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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第十七話 兄だからこそ

アレクからの連絡が届いたのは、それから数日後のことだった。

学院の受付に、クリス宛ての小さな封書が預けられていた。

差出人の名はない。

中に入っていた紙には、日時と場所だけが記されていた。

次の休暇日。午後二時。王都南区、リュネル商会二階。

それだけだった。

王家の紋章も、署名もない。


クリスは一度目を通し、もう一度、今度はゆっくりと読み返した。

最初に王宮へ呼ばれたとき、アレクは言っていた。

今後の連絡はこちらからする。街で会うこともあれば、自分の人間を寄越すこともある、と。

おそらく、その最初の報告を求められている。


そう思うと、わずかに緊張した。

王太子から密かに命じられた調査である。

しかも、あれからまだ一度も報告していない。

何をどこまで伝えるべきか。

どの情報が事実で、どこからが自分の推測なのか。


その日の夜、クリスは手元の記録を改めて整理した。

帳簿上は西へ向かうはずだった荷が、実際には北へ運ばれていたこと。

その先に、現在は使われていない古い軍用道路があること。

さらに、その道をたどった先には、かつて大規模な補給所として使われていた施設が残っていること。

そして――その土地が、かつて王妃の実家によって管理されていたこと。


最後の一点を書き留めたところで、クリスの手が止まった。

これを教えてくれたのはレオンだ。

アレクからは、レオンにも話すなと言われている。

事情は何一つ話していない。

それでも、報告したときにどう受け取られるかは分からなかった。


クリスはしばらく紙を見つめ、それも含めて報告書を畳んだ。


――隠すべきではない。


判断するのは自分ではなく、アレクだ。




休暇日の朝、クリスは学院を出た。

王都へ行く理由は、ちゃんと別にあった。

少し前、ヴィクトルから手紙が届いていたのだ。

領地では手に入りにくい実務書があるので、王都へ出る機会があれば買っておいてほしいという。

土地の測量と農地管理について、新しく刊行された専門書だった。


王都へ着くと、クリスはまず中央広場の書店へ向かった。

ここは、アレクから緊急時の連絡先として指定されている店でもある。

だが今日は、ただの客として入る。

目当ての本は専門書の棚ですぐに見つかった。

厚い革表紙の一冊を買い、紙で包んでもらう。

それを抱えて店を出れば、どこから見ても王都まで本を買いに来た学院生だ。


クリスは人通りの多い大通りを抜け、指定された南区へ向かった。

リュネル商会は、布地や香料、書類用紙などを扱う大きな商会だった。

荷を運び込む者、商談に訪れる商人、貴族家の使いらしい者まで、ひっきりなしに人が出入りしている。

ここなら学院生が一人入っても目立たない。


店員に封書に記されていた名を告げると、何も聞かず二階へ案内された。

廊下の一番奥で、店員が扉を開ける。

「どうぞ」

クリスは小さく息を吸ってから、中へ入った。

窓際に男が立っていた。

「来たか」

アレクだった。


クリスは一瞬、足を止めた。

使いの者が来る可能性もあると思っていた。

王太子本人と会うのは、これが二度目だ。

「お呼びにより参りました」

一礼する。

「堅いな」

アレクが言った。

「座れ。ここには私とお前しかいない」

「はい」


そう言われても、簡単に肩の力が抜けるものではなかった。

アレクは、初めて会ったときと同じだった。

声を荒らげることはない。

尊大な態度を取るわけでもない。

むしろ話し方だけなら、王族としては気さくな方なのだろう。

それでも、その人が次の王になるために育てられてきた人間なのだということは、向かい合えば嫌でも分かる。

何もしていないのに、こちらの言葉を選ばせるような静かな圧がある。


レオンとは違う。

レオンは時折、王子であることを忘れさせる。

