだけだ。

それでも十分だった。


アレクサンダーが最初に見せた記録。

自分がベルクを追う中で見つけた取引。

北へ向かった物資。

一つずつなら、何でもない。

穀物を大量に買う者はいる。

馬を買う者もいる。

革も鉄も必要だ。

薬も毛布も、商売になる。


だが。

それらが同じ時期に。

同じ方向へ。

何人もの商人を経由して。

誰かの意図によって集められているのだとしたら。


クリスは今日、担当官から聞いた数字を見る。

三百人。

七日。

その人数を動かすために必要になる量。

さらに日数を延ばす。

人数を増やす。

途中で補給する前提なら――。


手が止まった。

「……違う」

これまで、自分は金を追っていた。

誰が買った。

誰が払った。

誰が保証した。

誰が仲介した。

それは間違っていない。

だが、物資にはもう一つの見方があった。


何を買ったかではない。

何のために買ったかでもない。


その量で、何ができるのか。


クリスは目を閉じた。

この三日間を思い出す。

隊列。

歩く学生たち。

警護する騎士科。

荷馬車。

馬。

毎日減っていく食糧。

補充される薬。

傷んだ馬具。

交換される金具。

夜、配られた毛布。


そして、今日見た駐屯地の倉庫。


穀物。

馬。

革。

鉄。

薬。

毛布。


ばらばらだったものが、一つの形を作った。

「……軍隊だ」

声にした途端、意味が現実になった。


あの数字が示していたのは、商品ではない。

金でもない。


人だ。


何百人もの人間を、一定期間動かすための量。

誰かが、それを準備している。

しかも、見つからないように分散させて。

北へ。

使われていないはずの軍用倉庫へ。


クリスは立ち上がった。

アレクサンダーに知らせなければならない。

だが、ここから王都へ戻るには三日かかる。

連絡方法は――。


そこまで考えたところで、扉の外から声がした。

「クリス」

反射的に帳面を閉じる。

レオンだった。


「夕食だぞ。何してる」

「……少し、今日の課題を見直してました」

「休めと言っただろ」

「殿下に言われた覚えはありません」

「今言った。休め」

「横暴ですね」

「王子だからな」

「そういう時だけ王子を使うの、ずるくないですか?」

レオンが笑う。

「早く来い」

「はい」

クリスは帳面を抱えて立ち上がった。

扉へ向かいかけ―― もう一度だけ、閉じた帳面を見る。


軍隊。


もし、この考えが正しいのなら。

これはもう、横領でも密輸でもない。

単なる王宮内の権力争いですらない。


誰かが、人を動かす準備をしている。


その先に何があるのか。

まだ、クリスには分からなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。