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『仮面の文官、愛に溺れる男たち』 ―男装令嬢は恋より仕事を選びたい  作者: 紅月 碧(こうづき あお)


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第十五話 俺をうまく使えよ エリオット

王太子から密命を受けてから、クリスの机の上には紙が増えた。

学院の講義が終われば図書室へ行き、寮へ戻れば机に向かう。


もともと二年目に入って課題は増えていたが、最近はそこへ卒業に向けた論文の準備まで加わった――ということになっている。

少なくとも、周囲にはそう説明していた。

実際、まったくの嘘ではない。

王太子から渡された資料を調べるには、各地の物流や商業制度、王都へ入る物資の経路を知る必要がある。それらは行政を学ぶ者にとって立派な研究対象だった。

ただ、その目的が少し違うだけだ。


クリスは何日もかけて、王太子から渡された記録を分類した。

穀物、馬、鉄、革、薬、毛布。

一つ一つを見れば、どれも珍しいものではない。

だが、時期と量を並べると妙だった。

ある地方で穀物が大量に買われた翌月、別の場所で馬が買われている。その少し後には、さらに離れた商会が大量の革と鉄を仕入れていた。

買い手も違う。

商会も違う。

届け先も違う。

それでも、何かが引っかかった。


ヴィクトルの領地にいた頃なら、帳簿を見ただけで終わらせなかった。

数字の向こうには必ず人がいる。

誰が買ったのか。

誰が運んだのか。

そして、誰が使ったのか。

そこを見ろと、叔父から何度も言われた。

だから最初に調べるべきは、王都で実際に荷を扱っている商会だと考えた。


「というわけで、次の休暇は王都に行ってくる」

レオンがいない夕食の席でそう言うと、向かいで肉を頬張っていたエリオットが顔を上げた。

「どこに?」

「南市場の方。卒論の材料として商会を何軒か回って、倉庫街も見たい」

「俺も行く」

あまりにも即答だった。

クリスはパンをちぎる手を止めた。


「いや、お前は関係ないだろ」

「関係なくても行ける」

「騎士科って、こないだ課題出てなかった?」

「出てる」

「やれよ」

「もうやった」

クリスは目を瞬いた。

「……嘘だろ」

「何だよ」

「だって昨日、お前、分からないって騒いでたじゃん。軍制史の比較考察」

「ああ」

「教官に『頭も使え』って怒られてただろ」

「うるさいな」

エリオットは少し不機嫌そうに肉を口へ放り込んだ。


「終わらせたよ。昨日」

「昨日?」

「夜」

「何で?」

そこでエリオットは一度、クリスを見た。

「今日、お前が次の休暇に出かけるって言いそうだったから」

「……何で分かったんだよ」

「最近ずっと商会とか物流とか調べてただろ」

クリスは黙った。

思っていた以上によく見られている。


エリオットは水を飲んでから、何でもないことのように続けた。

「どうせそのうち現物を見に行くって言い出すと思った」

「だから課題を終わらせたの?」

「そう」

「お前が?」

「さっきから失礼だな」

「だってお前、座学嫌いじゃん」

「嫌いだよ」

エリオットはあっさり認めた。

「だから頑張った」

クリスは何も言えなくなった。

自分のために、あのエリオットが苦手な課題を夜までかかって片づけた。

そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「……ありがとう」

エリオットがにやりとした。

「もう一回」

「やっぱり取り消す」

「何でだよ」

「調子に乗ったから」

笑いながら言ったものの、クリスの中には小さな引っかかりが残った。


エリオットは、何も聞かない。

あの日、王家の紋章が入った封書を見ている。見知らぬ男に連れていかれ、夕方まで戻らなかったことも知っている。

