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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第二十二話 殿下がいてくれてよかった  

今年の行軍では、エリオットとは別班になった クリスと、レオン。

この7日間はクリスを独占できることに、レオンはひそかに喜びを感じています。

夏の終わり。

まだ陽射しには盛夏の名残があり、朝だというのに学院の正門前にはむっとするような熱気がこもっていた。

整列した学生たちの脇には、幌を張った荷馬車が何台も並んでいる。

積まれているのは食糧、毛布、薬品、予備の馬具、工具。その他、七日間の行軍に必要となる物資の数々だ。


それを見た瞬間、クリスは去年の行軍を思い出した。

三日かけて国境近くの駐屯地まで歩き、一日滞在し、また三日かけて戻ってくる。

昨年は、ただひたすら歩いた。

足の裏は痛み、肩には荷が食い込み、夜になる頃には食事を口へ運ぶことさえ億劫だった。

今年も同じ道を行く。


「……嫌なことを思い出した」

げんなりとしたクリスの言葉に、隣にいるエリオットが笑った。

「去年のお前、二日目から死にそうな顔してたもんな」

「二日目じゃない。一日目からだ」

「もっと駄目じゃん」

「うるさい」

笑いながら肩へ伸びてきた腕を、クリスは慣れた動作で払い落とした。


ただし今年は、昨年とは役割が違う。

今回、最終学年の行軍では、学生たちはそれぞれの専門に応じた任務を与えられる。

騎士科は隊列の警護や先行偵察、周辺警戒。

文官科は行程管理や物資の確認、各駐屯地での受け渡しと記録。

そのため、文官科の学生は荷馬車に交代で乗ることも許されていた。

去年よりは楽だ。

――少なくとも、クリスはそう思っていた。


「クリス」

名前を呼ばれて振り向く。

少し離れたところで、レオンが一冊の帳簿を手にしていた。

「俺たちは第二補給班だ。出発前の確認をするぞ」

「はい」

クリスがそちらへ向かうと、エリオットが不満そうな声を出した。

「もう行くの?」

「仕事だからな」

「俺、今日ほとんど別行動なんだけど」

「別班なんだから当たり前だろ」

「そうだけどさ」

「エリオット!」

向こうから同じ班の学生に呼ばれ、エリオットが渋々振り返った。

「分かったよ。……クリス、無理すんなよ」

「お前もな」

エリオットは片手を上げ、自分の隊列へ走っていった。

その背を見送ってから、クリスはレオンの隣へ並んだ。

「何からです?」

「まず積み荷だ」

「了解です」

二人は荷馬車へ向かった。




午前のうちに、クリスは今年も地獄であることを理解した。

確かに、去年のように歩兵として歩き続けなくていい。

順番が来れば荷馬車に乗れる。

だが、それは休憩ではなかった。

補給地点へ着くたびに降りて積み荷を確認し、消費した物資を書き留め、次の区間で必要になる量を確認する。

馬の状態も見なければならない。

隊列が動けばまた歩き、荷馬車へ乗れば帳簿を開く。

去年とは違う種類の疲労だった。


昼を過ぎる頃には、クリスは荷馬車の後ろに腰掛けたまま、ぐったりと背を丸めていた。

「去年より楽だと思ってたのに……」

隣で帳簿を見ていたレオンが顔を上げる。

「楽だろ」

「どこがですか」

「少なくとも足は去年より残ってる」

「足以外が死んでます」

「まだ初日だぞ」

「だから絶望してるんです」


レオンが笑った。

クリスは恨めしそうに横を見る。

「殿下、元気ですね」

「王族教育を甘く見るな」

「王族って行軍までやるんですか?」

「やる。指揮する人間が、兵が何をしているのか知らないわけにはいかないだろ」

「……なるほど」

クリスは少し感心してレオンを見た。

こういう時、ときどき思う。

普段は学院で同じ授業を受け、食堂でくだらない話をしているから忘れそうになるが、この男は王子なのだ。

幼い頃から、自分とはまったく違う教育を受けてきた。


「何だ」

「いえ。頼もしいなと思って」

レオンの視線が止まった。

「……急に何だ」

「今の話ですよ」

「そうか」

「はい」

それだけ言って、クリスは水筒へ口をつけた。

レオンも帳簿へ視線を戻した。


