第十八話 好きなだけ触っていいよ エリオット
王太子へ最初の報告をしてから、ひと月あまりが過ぎた。
王都にも本格的な夏が訪れようとしていた。
朝から石造りの校舎には強い陽が差し込み、開け放した窓から入ってくる風にも、もう春の名残はない。昼になれば中庭の石畳が白く照り返し、講義を終えた学生たちは日陰を選んで歩くようになった。
そのひと月、クリスは王太子に言われた通り、荷ではなく金を追っていた。
――物を動かせば、必ず誰かが払う。
あの日の言葉を頭に置きながら、学院で閲覧できる商業記録や過去の取引資料を片端から照合した。
穀物。鉄。革。馬具。
扱う商会も違えば、買い手も違う。
一つ一つを見れば、王都で日々行われているありふれた取引にしか見えない。
だが、保証人や仲介人の名前まで拾っていくと、妙な重なりがあった。
――ノーマン・ベルク。
大商人ではない。貴族でもない。
どこか一つの商会に所属しているわけでもなく、いくつもの商会の間に入り、売り手と買い手を繋いだり、信用を保証したりする男らしい。
それ以上は、学院の資料では分からなかった。
ならば、王都で確かめるしかない。
休暇日の朝。
必要なものを鞄へ詰めて寮を出たクリスは、玄関先で足を止めた。
柱にもたれたエリオットがいた。
「おはよう」
待ち合わせでもしていたように、片手を上げる。
「……何してるんだ、エリオット」
「待ってた」
「誰を」
「お前」
あまりにも当然の顔で言われ、クリスは眉を寄せた。
「俺、今日出かけるってお前に言ったか?」
「言ってない」
「じゃあ何でいるんだよ」
「今日あたり行くと思ったから」
「……怖いな、お前」
エリオットが笑った。
軽装ではあるが、腰には剣がある。
どう見ても最初から王都まで同行するつもりの格好だった。
「俺、一緒に来てくれとも言ってないぞ」
「うん」
「何するかも話せない」
「それも知ってる」
「じゃあ――」
「クリス」
エリオットは柱から背を離すと、クリスの前まで来た。
「俺、聞かないって言っただろ」
軽い声だった。
けれど、それは以前から一度も変わらない。
話せないなら、話さなくていい。
その代わり、一人で危ないところへ行くな。
エリオットはそういう男だった。
王太子の言葉が脳裏をよぎる。
エリオットへ調査を頼んではならない。何も知らせてもならない。
けれど、本人が勝手について来るのなら止める必要はない、と。
「……勝手について来たんだからな」
「うん」
「俺は頼んでない」
「うん」
「何があっても知らないぞ」
「それは困る。何かあったら助けて」
「どっちが護衛なんだよ」
「じゃあ俺がお前を助ける」
そう言って、エリオットは笑った。
「行こうぜ」
クリスはため息をつきながら歩き出した。
隣には、当然のようにエリオットが並んだ。
*
ノーマン・ベルクという男の痕跡は、思ったより早く見つかった。
王都の商業区でいくつかの商会を回り、卒業課題の資料集めだと説明して話を聞いていく。
三軒目だった。
「ああ、ベルクさんか。うちも何度か世話になってるよ」
店主は何でもないことのように答えた。
「どちらの商会の方なんです?」
「どこにも属してないよ。仲介専門だ。売り手と買い手を繋いだり、保証人になったりな」
「普段はどちらに?」
「さあな。決まった店は持ってないはずだが……」
男は少し考えてから言った。
「南のリネル商会でよく見るな」
クリスの指が止まった。
リネル商会。
王太子と会った場所だった。
偶然なのか。
それとも――。
礼を言って店を出ると、クリスはすぐに手帳を開いた。
その横でエリオットは何も言わなかった。
何を書いているのか覗き込みもしない。ただ、クリスが書き終えるまで通りを眺めながら待っている。
「……行く?」
顔を上げたクリスに、それだけを聞いた。
「うん」
「どっち?」
「南」
「分かった」
それ以上は聞かない。
何も知らないくせに。
いや。
何も知らないからこそ、こうして隣にいられるのかもしれない。
少し前に降った通り雨のせいで、石畳はまだ濡れていた。
