第十四話 王太子の密命
新しい学年が始まって三か月ほど経った。
冬の気配もようやく遠のき、学院に春らしい陽気が戻ってきた頃、クリスは妙な男に声をかけられた。
その日は午後の講義が早く終わり、エリオットと二人で食堂へ向かっているところだった。
中庭では外套を脱いで歩く学生の姿も増えている。
「腹減った。今日なんだっけ」
隣を歩くエリオットが言った。
「知らない。お前、朝からそればっかりだな」
「朝飯食ったら昼飯のこと考えるだろ」
「普通は考えない」
「クリスが食わなさすぎなんだよ。だから細いんだって」
言いながら、エリオットの手がクリスの脇腹へ伸びてくる。
気配を察して、クリスはその手を叩いた。
「触るな」
「まだ触ってないだろ」
「触ろうとした」
「確認しようと思っただけ」
「何をだよ」
「本当に細いのか」
「見たら分かるだろ!」
笑いながらもう一度手を伸ばしてくるので、今度は肘で押し返した。
その拍子に二人の肩がぶつかる。
以前なら、こんなやり取りにもいちいち身体が強張っていた。
今はもう慣れた。
少なくとも、クリスの方は。
エリオットが最近、こうして触れたあとに妙に黙ることがあるのには気づいていなかった。
「クリス殿」
不意に呼ばれて、二人は同時に振り返った。
学院の門へ続く回廊に、一人の男が立っていた。
年は四十前後だろうか。仕立てのよい濃灰色の服を着ているが、貴族には見えない。かといって商人とも違う。姿勢の良さと、周囲へ無駄に視線を動かさない立ち方が妙に目についた。
「俺?」
「はい」
男は近づいてくると、クリスだけに聞こえる程度の声で告げた。
「お迎えに参りました」
「……どこへ?」
男は答えなかった。
代わりに、懐から小さな封書を取り出した。
表にはクリスの名だけが記されている。
封蝋を見た瞬間、クリスの表情が変わった。
王家の紋章だった。
「どうした?」
エリオットが横から覗き込もうとする。
クリスは反射的に封書を胸元へ引いた。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないだろ」
「ちょっと用事ができた」
「今から?」
「うん」
エリオットは男とクリスを交互に見た。
「俺も行く?」
「いや」
答えたのは男だった。
「クリス殿お一人で、と申しつかっております」
その言葉にエリオットの眉がわずかに寄った。
クリスはそれに気づいて、軽く肩を叩いた。
「先に食ってて」
「……分かった」
珍しく素直に引いたものの、エリオットは去っていくクリスの背中をしばらく見ていた。
*
馬車は王宮へ向かった。
それだけでも十分驚いたが、さらに妙だったのは正面の大門を通らなかったことだった。官吏や使用人が出入りする脇門から入り、いくつもの廊下を抜ける。
クラリスだった頃、王宮には何度も来ていた。
それでも通った記憶のない場所だった。
華やかな装飾は次第に減り、行き交う者も少なくなっていく。
案内された部屋も、王太子が客を迎える場所には見えなかった。
机と椅子、本棚。
壁際には鍵のついた書類棚が並んでいる。
そして、その机の向こうにアレクサンダー王太子がいた。
クリスが顔を合わせるのは初めてではない。
クラリスだった頃、遠くから姿を見たことなら何度もあった。
第二王子妃候補として王宮へ出入りしていたのだから当然だった。
だが、こうして一対一で向かい合うのは初めてだった。
弟であるレオンとよく似た顔立ちをしている。
けれど、受ける印象はまるで違った。
「来たか」
アレクは書類から顔を上げると、思いのほか気さくにそう言った。
「クリス・アーヴェルだな」
「はい」
「座れ。そう固くならなくていい」
そう言われても、簡単にはいかなかった。
レオンなら、王子だと分かっていても今では平気で軽口を叩ける。
この人には、同じことをしてはいけない。
何が違うのか、うまく説明できなかった。
声を荒らげているわけでもない。威圧しているわけでもない。むしろ表情には薄い笑みさえある。
