【1-1】 だって私は出来損ない
神界。そこは神々が巣くう場所。
神々しい白亜の神殿は神聖な光を纏い、輝いていた。
――ニヒリアと違って。
『――期待外れだ、ニヒリア。お前は我々の期待を裏切ったのだ。』
大神官の低い声が響き、ビリビリと神殿を揺らした。
なのに、ニヒリアの心は動かない。否、動くことをやめた。
「……はい」
掠れた声が出る。そういえば、久しぶりに喉を使ったんだった。
「けほ……っ」と咳き込みながら、ニヒリアは虚ろな瞳を持ち上げる。
『――お前は神失格だ。堕ちるがいい。』
「あ――」
フッ……と、床が抜けて宙に放り出された。
落ちる、落ちる、落ちる……堕ちてゆく──
無意識に、そして無駄に伸ばした手は虚無を掴むだけで、何も残らない。
「……まあ、いい、かな」
ふわっと頬が緩み、遠のく神界をその瞳に写しながら微笑んだ。
ニヒリアは神界から追放されたのだ。
だが、それに一切の後悔や憂いは無い。穏やかに微笑んで、煌びやかな神界を視界の先に写しながら闇へ闇へと落ちてゆく。
「私なんかが……私みたいな出来損ないなんか、神界に居ちゃダメなんだ」
チラリと周りに意識を向けると、周囲は瞬く星空のような空間で満ちている。
「……綺麗」
ホッと息をつくと同時に、ニヒリアはその星空の元ではなく、さらなる深淵へと向かって堕ちていく。
その深淵の先には何があるのだろうか……そうだ、たしか神と相反する《《悪魔》》が巣くう世界がある。
(神から堕落して悪魔になる――か)
それもまたアリかな……だって、だってわたしは――
「――出来損ないの、神様だから」
***
――チチチッ……チチチチチ……
「……んんっ」
窓をつつく鳥の知らせと共に、ロミエ・ハルベリィは重い瞼を上げる。
ここは――と思案して、被っていた毛布を持ち上げた。
「……また、あの夢……」
神界から追放され、この世界へ降り立った時の夢だ。
あの後、暗闇へ暗闇へと突き進んでいった先に、この世界に辿り着いた。なのにこの世界は悲しいほどに美しく、そして懐かしさを覚えるほどに熟知している。
この世界はかつてニヒリアという創世神によって創り出された世界。そして、欠陥だらけの世界であった。
寝ぐせだらけの黒っぽい灰色の髪を、適当に手櫛で整えていると、肌を撫でるような妙な感覚に顔をしかめた。
「…………あ」
ロミエは視線をチラリと窓へ向けると、一瞬名残惜しそうに毛布を睨む。
結局毛布を持ったまま立ち上がり、ノソノソと寝起きの小さな身体を動かして朝日が差す窓際に立った。
窓の先にはレンガ造りのカラフルな街並みが広がっている。そのうちの一角にある路地裏を、ロミエは視覚情報を〈光〉から〈情報〉へ切り替えて覗いた。
「……やっぱり、《《空間が歪んでる》》」
その路地裏の空間にあるシステムコマンドだけ、他の空間で流れているコマンドと違って不規則に脈動し、グニャリと歪んでいた。
このまま放置していると、次元を隔てる空間に亀裂が生まれ、悪魔が顕現してしまう。
これは《《この世界の欠陥》》の一つ。
世界の構造維持に施されたコマンドにある欠陥が、世界や人々自体に大きな障害をもたらしてしまうのだ。
「……直さなきゃ」
ファサリ……と、羽織っていた毛布から左手を放し、そのまま胸に持ってくる。
すぐに冷たい空気に晒されて身震いするが、その感覚も瞬時に遠くへ消え去った。
『――我が名はニヒリア。この世界の管理者権限を執行。要件、《《世界の本》》を召喚。』
詠うような詠唱と共に、わざと空間に綻びを生じさせて、空間に窓が生まれ、そこから一冊の本が召喚される。
これは〈世界の本〉。
青白く不透明な本の中身、パラパラと開かれる頁の中には刻々と変化する幾何学記号が羅列されていた。
「……ここ」
目当ての頁で止めて、小さな右手をかざす。