夏の雨らしく、激しく降ったかと思えばすぐに止み、今は雲の切れ間から薄く陽まで差している。
けれど道の端にはあちこちに水が溜まり、荷車が通るたび、車輪が濡れた音を立てていた。
「また降りそうだな」
エリオットが空を見上げた。
「さっきので終わりじゃないのか?」
「どうだろうな。あっち、まだ黒いぞ」
言われて見れば、王都の向こうには濃い灰色の雲が残っている。
「リネル商会まで降らないでくれればいいけど」
「走る?」
「嫌だよ。暑い」
そんなことを話しながら、二人は商業区の通りを南へ歩いていた。
前から一台の荷車が近づいてくる。
珍しいものでもない。クリスはエリオットと並んだまま、少し道の端へ寄った。
向こうもそのまま通り過ぎるはずだった。
ところが、さらにその向こうから来た別の荷車と擦れ違う直前、御者が手綱を引いた。
馬が大きくこちらへ寄る。
「危な――」
クリスが身を引くより早く、エリオットの手が腕を掴んだ。
「クリス!」
強く引き寄せられる。
胸へぶつかったと思った次の瞬間には、身体の位置が入れ替わっていた。
エリオットがクリスを建物側へ押し込むように庇い、自分が車道側へ出る。
その脇を、荷車がすれすれに通り抜けた。
車輪が路肩の深い水溜まりを踏んだ。
ばしゃり、と大きな音がした。
「うわっ!」
跳ね上がった泥水を、エリオットが肩からまともに浴びる。
それでもクリスを庇ったまま一歩下がったところで、荷車の側面から張り出していた木枠の端が、エリオットの脇腹を掠めるようにぶつかった。
「っ……」
短く息を詰める音がした。
「エリオット!」
荷車は少し先で速度を落とし、御者が振り返って何か叫んでいる。
「平気、平気」
エリオットは片手を上げて応えた。
「今、ぶつかっただろ」
「ちょっと当たっただけ」
クリスは眉を寄せてエリオットを見る。
髪から水滴が落ちていた。
シャツは片側の肩から胸、背中にかけて泥水を吸い、肌へべったりと張りついている。
対してクリスは、頬と首筋、それに庇われる直前に出ていた腕へ、泥水が少し跳ねた程度だった。
「お前……びしょ濡れじゃないか」
「お前は?」
「俺は……これくらい」
頬についた水滴を指で拭う。
エリオットはそれを見て、満足そうに笑った。
「じゃあ成功」
「何が成功なんだよ」
「俺が庇わなかったら、お前がこうなってただろ?」
「だからって――」
「なら俺でよかった」
あっさり言って歩き出そうとする。
クリスはその腕を掴んだ。
「待て。怪我してないか見る」
「大丈夫だって」
「お前の大丈夫は信用しない」
幸い、リネル商会まではそう遠くなかった。
*
事情を話すと、商会の者はすぐに裏手の小さな空き部屋を貸してくれた。
水の入った桶と一緒に、清潔なタオルを二枚ほど持ってきてくれる。
「泥で汚れてしまうでしょうから、タオルは返していただかなくて結構ですよ」
「すみません。助かります」
クリスが礼を言うと、商会の者は「着替えも何か探してみます」と言い残して部屋を出ていった。
扉が閉め、改めてエリオットを見ると、やはりひどい有様だった。
濡れた髪からはまだ雫が落ち、泥水を吸ったシャツは肩から胸、背中にかけて肌へ張りついている。
クリスは眉を寄せた。
「シャツ脱げよ」
「え?」
「そんなの着てたら気持ち悪いだろ。怪我も見たいし」
「クリスが脱がせてくれる?」
「何で俺が脱がせるんだよ」
「ああ、指が滑るなあ~」
エリオットが胸元のボタンへ指をかけ、わざとらしく滑らせた。
「ほら。濡れてるから」
「絶対できるだろ」
「難しい」
「剣は扱えるのに?」
「剣とボタンは違う」
「さっきまで普通に留めてただろ」
「お願い~」
悪びれもせず笑っている。
クリスは呆れて息を吐いた。
「……じっとしてろよ」
「はい」
クリスはエリオットの正面へ立ち、濡れたシャツのボタンへ指をかけた。
思ったより近かった。
一つ外す。
二つ目。
三つ目。
指を動かすたび、開いたシャツの隙間からすこし日に焼けた肌が少しずつ見えてくる。