それから自分が急に商会や物流について調べ始めたのだから、何も思っていないはずがない。


「エリオット」

「ん?」

「……何でもない」

言えない。


王太子と約束した。

誰にも話すなと。


エリオットはしばらくクリスを見ていたが、やがて視線を自分の皿へ戻した。

「話せないなら、話さなくていいよ」


クリスは顔を上げた。

「……」

エリオットはフォークを置いた。

「俺をうまく使えよ」

いつもの軽い調子ではなかった。


「調べものはできない。数字もお前ほど強くない。商会のことも知らない。でも、荷物は持てるし、歩けるし、危ない奴が出てきたら、お前よりは役に立つ」

エリオットは笑って、それから、少しだけ首を傾けた。

「俺、そんなに頼りにならない?」


ずるい聞き方だと思った。

そんなことはない。

行軍のときも、訓練のときも、何度助けられたか分からない。


「……頼りになるよ」

「じゃ、決まり」

「まだ何も――」

「次の休暇な」

勝手に決めて、また肉を食べ始める。


クリスは呆れながらも、それ以上断れなかった。

たぶん、少し、嬉しかったのだ。




休暇日の王都は朝から人が多かった。

南市場には近隣から運ばれた野菜や穀物が並び、その先へ進むにつれて、店よりも荷車や倉庫が目立つようになる。


クリスは卒業論文の調査だと名乗り、いくつかの商会を回った。


学生証を見せれば、意外なほど話を聞かせてもらえた。将来、王宮や地方行政に入るかもしれない文官科の学生と繋がっておくことは、商人にとっても悪いことではないらしい。

もっとも、エリオットは早々に飽きていた。


「なあ」

「何?」

「あと何軒?」

「三軒」

「さっきも三軒って言わなかった?」

「一軒増えた」

「何で増えるんだよ」

「気になる商会を教えてもらったから」

「卒業するって大変なんだな……」

心底嫌そうな声に、クリスは笑った。


「だから来なくていいって言っただろ」

「それとこれは別」

エリオットはクリスが抱えていた資料を取り上げた。

「ほら」

「自分で持てる」

「俺を使えって言っただろ」

「そういう意味?」

「そういう意味でもある」

結局、そのまま持っていってしまった。


何だか今日は、妙に優しい。

いや。

エリオットは前からこうだったのかもしれない。

自分が気づいていなかっただけで。


クリスは少し先を歩く広い背中を見た。

騎士科の制服ではなく、今日は動きやすい私服を着ている。それでも体格の良さは隠せない。


「クリス?」

振り返られて、慌てて視線を外した。

「何?」

「いや。見てたから」

「見てない」

「見てた」

「早く行くぞ」

追い越すと、後ろでエリオットが笑った。


最後に訪ねた商会では、帳簿を見せてもらうことはできなかった。

当然といえば当然だった。

それでも荷の種類や主な取引先について話を聞き、店を出たところで、クリスは足を止めた。

向かい側の通りを、大きな荷車が通っていく。

積まれているのは木箱だった。


「どうした?」

「……さっきの商会の荷だ」

箱の側面に焼き印がある。

王太子から渡された資料で見た印だった。

クリスは反射的に歩き出した。

「おい」

「ちょっと見るだけ」

「お前の『ちょっと』は信用できない」

エリオットもついてくる。


荷車は市場を離れ、倉庫が立ち並ぶ一角へ入っていった。

クリスは距離を取りながら後を追った。

やがて荷車が一つの倉庫の前で止まる。

男たちが木箱を降ろし始めた。


「クリス」

エリオットの声が低くなった。

「何?」

「あんまり近づくな」

「分かってる」

「分かってる奴の距離じゃない」

腕を掴まれ、引き戻された。

クリスは不満そうに振り返ったが、エリオットの顔からいつもの笑いが消えているのを見て、口を閉じた。

騎士科の人間だ。

こういうときの危険への感覚は、自分よりずっと鋭い。


「……じゃあ、あそこまで」

「俺が先に行く」

「何で」

「俺を使え」