アレクは、どれほど穏やかに話していても、王太子であることを忘れさせてはくれない。


クリスは勧められた椅子へ腰を下ろした。

「それで」

アレクも向かいへ座る。

「何か見つけたそうだな」

「はい」

クリスは鞄から数枚の紙を取り出した。

「まず、こちらをご覧ください」

写しておいた取引記録を机へ置く。

「先日いただいた記録の中に、帳簿上では西へ送られたことになっている荷があります」

アレクの視線が紙の上を滑る。

「実際には?」

「北へ向かっていました」

指が止まった。

「確認したのか」

「はい」

「どこまで追った」

「王都の倉庫街までです」

アレクが顔を上げた。

「一人で?」


その一言に、クリスはわずかに息を詰めた。


――来た。


「……いいえ」

「誰と行った」

「学院の友人です。騎士科のエリオットという学生です」

アレクの表情は変わらなかった。


「事情を話したのか」

「いいえ」

「私の命令で動いていることは?」

「話しておりません」

「では、なぜ同行している」

「俺が王都へ出ると知って、ついてきました」

「なぜだ」

「……一人で行くな、と」


アレクは何も言わなかった。

クリスはその沈黙を待った。

怒っているのかどうかさえ、表情からは読み取れない。

それがかえって落ち着かなかった。


やがてアレクが口を開いた。

「私は、誰にも話すなと言ったはずだ」

「はい。ですから、何も話しておりません」

「それは分かった」

アレクの指先が、机の上の紙を軽く押さえる。

「だが、秘密の調査に事情を知らない人間を同行させるのも、本来は褒められたことではない」

「……申し訳ありません」

今度は素直に頭を下げた。


アレクは少し考えてから尋ねた。

「そのエリオットという男は、腕が立つのか」

「はい。騎士科でも上位です」

「お前が何を調べているかは知らない」

「はい」

「誰の命令かも知らない」

「知りません」

「なら、今後も知らせるな」


クリスは顔を上げた。

「……同行すること自体は、よろしいのでしょうか」

アレクはすぐには答えなかった。


「お前が一人で倉庫街まで荷を追うよりはましだ」


それが答えなのだろう。

「ただし、調査を手伝わせるな。事情も話すな」

「承知しました」

「相手が勝手についてくる分には止めない。だが、何かあればお前の責任だ」

「はい」


エリオット本人は、自分が王太子から半ば護衛として黙認されたなどとは夢にも思っていないだろう。

もちろん、知らせるつもりもなかった。

「続きを」


アレクから促され、クリスは古い地図を広げた。

「北へ向かった荷について、運搬経路を調べました」

地図の一本の線を指でなぞる。

「現在はほとんど使われていませんが、ここに古い軍用道路があります。その先に――」

「旧北部補給所か」

クリスは顔を上げた。

「ご存じなのですか?」

「ああ」

「かなり大きな施設だったようです。記録ではすでに廃止されていますが、建物そのものは残っていると」

「そのはずだ」


驚いている様子はなかった。

クリスは少し迷ってから、もう一枚の資料を置いた。

「もう一つあります」

「言え」

「この地域は以前、王妃殿下のご実家が管理していた土地だと聞きました」

「それも知っている」


――やはり。

アレクにとっては既知の情報なのだ。


問題は、次だった。

「そのことは……レオン殿下から聞きました」


アレクの視線が、ゆっくりとクリスへ上がった。


「レオンに?」


声は静かなままだった。

けれど、先ほどとは違う空気に、クリスは背筋を伸ばした。


「事情は何も話しておりません。古い北部の道について資料を探しているとだけ伝え、学院の記録を一緒に調べてもらいました。その際、旧補給所の記録を見つけました」

「王妃の実家との関係も、そのときに?」

「はい」


沈黙が落ち、アレクは怒鳴らなかった。

眉をひそめることさえしない。

ただクリスを見ている。


それだけで、クリスは自分が一線を踏んだことを悟った。