妙に静かなことに気づいて、クリスは顔を上げた。
エリオットが自分を見ていた。
「……何だよ」
「いや」
「さっきから見てるだろ」
「近いなと思って」
「お前が脱がせろって言ったんだろ」
「うん」
エリオットは視線を逸らさないまま笑った。
「頼んでよかった」
「変な奴」
クリスはまた顔を伏せた。
最後のボタンを外す。
濡れた布を肩から抜いた瞬間、鍛えられた上半身が露わになった。
そして――クリスの表情が変わった。
「……エリオット」
「ん?」
「お前、やっぱり怪我してるじゃないか」
脇腹には、すでに赤黒い痕が浮かび始めていた。その少し上は擦れて、わずかに血が滲んでいる。
「ああ。本当だ」
「本当だ、じゃない!」
「これくらい――」
「座れ」
「はい」
今度は素直に従った。
クリスは水で清潔な布を濡らし、まず傷の周囲についた汚れを落とした。
「痛かったら言えよ」
「うん」
「ここは?」
傷を避け、脇腹をそっと押す。
「……ちょっと」
「やっぱり痛いんじゃないか」
「クリスがそんな顔するほどじゃないよ」
「どんな顔だよ」
「心配してる顔」
クリスは返事をせず、傷へ視線を戻した。
血を拭い、持っていた清潔なハンカチを当てる。
深くはない。
骨にも問題はなさそうだった。
ほっとしてから、今度は身体についた泥へ目をやった。
「背中もひどいな。拭くぞ」
クリスはもう一枚のタオルを水に浸し、まず自分の頬についた泥を拭った。
首筋、それから腕。
自分についた汚れはその程度だった。
軽く洗って絞り直し、今度はエリオットの肩へ手を伸ばした。
「……それ」
「何?」
「今、お前が使ったやつだよな」
「そうだけど。嫌ならもう一枚――」
「嫌じゃない」
返事が妙に早かった。
「それでいい」
「……そう?」
「ああ」
クリスは気にせず、泥のついた肩を拭き始めた。
エリオットは黙っていた。
布が肩から胸へ下りる。
クリスが自分の首を拭ったばかりの布。
そんなものに意味を感じる自分が馬鹿らしい。
分かっている。
それでも、クリスの手でその布が裸の肌を滑るたび、意識せずにはいられなかった。
目の前には、伏せられた睫毛がある。
濡れた前髪。
自分の身体を拭いている、細く形のいい指。
近い。
触れようと思えば、簡単に触れられる。
だが、エリオットは手を出さなかった。
クリスが何の警戒もなくこうして近くにいるのは、自分を信じているからだ。
その信頼だけは、壊したくない。
「……すごいな」
不意にクリスが呟いた。
「何が?」
「いや……」
布を持つ手が止まっている。
視線は、エリオットの腹に落ちていた。
クリスはエリオットが服を着ていても、身体つきがいいことくらい知っていた。
けれど、こんなに近くで裸の身体を見ることはなかった。
訓練で鍛えた肩。
厚い胸。
引き締まった腹には、筋肉の境目がはっきり浮かんでいる。
自分とはまるで違う。
強さが、そのまま形になったような身体だった。
綺麗だ、とクリスは思った。
「筋肉?」
エリオットが聞く。
「うん」
クリスは素直に頷いた。
「こんなにはっきりつくものなんだな」
傷から離れたところへ、試しに指を置いた。
軽く押す。
「硬っ」
エリオットが笑った。
「そりゃそうだろ」
「力入れてる?」
「入れてないよ」
「嘘だ」
「本当」
もう一度押してみる。
やはり硬い。
その感触が面白くて、クリスは今度は指先を腹筋の境目へ移した。
そして――形を確かめるようにその筋を上から下へ、つうっとなぞった。
エリオットが息を呑んだ。
腹が反射的に強張る。
「ほら」
クリスが笑う。
「今、力入れただろ」
「……入った」
「やっぱり」
「いや、それは……」
言いかけて、エリオットは口を閉じた。
クリスは気づいていない。
自分が今、どんな触れ方をしたのか。
ただ筋肉が珍しくて、夢中になっているだけだ。
分かっている。
分かっているからこそ、余計に困る。
細い指が、もう一度腹へ触れた。
今度は横へ。
筋肉の輪郭を確かめるように、ゆっくりと辿っていく。
