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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第十九話 忘れるはずのない名前

夏の日差しが、窓から机の上へ細長く差し込んでいた。


王都から戻って数日。

クリスの机には、何枚もの紙が広げられている。

王太子から渡された取引記録。学院で閲覧した商業資料。

そして先日の調査で書き留めてきた、ノーマン・ベルクという仲介人に関する情報。


一つ一つを見れば、どれも珍しい取引ではなかった。

穀物を扱う商会。鉄を扱う商会。革や馬具を扱う商会。

取引の時期も、相手も、金額も違う。

だが、その間にベルクの名前を置いてみると、ばらばらだった取引のいくつかが繋がった。


問題は、その先だった。


ベルクは金を出している者ではない。

商品を必要としている者でもない。

あくまで、売り手と買い手の間に立つ男だ。

ならば、誰のために動いているのか。


クリスは紙の上に書いた名前を見つめた。


『物を動かせば、必ず誰かが払う』


王太子の言葉を、もう一度思い出す。

見るべきなのはベルクではない。

ベルクを使っている者だ。

クリスは椅子を机へ引き寄せ、再び資料へ向かった。




最初に気づいたのは、一件ごとの金額だった。

ベルクが関わっている取引のすべてに、大きな金が動いているわけではない。むしろ逆で、王都の大商会が扱う取引として見れば、どれも特別目立つほどの額ではなかった。

だが、同じ時期のものを拾い出し、並べてみる。

クリスは紙の端へ数字を書いた。


穀物。

鉄。

革。

馬具。


それぞれの取引額を足し、別の商会を経由したものも加えていくうちに、クリスの手が止まった。

「……大きいな」

一件なら目につかない。

けれど、まとめれば決して小さな額ではない。

しかも、購入されている品には共通するところがある。

保存の利く穀物。鉄。革。馬具。

とはいえ、これだけでは何も言えない。

穀物は人が食べる。鉄は道具になる。革も馬具も王国中で日常的に取引されている。

必要とする者はいくらでもいる。

だからこそ、もし何かを隠すつもりなら――。


そこまで考えて、クリスは首を振った。

「……違う」


隠していると決めつけてはいけない。

証拠はない。


――疑うことと、罪があることは別だ。


王太子がレオンについて言った言葉だった。

けれど、調査する者が忘れてはいけないことでもある。

自分が一度疑い始めれば、すべてが怪しく見える。

それでは駄目だ。


クリスは息を吐き、もう一度資料へ目を落とした。

ベルクが仲介した取引。その買い手。保証人。支払い元。

一つずつ遡っていく。

学院にある資料だけでは分からないものも多い。

だが、商会同士の取引には痕跡が残る。

誰が保証したのか。

誰の信用で掛け取引が成立したのか。

誰が不足分を立て替えたのか。


先日、リネル商会で確認した保証書の控えと照らし合わせているうちに、一つの商会の名が繰り返し現れ始めた。

最初は特に気にも留めなかった。

王都には無数の商会がある。知らない名などいくらでもある。

ところが、別の取引にも同じ名がある。

さらに、もう一件。

「……ここにも?」


クリスは椅子の背にもたれ、改めて三件の記録を見比べた。

同じ商会が複数の取引へ関わること自体は、不自然ではない。

問題は、扱っている品が違いすぎることだった。

穀物を扱う商会にも。

鉄を扱う商会にも。

革や馬具を扱う商会にも。

直接商品を売っているわけではなく、保証や立替という形で関わっている。


何を売っているかではない。

金を動かしている。


クリスは立ち上がり、資料棚から古い商業年鑑を取り出した。

目当ての商会名を探し、その沿革を読む。


十数年前に急速に規模を拡大。

王都だけでなく、複数の地方都市に取引先を持つ。

創業者は商人。

王家への多額の献納と、戦時の物資調達への功績によって爵位を与えられた。


男爵。


そこまで読んだところで、何かが引っかかった。

「……男爵?」


もう一度、商会名を見る。

知らないと思っていた。

だが。

どこかで聞いたことがあるような気がする。


クリスは年鑑のページをめくった。

創業者。

現在の代表者。

そして、その横に記された家名を見た瞬間。


呼吸が止まった。


一瞬、文字が読めなくなった。

いや。

読めないのではない。

知っている。

知っているからこそ、頭がそれを認めるまでに時間がかかった。


クリスはゆっくりと、その家名を指でなぞった。

「……まさか」


胸の奥へ、冷たいものが沈んでいく。


同じ家名など、いくらでもある。

そう思おうとした。

だが、男爵家であること。

商人から爵位を得た家であること。

王都に大きな商業網を持っていること。

覚えている限りの条件が重なっている。


記憶だけで決めてはいけない。


クリスは立ち上がると、今度は貴族名鑑を引き出した。

手が、いつもより少しだけ速かった。

男爵家の項目を探し、同じ家名を見つける。

領地。

爵位を得た年代。

当主の経歴。

商業年鑑の記載と一致している。