「クリス」

「はい」

「私はレオンにも話すなと言わなかったか?」

「……はい」

「事情を話していないから命令には反していない。そう考えたか?」


答えに詰まった。

確かに、どこかでそう考えていた。

「……そのつもりはありませんでしたが、結果としては」

「同じだ」


静かな声だった。

「私が言ったのは、秘密さえ漏らさなければレオンを使って構わない、という意味ではない」

「申し訳ありません」

「今後、この件でレオンの力を借りるな」

「はい」

「本人が知らないまま核心へ近づけば、かえって危険になる」


そこまで言われて、クリスはようやく別のことに気づいた。

「殿下は……レオン殿下を疑っておられるのですか?」

「いや」

返事は即座だった。


クリスは思わず顔を上げた。

そこには迷いがなかった。

「あいつが王位を欲しがっていないことくらい、私が一番よく知っている」

以前、レオン本人から聞いた言葉を思い出す。

自分は王になるつもりはない。

兄を支えたい。

「では、なぜレオン殿下にだけ、特に秘密を?」


アレクは少し黙った。

「お前ならどうする」

「何をでしょう」

「自分の母親の家が、何かに関わっているかもしれないと知ったら」

クリスは答えられなかった。

確かめるだろう。

何もするなと言われても、自分の目で調べようとする。

「……調べると思います」

「レオンもそうする」

アレクは地図へ目を落とした。

「だから知らせない」

「ですが――」

「まだ、何も分かっていない」


その言葉に、クリスは口を閉じた。

「三十年以上前にこの土地を管理していた。その事実だけで、今も何かに関わっているとは言えない」

アレクの指が、地図の北部を静かに押さえる。

「疑うことと、罪があることは別だ」

「……はい」

「だから証拠を探している」


厳しい言葉だった。

だが、そのあとに続いた声は、ほんの少しだけ柔らかかった。

「何もなければ、それでいい。私は弟に、自分の母親を疑わせたいわけではない」


クリスはアレクを見る。

そのとき、初めて分かった。


――弟だからこそだ。


最初にそう言われたときは、レオンが王族だからだと思っていた。

あるいは、王位に近い人間だから。

でも、違った。

アレクはレオンを疑っているから隠しているのではない。

まだ罪があるとも分からない段階で、弟に母の一族を疑わせたくないのだ。

そして、知ればレオンが動くことも分かっている。

兄だからこそ。

弟だからこそ。

黙っている。


「……承知しました」

今度の返事には、先ほどとは違う重みがあった。

アレクは小さく頷いた。

「それでいい」


クリスは地図へ視線を戻した。

「では、次は旧補給所を――」

「北へは行くな」

言い終わる前に遮られた。

クリスは口を閉じた。

アレクがこちらを見る。

「行くつもりだっただろう?」

「……確認する必要はあるかと」

「ない」

「ですが、実際に荷が運び込まれているか確認できれば――」

「それはお前の仕事ではない」


言葉は強くない。

だが、反論を許さない響きがあった。

「お前は文官だろ」

「……まだ学生ですが」

「なら、なおさらだ」

アレクは取引記録を一枚持ち上げた。

「私はお前に帳簿を読ませるために呼んだ。敵かもしれない人間の懐へ潜り込ませるためではない」

クリスは黙って頷いた。


「次に追うのは荷ではない」

「では、何を?」

「金だ」


アレクが紙を机へ戻す。

「物を動かせば、必ず誰かが払う」

クリスの目が記録へ落ちた。

「誰が注文したか。誰が支払ったか。誰が保証したか。誰が仲介したか。誰が運ばせたか」


一つ一つの言葉を追ううちに、クリスの頭の中で別の線が見え始める。

穀物。

鉄。

馬。

革。

それらは別々の商会から買われ、別々の場所へ運ばれている。

だが、その背後で金を出している人間まで、すべて別とは限らない。


「……支払いの流れを追えば」

「共通する何かが出るかもしれない」

「分かりました。調べます」