エリオットの喉が動いた。
いつものように、笑わなければ。
そう思うのに、クリスの指が肌を滑るたび、呼吸が少しずつ浅くなる。
「……クリス」
「ん?」
「腹だけ?」
「え?」
言ってから、自分でも何を言っているのだと思った。
もう十分だ。
むしろ、ここで終わらせた方がいい。
でも、こんな機会は、もう二度とないかもしれない。
そう思ったら、やめろとは言えなかった。
「胸も結構鍛えてるよ」
クリスが笑った。
「自分で言うのか?」
「本当だって」
エリオットはクリスの手を取った。
細い手首だった。
そのまま自分の胸へ導く。
「ここ。触ってみろよ」
掌が裸の胸板へ触れた。
今度はクリスの方が、ほんの一瞬息を止めた。
腹とは違う。
掌いっぱいに伝わる厚みと熱。
なぜだろう。
急に、触れている相手が「男」なのだということを意識した。
けれど、ここで手を引く方がおかしい。
自分はクリスだ。
エリオットにとっては男友達なのだ。
ここで妙に照れたりすれば、それこそ変に思われる。
「……じゃあ、遠慮なく」
平然とした声を作って、胸板を押した。
「うわ。本当に硬い」
「だろ?」
エリオットが少し得意げに胸へ力を入れる。
掌の下で筋肉が動いた。
クリスの目が丸くなる。
「今、動いた」
「動かせるよ」
「もう一回」
「いいよ」
もう一度。
「すごいな……!」
クリスが楽しそうに笑う。
その顔を見た瞬間、エリオットは自分が何をしているのか忘れそうになった。
好きな相手が、自分の裸の胸へ手を置いている。
しかも、嬉しそうに。
クリスは胸の厚みを確かめるように掌を動かした。
下から筋肉へ指を添え、輪郭に沿ってゆっくり滑らせる。
エリオットの笑みが消えた。
クリスの手しか見えない。
細く白い指が、自分の肌の上を這っていく。
触れられる場所が変わるたび、そこへ意識が集まった。
「……クリス」
「何?」
顔を上げたクリスと目が合う。
近い。
エリオットは何も言わなかった。
「エリオット、さっきから変だぞ」
「……そう?」
「うん」
「お前のせいじゃない?」
「俺?」
「いや。何でもない」
笑ってみせる。
けれど、クリスはほんの少し首を傾げた。
エリオットのいつもの笑顔なのに。
目だけが違う。
熱を持ったような、ひどく静かな目で見られている。
その意味を考えかけて、クリスはやめた。
代わりに、もう一度胸へ視線を落とす。
その方が楽だった。
「綺麗だな」
ぽつりと漏れた。
今度こそエリオットが固まった。
「……何て?」
「身体。綺麗だなって」
「格好いい、じゃなく?」
「格好いいし、綺麗だよ」
クリスは少し照れくさくなった。
だが、今さら言葉を引っ込める方が妙だ。
「鍛えた身体って、こんなに綺麗なんだな。俺は筋肉つきにくいから、こういうの憧れるよ」
「……そっちか」
「何だと思ったんだよ」
「別に」
そう答えた声は、少し掠れていた。
クリスは気づかなかったふりをした。
自分の頬も、少し熱かったからだ。
「腕も触る?」
エリオットが言った。
「いいの?」
「いいよ」
本当は、一度終わらせるべきだと思った。
けれど、クリスが自分を見ている。
触れている。
それを終わらせるなんて、できるわけがなかった。
「胸でも腕でも、背中でも」
エリオットは笑った。
「好きなところ、全部触っていいよ」
「お前、今日は随分サービスいいな」
「滅多にないから」
「何が?」
「……俺がこんなに筋肉自慢する機会」
「何だよ、それ」
危なかった。
エリオットは笑って誤魔化した。
クリスは曲げられた腕を掴んだ。
「これもすごいな」
上腕を押し、肩まで指を滑らせる。
エリオットはもう、「もっと触っていい」と言う必要すらなかった。
クリスは本当に遠慮をしなくなっていた。
肩を確かめ、胸へ戻り、また腹へ触れる。
筋肉の境目を指先で辿る。
それがどれほど自分に効いているのか、クリスは知らない。
知らないままでいい。
今だけは。
エリオットは膝の上で自分の手を握った。
クリスへ触れないために。
ただ、見ていた。
