第12話 イフリート——炎の試練
三日間の休息を取った。
街に戻り、杖を40本補充した。ポーションも最大まで買い込む。背中の火傷は二日目に完治したが、華恋の右手の血豆はまだ残っていた。キマイラ戦で杖を折り続けた代償だ。
「師匠。準備できました」
「ああ。行くぞ」
第19階層に入った瞬間、空気が変わった。
熱い。壁面が赤みを帯びている。天井から滴る水滴が、床に落ちる前に蒸発する。第20階層のイフリートの影響で、この階層全体が高温環境になっている。
『環境温度38度。行動に直接の支障はありマセンが、体力消耗速度が通常の1.3倍に上昇シマス。探索時間を短縮するか、こまめな休息を推奨シマス』
「休息を多めに取る。華恋、15分ごとに水を飲め。喉が渇く前に飲め」
「はい」
通路を進む。壁面の岩が赤黒い。マグマの層が近いのか、足元からも微かな熱が伝わってくる。
最初の敵。フレイムリザード。体長1.5メートルの炎を纏ったトカゲ。
『フレイムリザード。炎属性。物理防御は低いデスが、接触すると火傷ダメージが発生シマス。華恋さんの炎魔法は属性相性により効果が半減シマス』
「華恋。炎は効かない。爆風の衝撃で吹き飛ばせ」
「分かりました」
華恋が杖を構える。折る。衝撃波が放たれる。フレイムリザードが壁に叩きつけられた。
追撃。ショートソードで首を斬る。一撃で倒れた。
「師匠。爆風だと杖の消費が多いです。1体に2本使うこともあります」
「仕方ない。属性相性が悪い以上、効率は落ちる。杖の残数を常に把握して、足りなくなる前に撤退する」
進む。ファイアバット。天井から5体が同時に飛来する。小型だが素早い。
「華恋。まとめて吹き飛ばせ」
華恋が杖を折る。爆風。3体が落ちた。残り2体が旋回して再び突っ込んでくる。
ショートソードで1体を斬り落とす。もう1体が華恋の髪を掠めた。
「きゃっ」
「避けろ。——ナビ、残り1体の位置」
『右上方、距離2メートル。旋回中。0.5秒後に再突入シマス』
待つ。0.5秒。突っ込んできた瞬間に剣を振る。斬撃が翼を捉えた。ファイアバットが地面に落ちて動かなくなる。
「華恋。怪我は」
「大丈夫です。髪がちょっと焦げただけ」
焦げた毛先を指で摘んでいる。大したことはない。先に進む。
マグマスライム。床の隙間から這い出てくる。半透明の赤い体。触れると溶ける。
『マグマスライム。核を破壊しない限り再生シマス。核の位置は体内中央。物理攻撃で一撃で貫く必要がありマス』
「華恋。爆風で形を崩せ。核が見えたら俺が刺す」
華恋が杖を折る。爆風でスライムの体が飛び散る。一瞬、赤い核が露出した。
踏み込む。剣を突き刺す。核が砕けた。スライムが液体に戻り、蒸発していく。
「よし。この調子で行く」
第19階層の攻略は二日間を要した。モンスターの数は多くないが、炎属性の相性問題で杖の消費が激しい。一日目で杖を18本消費し、二日目は残り25本で攻略を完了した。
途中、剣崎のパーティとは遭遇しなかった。ナビの索敵で常に位置を把握し、接触を避けた。トレインの気配もなかった。キマイラの一件で、剣崎も手を引いたのかもしれない。
二日目の夕方。第19階層の最深部に到達した。
第20階層への階段。下り階段の入口から、熱波が吹き上がってくる。顔が熱い。
「ここから先が、第20階層。フロアボス・イフリートの領域だ」
「はい」
華恋の声が硬い。緊張している。
『イフリートの情報を整理シマス。全長4メートルの炎の巨人。主要攻撃パターン4種。炎のブレス、発生0.6秒、射程10メートル、横幅3メートル。拳の叩きつけ、発生0.4秒、範囲2メートル。横薙ぎ、発生0.5秒。全身炎上、発生1.2秒で半径5メートルの範囲攻撃。弱点は背面の魔核。物理攻撃のみ有効。炎耐性100パーセントのため、華恋さんの炎魔法は完全に無効デス』
「炎が効かない。爆風の衝撃は」
『衝撃ダメージは有効デスが、魔核以外へのダメージ効率は極めて低いデス。実質的に、マスターの物理攻撃で魔核を直接斬るしか撃破手段はありマセン』
「つまり、俺が24回斬れば倒せる。華恋の役割は」
「体勢を崩すことですよね。爆風で吹き飛ばして、師匠が背面に回り込む隙を作る」
「そうだ。キマイラ戦と同じ構造だ。お前が崩して、俺が斬る」