それなのに、部屋へ入ったときから、ここで誰が最も強い立場にいるのかを意識させられる。
王になるために育てられた人間とは、こういうものなのかもしれない。
クリスが腰を下ろすのを待って、アレクは手元の書類を閉じた。
「学院での成績は聞いている。教官からの評価も高い。特に行政実務と財政、それから実地訓練での判断力」
クリスは瞬いた。
「ずいぶん詳しいんですね」
「調べたからな」
あっさり言われた。
「ヴィクトル卿の領地にいた頃のことも聞いた。机上の数字だけではなく、実際の暮らしを見て判断する癖があるそうだな」
叔父の名まで出てきて、どっと冷や汗が吹き出し、クリスは姿勢を正した。
自分のどこまでが調べられたのかと。
「俺に何をさせたいんですか」
聞くと、アレクの口元がほんの少し上がった。
「話が早くて助かる」
机の上に、一冊の薄い書類束が置かれた。
「調べてもらいたい金がある」
「金?」
「正確には、金と物だ」
クリスは差し出された資料を手に取った。
地方領主の支出、商会への支払い、穀物や馬、鉄材の取引。
ざっと目を通しただけでは、ごく普通の記録に見える。
「この国では毎日、膨大な量の金と物が動いている。多少不自然な取引があったところで、それだけなら珍しくない」
アレクはそこで言葉を切った。
「だが最近、別々の場所で起きているはずの不自然な取引が、どうも同じ方向を向いているように見える」
クリスは資料から顔を上げた。
「横領ですか?」
「それを調べるのがお前の仕事だ」
即答だった。
試されているのではない。
もう仕事として渡されている。
「なぜ俺なんです?」
「王宮の人間を動かしたくない」
先ほどまでわずかに残っていた気さくさが消えた。
「今の段階では、誰がどこに繋がっているのか分からない。私の側近を一人動かせば、それを知る人間が増える。正式な調査を命じれば、さらに増える」
「学院生なら目立たないということですか?」
「それもある」
アレクはクリスをまっすぐ見た。
「そして、お前はまだどの派閥にも属していない」
クリスは黙った。
王宮では、それ自体が価値になるらしい。
「一つだけ、守れ」
声は静かだった。
「この件を誰にも話すな」
「誰にも?」
「ああ。教官にも、友人にも」
一拍置いて、アレクは続けた。
「レオンにもだ」
クリスの指が、資料の端で止まった。
「……殿下にも?」
「弟だからこそだ」
理由を尋ねようとして、やめた。
アレクの目が、先ほどまでとは違っていた。
ここから先は聞くな。
言葉にされなくても、それが分かった。
「分かりました」
「いい返事だ」
そこでようやく、アレクの表情が少し緩んだ。
「ただし、勘違いするな。私はお前に英雄になってもらいたいわけではない。帳簿を調べろ。商会を見ろ。必要なら街へ出ろ。気づいたことを私に報告しろ。それ以上のことはするな」
「危ないと思ったら?」
「逃げろ」
あまりにも迷いなく言われ、クリスは目を瞬いた。
アレクは平然としていた。
「お前一人の命と引き換えにしてまで欲しい情報など、今のところはない」
今のところは。
その一言だけが妙に耳に残った。
この人は優しいのか、冷たいのか。
たぶん、どちらでもある。
国を治める人間とは、そういうものなのかもしれない。
「報告は、どうすればいいですか」
「こちらから知らせる」
「また王宮へ?」
「いや」
アレクは短く答えた。
「次からはここへ来る必要はない。学院生が何度も王宮へ出入りすれば、それだけで目立つ」
「では、どこへ?」
「その都度知らせる。街で会うこともあれば、私の人間を寄越すこともある」
クリスは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
「自分から王宮へ来るな。急ぎの場合は、王都の中央広場にある書店へ行け。店主に書状を預ければ、私のところへ届く」
「書店ですか?」
「学院生が出入りしていても、誰も不思議には思わないだろう」
なるほど、とクリスは思った。
徹底している。
クリスを使っていること自体、できるだけ誰にも知られたくないのだろう。
