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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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20/32

第二十話 三年前に消えた金と、悪役令嬢

三年前の記録を探すこと自体は、難しくなかった。

問題は、その中から何を見るかだった。

クリスは学院の資料室で、古い商業記録を一冊ずつ机へ積み上げていった。


王都で登録された商会。

大口の信用保証。

貴族家と商会との貸借。

地方へ送られた物資。

残っている記録には限りがある。

すべての取引が学院から閲覧できるわけでもない。

それでも、今の自分には一つの手がかりがあった。


ソフィアの父親。

現在の取引から見つけたその名を、今度は過去へ向かって追えばいい。


最初の数日は、何も出なかった。

正確には、出すぎた。

ソフィアの父は、商人として成功した男だ。

穀物にも関わっている。

鉄にも関わっている。

地方商会への融資もあれば、貴族家の支払いを保証した記録もある。

どれも、それだけを見れば不自然ではない。


「……これじゃ分からないな」

小さく呟いて、クリスは額を押さえた。

自分が何かを見落としているのか。

それとも、本当に何もないのか。


後者なら、それでいい。

三年前の出来事と今回の調査は無関係だった。

ソフィアの父親の名前が出てきたのも、商業網の広い男だから。

それで説明できる。

むしろ、その方が自然なのかもしれない。

そう思いながら、クリスは次の記録を開いた。


そこで、ふと手が止まった。

「……待てよ」

今まで、取引の内容ばかり見ていた。

誰が何を買ったか。

誰が金を出したか。

何がどこへ運ばれたか。

だが、王太子が言ったのは――。


『物を動かせば、必ず誰かが払う』


クリスは現在の記録を取り出した。

ノーマン・ベルク。

その周囲にある取引を、もう一度見る。

そして三年前の記録と並べた。

同じ名前を探すのではない。

同じ金の動き方を探す。


小さな商会。

複数の取引。

それぞれ別の名義。

直接の繋がりは見えない。

だが、一定額を超えるところで保証が入る。

不足した資金を誰かが立て替える。

その金が別の取引へ移る。

今と似ている。


ただし――。

「ベルクがいない」


三年前の記録には、ノーマン・ベルクの名がほとんどなかった。

代わりに、別の男の名前が繰り返し現れている。

クリスはその名を紙へ書き出した。

聞き覚えはない。

少なくとも、そう思った。


だが調べていくうちに、妙なことに気づいた。

その男は、三年前のある時期を境に、商業記録からほとんど姿を消している。

商会を畳んだ記録はない。

破産した記録もない。

死亡記録も見当たらない。

なのに、それまでいくつもの取引で保証や仲介をしていた男が、突然いなくなっている。

そして、その少し後から。

別の仲介人が同じような場所へ入り始めていた。


クリスは二つの記録を並べた。

日付を追う。

一月。

二月。

三月。

指先が紙の上を滑っていく。

そして。

止まった。


「…………」


その時期を知っていた。

忘れるはずがない。

自分がソフィアの事件を起こしたとされ、社交界で自分が悪役令嬢と呼ばれ始めた――ちょうど、その頃だった。


偶然だ。

そう思った。

一人の商人が取引から姿を消した時期と、自分の身に起きたことが重なった。

それだけだ。

それだけで、二つを結びつけることはできない。

クリスは紙から目を離した。

けれど、しばらくして。

もう一度、その男の名前を見る。


何かが引っかかる。

名前ではない。

記録の端に書かれた、所属商会。

その商会名を、どこかで――。

クリスは立ち上がった。

古い貴族名鑑ではない。

今度は、三年前の社交記録を探した。

夜会。

晩餐会。

王家主催の催し。

あの日、自分が出席していた夜会の記録。

招待客の名簿を見つける。

一人ずつ追っていく。

貴族。

その家族。

招待を受けた商会関係者。

そして。


指が止まった。


名前があった。

あの男と同じ商会に属する、若い男。

年齢も合う。

そして、その夜会に出席している。


クリスの胸が鳴った。

これだけでは、あの日ソフィアと一緒にいた男だとは断定できない。

同じ商会の別人かもしれない。

だが。

もし、同じ男なら。


三年前。

ソフィアの父親の金を仲介していた者と関係する男が。

あの日、ソフィアと二人でいたことになる。


クリスは椅子へ戻らなかった。

机に両手をついたまま、記録を見下ろした。

薄暗い回廊。

震えていたソフィア。

腕を掴んでいた男。

そして、自分を見たあの目。


――助けを求めていた。


その記憶だけは、今でも疑っていない。

では、あの二人の間に何があった?

