【4-6】ライラック
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ライラック・アシス・ツヴァイリムは昔、初等学園に入学する前の歳に行われた舞踏会から、逃げ出したことがある。
ライラックはロンド王国北部高原一帯を領有するシェード大公爵家の長女であり、末娘だ。
家を継ぐことは出来なくても、どこそこの貴族に嫁いで両家を繋ぐ橋渡し役となる。
しかし、箱入り娘であったライラックは、極度の人見知りであった。
傍付きの侍女に対してすら流暢に話せず、いつも人目を気にしてばかりで物陰に隠れ、大勢の人から視線を集められてしまうと泣き出してしまう。
母親が亡くなり、連れ出された常闇の街ヴァイセルで行われた舞踏会から抜け出したのも、仕方ないと言えば仕方が無かった。
その先で、白竜と出会ったのである。
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リフィル殿下護衛の為、宿舎の隣の部屋で待機中のライラックは、ふと窓辺の向こうを見つめる。
街の外に聳え立つ峻険な山の山頂付近は厚い雲に覆われていて、白竜の姿は見えない。
「……キャリア」
いつもより軽い肩に触れる。そこにはマフラーのように擬態した白狐はいない。
紺色のワンピースが、細くて頼りなくて猫背な少女の身体を包むだけ。
ライラックの契約精霊キャリアは、母親たる白竜エイマの所へ行っていた。
5歳のあの時以来、なんだかんだ一度も会いに行けず申し訳なくは思っていたので、「会いに行く!」と言って飛び出したキャリアを引き留めはしなかった。
しかし、白竜の住まう山頂付近は濃い雲に覆われている。
(ちゃんと会えた、かな…………)
「……お母さま……会えるんだ……」
魔力感知も得意なキャリアならば、白竜の強大な魔力反応はすぐに見つけられるだろう。
まして、ライラックと出会うまでは、ずっとあの山で過ごしていたのだ。濃い雲に覆われているとしても、庭同然のように駆け巡れるだろう。
だって、探せば必ず出会えるのだから。
「お母さま…………会いたい……あいたぃっ……ぅっ、あぁ……ッ」
いけない!
ツンと鼻が鳴り、ぐぎゅッと込み上げてきた嗚咽やら何やらを、頬をぐいぃぃッと引っ張って堪えた。
涙も自由に流せない。紅茶を淹れに行ったハルヤが帰ってきたら、余計心配させてしまうだろう。それだけは避けたかった。
……でも、泣いて泣いて楽になりたい自分がいる。
いっぱい迷惑をかけてでも、一言「頑張ったね」と言ってほしい。優しく頭を撫でて欲しい。甘えたい。甘えさせて欲しい。
ちょっぴりでも楽になれるなら……なんだっていい。
(ハルヤは……うんっ、まだ帰ってきてない)
部屋にはライラック一人しかいない。それでも窓辺から離れ、キョロキョロと怯える小動物のようにベットの影へ隠れた。
そして、そぉっと上げた右手を、自分の頭へポムっとおいてみる。
「……」
別にイケナイことをしようとしているわけじゃない。
なのに、なぜだかバクバクと心臓が高鳴るし、ありもしない視線に怯え、キョロキョロと部屋を見渡してみたりもする。
(だいっ、大丈夫。誰もいないし……一人、だから)
折り重なった髪の上から、なでなでと左右上下に頭を撫でてみる。
瞳を閉じて、目の前に母親を思い浮かべばそれはもう――。
「ライラ様?」
「えひゃっ!? うぇっ、あぅぁのっええぇと、そのっこっこれは……」
「あぁ、残念ながら普通の茶葉で淹れて来た紅茶になります。苦い方がよろしかったでしょうか?」
「え、あっ、その……ふ、普通のがいい……でひゅっ」
噛んだ。
ライラックの度重なる奇行については何も言及しないのか、はたまた見ないフリをしてくれたのか。しどろもどろに応えるライラックを気にする様子もなく、ハルヤはパッパと席と机を整えて、用意したカップに注ぐ。
茶葉は……アールグレイだろうか? 爽やかな柑橘の華やかな香りが広がり、混乱していたライラックも落ち着きを取り戻した。
サッと立って、促されるまま席に着いたライラックは、恐る恐る香りを嗅いで――一口、口に含んでみる。
苦くない。予想通り茶葉はアールグレイだったらしく、爽やかなベルガモットの風味とキリっとした味わいが広がった。
ハルヤにしては珍しい選択だ。アッサムやオータムナルのような渋みが強く苦い紅茶ではなくて、比較的飲みやすく王道ともいえる茶葉のチョイスは意外である。
「…………」
「? どうされましたか?」
「なっ、なんでも……っ」
「どうして?」と開きかけた口を誤魔化すように、カップへ口付けて紅茶を飲む。
ハルヤの事だ。指摘されれば、踵を返して苦い茶葉で淹れ直して来るかもしれない。
彼女は尚も、ライラックの後ろで控えてくれている。かといって話しかけてくるわけでもないので、視線を気にしながらチビチビと紅茶を飲むことしかできなかった。
