第9話 剣崎との邂逅——不穏な影
第16階層。坑道型の迷路構造。天井が低く、松明の光が壁に反射して視界が歪む。空気が湿っている。壁面に苔が生え、足元の石畳は水分を含んで滑りやすい。
中層に入って十日目。第15階層までは順調だった。ナビのリアルタイム解析と無敵フレーム回避の組み合わせで、モンスターを一体ずつ確実に処理してきた。フリーズ問題も、同時追跡を2体に制限することで回避している。一日あたり1階層のペースを維持できていた。
第16階層は、これまでと構造が違った。
『マスター。第16階層は坑道型の迷路構造デス。分岐が多く、行き止まりも存在シマス。モンスターの出現パターンは不規則。浅層のような定位置配置ではなく、ランダムに徘徊シテイマス。視界も悪く、レンズの照射範囲が壁に遮られやすいデス。注意シテクダサイ』
「ランダムか。遭遇タイミングが読めないな」
これまでは、ナビの事前スキャンで敵の位置を把握してから接近できた。第16階層では、角を曲がった瞬間に鉢合わせる可能性がある。事前準備の余裕がない。
「師匠。なんだか嫌な感じがします。空気が重いっていうか」
「気のせいだ。行くぞ」
気のせいではないことは分かっていた。第16階層に入った瞬間から、何かに見られている感覚がある。以前感じた視線と同じものだ。しかし華恋を不安にさせる必要はない。
通路を進む。暗い。ナビのレンズが前方を照らしているが、光の届く範囲は5メートルほどだ。足音が石壁に反響する。自分たちの足音なのか、別の何かの足音なのか、判別がつかない。
一つ目の分岐を左に。二つ目を直進。ナビが最短ルートを指示する。壁面に刻まれた古い文字が、レンズの光に浮かび上がる。読めない言語。迷宮を作った者たちの遺物だ。
三つ目の分岐を右に曲がった時だった。
『——警告! 前方から大量の生体反応! 数——30以上! 接近速度、秒速3メートル! こちらに向かって走ってきマス! 距離40メートル! 接触まで約13秒!』
「なに——」
通路の奥から、地鳴りのような足音が迫ってきた。暗闇の中に、無数の赤い目が光っている。壁が震えている。天井から砂が落ちてくる。
「トレイン!」
誰かが前方でモンスターを引き連れて走り、こちらの方向に流した。ダンジョン探索で最も卑劣な妨害行為。故意にモンスターの群れを他の探索者にぶつける。殺人と同義だ。
「師匠! どうしますか!」
「走れ! 後ろに下がる!」
華恋の手を掴んで走り出す。来た道を逆走する。華恋の手が冷たい。恐怖で血の気が引いている。握り返す力が強い。
背後からの足音は速い。秒速3メートル。こちらの走る速度とほぼ同じ。距離が縮まらない。しかし離れもしない。40メートルの距離を保ったまま、追われている。
分岐を左に曲がる。通路が狭くなる。華恋が壁に肩をぶつけた。
「痛っ——」
「止まるな!」
『マスター。後方にも生体反応! 5体! 分岐路から合流してきマス! 挟まれマス!』
前からも後ろからも。逃げ場がない。
立ち止まる。華恋も止まる。息が荒い。目が大きく見開かれている。
「華恋。杖は何本ある」
「残り12本です」
「足りない。30体以上は捌けない。——ナビ、最寄りのセーフエリアは」
『南西方向に約60メートル。現在のルートからは分岐を二つ経由する必要がありマス。群れに追いつかれる前に到達するのは——困難デス。推定到達時間22秒。群れの接触予測時間18秒。4秒足りマセン』
4秒。たった4秒が足りない。
判断。一瞬で。
「華恋。お前が先に走れ。南西のセーフエリアに向かえ。ナビが道を示す。俺が殿を務めて時間を稼ぐ。4秒分だけ食い止めればいい」
「そんな——一人で30体なんて——!」
「30体と戦う必要はない。4秒稼ぐだけだ。通路が狭い。一度に来られるのは2体。4秒なら持つ」
「でも——!」
「議論する時間はない。走れ。今すぐ」
華恋の背中を押した。強く。華恋が振り返る。目に涙が浮かんでいる。唇が震えている。何か言おうとしている。
「行け」
一言だけ。華恋が走り出した。ナビのレンズが華恋の進路を照らす。分岐を左。華恋の足音が遠ざかっていく。
振り返る。通路の奥から、群れの先頭が見えた。ゴブリン。オーク。リザードマン。中層のモンスターが混在した大群。赤い目が通路を埋め尽くしている。壁面の苔が足音の振動で剥がれ落ちる。
「来い」
通路の幅は2メートル。一度に入ってこられるのは2体が限界。ここで食い止める。4秒。それだけでいい。
最初のゴブリンが飛びかかってきた。小柄な体躯。短剣を振りかぶっている。
「【パリィ】」
短剣を弾く。硬直。ショートソードで斬る。消滅。1体目。
次。オークが戦斧を振りかぶる。巨体が通路を塞ぐ。後ろの群れが渋滞する。好都合だ。