自分の身体に触れる手を。
その手の持ち主を。
もう、ほかのものはほとんど目に入らなかった。
「背中も見る?」
「いいの?」
「もちろん」
背を向ける。
クリスは残った泥を拭くため、肩へ布を当てた。
「広いな……」
肩甲骨の周りを拭きながら、空いた手で筋肉を確かめる。
指が肩から背中へ滑った。
エリオットは目を閉じた。
以前、クリスを背負ったことがある。
あのとき背中にあった温かさを、今でも覚えている。
そして今、そのクリスが自分の背中を触っている。
「この背中で、俺のこと背負ってたんだな」
「……覚えてた?」
「当たり前だろ」
「俺はもっと覚えてるよ」
「何を?」
「いろいろ」
「何だよ、それ」
「秘密」
クリスの笑い声が、すぐ後ろから聞こえる。
エリオットは小さく息を吐いた。
本当に、天国なのか地獄なのか分からない。
やがて、背中から手が離れた。
終わる。
そう思った瞬間、エリオットは振り返っていた。
「クリス」
「何?」
「首も」
「……首?」
「首も筋肉で太いんだぜ」
クリスが吹き出した。
「そんなところまで自慢する奴、初めて見た」
「触ってみろよ」
「まだ触らせたいのか?」
図星だった。
「せっかくだから」
「何がせっかくなんだよ」
そう言いながら、クリスは手を伸ばしてくれた。
エリオットが少し顎を上げる。
細い指が、首の横へ触れた。
「本当だ。太いな」
首筋をなぞる。
「俺と全然違う」
指先が、耳の下から首筋へ。
そして肩との境まで、ゆっくり下りていく。
エリオットは息を止めた。
「……クリス」
「何?」
「もう一回」
「何で?」
「今のところ」
「お前、だんだん筋肉関係なくなってない?」
「いいから」
クリスは呆れたように笑いながら、もう一度指を滑らせた。
同じところを。
ゆっくりと。
エリオットは今度こそ目を閉じた。
「……そんなに気持ちいいのか?」
「……まあ」
「マッサージみたいな?」
「そういうことにしといて」
「変な奴」
クリスは笑っている。
エリオットも笑いたかった。
けれど、もう余裕がなかった。
それでも、やめてほしいとは一度も思わなかった。
そしてクリスの方にも、少しずつ変化が起きていた。
最初はただ珍しかった。
自分にはない筋肉が面白かった。
けれど、触れば触るほど、それだけではなくなっていく。
日に焼けた肌は温かい。
広い肩も、厚い胸も、腹に刻まれた筋も、自分とはまるで違う。
男の身体。
その言葉が、何度も頭に浮かぶ。
エリオットは男なのだ。
そんなことは最初から知っている。
なのに今さら、その当たり前のことが妙に胸へ引っかかった。
それでもクリスは手を引かなかった。
男同士なのだから。
そう思っていればいい。
少なくとも今は。
「脚も結構すごいよ」
「まだあるのか」
ようやくいつもの調子を取り戻したエリオットが、自分の腿を軽く叩いた。
「騎士は脚が大事だからな」
「それは分かる」
「下も脱ごうか?」
「いや、いい」
あまりにも早い返事だった。
一拍置いて、エリオットが声を上げて笑った。
「即答?」
「当たり前だろ! 何でそこまで脱ぐんだよ」
「ちゃんと見たいかと思って」
「服の上からで十分だ!」
「胸はよくて?」
「胸と脚は違うだろ」
「何が?」
「……何となくだよ!」
また笑われた。
その笑い方が妙に楽しそうで、クリスは少し腹が立った。
「じゃあ服の上から?」
「それならまあ……」
クリスはズボンの上から腿へ掌を置いた。
一度だけ、ぐっと押す。
「硬っ」
「だろ?」
「本当に全身鍛えてるんだな」
「満足した?」
「うん。十分堪能した」
言った瞬間。
しまった、と思った。
エリオットの笑みが変わった。
「……堪能した?」
「あ」
「俺の身体、堪能したんだ?」
「筋肉をだよ!」
「同じだろ」
「違う!」
「へえ」
「その顔やめろ!」
クリスは慌てて手を離した。
エリオットはまだ笑っている。
「じゃあ、また触りたくなったら言って」
「誰が言うか」
「いつでも脱ぐよ」
「脱ぐな!」
「遠慮しなくていいのに」