作戦を詰める。
イフリートの四つの攻撃パターン。ブレスは横に回避。拳と横薙ぎは無敵フレームで回避。全身炎上はナビの警告で事前離脱。
問題は全身炎上だ。半径5メートル。予備動作は体表温度の急上昇。肉眼では判別しにくい。
「ナビ。全身炎上の予備動作を検知できるか」
『赤外線センサーで体表温度を監視シマス。通常時の体表温度は800度。全身炎上の予備動作で1200度まで急上昇シマス。この温度変化を検知した瞬間に警告を出シマス。警告から発動まで約1.0秒。5メートル圏外への退避は十分可能デス』
「1秒で5メートル。走れば間に合う。余裕はないが、間に合う」
「師匠。安全マージンは」
安全マージン。キマイラ戦で学んだ概念。計算上ギリギリの作戦は、想定外の事態に対応できない。
「正直に言う。全身炎上に関しては、安全マージンがほぼない。警告が出たら、考えるな。体が動く前に走れ。0.1秒の判断時間すら惜しい」
「分かりました。警告が出たら走ります」
「それと——もう一つ。撤退条件を決めておく。耐熱ポーションの残り時間が10分を切ったら撤退。華恋の杖が残り3本になったら撤退。HPが4割を切ったら撤退。どれか一つでも該当したら、即座に離脱する」
「はい」
『撤退条件を記録シマシタ。該当した場合、即座に警告を出シマス』
作戦は固まった。
ところが——一つ、気になることがあった。
華恋の手。杖を握る右手に、血豆ができている。第19階層の二日間で、40本近い杖を折った。その負荷が手に蓄積している。
「華恋。手は大丈夫か」
「え? あ、はい。大丈夫です。全然平気です」
華恋が手を背中に隠した。笑顔を作っている。その笑顔が、少しだけ強張っている。
「そうか。なら明日、行くぞ。今日は休め」
「はい。おやすみなさい、師匠」
テントの中で横になる。天井を見上げる。岩の天井が赤く照らされている。
明日。第20階層。イフリート。中層最後のボス。
ここを超えれば、深層への道が開ける。剣崎より先に。才能ではなく、理屈で。
計算は完璧だ。全てのパターンに対応策がある。華恋の爆風で体勢を崩し、背面に回り込み、魔核を斬る。24回繰り返せば勝てる。
完璧な計算。完璧な作戦。
——なのに、華恋の手の血豆が、頭の隅に引っかかっていた。
ポーションを飲めばHPは回復する。しかし、疲労は? 握力の低下は? 精神的な消耗は?
それらは——計算に入っていなかった。
入れるべきだったのか。分からない。華恋は「大丈夫」と言った。数値上も問題ない。スケジュール通りに進める。それが正しい判断のはずだ。
目を閉じた。眠れない。熱気のせいか。それとも——。
翌朝。華恋が起きてきた時、目の下に薄い隈があった。
「おはようございます、師匠」
「ああ。準備しろ。今日、イフリートを倒す」
「はい」
華恋が杖を確認している。20本。十分な数だ。
杖を握る手が——ほんの一瞬、震えた。
気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
数値上は問題ない。作戦に支障はない。華恋自身が「大丈夫」と言っている。ならば、予定通り進める。それが合理的な判断だ。
——本当に?
その疑問を、頭の隅に押し込んだ。
耐熱ポーションを飲む。
『耐熱ポーション効果確認。残り時間30分。カウントダウン開始シマス』
第20階層への階段を降りる。熱気が壁のように押し寄せた。視界が歪む。
一本道の回廊を進む。壁面が溶岩の光で赤く染まっている。足音が反響する。二人分の足音。
ボス部屋の扉が見えた。巨大な石の扉。表面に炎の紋章が刻まれている。
「華恋。最終確認。作戦通りだ。俺が正面、お前が側面。爆風で崩して、俺が斬る。全身炎上の警告が出たら即離脱。いいな」
「はい。分かってます」
華恋の声は落ち着いていた。目に決意がある。
「行くぞ」
扉を押し開けた。
円形の広間。直径30メートル。天井から溶岩が滝のように流れ落ち、壁面を伝って床の溝に流れ込んでいる。広間の中央に——炎が渦巻き、人型を成す。4メートルの巨体。二つの青い目がこちらを見た。
イフリートが咆哮した。広間全体が震える。熱波が顔を叩く。
『戦闘開始デス。パターン記録、開始シマス』
走り出す。
第2部、完。