アレクは頷いた。

「次の報告はこちらから知らせる。それまで、無理に先へ進むな」

「承知しました」


クリスは資料をまとめた。

部屋を出ようとしたところで、背後から声が飛んだ。

「クリス」

振り返る。

「北へは行くな」

二度目だった。

「……はい」

今度は余計なことを言わず、素直に頭を下げた。




学院へ戻る頃には、日が傾き始めていた。

ヴィクトルに頼まれた本を抱え、寮へ向かう。

王都へ出たときより、荷物は増えていないはずなのに、妙に肩が重かった。


回廊を曲がったところで、向こうから見慣れた姿が歩いてきた。

「クリス」

レオンだった。

「殿下」

レオンの視線が、抱えている包みへ落ちる。

「出かけてたのか?」

「はい。王都まで」

「また?」

「買い物です」

クリスは包みを少し持ち上げた。

「叔父に頼まれていた本がありまして」

「ヴィクトル卿に?」

「はい。領地では手に入りにくい本らしくて」

「何の本だ」

「土地測量と農地管理です」

レオンが少し笑った。

「俺も結構好きですよ。こういう本」

「お前は相変わらずだな」


二人はそのまま並んで歩き始めた。

レオンと話していると、さっきまで張っていた肩から自然に力が抜けていく。

同じ王族なのに、不思議なものだ。

アレクの前では、一つ答えるたびに言葉を選んだ。

けれどレオンには、そんなことを考えなくなって久しい。


「そういえば」

レオンが言った。

「北の道の件、その後どうなった?」

胸の奥に、先ほどのアレクの声が蘇った。


――今後、この件でレオンの力を借りるな。


それでも、クリスは歩調を変えなかった。

「まだ調べていますよ」

「何か分かったか?」

「もう少し見ないと何とも。古い資料ですし」

嘘ではない。

調査はまだ終わっていない。

ただ、これ以上レオンと一緒に調べることはできなくなった。


「必要ならまた手伝う」

「ありがとうございます」

「ただし」

レオンがこちらを見る。

「次は梯子を使え」

クリスは思わず顔をしかめた。

「まだ言うんですか」

「二回も落ちてきた奴が何を言ってる」

「二回目は椅子のせいでしょう」

「その椅子を動かしたのは誰だ」

「……俺です」

「だろ」

満足そうな顔をされて、少し腹が立つ。

「じゃあ、次から殿下には頼みません」


何気なく言った言葉だった。

けれどレオンの足が、ほんの少し遅くなった。

「……何でそうなる」

「だって梯子を使えって」

「梯子を使えとは言った」

レオンが横からクリスを見る。

「俺に頼むなとは言ってない」


クリスは一瞬、言葉を失った。

「高いところにある本くらい取ってやる」

「……殿下が?」

「お前がまた降ってくるよりましだ」

「降ってません。落ちたんです」

「同じだ」

「違います」

いつものように言い返した。

レオンも、いつものように笑った。


その横顔を見て、クリスの胸の奥に小さな痛みが落ちた。

もう頼めない。

少なくとも、この調査についてはレオンは何も知らない。

自分が今日、兄と会っていたことも。

自分の母方の家が、王太子の調査の中に浮かび上がっていることも。

そして、その兄がレオンを疑っているのではなく、むしろ弟だからこそ何も知らせずにいることも。


「クリス」

「はい?」

「何で黙った」

クリスはすぐに笑った。

「今日の夕飯、何かなと思って」

レオンが呆れたように見る。

「……お前、エリオットみたいになってきたな」

「それは嫌です」

「本人に言え」

「絶対言いません」

レオンが笑う。

クリスも笑った。


秘密を隠すことには慣れている。

クラリスという名前も。

女であることも。

ここへ来た本当の理由も。

もう長い間、隠している。


だから、いつも通りに話すことはできる。

笑うことだってできる。

けれど。


隠せることと、何も感じないことは、同じではなかった。





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