プロローグ 苦い紅茶は目覚めの一杯
〈全能の魔女〉ライラック・アシス・ツヴァイリムは、若くして上級魔術師となり、様々な魔術を使いこなせる天才少女である。
その実力は15歳にして大賢伯に選ばれるほどの逸材。
第一王子の護衛を任されていることから、国王からの信頼も厚いとされている。
しかし、彼女もまた人間。
〈全能〉の二つ名を持っているライラックだが、明確な弱点があった。
「ライラ様、もうすぐ朝食の時間になりますよ」
「んん……もぉ、ちょっぉぁけぇ……」
もぞもぞ……とシーツに包まろうとするライラック。
大賢伯としての威厳はどこへ行ったのやら。とはいえ、優秀な侍女であるハルヤにとっては毎日のこと。
「ダメです。起きてください」
有無を言わさず力ずくでシーツを引っぺがすと、ライラックは「むにゃむにゃ……」と目擦りながら体を起こす。
そしてボンヤリと垂れた瞳をハルヤに向けると、ハッと目を見開いて視線を左右に彷徨わせた。
「ぉ、おっ、おはよう……ハルヤ」
「おはようございます。ライラ様」
モジモジと指をこねる少女こそ、ハルヤの主人。ライラックは朝が弱い。ヨワヨワなのだ。
ハルヤは優しく笑いかけながら、用意していた紅茶をカップに注ぐ。もちろん、ハルヤお気に入りの苦い茶葉だ。
これにはライラックも口をへの字にする。朝イチから苦っが紅茶を飲まされるなんて!
しかし、その不満を声に出すことは無い。
「目覚めの一杯です」
「……ぅ、ん」
ニコリと差し出すと、ライラックは渋々と言った様子で受け取る。昼間なら「砂糖を持って来なさい」と言うだろうに……。
寝起きの彼女は、苦そうに顔を歪めながらも飲み切った。
「お味はどうでした?」
「に、にがい……でしゅっ……」
まだ朝で呂律が回らないのだろう。顔を赤くするライラックからカップを受け取ると、ハルヤはベットの脇に置いている本を取る。
それをライラックに手渡すと、すぐにベットから離れた。
「では」
一礼し、備え付けられてある厨房で食器を洗う。
もう慣れたが、やはり水道というものは便利だ。近年では大公領でも敷設が進んでいるらしいが、完全普及にはまだ遠い。
故郷に残してきた弟妹達を懐かしんでいると、隣の部屋から控えめなライラックの声が聞こえる。
ハルヤを呼ぶ声ではない。小さく、小声で紡ぐようなその詩は魔術の詠唱。
長い長い詠唱だ。圧縮や短縮無しの、長大な魔術式を途切れることなく唱えていく。
ハルヤには理解できないが、きっと途轍もなく難しい魔術なのだろう。
その声が聞こえなくなった頃合いを見計らい、ハルヤは部屋へと戻る。
つい先ほどとは打って変わり、堂々と背筋を伸ばして本を片付けるライラック。
「それでは、お着替えをはじめますね」
「えぇ。あ、その前に、この髪をどうにかしたいわ」
「変に寝癖がついてしまいましたの……」と手櫛で軽く流してみるも、そこらかしこでクルリンと弧を描いた髪は直らない。
ライラックは真っすぐとハルヤを見て、貴族令嬢らしく堂々とした口調で言う。
「ハルヤ、櫛を持っているかしら?」
「もちろんです。それと、別の茶葉を用意して入れてきました」
「……苦い茶葉じゃないでしょうね」
ジロリとジト目で睨んでくるライラックに、ハルヤは威勢よく返事をしながら椅子を用意する。
促されるまま、ライラックはそこに腰掛けながら紅茶を口にした。
すると――舌がギュッとなるような刺激と共に、強い紅茶の香りが口いっぱいに広がった。朝一で飲んだものよりはマシだが、苦いものは苦い。
「…………ハルヤ、砂糖を」
「髪を梳いていますので、少々お待ちください」
なるほど、それが狙いだったか。思えば、毎日似たような手法で紅茶を飲まされている気がする。
ライラックはこれ以上飲む気にもなれず、手を下ろした。そして、視線だけ後ろのハルヤに向ける。
「なんで毎日、まいッにち……苦い紅茶を勧めるのかしら??」
「苦い紅茶を飲むと早く目が覚めますので、ハルヤのお気に入りの一杯なのです」
「好みの強制は逆効果に……というか、妾が甘党なのを知ってるでしょう? 嫌がらせのつもりなら――」
「違います」
ハルヤはそう言うと、一瞬手を止める。
本当に一瞬だ。すぐに櫛を動かし、ライラックの髪を優しく梳かしていく。
「目覚めの一杯。早く目を覚ますための、一杯です」
「……そう」
やっぱり、ハルヤは譲る気が無いらしい。
ライラック自身も朝が弱いことは自覚している。
だがそれは一瞬だ。
《《ちゃんとトレースし終われば》》、ライラックは大賢伯〈全能の魔女〉として無様な姿は晒さない。
(苦い紅茶なんて、必要ないのに)
まったく頑固な侍女だ。
けれど、それはそれとして彼女はハルヤの事を信用している。信頼しているのだ。
そうしているうちに、クルクルの寝癖を整え切ったらしい。
「では、砂糖を持ってまいります」
「……えぇ」
そう言って背を向けるハルヤを見送り、ライラックは手元の紅茶をもう一口。
「にがっ……」
深い赤色の液体が下に触れた途端、ギュッとなるような刺激。同時に強い紅茶の香りが口いっぱいに広がり、喉にこびり付いた。
こんなの、なにが好きで飲みたくなるのだろう。朝一でこんなものを飲んでしまったら、一日の始まりが最悪な味覚でいっぱいに満たされてしまう。
(……けど)
再び、手元のカップを覗く。
いくらか飲んだものの紅茶の赤い水面は張っていて、まだ半分以上残っている。
「…………っ」
ふっと意を決し、思い切って飲んでみる。
――苦い。
けれど吐き出す程じゃない。
それに確かに、いくらか残っていた眠気は、紅茶の苦さと共に飲み込まれていった。
「砂糖をお持ちしました」
その時、砂糖の箱を持って戻ってきたハルヤは、水滴が残るカップを見て目を見開く。
「っ! ライラ様、ついに苦い紅茶の良さがお分かりに……っ?」
「えぇ……眠気なんて、無くなるくらい苦かったわ」
「それでは明日はもっと苦い茶葉を使って……」
「ぜったいッ、やめなさ――いッ!!!」
早朝、女子寮の最上階にある一室にて、少女の嘆きが響く。彼女にはもう眠気なんて微塵も残っていないのだった。