「【微弱加速】」
戦斧が通過する。無敵。すれ違いざまに脇腹を斬る。倒れない。HPが高い。もう一撃。腹を横に薙ぐ。倒れた。2体目。
三体目のリザードマンが尾を薙ぐ。低い攻撃。跳んで避ける。着地と同時にパリィ。爪を弾く。硬直。斬る。3体目。
四体目。五体目。六体目。
通路の狭さが味方して、一体ずつ処理できる。ところが、数が多い。腕が重くなっていく。連続戦闘の疲労が蓄積する。握力が落ちている。ショートソードの柄が汗で滑る。
『マスター。経過時間8秒。心拍数172。華恋さんはセーフエリアまで残り30メートルデス。あと10秒稼げば到達シマス』
10秒。まだ10秒。
七体目。ゴブリン。斬る。八体目。ゴブリン。蹴り飛ばして斬る。
九体目のオークの戦斧が、パリィを弾いた。力負け。衝撃で手首が痺れる。ショートソードが手から離れそうになる。握り直す。
「くっ——」
戦斧の二撃目が迫る。横薙ぎ。通路の壁から壁まで。逃げ場がない。
「【微弱加速】」
無敵。戦斧が身体を通過する。それでも、後ろから別のゴブリンが飛びかかってきた。二体同時。無敵フレームは既に終わっている。
ゴブリンの短剣が肩に刺さった。右肩。剣を持つ腕。痛みが走る。熱い。HPが削れる。視界の端に赤い警告が点滅する。
振り払う。左手でゴブリンを掴み、壁に叩きつける。右手のショートソードで斬る。肩が痛む。血が腕を伝って柄を濡らす。
『華恋さん、セーフエリアに到達シマシタ! マスター、撤退してくだサイ! HP残り12パーセント!』
「言われなくても——!」
走る。群れの隙間を縫って、通路を駆け抜ける。背後から追ってくる足音。肩から血が流れている。視界が揺れる。壁にぶつかりながら走る。右腕が上がらない。
分岐を左。壁の苔に血の手形がつく。もう一つ左。セーフエリアの青い光が見えた。結界の光。安全の光。
飛び込んだ。結界が背後の群れを弾く。モンスターたちが結界の前で唸り声を上げ、やがて一体、また一体と散っていった。
床に倒れ込む。冷たい石畳。息が上がっている。肺が焼けるように痛い。肩の傷が熱い。HPは残り1割を切っている。
「師匠!!」
華恋が駆け寄ってきた。泣いていた。涙を拭いもせずに、ポーションの瓶を開けて傷口に注ぐ。手が震えている。瓶の口がカチカチと傷口に当たる。
「師匠、師匠……大丈夫ですか、血が……たくさん」
「大丈夫だ。浅い」
嘘だった。肩の傷は筋肉まで達している。ポーションで塞がるけれど、完治には数日かかる。右腕の感覚が鈍い。
華恋がポーションを次々と注いでくれる。冷たい液体が傷に染みる。痛みが引いていく。傷口が塞がっていく。魔法の回復薬。肉体は治る。しかし、消費したポーションは戻らない。残り4本。予備が減った。
「師匠、ごめんなさい。私、先に逃げて」
「正しい判断だ。お前が残っても、杖12本じゃ30体は捌けない。二人とも死ぬだけだった。お前が逃げたから、俺も逃げる場所ができた」
「でも! 師匠が怪我して……!」
「華恋。生きてる。二人とも生きてる。それが全てだ」
華恋が顔を覆って泣いた。声を殺して、肩を震わせて。小さな身体が丸くなる。
壁にもたれて、天井を見上げる。青い結界の光が揺れている。
ナビが静かに報告した。
『マスター。トレインの起点を解析シマシタ。群れの移動方向と速度から逆算すると、起点は第16階層の北東区画デス。本日、同区画を探索していたパーティは——剣崎蓮パーティ、1組のみデス』
沈黙。長い沈黙。
分かっていた。以前感じた視線。第15階層で遭遇した不自然なモンスター配置。全てが一つに繋がる。
「ナビ。証拠は」
『状況証拠のみデス。物的証拠はありマセン。ギルドに報告しても、「偶然モンスターが流れてきた」と主張されれば覆すことは困難デス。目撃者もいマセン』
「……そうか」
華恋が顔を上げた。涙で濡れた目が、怒りに燃えていた。拳を握りしめている。
「剣崎さんがわざとやったんですか。師匠を殺そうとしたんですか」
「証拠はない。状況証拠だけだ」
「でも——! 師匠が死んでたかもしれないのに——!」
「分かってる。けど、今は動けない。まず回復する。それから対策を考える」
華恋が唇を噛んだ。怒りを堪えている。
壁にもたれて目を閉じた。肩が痛む。疲労で身体が重い。
しかし、頭は冷静に動いている。対策を考えている。二度と同じ手は食わない。次に何が来ても、死なない方法を。
安全マージン。完璧を前提にしない。妨害が来ても、想定外が起きても、死なない余裕を持つ。退路を常に確保する。セーフエリアの位置を事前に把握する。群れに追われた時の逃走ルートを、戦闘前に確認しておく。
その概念が、少しずつ形を成していく。