口元がわずかに緩んでいることには、クリスは気づかなかった。




最初の駐屯地へ到着した頃には、日は大きく西へ傾いていた。

身体は重い。

だが、補給担当の仕事はそこで終わらない。

むしろ到着してからが忙しかった。


使用した物資と残量を確認し、翌日の行程に必要な分を受け取り、荷馬車へ積み直す。

クリスとレオンは補給倉庫の前に並べられた木箱を椅子代わりにしていた。

膝の上には薄い板。

その上に帳簿を置き、クリスが数字を書き込んでいく。


「食糧は問題なし。飲料水も補充済み。医薬品は――」

「待て」

「はい?」

レオンが帳簿へ手を伸ばした。

クリスも身を寄せる。

「明日の馬の飼料、これで全部か?」

「騎乗馬の頭数分と、予備を一日分入れてます」

「荷馬車は?」

「荷馬車?」

レオンが指先で別の欄を叩いた。

「荷馬車を引いてる馬」

クリスの手が止まった。

帳簿を見る。

もう一度見る。


「…………」

「抜けてるな」

「……抜けてますね」

「御者は入ってる」

「御者は入れました」

「馬を忘れたのか」

「馬を忘れました……」

思わず額を押さえる。

すべてを忘れたわけではない。

騎乗馬の飼料も、その予備分も計算した。

人員も、護衛兵だけでなく御者まで数えている。

なのに荷馬車の馬だけが、きれいに計算から抜け落ちていた。

「最悪だ……」

「大げさだ。出発前に気づいたんだからいい」

「殿下が気づいたんでしょう」

「同じ班なんだから、どっちが気づいても同じだろ」

クリスは顔を上げた。


「……そうですね」

「ああ」

「殿下がいてくれてよかったです」

「……」

「本当に助かりました。いつも色々ありがとうございます」

レオンが一瞬、黙った。

「何です?」

「いや」

レオンは帳簿を閉じず、そのままクリスへ返した。

「じゃあ今度、俺が何か見落としたら、お前が助けろよ」

クリスは目を瞬いた。

それから笑った。

「もちろんです」


あまりにも当然のように返ってきた。

レオンはなぜか、それが嬉しかった。




二日目。

昨日の疲れは、当然ながら消えていなかった。

そこへ新しい疲労が積み重なった。

朝から歩き、荷馬車に乗り、降り、荷を確認し、また歩く。

それでも昨日より仕事の要領は分かってきた。

昼過ぎの補給地点で、クリスは受領した荷を確認していた。

「二十、二十……合ってますね」

レオンが受領票へ印をつけようとする。

その横で、クリスは積まれた革製品へ目を向けた。

一度通り過ぎ――足を止めた。


「殿下、待ってください」

「何だ?」

クリスは二つを取り上げて並べた。

「これ、同じ規格ですか?」

「……いや」


大きさがわずかに違う。

数量だけを見れば、帳簿通りだった。

だが一部は指定されたものより小さく、このままでは使える場所が限られる。

レオンが受領票と現物をもう一度確認した。


「危なかったな」

「ですよね」

「よく気づいた」

「最近、商取引の資料ばかり見てますから。品目と数量だけじゃなくて、規格も見る癖がついたんです」

「助かった」

その言葉に、クリスが嬉しそうに笑う。

「ほら」

「何が」

「今度は俺が助けたでしょう」

昨日の会話を思い出して、レオンも笑った。

「そうだな」

「俺たち、最高のコンビですね」


不意打ちだった。

レオンはクリスを見た。

本人は何の含みもなく、受領票を直している。

「……殿下?」

「何でもない」

「またそれですか」

「早く直せ」

「はいはい」

クリスが笑う。


最高のコンビ。

たったそれだけの言葉が、妙に胸に残った。




午後。

荷馬車の積み替えが行われた。

次の補給地点で先に使う物資を手前へ移し、すぐには使わないものを奥へ積む。

クリスは荷台に積み上げられた木箱と袋の上に登っていた。


「それ、もう少し右です」

「ここか?」

「もう少し。……はい、そこです」

下にいるレオンが箱を動かす。

「次の駐屯地で降ろす分は手前にしておいた方がいいですね」

「分かった。もう降りてこい」

「はい」

クリスは積み荷を足場にして降り始めた。

最後の木箱まで来たところで、レオンが手を差し出した。

「待て」

「何です?」

「手」

「これくらい大丈夫ですよ」

