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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第二十一話 お前は何を知っている

王太子からの返事は、三日後に届いた。


場所は以前とは違った。

王都西区、運河沿いに建つ小さな倉庫。

表向きは王家御用達の商会が管理する荷の保管所らしく、学院の制服姿で訪れるには少々不似合いな場所だった。

指定された裏口から入ると、以前にも見た男が待っていた。


「こちらへ」

案内されたのは二階の小部屋だった。

窓は一つ。

机と椅子が数脚。

壁際には帳簿を収めた棚がある。

華美なものは何もない。

だが、部屋へ入った瞬間、クリスの背筋は自然と伸びた。


アレクサンダーがいた。


「そこへ座れ」

「はい」

向かいへ腰を下ろす。

会うのは、これで三度目になる。

それでも、慣れる気配はなかった。

レオンとは違う。

同じ王族で、顔立ちにも似たところはある。

けれどレオンと話しているとき、クリスは時々、彼が王子であることを忘れる。

アレクサンダーには、それがない。

穏やかに座っているだけなのに、この人が次代の王なのだという事実が消えなかった。


「急ぎだと聞いた」

「はい」

クリスは持ってきた紙を机へ置いた。

「ノーマン・ベルクの周辺を調べていて、一つの商会に行き当たりました」


アレクサンダーが紙を取る。

視線が上から下へ動く。

「……この男か」

クリスは顔を上げた。

「ご存じなのですか」

「名前だけはな」

アレクサンダーは紙から目を離さなかった。

「商人から爵位を得た男だ。王都では珍しくない。だが、爵位を得た後も商業界との繋がりはかなり強い」

やはり。

クリスは膝の上で手を組んだ。

「現在、ベルクが仲介している複数の取引で、この男の商会が保証や資金の立替を行っています」

「品目は」

「穀物、鉄、革、馬具などです」

アレクサンダーの指が止まった。

「続けろ」


クリスは調べたことを順番に話した。

取引ごとの金額は目立たないこと。

扱う商会も異なっていること。

だがベルクを中心に整理すると、同じ資金提供者が繰り返し現れること。

アレクサンダーは途中で口を挟まなかった。

ただ聞いている。

その沈黙が、かえってクリスの緊張を強くした。

「それだけではありません」

クリスはもう一枚の紙を出した。

「三年前まで遡りました」

そこで初めて、アレクサンダーが顔を上げた。

「なぜだ?」


クリスは一瞬、答えに詰まった。

「……この男の娘を知っています」

「娘?」

「ソフィア嬢です」

アレクサンダーの目が、僅かに細くなった。

「ソフィア・アンジュー」

男爵家の名が、王太子の口から出る。

「はい」

少しの間を置いて、アレクサンダーが言った。

「クラリス・アーヴェルの件か」


胸の奥が、小さく揺れた。

自分の名前を、自分ではない人間の口から聞く。

今でも、妙な感覚がした。

「……はい」

アレクサンダーは少しだけ背もたれへ身体を預けた。

「随分昔の話を知っているな」

来た。

クリスは表情を変えないようにした。

「叔父から聞いています」

嘘ではない。

ヴィクトルは、すべて知っている。

「ヴィクトル卿から?」

「はい。クラリス嬢は事件の後、叔父のもとで暮らしていましたから」

これも嘘ではない。


アレクサンダーは何も言わなかった。

ただ、クリスを見る。

数秒。

それだけなのに、妙に長く感じた。

「……なるほど」

やがて、それだけ言った。

追及はなかった。

クリスは心の中で、そっと息を吐いた。


「それで?」

「三年前の取引を調べました。当時も現在と似た形で、複数の商会へ資金が流れています」

アレクサンダーの視線が資料へ戻る。

「ベルクか?」

「いいえ。当時は別の仲介人です」

クリスはその名前を示した。

「この人物は、ある時期を境に記録からほとんど姿を消しています」

「死んだ?」

「確認できませんでした。破産や廃業の記録も見つかっていません」

「逃げた可能性は」

「あります」

「消された可能性は?」


クリスは顔を上げた。

アレクサンダーの表情は変わっていない。

「……それも、あります」

「証拠は?」

「ありません」

「なら、今はどちらも同じだ」

「はい」

淡々とした言葉だった。

だが、その一言でクリスの中にあった推測と事実が、きれいに切り分けられた。


「もう一つあります」

クリスは事件前後の記録を並べた。

「この時期を見てください」

アレクサンダーが僅かに身を乗り出した。

「事件前は、男爵の商会から出た資金が比較的単純な経路で流れています。ところが、この時期を境に仲介する商会と名義が増えています」