それでも、まだ。


クリスは家族欄へ目を走らせた。

妻。

長男。

そして――娘。


ソフィア。


その名前を見た瞬間。

クリスは動けなくなった。


間違いではなかった。


三年前。

自分の人生を変えた少女。


ソフィア・アンジュー。


その父親。

オスカー・アンジュー男爵の名が。

今、王太子から命じられて追っている金の流れの中にある。




記憶は、呼び戻そうとしなくても蘇った。


三年前。

薄暗い回廊の向こうから聞こえた、小さな声。


――やめてください。


確かに、そう聞こえた。

だから行った。


そこで見たのは、若い男に腕を掴まれ、壁際へ追い詰められていたソフィアだった。

いつもは明るい少女の顔は真っ青で、細い肩が震えていた。

そしてクラリスを見つけた時。

ソフィアは確かに、助けを求めるような目をした。


あの時。

二人が何を話していたのか、クラリスは知らない。

男がなぜソフィアの腕を掴んでいたのかも。

ソフィアが何を恐れていたのかも。


ただ。

助けなければと思った。

だから間に入った。

それだけだった。


けれど、その後。

話は、まるで違うものになった。


男は、誤解だと言った。

ソフィアも、男には何もされていないと言った。

それどころか。

怪我をしたのはクラリスに突き飛ばされたからだと証言した。


どうして。


何度考えても分からなかった。


あんなに怯えていたではないか。

助けを求めるように、自分を見たではないか。


それなのに。

なぜ、あの子は嘘をついたのか。


その結果、クラリスは第二王子妃候補から外された。

社交界では悪意ある噂が広がり、父には家名を汚したと責められた。

そして、三十二歳の、二人の子を持つ侯爵との婚姻を決められかけた。


あの日々がなければ。

自分は男の姿になどならなかった。

クリスという人間も、生まれなかった。

学院へ来ることも。

レオンと机を並べることも。

エリオットと出会うこともなかった。


そこまで考えて。

クリスは目を閉じた。


違う。


今、考えるべきことはそれではない。


感情と調査を混ぜるな。


ゆっくり息を吐き、もう一度机の上の資料へ目を落とした。


ソフィア・アンジュー。

その父親。

オスカー・アンジュー男爵。


三年前、ソフィアは見知らぬ男に追い詰められていた。

理由は分からない。


そして今。

その父親の商会が、ベルクを介した複数の取引で、保証や資金の立替に関わっている。

穀物。

鉄。

革。

馬具。


王太子が不審に思った物資の流れと重なる。


クリスは資料へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。


偶然。

もちろん、その可能性はある。


オスカー・アンジューは、商人として成功し、広い取引網を持つ男だ。

様々な商会の保証を引き受け、資金を融通していたとしても、それだけで不正とは言えない。


それに。

三年前にソフィアが男に追い詰められていたことと、今ここに父親の名が出てきたこと。

その二つを繋ぐものは、今のところ何もない。


けれど。

どうしても頭から離れないことがあった。


あの日。

ソフィアは、何をあんなに恐れていたのだろう。


なぜ。

助けに入ったクラリスを見捨てるような嘘をついたのだろう。


そして三年後の今。

なぜ、自分が追っている金の流れの中に。

彼女の父親の名があるのだろう。


偶然だと切り捨てるには。

あまりにも気になった。


クリスは椅子へ座り直し、机の端に積んでいた古い記録へ手を伸ばした。

今調べているのは、現在の取引だ。

だが。

もし本当に何かが繋がっているのなら。

現在だけを見ていてはいけない。


三年前。


あの事件が起きた頃。

アンジュー商会は、何をしていたのか。


クリスは三年前の商業記録を開き、一枚ずつ確かめていった。

取引先。

金額。

保証。

資金の移動。

現在の記録と同じように、何か残っているものがないか探していく。


自分でも気づかないうちに、紙を押さえる指先へ力が入っていた。


窓の外では、夏の日が傾き始めていた。

学院のどこかから、学生たちの笑い声が聞こえる。

いつもと変わらない午後だった。


けれどクリスには。

三年前に閉じたはずの扉が。

もう一度、目の前で開いたように思えた。


悪役令嬢。


あの呼び名を背負わされた日から。

ずっと遠くへ来たつもりだった。


髪を切った。

男の服を着た。

クリスという名で学院へ入り。

自分で選んだ道を歩き始めた。


それなのに。

王太子から命じられた、まったく別のはずの調査を進めていた先で。

再び。

あの日の少女の名前に辿り着いた。


もしかすると自分は今。

回り回って。

あの日の真相へ戻ろうとしているのかもしれない。


クリスは机の上に開いた貴族名鑑へ、もう一度目を落とした。


アンジュー。


その家名の下に記された少女の名を見つめる。


忘れるはずがなかった。


自分の人生を変えた少女。


ソフィア・アンジューの名前を。




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