第5話 ナビ換装——中層への準備
追放から十三日目。第10階層、ボス部屋の前。
巨大な石の扉が通路の突き当たりに聳えている。表面には牛の頭を模した浮き彫りが刻まれ、赤い魔石が両目の位置で鈍く光っていた。扉の前に立つと、空気の温度が変わる。扉の向こうから、低い唸り声が振動となって伝わってくる。
「師匠」
華恋の声が小さく震えていた。背中に束ねた木の杖が12本。ショートソードの柄を握り直す。
「作戦を確認する。ナビ」
『了解デス。昨夜のシミュレーション結果を報告シマス。最適パターンは以下の通りデス。第一フェーズ:HP100パーセントから50パーセントまで。マスターがパリィで硬直を作り、華恋が魔法を4発。推定所要時間90秒。第二フェーズ:狂暴化後。攻撃速度1.2倍。マスターがパリィで対応し、華恋が魔法を4発。推定所要時間80秒。合計約3分デス』
「華恋。聞いたな。お前は俺の合図で撃て。合図がなければ撃つな。タイミングは俺が作る」
「はい」
「もう一つ。もし俺の合図が遅れたら——待たずに自分の判断で撃っていい。お前の目で、硬直を確認できたなら」
華恋が少し驚いた顔をして、それから力強く頷いた。
「分かりました」
石の扉に手を触れる。魔力が反応し、重い音を立てて扉が左右に開いた。
広い円形の部屋。天井は高く、松明が壁に沿って等間隔に灯っている。部屋の中央に、それは立っていた。
ミノタウロス。体長3メートル。牛の頭に人間の身体。筋肉の塊のような腕が、巨大な戦斧を軽々と握っている。赤い目がこちらを捉えた瞬間、咆哮が部屋全体を震わせた。
鼓膜が痺れる。足元の石畳が振動する。華恋が一歩後ずさった。
「来るぞ」
ミノタウロスが戦斧を振りかぶった。右肩が先行して持ち上がる。振り下ろし。発生1.2秒。
前に出る。距離を詰める。ミノタウロスの目が、こちらの動きを追う。
0.8秒。1.0秒。戦斧が頂点に達する。1.1秒。振り下ろしが始まる。
「【パリィ】」
ショートソードの腹で、戦斧の柄を横から叩く。巨大な質量が軌道を逸れ、石畳に叩きつけられる。衝撃で足元が揺れた。
ミノタウロスが硬直する。0.5秒。
「今だ!」
背後から炎が飛んだ。華恋の【爆炎魔法】がミノタウロスの胸部に直撃する。肉が焦げる臭いが広がった。
パキッ。杖が折れる音。華恋は硬直せず、すぐに後方に下がった。
ミノタウロスが硬直から復帰する。怒りの咆哮。今度は横薙ぎだ。発生0.8秒。
「【微弱加速】」
戦斧が身体を通過する。無敵フレーム。0.1秒の空白。
通過した直後、ミノタウロスの体勢が崩れる。横薙ぎの後の隙、0.3秒。短い。それでも、パリィを入れるには十分。
「【パリィ】」
露出した脇腹をショートソードの腹で叩く。再び硬直。
「華恋!」
「はいっ!」
二発目の炎が直撃。パキッ。杖が折れる。
このサイクルを繰り返す。パリィ→硬直→魔法→キャンセル→離脱。三発目。四発目。ミノタウロスの身体に焦げ跡が増えていく。動きが鈍くなっている。
『ミノタウロスのHP、推定52パーセント。まもなく狂暴化が発動シマス。警戒してクダサイ』
五発目の魔法が直撃した瞬間、ミノタウロスの全身が赤く発光した。筋肉が膨張する。目の赤い光が一段と強くなる。
狂暴化。
咆哮。今度の声は、さっきまでとは質が違う。空気が震えるのではなく、空気が裂ける。
戦斧が振り上げられた。速い。明らかに速い。
『横薙ぎ。発生0.67秒。マスター、パリィで対応してクダサイ』
横薙ぎ。0.67秒。無敵フレームでは間に合わない。パリィの発生0.15秒。猶予は0.52秒。
目を凝らす。戦斧の軌道を読む。左から右への横薙ぎ。腰の回転が始まった瞬間が起点。
0.3秒。0.4秒。0.5秒。
「【パリィ】」
ショートソードが戦斧の腹を捉える。軌道が逸れる。しかし、衝撃が腕に伝わった。狂暴化後の一撃は重い。手首が痺れる。
硬直。0.5秒。
「華恋!」
「はいっ!」
六発目。直撃。パキッ。
ミノタウロスが復帰する。今度は振り下ろし。狂暴化後は1.0秒。
「【パリィ】」
弾く。硬直。
「今!」
七発目。直撃。パキッ。
ミノタウロスの動きが明らかに鈍くなっている。身体の半分以上が焦げ、片膝をついた。ところが、まだ立ち上がる。最後の力を振り絞るように、戦斧を両手で握り直す。
『HP推定8パーセント。あと1発で撃破可能デス』