「金額は?」

「大きくは変わりません」

「取引先は」

「一部は同じです」

アレクサンダーの目が止まった。

「つまり」

「金の流れがなくなったのではありません」

クリスは言った。


「見えにくくなっています」


部屋が静かになった。

運河から聞こえる水音だけが、窓の向こうにある。

アレクサンダーはしばらく資料を見ていた。

「時期は?」

「……ソフィア嬢の事件と、ほぼ重なります」

今度は、すぐに返事がなかった。

アレクサンダーは事件の日付と取引の日付を確認した。

一枚。

もう一枚。

「……近いな」

「はい」

「近すぎる、と言いたいのか?」

クリスは一度口を閉じた。

「……そう思いました」


アレクサンダーがこちらを見る。

「思った?」

その声に責める響きはない。

だからこそ、クリスは正直に答えた。

「この件について、私は冷静ではないかもしれません」

「なぜだ」

「クラリス嬢のことを、よく知っています」

アレクサンダーの目が僅かに変わった。

「どの程度?」

クリスは言葉を選んだ。

「事件の後、彼女がどうなったかも。なぜ叔父のもとへ行ったのかも。……あの事件を、彼女がどう受け止めていたのかも」


「本人から聞いたのか?」


心臓が、一つ大きく鳴った。

ほんの一瞬。

返事が遅れた。

「……叔父からです」

アレクサンダーは何も言わなかった。

おそらく、その僅かな間にも気づいている。

けれど追及はしない。

代わりに、資料へ視線を落とした。


「クリス」

「はい」

「お前は、その男爵を疑っているのか」

「……はい」

「娘の事件に関与したと?」

「分かりません」

「クラリス・アーヴェルを陥れたと?」

「それも、分かりません」

アレクサンダーの眉が僅かに動く。

「なら、何が分かっている」


クリスは息を吸った。

「三年前にも、男爵の周囲で不自然な金が動いていたこと」

一枚目の紙を置く。

「現在と似た仲介の仕組みが使われていたこと」

二枚目。

「ある時期から、その経路が複雑になったこと」

三枚目。

「その時期が、ソフィア嬢の事件と重なること」

そこで手を止めた。


「ここまでが、確認できた事実です」


アレクサンダーは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「それでいい」

クリスは瞬いた。

「……はい?」

「お前に必要なのは、それだ」

王太子は資料を揃えた。

「疑うなとは言わない。疑わなければ調査などできない。だが、疑った相手を犯人にするために証拠を探し始めれば終わりだ」

「……はい」

「お前は、この件について冷静ではないと言ったな」

「はい」

「なら、自分で結論を出すな」

クリスは顔を上げた。

アレクサンダーは真っ直ぐこちらを見ていた。


「事実を持ってこい。判断は私がする」


静かな声だった。

命令なのに、不思議と肩の力が抜けた。

「承知しました」


アレクサンダーは再び資料へ目を落とした。

「しかし……三年前か」

小さく呟く。

「私が考えていたより、根が深いかもしれないな」

クリスも同じことを思っていた。

現在起きている何かを調べていたはずだった。

だが、その根は少なくとも三年前まで伸びている。

「殿下」

「何だ」

「もし、この金の流れが三年前から続いているのなら……何のためでしょう」

「分からない」

即答だった。

「今はまだな」

アレクサンダーは指先で、現在の取引記録を軽く叩いた。

「だから、目的から考えるな。金と物を追え」

「はい」

「人は嘘をつく。帳簿も偽れる。だが――」

一度、言葉を切る。

「大量の物を動かせば、どこかに必ず痕跡が残る」

穀物。

鉄。

革。

馬具。

クリスはその品目を見た。

何のために集めているのか。

まだ分からない。


「それから……」

アレクサンダーの声に、クリスは顔を上げた。

「クラリス・アーヴェルの件だが」

身体が僅かに強張った。

「……はい」

「当時の記録はこちらでも確認する」

「王家に残っているのですか」

「第二王子妃候補を外したんだ。何も残っていない方がおかしい」


クリスは言葉を失った。

考えたことがなかった。

自分にとっては、人生を壊した事件だった。

けれど王家にとっては、第二王子の妃候補を変更した一件でもある。

ならば自分が知らない記録が、どこかに残っているかもしれない。


「ただし」

アレクサンダーが言った。

「お前は触るな」

「……なぜですか」

「自分で言っただろう」

少しだけ目が細くなる。

「冷静ではない、と」

クリスは黙った。

「こちらで調べる。何かあれば知らせる」

「……承知しました」