またそれだ。


エリオットが前を歩き、クリスはその後ろについた。

倉庫の裏手には、荷箱や空樽が積まれていた。

そこからなら正面を通る人間には見えにくい。

クリスは荷箱の隙間から倉庫を覗いた。


「何か見えるか?」

「待って」

木箱の側面に荷札がある。

文字までは読めない。

もう少しだけ。

クリスが身体を乗り出した、そのときだった。

倉庫の中から声がした。


「誰かいるのか?」


クリスの身体が固まった。


扉が開く。


「クリス」

次の瞬間、エリオットに手首を掴まれた。

引かれるまま、積み上げられた荷箱と建物の壁との間へ滑り込む。


「ちょ――」

「静かに」

低い声と同時に、腰を引き寄せられた。


そこは二人で隠れるには、あまりにも狭かった。

エリオットが壁を背にしている。

大きなその胸と荷箱との間に、クリスがすっぽり収まっていた。

足音が近づいてくる。

クリスは息を潜めた。

エリオットの腕が腰に回り、外から見えないようさらに身体を引き寄せる。

胸に頬が触れた。


――近い。


けれど今は文句を言っている場合ではない。

足音がすぐそばまで来た。

クリスは無意識にエリオットの胸のシャツを掴んだ。

そのまま身体を小さくしようとして、空いている腕を彼の腰へ回す。

エリオットの身体が、わずかに強張った。


「……クリス」

耳のすぐ上で囁かれた。

「……」

クリスは黙った。

エリオットの胸に耳を寄せる格好になっている。


鼓動が聞こえた。

――速い。

走ったわけでもないのに。

緊張しているのだろうか。

クリスの吐息がシャツ越しに胸へかかるたび、エリオットの呼吸が少しずつ浅くなっていた。


好きだと気づく前なら、何でもなかったのかもしれない。

肩を抱くのも、腰を掴むのも、酔ったクリスを背負うのも。

今は違う。

クリスが腕の中にいる。

隠れるために自分から抱き寄せたが、今は自分の腰にクリスの腕が回っている。

少し顔を伏せれば、ボルドーの髪に唇が触れそうだった。


エリオットは腰を抱く腕に余計な力を込めないよう、意識して手を止めた。

外で男たちが話している。

聞かなければならない。

分かっているのに、自分の胸元に落ちるクリスの温かな息と、身体から香る匂いばかりが気になった。


クリスがわずかに身じろぎした。

「この姿勢きついんだよ」

言いながら、クリスはもう一度 身体を動かす。

エリオットは思わず、華奢(きゃしゃ)な腰を抱き込んだ。

「あまり動くなよ」

「何で」

「頼むから」

思ったより低い声が出た。


クリスが怪訝そうに顔を上げる。

そして、目が合った。


エリオットは逸らさず、クリスの顔を見つめる。

長い睫毛の向こうから、澄んだ瞳が自分を見上げていた。

暗い隙間にいるせいか、瞳の色がいつもより深く見える。


「……何?」

クリスが小さく尋ねた。


答えなかった。


エリオットの熱を帯びた視線が、その瞳からゆっくり下へ落ちる。

クリスの鼻先、頬、そして、唇で止まった。

エリオットが、ほんの少し顔を下げれば届く距離だった。


クリスの唇がわずかに開いた。

「エリオット?」

また唇が動く。

目が離せず、触れたいと思った。


一度くらいなら。

そんな考えが頭をよぎった。


けれど、クリスは自分を友人だと思っている。

ここが狭いから、身体を寄せているだけだ。

信じて腕の中にいる。

その信頼を、自分の欲と取り違えるほど馬鹿ではなかった。

だから、エリオットは顔を下げなかった。

ただ、見ていた。

見つめられている方が落ち着かなくなったらしい。

「……何なんだよ」

クリスが小声で言った。

「見るなよ」

クリスは眉を寄せた。

その顔まで可愛いと思ってしまう自分は、もうどうしようもない。


そのとき、すぐ向こうから声が聞こえた。

「これは北へ回せ」

二人の表情が同時に変わった。


「今日中ですか?」

「ああ。日が落ちたら出す。いつものところだ」