自分はずっと、男に絡まれているソフィアを助けたのだと思っていた。

だが。

もし、あの男が父親の商売に関わる何かを知っていたとしたら。

もし、ソフィアがそれに巻き込まれていたとしたら。


分からない。

何も分からない。

だから、勝手に話を作ってはいけない。

クリスは目を閉じた。

頭の中で、事実だけを並べる。


三年前。

ソフィアの父親は、複数の商会を介して金を動かしていた。

そこには、現在ベルクが担っているものと似た仲介の形がある。

その仲介に関わっていた男は、ある時期を境に記録から姿を消した。

その男と同じ商会の若い男が、あの夜会に出席していた。

そして同じ頃。

クラリスはソフィアの事件をきっかけに、第二王子妃候補から外された。


そこまでだった。

それ以上は、推測だ。

それなのに。

胸の奥が騒いでいる。


クリスは別の記録へ手を伸ばした。

今度は、事件の前後に行われた取引を比較する。

一月前。

二月前。

事件の直前。

そして直後。


最初は分からなかった。

取引そのものは続いている。

金も動いている。

なら、何も変わっていない。

そう思いかけて――。

クリスは一枚前の記録へ戻った。

「……違う」

もう一度見る。


事件前。

ソフィアの父親の商会から出た金が、一つの仲介先を通り、複数の商会へ流れている。

事件後。

同じような額の金が動いている。

だが。

名義が違う。

保証する者が違う。

間に入る商会が、一つ増えている。


金が消えたのではない。


見えなくなったのだ。


クリスの背中を、冷たいものが走った。

偶然だろうか。

商売なら、取引相手が変わることはある。

仲介人が変わることもある。

それ自体は何の証拠にもならない。

だが。

なぜ、あの時期なのだ。


クリスは事件の日付を確認した。

そして商業記録の日付を見る。

近い。

あまりにも。


「……隠し方を変えた?」

声に出した瞬間、自分の言葉が恐ろしくなった。

誰が。

何のために。

そして――何から隠すために。


その瞬間。

まったく別の疑問が浮かんだ。


なぜ、あの噂はあれほど早く広がったのだろう?


クラリスはずっと、それを人の悪意だと思っていた。

高位貴族の令嬢。

第二王子妃候補。

気位が高いと思われていた自分。

そんな女が、身分の低い男爵令嬢を虐げた。

社交界が好みそうな話だった。

だから噂になった。

そう思っていた。


だが、本当にそれだけだったのか。

一晩で。

昨日まで存在しなかった話が、翌朝にはいくつも生まれていた。

ソフィアを虐げていた。

夜会から追い出した。

レオンに近づく令嬢を許さなかった。

自分自身ですら初めて聞く話を、なぜ大勢の人間が知っていた?


そして。

その噂によって、最も大きく変わったものは何だった?

自分の評判。

父との関係。

社交界での立場。

それだけではない。


――第二王子妃候補から外された。


クリスの呼吸が浅くなった。

待て。

そこまで考えるな。

証拠がない。

自分は今、過去の恨みに都合のいい形で事実を並べようとしているのかもしれない。

ソフィアの父親の名前を見つけたから。

あの日のことを思い出したから。

自分が傷ついた理由を、誰かの企みにしたいだけかもしれない。


それでも。

一つの考えが、どうしても消えなかった。


もし。

順番が逆だったとしたら。


クラリスが悪役令嬢だったから、第二王子妃候補から外されたのではなく。


第二王子妃候補から外す必要があったから、悪役令嬢にされたのだとしたら。


「…………」

クリスは唇を結んだ。

頭では、まだ仮説だと分かっている。

それなのに、指先が震えていた。

三年前。

自分は何度も考えた。

なぜソフィアは嘘をついたのか。

なぜ誰も自分の言葉を信じてくれなかったのか。

なぜ、存在もしなかった噂が次々と生まれたのか。

答えがないまま、最後には考えること自体をやめた。

考えても仕方がなかったからだ。


けれど今。

三年前の金の流れが、その問いをもう一度目の前へ戻してきた。

クリスは、ソフィアの名を思い浮かべた。

もし彼女も、何かを恐れていたのなら。

もし、あの証言をするよう誰かに迫られていたのなら。


――それなら仕方がない。


そう思おうとしたが、できなかった。

胸の奥に、三年前の痛みが残っていた。


怖かったのかもしれない。

何かから父親を守ろうとしたのかもしれない。

自分には分からない事情があったのかもしれない。

それでも。


私は、あなたを助けようとした。


その自分を、ソフィアは差し出した。

その事実まで消えるわけではない。

クリスは目を伏せた。

怒っているのか。

悲しいのか。

自分でも分からなかった。

ただ、もう一度確かめたいと思った。

あの日。

本当は何が起きていたのか。


そして。

それはもう、自分だけの過去ではない。

王太子が追っている現在の金の流れに、ソフィアの父親の名がある。

三年前にも似た金の動きがあり、ある時期からその経路が見えにくくなっている。

ならば、報告しなければならない。

たとえその先で、自分が知りたくなかったものを見ることになったとしても。


クリスは紙を一枚取り出した。

感情は書かない。

推測も、できる限り排する。

確認できた事実だけを記していく。

三年前の取引。

仲介人。

事件前後で変わった資金経路。

現在のベルクとの類似。

そして、ソフィアの父親の名。


最後の一行を書き終え、ペンを置いた。

王太子へ報告する。

そう決めた。

だがその前に、もう一度だけ机の上の記録を見る。

三年前には分からなかった。

何も知らなかった。

ただ、困っている少女を助けようとしただけだった。


もし、それだけで。

自分が触れてはいけないものに触れていたのだとしたら。


窓の外では、夏の夕日が学院の石壁を赤く染めていた。

クリスはしばらくその光を見つめ、それから静かに資料を閉じた。


悪役令嬢。

三年前、自分に貼られたその名が。

初めて、ただの噂ではなかったように思えた。



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