第14話 イフリート再戦——安全マージンの実践
翌日。ギルド付属の治療院。
白い壁。消毒液の匂い。窓から差し込む午後の光が、ベッドの上に四角い影を作っている。花瓶に黄色い花が一輪。誰が持ってきたのか分からない。
華恋はベッドに横たわっていた。右腕に包帯が巻かれている。高級ポーションで治療を受けたが、完治には三日かかると言われた。火傷の跡は残らないらしい。
扉を開けて入る。華恋がこちらを見た。目が赤い。泣いていたのだろう。枕元にハンカチが丸められている。
「師匠」
「具合はどうだ」
「三日で治るそうです。師匠、ごめんなさい。私のせいで——」
「違う」
椅子を引いて、ベッドの横に座った。背もたれに体重を預ける。どこから話すべきか、昨夜ずっと考えていた。
「お前のせいじゃない。計算が間違っていた」
「え」
「お前の手に血豆ができていたのは知っていた。握力が落ちているのも分かっていた。杖を折る回数が増えるたびに、手の震えが大きくなっていたのも見えていた。それでも続行した。『ポーションを塗れば治る』と思った。数値上は問題ないと判断した」
「師匠……」
「ポーションで治るのは傷だけだ。筋肉の疲労は治らない。精神的な消耗も治らない。お前が『大丈夫です』と言った時、その言葉を額面通りに受け取った。数値が正常だから大丈夫だと思った。——それが間違いだった」
華恋が目を見開いていた。唇が震えている。
「人間は機械じゃない。0.1秒の精度を、何十回も連続で出し続けることはできない。疲労が溜まれば精度は落ちる。恐怖があれば反応は遅れる。痛みを我慢していれば集中力が削がれる。それを計算に入れなかった。——俺が悪い」
「師匠」
「すまなかった」
頭を下げた。深く。
沈黙。数秒間。窓の外で鳥が鳴いている。
華恋が泣き出した。声を殺して、肩を震わせて。包帯の巻かれた右手で顔を覆っている。
「師匠ありがとうございます……。私、ずっと怖かったんです。ついていけなくなったら、捨てられるんじゃないかって。前のパーティみたいに。『使えない』って言われて、置いていかれるんじゃないかって。だから、無理してでも『大丈夫です』って言い続けて」
「捨てない。お前がミスしても、遅れても、捨てない」
華恋の目を見て言った。
「——そもそも、ミスを前提にしない計算が間違ってるんだ。これからは変える」
「変える?」
「安全マージンを入れる」
ベッドの横のテーブルに、紙を広げた。昨夜書いた図面。イフリート戦の再設計図。
「お前のタイミングが0.3秒遅れても対応できる余裕を、最初から設計に組み込む。完璧を前提にしない。ミスが起きても死なない戦い方をする」
「0.3秒。そんなに余裕を持てるんですか。前は0.1秒のズレでも危険だって——」
「持てるように作る。今までは効率を最大化していた。最短で倒す計算。最小の動きで最大のダメージを与える計算。それが正しいと思っていた。——間違いだった」
図面を指で叩く。
「最短を狙うと余裕がなくなる。余裕がないと、一つのミスが致命傷になる。少し時間がかかっても、安全に勝てる方法を選ぶ。それが正しい計算だ。効率じゃなく、安全を最大化する」
華恋が涙を拭いた。赤い目で、笑った。
「師匠。変わりましたね」
「変わってない。計算の精度を上げただけだ。人間の変数を計算に入れるようになっただけだ」
「それを『変わった』って言うんですよ」
「うるさい」
ナビが小さく報告した。
『マスター。心拍数が上昇シテイマス。感情の変動を検知。……これは、良い変動デス』
「お前もうるさい」
華恋が笑った。ナビのレンズが明滅した。病室に、少しだけ明るい空気が戻った。
三日間。華恋の回復を待つ間に、新しい戦術を組み立てた。
安全マージンを組み込んだイフリート戦の再設計。
変更点は三つ。
一つ目。華恋の爆風タイミングに0.3秒の余裕を設ける。華恋が遅れても、その分だけ回り込みのタイミングをずらして対応する。遅れた場合の動きを事前に決めておく。「遅れたらこう動く」というパターンを身体に入れておけば、判断に時間を取られない。