「でも荷札は――」

「そのままでいい。西行きのままにしておけ」


クリスの目が見開かれた。

エリオットも気づいたらしい。

腕の中のクリスと目が合う。

今度は、さっきまでとはまったく違う意味で。


二人とも動かなかった。

やがて男たちの足音が遠ざかった。

しばらく待ってから、クリスが囁いた。


「……行った?」

「ああ」

「じゃあ離して」

エリオットはすぐには動かなかった。


「エリオット」

「もう少し待とう」

「足音しないけど」

「念のため」

クリスが疑わしそうに見上げてくる。


「……ほんとに?」

「…………」

「エリオット」

「分かったよ」

渋々腕を解く。


クリスが身体を離した瞬間、腕の中が妙に寒くなった。

エリオットは小さく息を吐いた。


「何?」

「何でもない」

「今日それ多いな」

「うるさい」


二人は慎重に隙間を出た。

倉庫の周囲に人影がないことを確認し、クリスは先ほど見ていた木箱へ近づいた。

荷札を見ると、西部の領地名が記されている。

間違いない。

王太子から渡された記録と同じ行き先だった。


「……エリオット」

「うん」

「さっき、北って言ったよな」

「言った」

「でもこれ、西へ送る荷になってる」

エリオットが荷札を覗き込む。

「わざと?」

「たぶん」


クリスは木箱の焼き印を確認した。

商会の名も覚えた。

荷の中身までは分からない。

けれど、一つ分かった。

帳簿に書かれている行き先と、実際の物資の流れは一致していない。

王太子が感じた違和感は、間違っていなかった。


「帰ろう」

クリスが言った。


「もういいのか?」

「今日は十分。これ以上は危ない」

「珍しく聞き分けがいいな」

「誰のせいだよ。さっき見つかりかけたんだから」

「お前が覗きすぎたんだろ」

「見ないと調査にならない」

「だから俺を先に使えって」

「お前が荷札見て分かるの?」

「……それはお前が見ろ」

「役に立たないじゃん」

「俺は護衛担当なの!」

言い返す声がおかしくて、クリスは笑った。


倉庫街を離れてしばらくしてから、エリオットが不意に口を開いた。

「なあ、クリス」

「何?」

「これ、本当に卒業論文だけ?」

足が止まりかけた。


クリスは隣を見た。

エリオットは笑っていなかった。

やっぱり気づいている。


「……だったら?」

答えを濁すと、エリオットはしばらくクリスを見た。

けれど、それ以上は聞かなかった。


「いや。いい」

「いいの?」

「話せないんだろ」

クリスは何も答えられなかった。

それだけで十分だったらしい。


エリオットは前を向いた。

「じゃあ、聞かない」

「……エリオット」

「でも」

大きな手が伸びてきて、クリスの頭を軽く撫でた。

「危ないことするときは、一人で行くな」

「子供じゃないんだけど」

「知ってる」

「頭触るな」

その手を払いのける。

エリオットは笑った。


「言っただろ」

「何を?」

「俺をうまく使えよ」


クリスは返事をしなかった。

ただ、少しだけ歩調を緩めた。

エリオットが隣に並ぶ。

肩が触れそうな距離を、二人で歩いた。


王太子の命令を破るつもりはない。

何を調べているのかも、誰に頼まれたのかも言えない。

それでも。

何も聞かずに隣にいてくれる人間がいることが、こんなにも心強いとは思わなかった。

クリスは前を向いたまま、ほんの少し笑った。

そして頭の中では、すでに別のことを考え始めていた。


西へ送られたことになっている荷が、実際には北へ向かっている。

ならば、他の荷も同じなのか。

北に何がある。

誰が受け取っている。

そして――何のために、行き先を隠す必要があるのか。

まだ答えは見えない。

けれど、一本目の糸は見つけた。

あとは、それを辿ればいい。



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