話は終わった。

クリスが資料をまとめようとすると、アレクサンダーが一枚を指で押さえた。

「これは置いていけ」

「はい」

「それと、クリス」

「はい?」


王太子は何かを考えるように、しばらくクリスを見た。

「お前は妙に詳しいな」


心臓が跳ねた。

「……何がでしょう」

「クラリス・アーヴェルだ」

「先ほど申し上げた通り、叔父から――」

「分かっている」

遮る声は穏やかだった。

アレクサンダーは、それ以上追及しなかった。

ただ、どこか腑に落ちないものを見るように、クリスを眺めている。


「ヴィクトル卿が姪の事情を知っているのは分かる。王都を離れた後、クラリス嬢を預かっていたのも彼だからな」

「……はい」

「だが、お前の話を聞いていると」

そこでアレクサンダーは一度言葉を切った。

「人から聞いた話には、あまり聞こえない時がある」

クリスの背中に、冷たいものが走った。


「……あのことは、何度か聞かされましたので」

「そうか」

それだけだった。

アレクサンダーは追及しなかった。


けれど、立ち上がったクリスの背中には、薄く汗が滲んでいた。




クリスが去ったあと。

アレクサンダーは、しばらく閉じた扉を見ていた。

机には三年前の資料が残されている。

「クラリス・アーヴェル、か」

名前を口にする。

弟の妃候補の一人だった令嬢。

そして醜聞によって、その座から消えた女。


ヴィクトルから聞いたという説明に、不自然なところはない。

アーヴェル家にとって、あの一件は小さな出来事ではなかった。

まして事件の後、クラリスはヴィクトルのもとで暮らしていたという。

親戚であるクリスが事情を知っていても、おかしくはない。


それでも。

先ほど一度だけ。

クラリスの話をしたときのクリスの顔が、妙に気にかかった。

知識ではない。

あれは―― 感情だ。

まるで、自分のことを語っているような。


アレクサンダーは、そこまで考えて小さく息を吐いた。

考えすぎだろう。

クリスとクラリスが親しかったのなら、それでも説明はつく。

今は、それを調べるときではない。

クリスが何者であれ。

持ってきた数字が正しいなら、それでいい。

それに今、自分が考えなければならないことは別にある。


三年前。


消えた仲介人。

経路を変えた金。

そして現在。

ベルク。

男爵。

穀物。

鉄。

革。

馬具。


それだけではない。

北へ向かった荷。

廃されたはずの旧軍用路。

その先に残る、かつての軍事倉庫。

そして―― あの土地に、今なお強い影響力を持つ一族。


レオンの母方の家。


アレクサンダーは目を閉じた。

彼らが自分を好いていないことなど、とうに知っている。

自分が王位を継げば、これまで当然のように握ってきた権限のいくつかを失うことも。

そして彼らの一部が、弟を自分よりも王位にふさわしいと考えていることも。


古くから囁かれてきた噂がある。


王太子アレクサンダーは、本当に国王の血を引いているのか。


馬鹿げた話だ。

アレクサンダー自身は、そう思っている。

だが、王家の内側にいる者にとって馬鹿げた噂であっても、外にいる者にはそうではない。

王太子の出生を確かめる術など、彼らにはない。


ならば、真実である必要すらない。

疑わせることさえできればいい。


もし彼らが。

あの噂を、噂では終わらせるつもりがないのだとしたら。


自分を王太子の座から引きずり下ろし。

レオンを、その代わりに据えるつもりなのだとしたら。


「……三年前からか」

アレクサンダーが低く呟いた。

それならば、これは最近始まった企みではない。

もっと長い時間をかけて準備されてきたものだ。

そして、三年前に第二王子妃候補だったクラリス・アーヴェルの失脚まで、この流れのどこかに繋がっているとしたら。

偶然として片づけるには、出来すぎている。


だが、一つだけ分からない。


もし目的が、王位継承を巡る政治工作だけなら。

なぜ、これほど物を動かす必要がある?


アレクサンダーの視線が、取引記録へ落ちた。

穀物。

鉄。

革。

馬具。


金なら分かる。

人を買う。

証言を買う。

味方を増やす。

偽りを真実らしく見せるためにも、金はいくらでも必要になる。


だが、物資は違う。


何かに使うために、集めている。


アレクサンダーは指先で、馬具と書かれた一行をなぞった。

まだ足りない。

推測だけで動けば、相手にこちらが気づいたと教えることになる。

ならば。

もう少し泳がせる。


「見せてもらおうか」

アレクサンダーは静かに資料を閉じた。


「どこまで準備している」




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