二つ目。魔核への攻撃後の離脱距離を2メートルから3メートルに拡大する。触手の到達範囲外まで確実に離脱する。1メートルの余裕。これがあれば、足がもつれても、判断が一瞬遅れても、触手には届かない。
三つ目。戦闘時間の上限を設ける。耐熱ポーションの残り時間が10分を切ったら、撃破できていなくても撤退する。「あと少しで倒せる」という判断で無理をしない。
「師匠。三つ目、厳しくないですか。あと少しで倒せる時に撤退するの、もったいなくないですか」
「もったいなくても、死んだら終わりだ。ポーションが切れたら環境熱で死ぬ。『あと少し』で死んだ冒険者は山ほどいる。ヴェルナーさんが言っていた。深層で死ぬ者の8割は、『あと少し』で死ぬと」
「分かりました。師匠がそう言うなら、従います」
「従うな。理解しろ。なぜ撤退するのか、自分で考えて納得しろ。理解していない命令は、追い詰められた時に守れない」
「……死んだら終わりだから。生きていれば、何度でも挑戦できるから。一回の失敗で全部終わりにするより、何度でも挑戦できる方が、結局は早く倒せるから」
「そうだ。正解だ」
三日後。華恋の右腕が完治した。握力も戻っている。包帯を外した手を握ったり開いたりしている。
すぐには第20階層に向かわなかった。
「今日は訓練だ。第15階層で、爆風のタイミングを合わせる練習をする」
「第15階層? もうクリアした階層ですよね」
「ああ。弱い敵を相手に、連携の精度を上げる。本番前のリハーサルだ。新しい戦術を体に馴染ませる」
第15階層で半日間、連携の訓練をした。華恋の爆風と、回り込みのタイミング。何度も繰り返す。弱い敵だから、失敗しても死なない。失敗を恐れずに試せる。
華恋のタイミングが0.2秒遅れた時。0.1秒早かった時。それぞれの場合に、どう対応するかを身体に叩き込む。
「師匠。これ、前より難しいです。前は『ぴったり合わせる』だけでよかったのに、今は『ずれた時にどうするか』まで考えないといけない」
「そうだ。完璧を前提にしないということは、不完全な状況での対応力を上げるということだ。難しい。でもこっちの方が正しい」
「正しい……。はい。分かります。前は、ミスしたら終わりだと思ってました。でも今は、ミスしても大丈夫だと思える。それだけで、気持ちが楽です」
「気持ちが楽なら、パフォーマンスも上がる。緊張で身体が硬くなると、反応が0.05秒遅れる。リラックスしている方が速い」
「それも計算ですか」
「ああ。全部計算だ」
華恋が笑った。「師匠らしい」
訓練を終え、セーフエリアに戻る。
「明日。第20階層に再挑戦する。今度は——勝つ」
「はい。今度こそ」
「華恋。一つ約束しろ」
「なんですか」
「辛い時は辛いと言え。無理な時は無理だと言え。『大丈夫です』と嘘をつくな。お前の状態を正確に把握できなければ、正しい計算ができない。お前の正直な報告が、最も重要な入力値だ」
華恋が少し驚いた顔をして、それから笑った。
「分かりました。約束します。師匠。私も一つ約束してほしいです」
「なんだ」
「私を庇って怪我しないでください。キマイラ戦の時みたいに。師匠が倒れたら、私一人じゃ何もできません。師匠の安全も、計算に入れてください」
「善処する」
「善処じゃなくて、約束してください」
「……分かった。約束する」
華恋が満足そうに頷いた。
テントに入る。明日に備えて眠る。
目を閉じる前に、ナビが小さく言った。
『マスター。新しい戦術の成功確率を計算シマシタ。安全マージン込みで、イフリート撃破の確率は——78パーセントデス。前回の計算上の成功確率は95パーセントデシタが、人間の変数を考慮すると実質60パーセント程度だったと推定シマス。今回の78パーセントの方が、実態に即した数値デス』
「78パーセントか。前より低く見えるのに、実際は前より高いわけだ」
『その通りデス。正確な計算は、見かけの数字が低くても、結果は良くなりマス。——おやすみなサイ、マスター』
完璧な計算より、正確な計算。
それが、イフリート戦の敗北から学んだことだった。