精密な魔力操作で魔素を導き、頁に記された幾何学記号の一部を浮き上がらせ、ギュッと握りつぶす。
そうして空いた空間に、魔素で新たに幾何学記号を書き込むと――。
「――修復完了……ふあっ――ヘくちっ……!」
身震いする寒さに、慌てて毛布を取った。
ズズズッと鼻を啜りながら先ほどの路地裏を見てみるも、そこにあった空間の歪みは縫われるように修復され、綺麗に無くなっていた。
「ふぅ……、大事になる前に直せてよかったぁ……」
ロミエはホッと胸を撫で下ろし、頬を緩めてへにゃりと笑う。しかし、すぐに目を伏せた。
なにせ、これからロミエは入学式に赴かねばならない。なるだけ体力を残しておきたかったのだ。
「…………ロミエ・ハルベリィ」
チラリ、と部屋にある小さな鏡を覗く。
そこに映るのは、かつてのニヒリアのように凛と整った顔立ちの女性ではない。
伏目がちで気怠い表情をした14歳の少女だ。さらに、栄養不足で手足は細く、顔色も青白く血相のない色をしている。
けれど、深い青色にエメラルドグリーンを混ぜたような瞳には少しだけ光が宿っていた。
「……お母様……お父様……」
(……会いたいよぅ)
しかしそこで口をつぐみ、頭をブンブンと振って鏡に向き直る。
「……よしっ、高等学園でも、バレないようにする、ぞ」
フンスっと意気込み、両手を握った。
なにせロミエはニヒリアの生まれ変わりの姿である。
ことこの国──ロンド王国において、その正体がバレることはあってはならない。
ロミエが生まれたのは、かつてニヒリアが殺した英雄の興した国家――その名も〈ロンド王国〉。
その国の成り立ちゆえに、神の信仰を厳しく禁止しているのだ。
チラリと、再び窓の外に視線を向ければ、石畳の続く街路の向こう、噴水のある広場の中心には磔にされたニヒリアの石像が置いてある。
(もし、私がニヒリアってバレたら……うん、絶対絶対、殺される……)
まあ、それもまたいいのかもしれない。だけれど、ニヒリアが死ぬと同時に、ロミエ・ハルベリィも死んでしまうのだ。
(それだけは、ダメ)
「……お家に戻って、頑張ったよって、言うまでは……お母様とお父様の期待に、応えなきゃ……」
ニヒリアは大神官や神々の期待を裏切り、神界を追放された。
だが、ロミエ・ハルベリィという少女は関係ない。彼女にニヒリアが転生しなければ、こんな冷たい安宿に一人で泊まることは無かっただろう。
初等学園でちゃんと友達を作って、一緒に高等学園へ向かって行くはずだったのだ。
「……はずだったのに」
唯一、友達になりそうだった子も、次元の亀裂に飲み込まれてしまった。
他でもないニヒリアが創った世界の欠陥のせいで。何もできなかったニヒリアのせいで。
だが、だからといってロミエは無力だ、何もできない。ニヒリアが宿る以上、その本質も引き継がれる。
「……だって、わたしは出来損ない……だもん」
「くっ」と、胸から湧き上がってくる感情の濁流を抑える。
その感傷を外に追いやるようににテキパキと服を着替え、荷物をまとめて部屋を後にした。
行き先はアリストリア高等魔術学園。王都に四か所ある魔術の専門学校の一つである。
──が、その前に1つ問題があった。
宿の一階ロビーにて、ロミエは部屋の鍵を胸に抱えたまま、ビクビクと肩を震わしていた。
「……おい嬢ちゃん、そんなとこ突っ立ってどうした?」
「……ァ……ぇとっ、その……っ」
部屋の鍵を返さなければならないのだが、昨日来た時は人あたりの良さそうな女性だったのに今日は違う。
今その席に座って店番をしているのは、顔に大きな傷のある強面の男だった。
こんな安宿で店番なんてせず、大剣を担いで戦場に立っている方が似合いそうな風貌である。
「おい、聞こえてんのかって」
「ぁ……ぃ…………ひぃ……っ」