「してない!」
「じゃあ、また堪能して」
「その言葉拾うな!」
エリオットが腹を抱えて笑った。
クリスは顔が熱い。
笑われたせいだ。
きっと。
そういうことにしておいた。
クリスは使った布をまとめた。
「これ、もう汚れたし、このまま置いていくか」
「待って」
エリオットが手を伸ばした。
「それ、俺にちょうだい」
「これ?」
「うん」
「返さなくていいって言ってたけど……持って帰るのか?」
「うん」
「何で?」
「今日の記念」
「泥水かぶった記念?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
エリオットはタオルを受け取ると、妙に大事そうに畳んだ。
「秘密」
「……気持ち悪いから捨てろよ」
「絶対捨てない」
「本当に何なんだよ、お前」
エリオットは答えなかった。
ただ、布を丁寧に畳んだ。
商会の者から借りた乾いたシャツを着て、ボタンを留めていく。
クリスは何気なくそれを見ていた。
胸が隠れる。
腹も隠れていく。
最後のボタンが留まる直前、ほんの少しだけ名残惜しいと思った。
その瞬間。
「何?」
エリオットがこちらを見た。
「……別に」
「もっと見たかった?」
「違う」
「また脱ごうか?」
「脱ぐな!」
エリオットの笑い声が部屋に響いた。
けれどクリスは、今度は少しだけ本気で目を逸らした。
*
ベルク本人には会えなかった。
だが、その日の調査は無駄ではなかった。
リネル商会では、ベルク宛ての書類を預かることがあるという。
さらに保証書の控えを確認すると、学院で拾った名前とも一致した。
穀物。
鉄。
革。
馬具。
品も、商会も、買い手も違う。
なのに、いくつもの取引を同じ男が繋いでいる。
偶然ではない。
ベルクは末端ではない。
だが、おそらく頂点でもない。
その男を通して金を動かしている、さらに上の誰かがいる。
荷を追っていたときには見えなかった線が、ようやく一本、姿を現し始めていた。
クリスは手帳を閉じた。
「終わった?」
隣でエリオットが聞く。
「うん」
「じゃあ帰ろう」
「……本当に何も聞かないんだな」
エリオットは少しだけクリスを見た。
「話せるようになった?」
「……まだ」
「じゃあ聞かない」
それだけだった。
外へ出ると、雨はすでに上がっていた。
濡れた石畳に夏の日差しが反射している。
並んで歩き始めてから、クリスはふと隣を見た。
借り物のシャツの下に、さっきまで自分が触っていた身体がある。
そう思った途端、妙に意識してしまい、慌てて前を向いた。
「……ありがとな」
「何が?」
「さっき。庇ってくれただろ」
「ああ」
「お前がいなかったら、俺がびしょ濡れで怪我してた」
エリオットは少しだけ笑った。
「じゃあ、俺でよかった」
「よくないだろ」
「いいんだよ」
「怪我したんだぞ」
「でも、お前は怪我してない」
あまりにも自然に言う。
クリスは何も返せなかった。
広い肩。
硬い胸。
腹に刻まれた筋。
自分の指の下にあった温かさ。
あの身体が、考えるより先に自分を庇った。
そう思うと、さっきとは違うところで胸が騒いだ。
「エリオット」
「ん?」
「……何でもない」
「何だよ、それ」
エリオットが笑う。
クリスも笑った。
けれど、隣を歩く男の身体を、もう昨日までとまったく同じようには見られなかった。
一方でエリオットは、平然と歩いているように見えて、今日のことを忘れられる気がまるでしなかった。
腹をなぞった指。
胸へ置かれた掌。
首筋を滑った指先。
そして――
『格好いいし、綺麗だよ』
思い出しただけで、また息を吐きたくなる。
自分から触らせた。
もっと、とまで言った。
途中でやめるべきだったのかもしれない。
けれど、もし同じことがもう一度起きたなら。
きっとまた、同じことを言う。
――好きなだけ触っていいよ、と。
そしてポケットには、クリスが使った布が入っていた。
エリオットはそれを確かめるように、服の上からそっと押さえた。
今夜は、たぶん。
なかなか眠れそうになかった。