クリスは資料を閉じた。
「もし、俺がこの話を誰かに漏らしたら?」
何となく聞いた。
アレクは少しだけ笑った。
「漏らさない人間を選んだつもりだ」
「もしもの話です」
「そうだな」
アレクは椅子へ背を預けた。
穏やかな顔だった。
「そのときは、お前より先に、私が気づく」
クリスは黙った。
何をする、とは言わなかった。
言われない方が怖かった。
「……気をつけます」
「そうしてくれ」
今度の笑みは、少しだけレオンに似ていた。
けれどやっぱり、この人をレオンと同じように扱う日は来ないだろう。
そう思った。
*
王宮を出る頃には、日が傾き始めていた。
学院へ戻る馬車の中で、クリスは膝の上の鞄に手を置いた。
中には、アレクから預かった資料が入っている。
『誰にも話すな。レオンにも』
その言葉を思い返しているうちに、妙な気分になった。
レオンには、学院に入ってからずいぶん色々なことを話してきた。
講義の愚痴も、課題の相談も、ヴィクトルの領地で覚えたことも。
あれほど近くにいる人間へ、意図的に何かを隠すのは初めてかもしれない。
学院へ戻った頃には、すっかり日が傾き、食堂は夕食前の学生で賑わい始めていた。
食堂へ向かう途中、入口近くの壁に見慣れた大きな身体がもたれているのが見えた。
「遅い」
エリオットだった。
クリスは足を止めた。
「……待ってたの?」
「まあな」
「先に食っててって言ったじゃん」
「食った」
「じゃあ何でいるんだよ」
「もう一回食える」
クリスは思わず笑った。
「馬鹿じゃないの」
エリオットも笑ったが、その目は一度、クリスの全身を確かめるように動いた。
怪我をしていないかでも見るような視線だった。
「……何?」
「別に」
そう言ってから、エリオットは少し声を落とした。
「大丈夫だった?」
クリスは一瞬、答えに詰まった。
何が、と聞き返すこともできた。
けれど、そうしなかった。
「うん」
「そっか」
それだけだった。
何を聞かれたのかも、何に答えたのかも曖昧なまま、会話は終わった。
エリオットはそれ以上尋ねなかった。
昼間、クリスを迎えに来た男の身なり。
王家の紋章が押された封書。
そして、クリス一人を連れていった馬車。
王家からの呼び出しだろうとは思っている。
国王か。
王太子か。
あるいは、レオンの母である王妃か。
どれかまでは分からない。
ただ、王家が学院生を人目につかない形で呼び出したのなら、聞いていい話ではないことくらい分かる。
「飯、行こうぜ」
いつものように肩へ腕を回そうとして、エリオットの手がわずかに止まった。
それでも結局、クリスの肩を抱き寄せる。
腕の中にいつもの身体が収まって、ようやく少しだけ息をついた。
「重いって」
「今日は我慢しろ」
「何でだよ」
「俺が心配したから」
「……心配?」
「急に変な男に連れていかれたらするだろ、普通」
クリスは少し黙ったあと、
「ごめん」
と小さく言った。
エリオットはその頭を見下ろした。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど聞いたところで、話せることならクリスの方から話すだろう。
だから、肩に置いた腕へ少しだけ力を込めた。
「まあ、無事ならいい」
「うん」
「じゃ、飯」
「だからお前もう食っただろ」
「心配したから腹減った」
「何だそれ」
いつもの調子で言い合いながら、二人は食堂へ入った。
クリスは気づかなかった。
エリオットが最後まで、昼間の封書について一度も尋ねなかったことに。
その夜、寮の机に資料を広げたクリスは、最初の一枚に目を通し始めた。
穀物。鉄。馬。革。
別々の土地で、別々の商会を通して動いている金と物。
今のクリスには、それらが何を意味しているのか分からない。
一つずつ見れば、どこにでもある取引だった。
ならば王太子は、何を見て「同じ方向を向いている」と判断したのか。
クリスは次の紙をめくった。
王太子から託された仕事は、まだ始まったばかりだった。