ガタガタと震えて声が出ないロミエに、男は不機嫌そうに眉をひそめている。
簡潔に言うと、ロミエはめっちゃくちゃ怖気付いてしまっていた。
ガタガタと奥歯が鳴り響き、ドクドクと脈動する心臓が恐怖を加速させていくのだ。
「おいって、……聞こえてねぇのか?」
「ぃ……ぁっ……っと……」
「もしかしてあれか、外国出身か?」
「ぇ……ぃゃ…………わた、しぁ……」
「あ? 言葉伝わってんのか。そんでなんの用だ?」
「ぁ……ぅ…………ぇと……か……かっ、かぃ……」
「あ? かい? かいってなんだよ。はっきり言えよ、おい」
「鍵のことさね、こんのバカ旦那!」
「がっ……!?」
突然、太い腕が男の頭に振り下ろされる。
ロミエは半べそかきながらぽかーんと口を開いていると、男性の後ろから現れた赤髪の女性はスタスタと近寄ってきて、目の前で膝を着く。
女性のダークレッドの瞳にはロミエの姿が映っていた。
「おはようお嬢ちゃん。うちの旦那が怖がらせちゃってごめんねえ。」
「あんだよ、怖がらせてねぇだろうが!」
「ひっ……」
「どこどう見ても怖がらせてんじゃないかい! ごめんねえ、うちのバカ旦那は愛想の一つもつけれないのさ」
ロミエが涙目でコクコクコクと激しく頷いていると、女性はロミエの手からパッと鍵をとった。
「ぁ、それ……」
「お嬢ちゃん、見たとこアリストリアの新入生だろう? 連れて行ってあげるさね」
「そ、そんなっ……大丈夫、でふ……」
噛んだ。
(まともに会話もできないなんて……!)
ロミエは頭の角度を下げてしまう。
代わりに鍵を男に渡した女性が、その分厚い手でドンッとロミエの小さな背中を叩いた。
「はぅっ……!?」
「背筋伸ばしなさいな! 不安だろうけど、きっと楽しい学園生活を送れるさね!」
「……そう、で……しょうか……」
「そうそう、あたしもアリストリア出身なんだ。こう見えて、魔術戦で結構ブイブイ言わせてたんだよ?」
「ったく、おっかねぇ女だよ……」
「何か言ったかい?」
「2度も言わせるんじゃねえっ!」
「はいはい、この子をアリストリアまで連れて行っからさ、店番よろしく頼んだよ? 愛想笑いの一つも覚えなってんだ」
「…………あぁ」
(この2人、仲悪い……のかな……)
男は不貞腐れたように顎をしゃくっているが、女の方は大して気にも留めてなさそうだった。
「あ、あの……ひ、ひとりで……いけ、まふっ……」
「遠慮しなくっていいさね。少しは先輩面させて欲しいのさ」
「で、でも……」
口篭ろうとしたロミエを、女はヒタっと人差し指で抑えた。
「人の親切心はね、無下にするもんじゃないさね。やってあげたくてやってるんだかっさ」
「…………は、はぁ……」
「そういえば、名前はなんて言うんだい? あたしはテルトアだよ」
「……ろ、ロミッ……ロミエッ……ハル、ベリィ……でふっ……」
(まともに名乗れもしないなんて!)
ロミエはまたも頭の角度を低くする。
しかし、その頭にトンと分厚い手を置かれた。繊細ではないけれど、力強さと暖かみを含んだ心強い手だ。
「いい名前じゃないかい!」
「ぇ…………」
(いい名前って……言ってくれた……)
なんだか胸の奥がムズムズする。ロミエは湧き上がってくる感情に押されて、口がぐにゅぐにゅっと揺れた。
「んじゃロミエちゃん、早速アリストリアまで行くとするさね!」
「……は、はいっ」
「ちょっと待て」
そっぽを向いて不貞腐れていたテルトアの夫の声が、出ていく二人を唐突に引き止めた。
テルトアは察したように「あ〜この子にもさせるのかい?」と肩を竦めている。
男は無言で頷くと、立ち上がって板のような物を持ってきた。
「客は全員、これを踏んで出ていく事にしている」
「……ぁ」
それは、創世神ニヒリアの姿を描いた像だった。