「お前の大丈夫は信用してない」

「まだ梯子のこと言ってるんですか?」

「言われたくなかったら、一度くらい普通に降りろ」

クリスは笑った。

「……じゃあ、お借りします」

何のためらいもなく、その手を取る。


細い指が、レオンの手に重なった。

以前なら、それだけで意識していた。

今も、しないわけではない。

ただ最近は、それ以上に。

クリスが自分へこうして無造作に手を預けること自体が、嬉しくなっていた。


「降りますよ」

「ああ」

クリスが最後の木箱へ足をかける。

その瞬間。

足元の袋がずれた。

「あっ」


身体が傾く。

レオンは握っていた手を強く引いた。

そのままクリスの身体が胸へ飛び込んでくる。

片手は繋がったまま。

もう片方の腕が、反射的に腰へ回った。

「……っ」

「危ないだろ」

「すみません」

クリスはレオンの胸に手をついたまま、足元を確認した。

そして何事もなかったように笑った。

「でも、殿下がいると思ったから」

「…………」

「ほら。受け止めてもらえたから大丈夫でした」

「……それを大丈夫とは言わない」

「怪我してませんよ?」

「そういう問題じゃない」

「?」


近い。

それなのにクリスはまったく気にしていない。

むしろ自分を信用しているからこそ、こうして平然としている。


――殿下がいると思ったから。


そんなことを言われて、嬉しいと思わないはずがなかった。

「殿下」

「何だ」

「もう降りました」

「……分かってる」

「手」

「…………」


まだ握っていた。

腰へ回した腕も、そのままだった。

レオンはようやく離した。

「次から気をつけろ」

「はい」

「飛び降りるな」

「飛び降りてません。落ちただけです」

「余計に悪い」

クリスが声を上げて笑った。


レオンはその笑顔を見ながら、思う。

最近、こいつといると妙に気分がいい。




三日目になると、二人の仕事にはほとんど説明がいらなくなっていた。

レオンが手を出せば、クリスが帳簿を渡す。

クリスが荷馬車を見て名前を呼べば、レオンも同じ場所を見る。

「殿下」

「ああ。三台目だろ」

「やっぱり気になります?」

「左が沈んでる」

「俺もです。積み方見ましょう」

二人で隊列を外れ、荷馬車へ向かう。

調べると、片側へ重量のある箱が偏っていた。

積み直しを指示して戻る途中、担当教官が二人を見て笑った。

「ずいぶん息が合ってきたな」

クリスがレオンを見る。

「そうですか?」

「自覚がないのか」

「三日ずっと一緒にやってますから」

さらりと言って、クリスは先へ歩いていく。

レオンは一歩遅れてその背中を追った。


三日ずっと一緒に。


それはただの事実だった。

だが、思えばこの三日間、朝から夜までほとんどクリスが隣にいた。

同じものを見て。

同じ問題を考えて。

片方が気づかなければ、もう片方が気づく。

疲れれば愚痴を言い、くだらないことで笑う。


身体は、間違いなく去年と同じくらい疲れていた。

足は重い。

肩も痛い。

今すぐ学院へ帰れると言われれば、喜んで馬車に乗るだろう。

それなのに。


この三日間は、悪くなかった。

むしろ――。


「殿下!」

前を歩いていたクリスが振り返った。

遠く、街道の先に石造りの壁が見える。

最終地点の駐屯地だった。

「見えました!」

「ああ」

クリスが戻ってきて、興奮したようにレオンの腕を掴んだ。

「やっとですよ! もう今日は歩かなくていい!」

「分かったから揺らすな」

「明日は待機日ですよね?」

「ああ」

「最高ですね」

クリスは本当に嬉しそうだった。

レオンも笑った。

「お前、初日からそれしか言ってないな」

「だって疲れたんですよ」

「俺もだ」

「でも去年よりはマシでした」

「荷馬車があったからな」

「それもですけど」

クリスが掴んでいた腕を離す。

「殿下と一緒でよかったです」

「……俺?」

「はい。一人だったら、もっと大変でした」

少し考えて、クリスは付け加えた。

「殿下がいてくれて、本当によかった」


まただ。


この三日間、何度も似たようなことを言われた。

助かります。

頼りになります。

一緒でよかった。

最高のコンビ。