そんなライラックの頭へ、不意に手が置かれる。
「え……ぁっ……?」
右に、左に。そして軽く円を描くように、クリーム色の髪と頭を撫でられる。
(自分の手とじゃ……ぜんぜん、ちがう……っ)
良くも悪くも、自分で頭を撫でてもどう動くかが分かりきっているし、なにより触れた感覚が手の平に伝わってくる。
対してこれは……他の人に頭を触れられるのは、正直怖い。背筋が伸びて身体が強張ってしまう。
けれど、少しすると力が抜けた。
その手は、頭に触れて撫でるハルヤの手は優しい。ライラックが怖がらないように、繊細な手つきで撫でてくれる。
その手が触れ、髪を揺さぶり、頭に触れるたびに、脳へこびりついたシコリや不純物がどんどん昇華していくようだった。
ハルヤの温度が伝わるたびに頭が軽く……楽に、なっていく。ふわふわと綻んで、心がスッキリする。
「私には姉弟がいます。長女として、生計を立てるためにツヴァイリム家へお仕えしている身ですから、少しだけ故郷に残した姉弟達が恋しくなってしまいました」
そう言って優しく目を細めながら、丁寧に、丁寧に。髪を優しく梳き解していくように撫でていく。
少しだけ皮の厚く、しっかりとした繊細な手が流れるたびに、「ぅ……ぁぅ……っ」と鳴いてしまう喉を堪える事が出来ない。
「……ライラ様、お辛いときは言ってください――なんて、無理強いはしません。ただ、お一人で抱え込もうとなさらないで欲しいのです。私にとってライラ様は使える主人で……可愛いくて世話の焼ける、大切な妹のような存在なのですから」
ポツリ……またポツリと、頬を滴った水滴がスカートへ落ちていく。
喉が震え、ひっくひっくと苦しかった。けれど辛くない。幸せだった楽だった。
……幸せだった、あの母との日が思い起こされて、その勢いは増していく。
「ライラ様は、まだお子様です。だから大人を頼ってください。頼っても良いんです。いいや、頼ってほしいのです。私は……このハルヤ、ライラ様のお味方でいれることが、何よりも幸せなのでございます」
右手を座るライラックの頭に置いたまま、左腕を前に通して優しく包む。そうやって、震えや涙を一緒に受け止めてくれた。嫌な顔一つせず、受け入れてくれた。
「はぅ……は、ハル……ヤ……」
「はい。ライラ様」
「ぁたし……わたし…………はるや……ぁっ」
「泣きたいときは泣いたって良いんです。そうやって泣いた分だけ、次の一歩に繋がるのですから」
どうしよう。もう限界だ。込みあがって来た衝動を、声を荒げて泣きたい感情の濁流を押さえるのも限界だった。
けれど隣の部屋には殿下がいる。まして、廊下にでも響いたら最悪だ。
――だから……だけど…………だから、今は、今だけは……。
小さく上体を回して、小さな両手をハルヤに回せば、彼女はより一層強く抱きしめてくれる。
「ぅあっ、あぁあっ、ひっぐ……っぅう……。おあぁさまぁ……おかあひゃまぁぁぁ……っ」
ライラックの母は死んだ。もう、この世界には存在しない。ライラックを真っすぐ愛してくれた人は、居なくなってしまったのだ。
けれど、それでも、ライラックは一人じゃない。泣いて良いと言ってくれる、抱きしめて、頭を撫でて、受け止めてくれる人がいる。
大賢伯の肩書も、シェード大公家の血筋も関係ない。ただのライラックをハルヤは認めてくれるのだ。
「大丈夫です。ライラ様にはハルヤがいます。一人になんて、させてあげません」
一人にさせてあげない。
なんて嬉しくて有難くて優しい言葉だろう。
(わたし……幸せ者なんだ……)
今のまま泣き続けるわけにはいかない。大賢伯として、成すべき事をなさねばならない。
だけれど今だけは泣こう。目いっぱい甘えよう。そうして元気に前を向けるようになれば、少しくらいの勇気がたまっているはずだ。
ハルヤは腕の中で泣き続けるライラックを、泣き止むまで優しく頭を撫で続けるのであった。
***
トントン。
泣き疲れて涙も止まり、ズズっと鼻を啜っているところで、誰かが部屋をノックする音が聞こえた。
「全能、全能の魔女はいるか? いやいるだろ、いるんだろ? いるんだったら返事をしてくれ!」
この声は〈理の魔法使い〉ステラだ。ドア越しでも分かるくらい切羽詰まった声でライラックを呼ぶ。
「ぁぅっ……ぁ……」
しかし、泣き腫らした喉では上手く声が出なかった。
それが嫌で嫌で仕方が無い。けれど、涙の余韻はどうすることも出来ず、そっとハルヤの服をつまむ。
「ライラ様はご在室です。〈理の魔法使い〉様、どうなされたのですか?」
意図を汲み取ったハルヤが、即座にライラックのセリフを代弁する。
ステラもステラで人見知りだ。ライラックはともかく、ハルヤ相手ならば声が小さくなる――ようなことは無かった。
「ま、ままマズい事になった。殿下が……リフィル殿下が、部屋にいないんだっ!!」