ミノタウロスが最後の突進を仕掛けてきた。全身を前に倒し、地面を蹴る。突進。発生2.0秒——いや、狂暴化で短縮されている。
『突進。発生1.7秒。通常より0.3秒速いデス!』
想定外。シミュレーションでは突進の短縮は計算に入れていなかった。
けれど、0.3秒の差なら対応できる。
「【微弱加速】」
突進が身体を通過する。巨大な質量が、すぐ横を駆け抜けていく。風圧で髪が乱れた。
ミノタウロスが壁に激突した。石壁にひびが入る。一瞬の硬直。
「華恋! 今だ!」
振り返ると、華恋はすでに詠唱を終えていた。合図を待たず、自分の判断で。硬直を自分の目で確認して、撃つタイミングを決めていた。
八発目の炎が、ミノタウロスの背中を貫いた。
咆哮が途切れる。巨体が崩れ落ち、光の粒子になって消えていく。金色の粒子が部屋中に舞い散り、松明の炎に照らされて輝いた。
パキッ。杖が折れる音。最後の一本。
『ミノタウロス討伐確認。戦闘時間2分48秒。マスターの被ダメージ、ゼロ。桜庭華恋の被ダメージ、ゼロ。完全勝利デス』
膝に手をつく。息が荒い。手首がまだ痺れている。狂暴化後のパリィは、想像以上に腕に来た。
背後で、何かが落ちる音がした。振り返ると、華恋が膝から崩れ落ちていた。折れた杖の半分を握りしめたまま、肩を震わせている。
「華恋。怪我は」
「してないです……してないです、師匠」
顔を上げた華恋の目から、涙が溢れていた。けれど、口元は笑っている。
「勝ちました。私たち、勝ちました」
「ああ。勝った」
「私、自分で撃てました。最後の一発、師匠の合図を待たないで……自分で硬直を見て、自分で判断して撃ちました。良かったですか?」
「良かった。完璧なタイミングだった」
華恋が両手で顔を覆って泣いた。嬉し泣きだ。声を上げて、子供のように。
ボスを倒した報酬として、部屋の奥に宝箱が出現した。中身は金貨10枚と、浅層踏破の証明書。ギルドに提出すれば、ランクが上がる。
金貨10枚。ナビの演算ユニットを換装する資金に充てられる。処理速度が上がれば、中層のモンスターのフレーム解析がリアルタイムで可能になる。
「華恋。報酬は折半だ。金貨5枚ずつ」
「いいんですか? 師匠の方が頑張ったのに」
「お前が8発撃たなきゃ倒せなかった。当然の配分だ」
華恋が金貨を受け取り、大事そうに革袋にしまった。
「師匠。これからどうしますか」
「中層に行く。第11階層から第20階層。状態異常を使うモンスターが出る。毒、麻痺、混乱。フレーム回避だけじゃ対応しきれない領域だ。新しい戦術が必要になる」
「私も一緒に行っていいですか」
「当然だ。お前がいないと火力が足りない」
華恋が嬉しそうに笑った。「はいっ」と元気な声。
ボス部屋を出て、地上への転送陣に乗る。光に包まれ、一瞬でギルドのロビーに戻った。
受付で浅層踏破の証明書を提出し、ランクがEからDに上がった。受付嬢が「おめでとうございます」と微笑む。ソロ——いや、二人組で浅層を十三日で踏破したのは、かなり速い方らしい。
ギルドの掲示板を横目で見る。剣崎の名前はまだ第15階層のところにあった。
「師匠、お腹空きませんか。ご飯食べに行きましょう」
「ああ。そうだな」
ギルド近くの定食屋で、二人で飯を食った。華恋はカツ丼を頼み、大盛りを平らげた。よく食べる奴だ。
「師匠。中層って、どんなところですか」
「地下遺跡みたいな構造だ。罠がある。状態異常がある。パーティ推奨の難易度になる」
「二人で大丈夫ですか」
「大丈夫にする。そのためにナビの演算ユニットを換装する。リアルタイムで状態異常の判定タイミングを解析できるようにする」
『マスター。換装の費用は金貨5枚デス。現在の所持金で賄えマス』
「明日、換装に出す。三日で戻るか」
『メーカーの在庫状況によりマスが、通常は2〜3営業日デス』
「よし。換装が終わったら、中層に行く」
華恋が箸を置いて、真っ直ぐにこちらを見た。
「師匠。私、強くなれてますか」
「十二日前のお前と比べたら、別人だ」
「もっと強くなります。師匠の足を引っ張らないように」
「足は引っ張ってない。お前は十分やってる」
華恋が少し照れたように笑って、お茶を飲んだ。
中層。第11階層から第20階層。そこには、浅層とは比較にならない危険が待っている。けれど、恐怖はなかった。データがある。仲間がいる。ポンコツだけど頼りになるAIがいる。
十三日前、銀貨12枚で始まった旅が、ここから本当に始まる。