どれも、友人同士なら何でもない言葉だ。

そのはずなのに、クリスから言われるたびに嬉しい。


「……俺も」

「え?」

「俺も、お前と一緒でよかった」

クリスが笑った。

「じゃあ、やっぱり最高のコンビですね」

「ああ」

今度は素直に答えた。


クリスがまた前を向く。

その隣を歩きながら、レオンは遠くの駐屯地を見た。

明日はここで一日過ごす。

その翌朝には、復路へ入る。

あと三日歩けば、学院だ。


早く終わってほしい。

身体は心底そう思っている。

だが同時に。


――終わってほしくないな。


浮かんだ思いに、レオンは少しだけ眉を寄せた。

行軍が終われば、またいつもの学院生活へ戻る。

それなのに、なぜそんなことを思うのか。

三日間ずっと隣にいたからだろうか。


ふと、その先のことまで考えた。

学院生活そのものだって、あと数か月しかない。

卒業すれば、自分は王宮へ戻る。

王族として、本格的に公務へ入ることになる。

クリスは――。


「クリス」

「はい?」

「お前、卒業したらどうするんだ?」

「急ですね」

「もう数か月だろ」

「まあ、そうですけど」

「文官になるんだろ?」

「そのつもりです」

「どこで働きたい」

クリスは少し考えた。

「まだ決めてません。中央の仕事には興味がありますけど、叔父のところで領地の仕事をするのも面白かったですし」

「……領地へ戻るのか?」

「決めてませんよ」

なぜか、ほっとした。


「財務は?」

「興味あります」

「商務」

「それも」

「王領行政は?」

「殿下、急に進路指導の先生みたいになってますよ」

「真面目に聞いてるんだ」

クリスが笑う。

「分かってます。でも本当にまだ決めてないんです」

「そうか」

「殿下は王宮でしょう?」

「ああ」

「じゃあ、俺が王宮の仕事に就いたら、また一緒に仕事することもあるかもしれませんね」


レオンはクリスを見た。

本人は何気なく言っただけなのだろう。

「……そうだな」

「その時はまた助けてください」

「お前も俺を助けるんだろ」

「もちろん」

「ならいい」


王族である以上、自分の役目をすべて自由に選べるわけではない。

これまでもそうだった。

求められたものを学び、求められた場所へ立つ。

それを不満に思ったことも、さほどない。


けれど、希望くらいは言ってもいいはずだ。

財務でも、商務でも、王領行政でも。

クリスが中央で進みたい道を選ぶのなら、自分もそこに関わる役目を持てないだろうか。

同じものを見て。

同じ問題を考えて。

今日のように、互いに足りないところを補って。


卒業した後も。

そんなふうに働けたら、きっと楽しい。

「殿下?」

「何だ」

「置いていきますよ」

いつの間にかクリスは数歩先へ行っていた。

レオンは歩調を速め、その隣へ戻る。

「お前が遅かったんだろ」

「今抜かしたんです」

「元気になったな」

「駐屯地が見えたからです」

またくだらない言い合いをしながら歩く。


クリスといるのが、好きなのだと思った。

その「好き」が何なのかまでは、考えなかった。

ただ。

卒業しても、こうして隣を歩けたらいい。

今は、それで十分だった。




駐屯地の門をくぐると、補給用の荷馬車が次々と倉庫へ向かっていった。

クリスも帳簿を抱え直し、その後を追う。

明日は行軍のない、唯一の待機日だ。

補給品の確認と、復路の準備。

そして駐屯地側が管理している物資についても、実地で学ぶことになっている。


倉庫の扉が開く。

中には穀物の袋が積み上げられ、壁際には毛布、薬品、革製品。

奥には馬具。

そのさらに向こうには、鉄製品を収めた木箱が並んでいた。

クリスの足が、ほんの一瞬だけ止まった。


穀物。

革。

馬具。

鉄。


最近、どこかで何度も見た組み合わせだった。

「クリス?」

レオンに呼ばれ、我に返る。

「……何でもありません」

どれも、駐屯地ならあって当然のものだ。

行軍を経験した今なら、なおさら分かる。

人と馬を動かすには、こういうものが必要になる。


ただ。

一度覚えた違和感は、簡単には消えてくれなかった。



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